温又柔さん 「国語」から旅立って

読者のみなさんへ

あなたには、この文章が読めます。

なんの苦もなく意味が呑み込めます。

声に出して読みあげることだってたやすくできることでしょう。

それどころか、私が書いたとおりにそっくりと書き写すこともできるはずです。

さて、あなたはこの文章が日本語だと意識しましたか?

私は小説家です。

名まえは、温又柔。

おんゆうじゅう、と読みます。

日々、小説やエッセイを書いたりしています。

今でこそ、ほかのどんな言葉よりもずっと、私は日本語が得意です。けれども私は、はじめからずっと、日本語だけをしゃべっていたのではありません。

赤ん坊の頃の私は、両親をはじめ、近くで暮らしていた伯父や叔母、いとこたち、それに町の人たちが話す中国語や台湾語と呼ばれる言葉が飛び交う環境の中にいました。
やがて私が三歳になるかならない頃に、父と母は私をつれて、それまで住んでいた台湾から日本の東京に移り住む準備をはじめます。

あるとき、東京の町を家族そろって散歩していたら、あんよがじょうずね、といった調子で一人の老婦人が私たちに話しかけてきました。彼女は私にほほ笑みかけると、いくつ? とたずねました。きょとんとする私の代わりに父が答えます。

コノコハ、ニサイデス。

やさしそうな老婦人が立ち去ってから、ニサイは二歳という意味なんだよ、と中国語(あるいは台湾語)で父は母と私に教えてくれます。

その頃は母だけでなく、私もまた、中国語(と台湾語)のほうがずっと得意でした。

ニサイ、という響きは二歳の私をよっぽど魅了したらしく、日本のひとからほほ笑みかけられると、ニサイ、と自分からすすんで言うようになりました。

ニサイ、は私がうまれてはじめて覚えた日本語だったのです。
もちろん私は永遠にニサイではありません。

たちまち三歳になり、五歳になり七歳になり十一歳になり十三歳になるにつれ、私の日本語はどんどん上達してゆきました。

さて。

今日も私は、小説を構想するために、エッセイを仕上げるために、PCとむきあっています。

私の目の前のモニタ画面に浮かぶのは、ひらがな、カタカナ、漢字。

自分のつかっているこの言葉が、“日本語である”という事実を、私はいつもちゃんと思いだそうと努めています。

そうしないと、はじめからこの言葉だけを、日本語のみを、自分は聞いたりしゃべったり読んだり書いてきたのだと錯覚してしまいそうになるからです。

まわりにいた大人たちの声をとおして中国語や台湾語をたっぷりと聴き、自分自身もしゃべっていた頃のことを、私は“なかったこと”にはしたくありません。

そう、ニサイになるまでの自分のこともきちんと大切にしながら、この言葉、日本語を話し、書いてゆきたいと私は思っているのです。

「国語」から旅立って、と題したこの連載では、どうして私がこんなふうに感じ、思い、考えるようになったのか書いてゆくつもりです……はじまりは、私が小学一年生のときの「国語」の教室から!

どうぞ、おつきあいくださいませ!

2018年9月 温又柔

撮影 ©朝岡英輔

温又柔
(おん・ゆうじゅうWenYuju)

1980年、台北市生まれ。小説家。3歳から日本に在住。法政大学大学院・国際文化専攻修士課程修了。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞し、作家デビュー。両親はともに台湾人で、日本語、台湾語、中国語の飛び交う家庭に育つ。創作は日本語で行う。著作に、『たった一つの、私のものではない名前 my dear country』(Happa-no-Kofu, 2009年)、『来福の家』(集英社、2011年、のち白水社、2016年)、『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年)、『空港時光』(河出書房新社、2018年)、『台湾生まれ 日本語育ち 増補版』(白水社、2018年)など。

2018年10月1日より
連載スタートです!!
毎月1日に更新されます。
楽しみにお待ちください。

illustration:100%ORANGE/及川賢治
第5回

わたしの国はどこにある?

上海留学篇

母国語はすべての支えです」

わたしは上海のとある通りを、あてもなくとぼとぼと歩いていました。19世紀末は日本人の居住地区だったという界隈ですが、およそ100年後、そこを歩くわたしの耳に、日本語は一切聞こえません。
わたしは20歳。約4か月半の予定である留学生活が始まったばかりでした。

——いつか、中国語を取り戻す。
子どもの頃からずっとそう心に決めて、いよいよ本場・中国にまでやって来たのです。喜ばしい日々のはずでした。それなのにわたしは、どうやら自分はふつうじゃないらしい、と思い詰めながら上海の路地をうろうろしていました。

(わたしは、まともな中国語が話せない……)

予兆は、日本の大学で中国語を学んでいたときからありました。

さかのぼって、2年前。

高校3年の春、わたしは担任であるI先生から、「国際文化学部」という学部がある大学に新設されることを知らされました。I先生は、この新しい学部では、英語以外の諸言語——ドイツ語、フランス語、ロシア語、スペイン語、韓国語そして中国語——を「第二外国語」ならぬ「第一外国語」として専門的に学ぶことを志望する学生のための推薦入試があると教えてくれます。

——オンが、高校を卒業しても中国語を学び続けるつもりなら、よい話だと思う。ここでなら、オンが興味をもっている文学やほかの分野についてもいろいろと学べるはずだよ。

わたしは引き続き、中国語を学ぶつもりではいました。ただ、中国語や中国文化を専門的に勉強するというよりは、もっと別のこと、そう、I先生が見抜いていたように、中国や日本のものに限らず古今東西の文学をじっくり読んだり、できることなら哲学や思想といった本もたっぷり読める環境に身をおきたいとわたしは願っていました。

(中国語を勉強する以外にも、いろいろな経験を積んで見聞を広めたい……)

国際文化学部でなら、それが可能にちがいない。わたしはI先生の提案をありがたく受け入れることにしました。幸い、わたしのそれまでの内申点なら、高校から推薦するのに値するということでした。国公立ではなく私立の大学を第一志望にしたいと母に報告すると、すぐに父からも、又柔が自分で決めたことなら応援するから、心して試験に備えるようにと言われました。おかげでわたしは学費のことを心配せずに、希望する大学を目指すことができたのです。

入試では、小論文が課せられました。その出題内容を、今もはっきりと思い出せます。

——小学校の段階から、英語教育は必要だと思いますか?

試験は、100人以上は収容できるであろう大教室で行われました。席は端から端まで受験生で埋まっていました。わたしは深呼吸します。そのことを書くのに、迷いは一切ありませんでした。

——小学生からの英語教育が必要だとは思いません。なぜなら、まずは母国語である日本語をしっかり学んだほうがいいと思うからです……

こんなふうに書き始めた小論文の内容は、父と母の考えであり、わたしと妹への教育方針でもありました。ただし、わたしの両親は、「母国語」という言い方はせず、ここは日本なのだからまずは日本語だけでもしっかりと身につけなさい、と言っていました。中国語を無理に勉強させることでどちらの言葉も中途半端になるぐらいなら、せめて日本語のほうだけでも、年相応の日本人と同程度にできるようになってほしい……両親のこの考えは功を奏し、日本にいる限り、わたしは言葉に関しては不自由を感じることなく、18歳になるまで育つことができました。いま思えば、そうであったからこそわたしは大学進学を考慮できる学力を保てたとも言えます。

わたしは小論文の最後をこんな文章で締めくくります。

——母国語はすべての支えです。その基礎がしっかりとあった状態でこそ、英語や、他のすべての外国語を学ぶべきです。

母国語はすべての支え)。

あるいはそれは、ものごとを考え、思い、感じるうえでの基盤と言ってもよいのかもしれません。そういう意味では、わたしが「母国語」と表現した、自分にとってのその言葉は、日本語のことでした。とはいえわたしは自分のことを台湾人だと思っていたので、心の中では、自分のほんとうの「母国語」は中国語なのだと思っていました。

おそらく内申書の成績のほうが重視されたはずなので、小論文の内容そのものが合否を決定したわけではないと思います。けれども18歳のわたしは、合格通知を受け取ると、自分のささやかな主張が認められたような気がして、誇らしさの混じる喜びを噛みしめました。

上海への憧れ

進学先がぶじ決まるとわたしは、こう思っては心をときめかせました。

(20歳になる頃、わたしは上海にいる)

わたしが進学することになった国際文化学部に在籍する学生には、大学2年生の後期課程で、語学留学することが義務付けられています。行き先は、各自が「第1外国語」として学ぶ語学を公用語とする国や地域から選びます。たとえば英語を選択する学生ならアメリカやイギリス、カナダといった英語圏の大学や語学学校へ、といったふうに。ただし、大学との提携校に限定されるので、スペイン語を学ぶ学生は主にスペイン、フランス語を選択するひともフランスにある大学や学校に限られます。

わたしが在学した当時、中国語を学ぶ学生の留学先は、上海外国語大学のみでした。

仮に、選択肢の中に台湾の大学や語学学校もあったのなら、もしかしたらわたしはそちらを選んでいて、必ずしも上海を選ばなかったかもしれません。けれども行き先の選択肢が上海しかないということを、当時のわたしは決して残念に思っていませんでした。むしろ、とても前向きに受けとめていました。

というのも、上海という都市はどうも魅惑的らしいという印象があったからです。そう、19世紀初頭、東洋のパリと呼ばれ世界有数の国際都市として栄えた頃のモダンな近代建築が在りし日のままの姿で佇む黄浦江を挟んだ対岸には、東方明珠をはじめ最新高層ビル群が煌びやかにひしめく……“西洋と東洋、過去と未来が融合した美しい都市”と謳われていた上海に行って、中国語を学ぶ。それは、高校生から大学生になろうとしていたわたしの心をくすぐるのには、十分すぎるイメージでした。

まだ見ぬ憧れの都市・上海で、中国語を、そう、いまはちょっと忘れているだけの、ほんとうの母国語がみるみる上達してゆく自分のようすを想像しながら、4月からはじまる大学での中国語の授業をわたしは楽しみに思っていました。

標準語と「南方訛り」

ところが、待ち焦がれていた初回の授業で、わたしは教師からこう指摘されたのです。

——あなたの中国語には、南方訛りがありますね。

南方訛り

はじめは、先生の言わんとすることの意味がよくわかりませんでした。      きょとんとしていると、先生は別の質問をします。

——あなたは、以前、台湾にいたことがありますか?

その質問になら、迷わず答えることができました。

——はい、わたしは台湾で生まれました。

わたしのこの返事に、先生は笑みをたたえながら、大きくうなずきます。その日から中国語を学び始めたはずの、自分の学生の一人であるわたしの中国語がどうしてだか「南方訛り」である、そのことについての、これ以上はないほどの明確な理由を得たとばかりに。

元々、日本でわたしたちが「中国語」と呼んでいる言語は、中国の中でも北京の方言をベースに「標準語」として整えられたものです。

日本語にも、いわゆる標準語と呼ばれる東京風の言葉だけでなく、地域によってそれぞれの方言、いわゆるお国訛りがあるように、中国語にもまた、地方によってさまざまな話し方の特徴があります。ましてや、日本よりも中国のほうがはるかに土地は広く大きいので、東海岸の都市と砂漠に近い西域、あるいは東北地方と南方とでは、特に発音の部分で、同じ言葉なのにぜんぜん別の音に聞こえることもしょっちゅうなのです。

このときのわたしはまだよくわかっていませんでしたが、要するに先生はわたしの中国語を一言ふたこと耳にしただけで、わたしの発音に、中国の中でも南のほうに住む人たちとよく似た特徴があるのがわかったのでしょう。

中国語には、ピンインなら「zhī、chī、shī、rī」と表記される、やや専門的な用語では「捲舌音(けんぜつおん)」と呼ばれる音があります。標準中国語では、この4つの音とも、日本でいう、いわゆる「巻き舌」で発音するというのが原則です。

南方の人々は、この4つの音を発音するとき、そこまで舌を動かしません。逆に、北京をはじめとする北方の人々は、これらの「捲舌音」をしっかりと発音する傾向があります。

南方訛り、と指摘を受けたことでわたしは、その約10年前である小学4年生の頃、北京からやって来た子どもたちに「好吃嗎(hǎochīmā)(おいしい)?」と訊いた際、自分の中国語がすぐには通じなかった理由をはじめて理解しました。9歳のわたしが発したその言葉はカタカナで表せば「ハオツーマ?」と聞こえたはずです。でも中国の、それも北京という文字どおり、北の都市からやってきた彼らが「好吃(hǎochī)(おいしいよ)!」と答えてくれたときのその言葉は、カタカナで示すと「ハオチー!」という音になるのです。

同じ「吃(chī)」という言葉だけれど、舌の使い方によって、「チー」にも「ツー」にも聞こえる……記憶に頼って、子どもの頃に実際に口にしていた中国語を喋りだすと、わたしは自分でも知らないうちに、舌をあまり巻かない、どちらかといえば南方風の、もっといえば台湾風の話し方になってしまいます。

地図を広げてみれば一目瞭然なのですが、標準中国語が制定された北京を中心に考えれば、台湾はまちがいなく南の端に位置しています。そうであったからこそ先生は、わたしの発音を「南方訛り」と評したのです。

高校時代の中国語クラスは、とてもくつろいだ雰囲気だったこともあり、中国人の先生と日本人の先生のふたりとも、わたしの発音について特別な指摘をしたことはありませんでした。台湾出身のわたしが「第2外国語」として中国語を学んでいるという事情を踏まえて、あまりうるさく言わなかったのかもしれません。

けれども彼女たちより30歳は年嵩の、わたしの大学の中国語の先生は、自分の学生の一人であるわたしの中国語に刻まれた癖を見過ごせず、即座に、「南方訛り」と、わたしの舌足らずな中国語について、指摘することを怠らなかった。

この先生は、若い頃から中国文化にたいへんな憧れを抱いていて、30歳を過ぎてから一念発起し、中国の首都である北京で中国語を学んだそうです。そして、苦労して習得した中国語をみずから教える側に立ってからは、自分の学生たちにも自分と同様、正しい中国語を身につけてほしいと望んでいました。

あなたの中国語は、ふつうではない

その後もわたしは何度となく、ほら、また南方訛りになっていますよ、と指摘を受けました。その都度わたしは素直に、努めて正確に発音し直しました。

わたしに対してだけではありません。先生は他の学生が文法をまちがえたり、不正確な発音をするときも注意深く指導しました。年齢を重ねてから語学を習得する苦労を身をもって知っていたためか、あたまが柔らかく、吸収力がある若いうちに基礎をしっかり固めておくことが何より重要だと考えていたのでしょう。先生は、自分を入り口に中国語を学ぶわたしたちに責任を感じていたのだと思います。更に言えば、翌年には国際文化学部の1期生としてわたしたちを上海に送り出さなければなりません。それまでの1年半という限られた時間の中で、可能な限りのことをわたしたちに教えなければという熱意もあったはずです。

考えてみれば、そんな先生にとって、わたしのような、中途半端に中国語ができる学生は、少々、扱いにくかったのではないかと思います。何しろわたしが記憶をたどりながら口にする言葉の数々は、先生にとっておそらくほぼ未知の領域であった台湾特有の中国語が少なくなかったのですから。発音の点ばかりでなく、台湾と中国とでは、語彙や言い回しが異なる表現もたくさんあります。同じ英語でありながら、イギリス風のものとアメリカ風のものがあるように。

ある日の授業で、わたしはそのことに気づかされました。会話の練習の一環で先生にあてられたわたしは、とても大きい、という意味のつもりで、とっさに「好大(hǎodà)」という表現を用いました。そのときのことです。

——“好大(hǎodà)”?

わたしの言い方を、先生は繰り返しました。

——“好大(hǎodà)”という言い方は、ふつうしません。それは、台湾の、それも若い女性の言葉遣いです。正しくは、“很大(hěn dà)”と言わなければなりません。

わたしに対してのみならず、ほかの学生にも先生はそう言い聞かせました。

ふつう?

正しくは?

わたしは内心、衝撃を受けました。先生が、ふつうはしない、と断言したその表現は、わたしが子どものときから慣れ親しんできたものなのでした。若い女性に限らず、叔父や父たちもよく口にしていたはず、の。それなのにそれを、正しくない、とみなされるなんて。

と同時に、このときにわたしは自分の中国語に対して、南方訛りだ、と呟くときの先生の口調には、あなたの中国語は、ふつうではない、あるいは、標準的ではない、というニュアンスがはじめから滲んでいたのだとはっきり察しました。

ここは、台湾じゃない

それは、やはり予兆だったのです。

(わたしは、やっぱりふつうじゃないのかな?)

あこがれの上海に来て、まだ何日も経っていませんでした。上海の「老百姓(庶民)」が暮らす家々が両脇に連なる狭い路地で、わたしは立ちどまります。物干し台から突き出す老若男女の洗濯物や、窓柵の形、建物の前に設えられた郵便受けや、無造作に置かれた数台の自転車やバイク……

その景色は、子どもの頃から頻繁に通った台北の、祖母や親戚たちの家がある路地とよく似ていました。少なくとも、わたしが住んでいた東京や、当時のわたしがおとずれたことのあるどの日本の町よりもずっと、上海は台北に似ているように思えました。

(でも、ここは台湾ではない)

母によれば、わたしが上海に留学に行くと知ると、親戚たちは口を揃えて言ったそうです。

——中国語を学ぶのに、なんでわざわざ大陸(dàlù)に行くの? 台湾に来たらいいのに!

台湾人であるわたしの両親や伯父や叔母たちが、中国を「大陸」と呼んでいたのは、台湾——厳密には中華民国——の政府が、中華人民共和国を「中国」と認めていないためでした。

1950年前後の台湾で生まれたかれらは、中華民国の「国民」として中国語を教わった最初の世代です。かれらは皆、学校に通いだすと、日本人が日本語を「国語」として学ぶことと同じように、国民の言語である中国語=國語を教わりました。

中華民国政府は、自分たちこそが正式かつ唯一の「中国」であると自認していました。そのため、中華人民共和国という国家の存在を決して認めていません。更に言えば、国府——中華民国国民政府の略称です——は、毛沢東率いる共産党が自分たちのものであるはずの大陸を不当に占拠している、と中華民国の国民——つまり台湾の人々——に教えました。

中国と台湾は、兄弟喧嘩しているようなもの?

もともと「中華民国」とは、辛亥革命のあと、1911年に中国で生まれた国家でした。それ以前、約268年間にわたってあの広大な中国を支配していたのは清王朝でした。アヘン戦争や日清戦争、欧米列国や日本の侵略などによって力を失った清王朝を滅ぼし、中国史上初の共和国として誕生したのが「中華民国」なのです。

蒋介石が掌握する国民党と、毛沢東の指導で結成された共産党は、清王朝に変わって中国を統治する「中華民国」の二大勢力でした。国民党と共産党は日本軍と戦うために日中戦争の時期は協力関係にありましたが、1945年に日本軍が中国大陸から撤退すると、同じ中国人同士で激しく争いました。国共内戦と呼ばれたその闘いに勝利したのは、共産党のほうでした。しかし国民党を率いる蒋介石は敗北を認めず、「中華民国」の拠点を台湾にうつし、自分は大統領として、台湾の住民を支配下に置くことにしたのです。

蒋介石が絶対的権力者として君臨する国府は、光復大陸、と国民——台湾人——たちに吹き込みます。我々のものである大陸を占拠している共産党からそれを取り戻そう……大陸(dàlù)、と父や母が囁くときの、どことなく陰気な響きは、彼らがそのような教育を受けた名残なのです。

ちなみに中華人民共和国のほうは、1949年に自分たちの「新中国」が成立した段階で、「中華民国」という国家は消滅したと考えています。彼らとしては、中国、すなわち自分たちのものの一部であるはずの台湾を、内戦に敗北した国民党が不当に乗っ取っているという見解なのです。

このように、わたしの両親が子どもだった1950年代の時期は、大陸を勝ち取った中華人民共和国と、台湾に拠点をおく中華民国のいずれも、わが国家こそ、唯一かつ正統な「中国」なのだと世界にむかって主張し、火花を散らし合っていたのです。

——兄弟喧嘩みたいなものだよ。

政治のことについて語りたがらない父と母が、めずらしくそんなふうに話していたことがありました。

——中国は、もともとはひとつなんだ。今は、中国と台湾に分かれて兄弟喧嘩しているようなものだ。

もともとはひとつ

いまとなれば、わたしが子どもの頃に小耳にはさんだ両親のこの“中国観”は、まだ蒋介石と毛沢東が生きていた頃の時勢の影響を多分に反映していて、ずいぶん古びています。要するに、いまのふつうの台湾人たちの考え方とはかけ離れています。

けれども、上海にいた頃の20歳のわたしは、いつかの両親のその会話を何度も思い出すことになりました。

もともとひとつであったからこそ、中国大陸を中華民国が統治していた時代、北京方言を基につくられた標準中国語をルーツとした中国語を、台湾人も中国人も話すのです。

 

ふたつの「中国語」

ただし、蒋介石が台湾人に「國語/guóyǔ」と呼ばせた中国語と、「普通话/ pǔtōnghuà」と呼ばれる大陸の中国語には、発音以外にもさまざまな違いがあります。

最も顕著な点は、文字でしょう。

中国語の文章はすべて漢字で書かれます。

台湾では繁体字と呼ばれる旧字体の漢字をつかいます。それに対して、中国では簡体字なる簡略化した漢字をつかいます。

もう一つの違いが、発音記号。

台湾では注音符号というものを用います。ㄅ、ㄆ、ㄇ、ㄈという先頭の4文字の音にちなみ、ポボモフォと呼ばれているものです。

中国では、わたしたちにもおなじみのローマ字で表記するピンインを用います(この連載でも中国語の音を示すときにわたしがつかっているものです)。

繁体字とポボモフォをつかうのが台湾の中国語。

簡体字とピンインをつかうのは中国の中国語。

両者は文字と発音記号以外にも、語彙や言い回しの部分でも重ならない部分がたくさんあります(たとえば、台湾では「とても大きい」という意味で「好大(hǎodà)」を使うのに、中国では決してつかわない、とか)。

はじめこそわたしは、自分が台湾の学校に通っていたら「国語」の時間に教わっていたはずの言葉を学び直すつもりで、中国語を勉強しはじめました。

ところがすぐに、自分が「第二外国語」として教わることになった中国語は、繁体字やポボモフォをつかう台湾の中国語ではなく、簡体字とピンインを使用する中国の中国語であるということを知ります。

そうと知ったあとも、いや、そうと知ったからこそ、自分はいま、「普通话/ pǔtōnghuà」と呼ばれる中国語を学んでいることを、意識しているつもりでした。特に大学生になってからは、南方訛り、を指摘されるたび、ならば正さなければ、と気持ちが焦りました。標準的な中国語を発音しなければならないと意識しすぎるあまり、そもそも、そうする必要のない音まで「巻き舌」になってしまうこともしばしば。そのたび、

——舌を巻けばいいというものではありません。

と先生に呆れられては、身のすくむ思いがしました。

そんな調子だったので、大学での中国語の授業は楽しかったとは言い難く、どちらかといえば苦痛のほうが大きかったのですが、それでも日本にいる間のわたしは、どこか高を括ってもいました。書を捨て、町に出れば、文法の正確さや発音の正しさなどよりも、とにかく話したい、という気持ちのほうがずっと大切で、そしてその気持ちさえあればちゃんと相手に自分の言葉は伝わるはずなのだと、そう思い込んでいました。そうであったからこそわたしは、厳しい先生の目が届かない上海では堂々と自分の中国語を喋ろうと心に決め、留学に旅立つのを待ち遠しく思っていたのです。

(“南方訛り”と先生は言うけれど、台湾人にとってはそれがふつうなんだから)

その証に、両親をはじめ、わたしの知る台湾人たちは皆、自分たち流の中国語を何ら恥じることなくあたりまえのように喋っています。台湾にいるときは言うまでもなく、父や叔父たちなどは北京や南京で中国人の仕事相手に堂々と自分たちの中国語で渡り合っているのです。上海に行ったらわたしもそうすればいい。いや、そうしよう。そのようにわたしは意気込んでいました。

ところが、いざ上海に来てみると、わたしの場合、どうもそう単純にはいかないようなのです。

実際、わたしの中国語は、一緒に日本からやってきた二十数名の同級生たちの中では、比較的じょうずなほうでした。たった1年半前から中国語を学びはじめた他の人たちよりも、台湾のものではあれ、中国語に触れてきた時間が圧倒的に長いのだから当然です。自然と、友人たちもわたしに頼ってくれます。わたしは責任感のようなものを感じながら、先頭を切って現地の人たちとの会話に励み、通訳のような役割を果たそうとはりきりました。みんなで連れ立って訪れた観光地の豫園では、

——あなたはあの子たちとちがって、言葉がちゃんと通じるからありがたいね。

露天商の主人にそんなふうに褒められたこともあります。しかしあれは、とわたしは台北によく似た上海の狭い空をあおぎながら考えていました。

(豫園のあのご主人はわたしを日本人だと思っていたからそう言ってくれたんだよね)

それならきみも中国人、ってことか

また、留学生活がはじまって早々、顔なじみの中国人から言われたある一言を、いまも忘れることができません。

あの日わたしは、授業が終わったあと財布を部屋に忘れてきたことに気づき、昼食に出かける友人たちと別れて、留学生寮に一人で戻りました。わたしたちが滞在する寮が入る建物の入り口に、顔見知りの警備員さんがいました。ニーハオ、とあいさつすると、吃饭了吗(ごはんは食べた)? と中国式の挨拶の言葉が返ってきます。これからね、と応じながらわたしは笑みを浮かべます。わたしの親身な態度に警備員さんも表情をほころばせます。勢いがついたわたしは、

——わたしは財布を部屋に忘れました。わたしはわたしの財布を今から取りに行きます。

と、多少芝居がかった丁寧さで、自分から彼に話しかけます。警備員さんも、是吗(そうか)? と愛想よく身を乗り出します。わたしは続けました。

——困りました。みなさんはもう、食堂や売店に駆けてゆきました。わたしが財布を持ってそこにたどり着く時間、良い食べ物は皆、すでに売り切れかもしれません。

警備員さんがわたしよりもはるかに自然で、早口の中国語で励ましてくれます。

——問題ないよ、この学校に何千人の学生と先生や職員がいると思う? ちゃんと君の分もあるはずさ。まあ、それが君の好みかどうかは別だけどね。

わたしは笑いました。こうして、本物の中国人が話す中国語をちゃんと聞き取れる自分を褒めてやりたくなりました。授業中の会話練習も大事ですが、こんなふうに実践会話の機会を持てることこそ留学の醍醐味なのだと思いながら。そんなわたしを、今思えば、当時の自分と大して歳の差がなかった、まだ30歳にも届かない若い警備員はしみじみと見つめて、

——考えてみたら、きみは数日前に来たばかりなんだよね。それなのに、とっても中国語がうまいので感心するよ。

いやそんな、という意味に値する中国語を呟いたあと、わたしは、说真的(実は)、と切り出します。

——わたしは小さい時から日本に住み、日本で大きくなりました。しかしわたしは台湾人です。

——え?

わたしは同じことを繰り返しました。2度目を聞き終えた若い警備員は親近感のこもった笑みを浮かべました。

——なんだ。それなら、きみも中国人ってことか。

——え?

——いま、自分でそう言っただろう? 台湾出身だって。それならきみも中国人ということじゃないか?

中国語で、那么、你也是中国人(それなら、きみも中国人だ)、と屈託のない口調で断じる彼の声を聞きながら、それはちがう、という日本語が頭の中に浮かびます。

かつて高校の中国語の授業中に、你是日本人吗(あなたは日本人ですか)? と訊かれて、さんざん悩んだあげく、不是、我是中国人(いいえ、わたしは中国人です)、と答えようと決めたときとはまったく異なる気持ちがわたしの中で渦巻きます。

日本人か中国人か、という二択ならば、わたしはわたしを中国人により近いと思える。けれども、中国人か台湾人かとなると、わたしはあきらかに台湾人であるはずです。少なくともこのときのわたしはそう感じていました。もっといえば大学の授業で、南方訛り、を指摘されるたびその思いは改まったような気がします。

そこでわたしは、

——わたしは自分を中国人ではないと思っています。わたし自身は台湾で生まれて、わたしのお父さんとお母さんはどちらも台湾人です。だからわたしも台湾人ですよね?

あとになって思えばこのときのわたしはあまりにも愚直だったかもしれません。幸い、警備員の彼はずっと好意的でした。わたしが話し終えたことを確かめてから、かれは再び言いました。

——ああ、つまりきみは台湾人なんだよね。それはよくわかったよ。ということはおれと同じ中国人だってことじゃないか。

彼の考えに一切の変化がなかったことに、わたしは驚き、茫然とします。そんなわたしに追い打ちをかけたのは、彼の次の言葉でした。

——それにしても、中国人にしてはきみの中国語は下手だなあ!

夢に見た上海。あこがれの留学生活。こちらに来てしまえば、南方訛りなど些細なことだと思っていたのに。わたしは早くも、理想と現実の間に立ちはだかる壁と直面したのです。

きみの中国語は、下手だね

それ以来、中国語が褒められることがあっても、わたしは心の中で、浮かれてはいけない、と自分を戒めるようになりました。相手はきっと、こちらのことを日本人だと思っているだろうから、と。

その証拠に、

——说真的,我是台湾人。

(実は、わたしは台湾人です)

あの警備員さんにそう打ち明けたら、どうなった?

——なんだ、それにしては下手だなあ!

同じわたしの、同じレベルの中国語なのに、わたしが日本人か台湾人なのかによって、その評価はこんなにも変わるのです。

——中国人にしてはきみの中国語は下手だね。

いや、わたしは中国人ではない。けれどもそれは、それこそ些細なことなのです。中国人とみなされようが台湾人と認められようが、いずれにしろわたしはうまれつき中国語ができて当然だと思われる立場にある。そう、日本人なら誰もが日本語を話せるように、わたしは必ず中国語ができるはずだと思われているのです。そう考えるならば、外国人にしてはなかなか巧いね、と褒められるいまの程度の出来では、ぜんぜん不足なのです。だから、少なくともいまの自分の日本語と同等のレベルの中国語を習得する必要がわたしにはある……自分に課せられた義務の大きさを突きつけられたようで、上海の空の下、わたしはすっかり途方に暮れていました。

その後、留学生活が進むにつれて、同級生たちが街の食堂などで中国人の店員さんと気さくに会話を楽しむ姿や、授業中にわたしよりもはるかに標準的な発音で時事的な事柄も絡めた短いスピーチを堂々とこなす姿をまのあたりにするたび、彼らのほとんどは大学1年生になるまで、ニーハオ、という一言すら知らなかったのだと思うと複雑な気持ちになりました。
(わたしも、ふつうの日本人だったら……)。

そうであったのならわたしも、外国語として出会った中国語が徐々にできるようになってゆく過程を、もっと素朴に楽しみ、喜ぶことができたはずなのに。

わたしはわたしのはずなのに

とはいえわたしは落胆ばかりしていたわけではなく、親元を離れた「異国」の地での生活を、十分謳歌もしていました。日本から一緒に来ている仲間たちとは、毎日同じ授業に出席し、同じ分量の課題をこなし、同じ宿舎で暮らしているので、運命共同体のような連帯感があって、とても楽しく、また心強くもありました。

(わたしたちは20歳になったら、上海にいる)

何しろ、国際文化学部で中国語を学ぶ1期生として出会った頃からそのことを共に楽しみにしてきたのです。怒りっぽく、すぐにぷりぷりと腹を立てるわたしは仲間たちからよく、溫又柔不太溫柔(温又柔は優しくない)とからかわれたり、きょうは馬馬虎虎(mǎmǎhǔhǔ )にやるよ、といったような中国語を織り込んだ会話を皆でしてみたり、気の合う仲間たちと過ごす時間は笑いが絶えませんでした(ちなみに、馬馬虎虎(mǎmǎhǔhǔ )とは、いい加減な、とか、適当に、という意味です)。高校のときもそうでしたが、大学の仲間たちも、わたしがナニジンなのか、ほとんどこだわっていませんでした。

——わたしたちにとっては、日本人とか台湾人である以前にオンちゃんはオンちゃんなんだもん。

こんなふうに言ってもらえることが、当時のわたしにとってどれだけ心強かったことか。仲間たちのこうした温かい言葉に気持ちを支えられながら、わたしはよく自分に言い聞かせました。わたしはわたし。それ以上でも、それ以下でもない……そのはずなのにわたしは留学生として上海で過ごした約4か月半、日本育ちの台湾人として中国にいる自分の境遇は、想像していたよりもはるかに複雑なものだと思い知らされてばかりだったのです。

「こんな国ないよ!」

西安で遭遇した出来事も、その一つです。

大学の留学生課が企画した北京・西安旅行に出かけたときのことでした。日本語がわかる先生とガイドさんが最初から最後まで引率してくれるので、ただついて行けばいいという、とても気楽な旅行でした。

わたしたちはまず、北京に連れて行ってもらいました。万里の長城、天壇公園、頤和園、紫禁城……写真や映像をとおして馴染み深かった名だたる観光地を回りながら、あわただしい旅程に目も回るような思いでした。

言うまでもなく、天安門広場も訪れました。わたしは高校のときにつかっていた中国語の教科書に見開きで載っていた写真を思い出します。

(兄弟喧嘩みたいなものだよ)

いつかの父の言葉もよみがえります。つまり、ここが、父や母が、大陸(dàlù)、と呼んだ場所の中心地なのか。例の毛沢東の肖像画が見えたときは、やはり少し感慨深くなりました。そこにはわたしたち以外にも、大勢の観光客がいました。ヨーロッパから来ていると思われる人たちも少なくありませんでしたが、日本語もときどき聞こえてきました。毛主席の肖像写真を背景に友人たちと記念写真を撮るわたしもまた、北京に観光に来ている日本人の一人に見えたことだと思います。

その後、わたしたちの一行は西安に移動しました。西安では現地の旅行会社が派遣する女性がもう一人、現地のガイドとしてわたしたちを迎えます。もう遅い時間だったのもあり、その日は観光はせず、すぐホテルに向かいます。ホテルのロビーでわたしたちを点呼したあと、

——チェックインにはパスポートが必要です。

流ちょうな日本語で言います。あとで知ったのですが、彼女は一度も西安を出たことがないという話でした。しかしその日本語は、数年の日本留学を経験しているわたしたちの大学の先生と比べてもまったく遜色のないものでした。わたしたちは彼女の指示通り、それぞれの鞄から自分のパスポートを出します。有効期限が10年である赤い表紙のものか5年の紺色のものかという違いはありましたが、わたし以外の全員が日本のパスポートを持っていました。そんな赤や紺色のパスポートを彼女はつぎつぎと受け取ってゆきます。隣にいた友人に続き、わたしが自分の深緑色のパスポートを差し出したそのときです。それまでなめらかだった彼女の動きが止まりました。

—— 中(zhōng)华(huá)民(mín)国(guó)?

彼女の口から訝しそうな声が洩れました。

日本のパスポートの表紙に「日本 JAPAN」とあるように、わたしのパスポートの同じ場所には「中華民国 REPUBLIC OF CHINA」と書いてあります。言うまでもなく、海外に出かけるときは必ずパスポートを持たなくてはなりません。わたしのパスポートは、父や母やほかの台湾人たちが持つものと同様に、台湾——中華民国——が発行したものでした。

中国人の彼女にはそれが、とても信じられなかったのでしょう。

——中(zhōng)华(huá)民(mín)国(guó)!

今度は、先ほどよりも確信に満ちた口調でした。一息つくと、

——こんな国ないよ!

中国語ではなく、日本語で彼女は言い放ったのです。

……いまなら、よくわかります。台湾人であるわたしの両親が「大陸は共産党に乗っ取られている」と教わったのと対照的に、中国人の彼女は、「中華民国はとっくに滅びた」と学校で教わったのです。つまり、中華人民共和国に生まれ育った彼女にとって、日本からの観光客の一人であるはずのわたしが差し出したパスポートにあった「中華民国」という文字が示しているのは、1949年に天安門広場で毛沢東が「中華人民共和国」の成立を宣言した時点でとっくに滅んだはずの国家なのです。

(こんな国ない?)

わたしは、ただ呆然としていました。と同時に、彼女のその日本語が響き渡った瞬間、その場が凍り付くのを確かに感じてもいました。

わたしが、ふつうの日本人だったなら

中国人である彼女と、台湾人のわたし。

二十数名の仲間たちと、上海からずっとわたしたちに同行している留学生課の先生とガイドさん。彼女と自分を囲む人々の間にも緊張感が生じます。ここで、もともとはひとつだった「中国」の解釈をめぐる「内戦」勃発か?

……しかし「中華民国」のパスポートを持ちながら、「中華人民共和国」で中国語を学んでいた頃の20歳のわたしは、どちらが本物の「中国」なのか、中国人である彼女と言い争うことなどまったく思いつきません。このときのわたしは、そうするための十分な知識や、それに基づく自分なりの見解もなく、更に言えば、自分が遭遇している状況の複雑さすら、たぶんまともに把握できていなかったのです。

けれどもいまだにわたしは、あのときのひどく動揺した気持ちを思い出すことができます。

——こんな国ないよ!

自分に突然突き付けられたその日本語に、わたしは、ただただ、うろたえました。仮に、「没有这样国家」と中国語で言われていたのなら、それがまったく同じ意味であったとしても、あれほどの動揺はしなかったのかもしれません。でもそれは日本語だった

前日、天安門で毛沢東の肖像写真を見あげたときは、Máo・Zédōngという響きよりも早く、モウタクトウ、という日本語の音が頭に浮かびました。その毛沢東との内戦に敗退したことで、台湾——わたしの両親の国——に君臨することになった蔣介石も、Jiǎng ・Jièshí、ではなく、ショウ・カイセキ、なのです。

台湾人ではあるけれど、わたしにはやはり中国語よりも、日本語のほうがずっとなじみ深い。だからこそ、西安で出会った彼女がとっさに日本語で言い放ったその言葉が、鋭く骨身に応えたのだと思います。

(わたしが、ふつうの日本人だったら……)

わたしも赤や紺色の表紙の日本のパスポートを持っていたのなら、決して言われなかったはずの日本語。

——こんな国ないよ。

この件の顛末は一部分おぼろげになっているのですが、彼女はこの一件でわたしの留学先である大学から厳重注意を受けました。大学は即座にわたしの側に立ち、自分たちの学生に対して不適切な発言をしたと彼女に抗議してくれたのです。わたしの宿泊する部屋にも上司を伴って彼女は謝罪にきました。

わたしはこのとき、政治的な考え方はそれぞれだから問題ない、と答えた記憶があります。どのように思い返しても自分の中国語のレベルではそう言うので精一杯だったはずです。相手は日本語が堪能なので、こちらが無理に中国語を貫かなくてもよかったのですが、このときのわたしはなぜだか彼女とは日本語で口を利きたくないと思っていました。

当事者であるわたしがそうであったのだから、友人たちもまた、この出来事をどのように理解するべきかわからなかっただろうと思います。わたしもこの一件で周囲に気を遣わせるのは、心苦しいというよりはどちらかといえば気恥ずかしかったので、西安を旅する間、友人たちがこの件には特に触れず、いつもどおりに接してくれることを、とてもありがたく思いました。

わたしの国はどこにある?

北京・西安旅行から戻り、上海の宿舎でひとりになったわたしは、荷解きもそこそこに、机にむかって日記帳を開きました。11歳のときにつけはじめた日記を、わたしは中学生の頃から手放せなくなっていました。眠る前のひととき、ノートを開いて文字を書きつけている間がわたしにとって最も心の安らぐ時間だったのです。上海にいても、日記の習慣は続いていました。でも、就寝前まで待たず、日記を書こうとしたのはこのときがはじめてでした。ボールペンを握る手に、いつもよりも力が入ります。

 

台湾から日本。日本と中国。中国にとっての台湾……日本育ちの台湾人として中国にいるという自分を自覚すればするほど、3つの国々の間での自分の位置がわからなくなってきてしまう……

 

そこまで一気に書くと、急に、続きが書けなくなりました。わたしはボールペンを置き、のろのろと立ち上がって、鞄の中からパスポートを取り出します。2歳の頃から両親が「貴重品」として大切に扱ってきたわたしのパスポート。深緑色の表紙には金色の文字が刻まれています。それを指でなぞりながら、ちゅうかみんこく、と呟きます。

「わたしの国はどこにある?」

声が、震えました。たったいま、日記に書きつけたばかりの自分の文字のほうが、泣き出しそうなその声よりも、よほど堂々とそこにありました。この日を境にわたしは、日記を書く、いや、日本語を書く、という行為に依存するかのようにのめり込んでいったのです。
                                                         (連載第6回に続く)