温又柔さん 「国語」から旅立って

読者のみなさんへ

あなたには、この文章が読めます。

なんの苦もなく意味が呑み込めます。

声に出して読みあげることだってたやすくできることでしょう。

それどころか、私が書いたとおりにそっくりと書き写すこともできるはずです。

さて、あなたはこの文章が日本語だと意識しましたか?

私は小説家です。

名まえは、温又柔。

おんゆうじゅう、と読みます。

日々、小説やエッセイを書いたりしています。

今でこそ、ほかのどんな言葉よりもずっと、私は日本語が得意です。けれども私は、はじめからずっと、日本語だけをしゃべっていたのではありません。

赤ん坊の頃の私は、両親をはじめ、近くで暮らしていた伯父や叔母、いとこたち、それに町の人たちが話す中国語や台湾語と呼ばれる言葉が飛び交う環境の中にいました。
やがて私が三歳になるかならない頃に、父と母は私をつれて、それまで住んでいた台湾から日本の東京に移り住む準備をはじめます。

あるとき、東京の町を家族そろって散歩していたら、あんよがじょうずね、といった調子で一人の老婦人が私たちに話しかけてきました。彼女は私にほほ笑みかけると、いくつ? とたずねました。きょとんとする私の代わりに父が答えます。

コノコハ、ニサイデス。

やさしそうな老婦人が立ち去ってから、ニサイは二歳という意味なんだよ、と中国語(あるいは台湾語)で父は母と私に教えてくれます。

その頃は母だけでなく、私もまた、中国語(と台湾語)のほうがずっと得意でした。

ニサイ、という響きは二歳の私をよっぽど魅了したらしく、日本のひとからほほ笑みかけられると、ニサイ、と自分からすすんで言うようになりました。

ニサイ、は私がうまれてはじめて覚えた日本語だったのです。
もちろん私は永遠にニサイではありません。

たちまち三歳になり、五歳になり七歳になり十一歳になり十三歳になるにつれ、私の日本語はどんどん上達してゆきました。

さて。

今日も私は、小説を構想するために、エッセイを仕上げるために、PCとむきあっています。

私の目の前のモニタ画面に浮かぶのは、ひらがな、カタカナ、漢字。

自分のつかっているこの言葉が、“日本語である”という事実を、私はいつもちゃんと思いだそうと努めています。

そうしないと、はじめからこの言葉だけを、日本語のみを、自分は聞いたりしゃべったり読んだり書いてきたのだと錯覚してしまいそうになるからです。

まわりにいた大人たちの声をとおして中国語や台湾語をたっぷりと聴き、自分自身もしゃべっていた頃のことを、私は“なかったこと”にはしたくありません。

そう、ニサイになるまでの自分のこともきちんと大切にしながら、この言葉、日本語を話し、書いてゆきたいと私は思っているのです。

「国語」から旅立って、と題したこの連載では、どうして私がこんなふうに感じ、思い、考えるようになったのか書いてゆくつもりです……はじまりは、私が小学一年生のときの「国語」の教室から!

どうぞ、おつきあいくださいませ!

2018年9月 温又柔

撮影 ©朝岡英輔

温又柔
(おん・ゆうじゅうWenYuju)

1980年、台北市生まれ。小説家。3歳から日本に在住。法政大学大学院・国際文化専攻修士課程修了。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞し、作家デビュー。両親はともに台湾人で、日本語、台湾語、中国語の飛び交う家庭に育つ。創作は日本語で行う。著作に、『たった一つの、私のものではない名前 my dear country』(Happa-no-Kofu, 2009年)、『来福の家』(集英社、2011年、のち白水社、2016年)、『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年)、『空港時光』(河出書房新社、2018年)、『台湾生まれ 日本語育ち 増補版』(白水社、2018年)など。

2018年10月1日より
連載スタートです!!
毎月1日に更新されます。
楽しみにお待ちください。

illustration:100%ORANGE/及川賢治
第2回

わたしの「国語」は何語なんだろう?

中高生篇Ⅰ

書く日々のはじまり

 

KO・KU・GO。

小学4年生の国語の時間でのこと。

 

わたしたちはローマ字の書き方を習いました。

国語の授業中に、慣れ親しんだ文字——ひらがな、カタカナ、漢字——以外の文字を練習しながら、わたしはワクワクしました。

(なんだか、英語みたい!)

小文字で書いてみると、なぜかよりそれらしい感じがしてきます。

 

ko・ku・go。

wa・ta・shi・ha・ka・ki・ma・su。

 

アルファベットがノートに並ぶと、まるで英語みたいで、ふしぎな興奮をおぼえました。

 

Ei・go・mi・ta・ i ・da・ ke・ do・ ei・ go・ de・ ha・ na・i!

 

五十音を表すローマ字は、ひらがなとカタカナそして漢字とは別の、日本語を表現するための一つの方法でした。

だからルールも日本語を書くときと同じです。

たとえば、「わたしは」と書きたければ「wa・ta・shi・ha」にします。「わたしわ」とは書かないように、「wa・ta・shi・wa」とは書きません。

 

さて、ローマ字の読み書きを教わった目であらためて周囲を眺めてみると、そこらじゅうにアルファベットなる文字が溢れていることに気づかされます。

SHIBUYA

という文字を見つければ、

(シ・ブ・ヤ)

と心の中でつぶやき、渋谷のことだ、とうなずき、

Hachikō

とあるのが目に入れば、

(ハチコー)

ハチ公の姿が思い浮かび、なるほど、となります。

Yamanote LINE

と書いてある看板を見たときは、

(ヤ・マ・ノ・テ・リ・ネ)

と思いました。

リネ? はて、リネとはいったい何のことやら?

小5のわたしは、「LINE」が電車の路線を意味する英語だとは知りません。ほんものの英語と、ローマ字で表記された日本語が混在しているとはまだ想像もしていなかったのです。

AからZ。26文字のアルファベットに備わる音をひととおり読めるようになったものの、わたしが学んだそれらは、まだ英語そのものではありませんでした。それは日本語を綴るための、ちょっとした“裏技”だったのです。

 

とはいえ、実は、この“裏技”が、あとでおおいに役に立つようになります。

たとえば、PC(パソコン)のモニタ画面に向かって、この文章を作っているいまこの瞬間も、わたしの指は、キーボードのいくつものキーをたえまなく行きつ戻りつしているのですが……ここでみなさん、PCのキーボードを思い浮かべてみてください。

日本製のものなら、「Qた」「Wて」「Eい」「Rす」「Tか」「Yん」と、アルファベットとひらがなが併記されたキーがずらりと並んでいるはずです。

たとえば、「わたしは」という文を書きたいときは、「0」「Q」「D」「F」と打つ方法があります。

あるいは、

「Wて」「Aち」「Tか」「Aち」「Sと」「Iに」「Hく」「Aち」

と打つ方法もあります。

前者は「かな入力」、後者は「ローマ字入力」と呼ばれる方法なのですが、わたしは高校生のときにはじめてワープロ——文章を作成することを目的としたコンピューターで、インターネットには繋がらない——を使い出してからずっと、ローマ字入力によって、文章を書いて(打って)きました。

かな入力よりもローマ字入力のほうが、覚えなくてはならないキーの配置や組み合わせが少なくて楽だよ、とワープロの使い方を教えてくれたひとから薦められたためです。

「Aち」「Iに」「Uな」「Eい」「Oら」……

わたしの指はこれらのキーを、チ、ニ、ナ、イ、ラ、ではなく、ア、イ、ウ、エ、オ、と認識しています。

この五つのキーを「Kの」「Sと」「Tか」「Nみ」「Hく」……などと組み合わせて、文字を打つのです。

か、と出力したいなら、「Kの」+「Aち」

ほ、なら、「Hく」+「Oら」

といった調子で。

高校生になった頃からわたしは、レポートやレジュメ、ほとんどの文章をワープロを使って仕上げてきました。

ワープロだと、画面に表示される文字はいつも整然としています。

そのときの気分や、手の疲れ具合によって、字の形が乱れたり、筆圧が変化したりしません。

波打つ感情とともにある自分の筆跡と違って、PCのモニタ画面に現れる文字を眺めていると、自分の言葉と距離をもって向かい合っている感じがします。

そのためにわたしは、ちょっとしたメモをとったりアイディアを出す段階では、ボールペンを握ってひたすら文字を走らせるほうが便利なのですが、大抵はそうやってできあがったノートを参考にしながら、PCを使って小説やエッセイの原稿を完成させます。

そう考えると、わたしにとって何かを“書く”こととは、ローマ字入力を経由して成り立っていると言えます。小学校のときに“裏技”として覚えたはずのローマ字は、今やわたしにとって、あらゆる文章を“書きあげる”上で、絶対に欠かせないものなのです。

 

さて、「LINE」を、リネ、と読んで首をかしげたり、英語っぽさを味わいたくて「wa・ta・shi・ha・yo・mi・ma・su」とノートの余白に綴って友だちと笑い合ったり……ローマ字を覚えたばかりの頃のわたしは、いつかの自分がPCで文字を打ち、文章を作るようになるとはまだ思っていません。

この頃のわたしにとって、“書く”こととは、鉛筆あるいは少し背伸びしてボールペンを握って、ノートやプリントに向かい合うことを意味していました。特に、白紙の作文用紙、あるいは真新しいノートの上に文章を作り出すことが、もっとも正式な、“書く”という行為なのだと感じていました。

ちょうどそんな時期に、その一冊とわたしは出会います。

一冊といっても、本ではありません。

本のような形をしたノートでした。

DIARY。

わたしの目は、その五つのアルファベットにくぎづけになります。ディ、ア、リィ。いつものように、日本語とも英語ともつかない音を頭の中で再生します。

わたしに、ディ、ア、リィと読まれてしまった五文字のアルファベットが表紙に刻まれたその一冊は、ふだん学校で使っているノートとはまったく格がちがうように思えました。

まず、とても分厚いのです。

背の部分にも表紙と同じく、まるでこの一冊の書名であるかのように、D、I、A、R、Yという五つの文字が綴られています。

重厚な装幀の“DIARY”を、わたしはそっと手にとります。表紙をめくっても、本のようには、文字が中に書いてありませんでした。

ただ、文字がないといっても、真っ白な紙ではありません。

細い罫線——文字を揃えて書くために一定の間隔で引いてあるもの——が薄く印刷されています。それは、わたしがそれまで使ったことのあるノートに引かれた罫線とはぜんぜん違う雰囲気でした。母が台湾の祖父母に手紙を書くときに使っている便せんに似ている、と感じました。

その頃、母はよく「VIA AIR MAIL」とあらかじめ印刷してある赤と青の模様に縁どられた封筒で、祖父母に手紙を送っていました。飛行機に運んでもらう手紙だから、封筒の中身はふんわりと軽いものでなくてはだめなの、とわたしに教えながら。特別な紙なの、と母がもったいぶるので、わたしにとって罫線が引かれた便せんは、なんとなく神聖なものでした。

ディ、ア、リィ(DIARY)と表紙に書いてある、本のようなノートのたたずまいにうっとりするうちに、

——この一冊を、わたしの字でいっぱいにしたい!

と閃きました。

あらためて目の前のノートを見つめながら、わたしは考えます。

——これが自分の字でいっぱいになったら、まるでわたしが書いた本のように見えるにちがいない!

そう思ったら、もういてもたってもいられません。

わたしは胸を高鳴らせながら、10歳の子どもにはあきらかに高価なその「日記帳」を、いそいそと自分のなけなしのお小遣いで買ったのでした。

奇しくも、この買い物をした数日後にわたしは誕生日を迎えます。

11歳になった日の夜、引き出しの中にしまっておいたとっておきのそれを、わたしはおもむろに取り出します。

まずは、日付から。

1991年5月14日……真新しいノートに自分の文字が刻まれます。

(わたしは、わたしの“本”を書いている……)

このときを境にわたしは、だれか——学校の先生や同級生たち、両親や妹——に読んでもらうことを前提としない、わたしのわたしによるわたしのためだけの「書く」ということを、日々重ねてゆくようになります。

それは、夜ねむりにつく前の、密やかな楽しみとなりました。

 

 

11歳のわたしは、いつもひと息ついてからボールペンを握ります。“DIARY”に鉛筆はどうも似合わない気がして、その頃からわたしは、書き損じたら修正液を使いこなすようにもなっていました。文字を覚えたばかりの頃のわたしは、だれかに向かってしゃべるように、頭の中に浮かんでくる自分の声を次々と文字に置き換える勢いで書いていましたが、“DIARY”と向かい合うようになったわたしは、少し違いました。

その日にあったことを順番に思い出しながら、特に印象に残った出来事をまずは記録します。

——きょうはリレーの練習。わたしは足がおそいから○○ちゃんの前に走る。○○ちゃんにうまくバトンをわたせるか心ぱいだ。

それから、そのことについて、自分がどんなふうに感じているのか書いてみます。

——○○ちゃんみたいに、わたしも足が速く生まれたかった。運動会は早く終わってほしい。

そうしようと、はじめから決めていたわけではありませんが、日々、ノートと向き合ううちに、いつのまにかそういう書き方が出来上がっていました。

書くときには、当時読んでいた本の中にある表現をお手本にすることもありました。

たとえば、ある小説の主人公が仲たがいしていた親友と仲直りしたときの気持ちを「長いトンネルをぬけて、光の中に戻った気分だ」と書かれているのを読んだときは、なるほど、と思いました。悩んで悩んで、その悩みが晴れたときのうれしさって、確かに暗くて長いトンネルを抜けたあとの感じに似ているんだろうな、と。

本の中には、自分が抱いたことのある感情や気持ちを、それまでの自分が知らなかった方法で表すためのヒントがあると、わたしは徐々に気づきつつありました。

空中黒板でひらがなを覚えたばかりの頃、自分の声が、文字となって、だれの目にも見える形として紙の上に現れるのを楽しんだように、11歳のわたしは日記を書く時間が訪れると、自分の気分や感情や思いを罫線に沿ってしたためるのを楽しみました。

そうするうちに、分厚い”DIARY”は、わたしが12歳になる前に、つまり最初の1ページ目を書いてから1年と経たずに、わたしの字で埋め尽くされました。

(この一冊を、わたしの字でいっぱいにしたい!)

ところが“DIARY”のページが残りわずかになってくると、もうじき目的が果たせるという達成感よりも、次の一冊が必要だ、とわたしはそわそわするようになりました。

本のような装幀のノートを自分の文字でいっぱいにしようと書き続けてゆくうちに、いつのまにか、“書く”ことそのものがわたしの中でとても大切なことになっていたのです。

 

思えばこの頃も、あいかわらず母や父は、中国語や台湾語でしゃべっていました。

とくに母は、中国語や台湾語をぽんぽんまぜながら、わたしに話しかけます。

けれども、毎夜、几帳面に日記帳と向かい合うわたしは、主に母の声をとおして聞こえる日本語以外のそれらの言葉を、罫線の引かれた頁の上に書こうとは思いませんでした。

ひらがなの五十音でぴたっと言い表せない表現は、そもそも書きようがないものなのだと、とっくにあきらめていたのです。

もっと言えば、“書く”ことに没頭するようになったわたしにとって、日本語で書き表せない母や父が交わす言葉は、どちらかといえば“雑音”のようなもので、わざわざ自分のノートに書きつけるものではなかったのです。

そのため、わたしの日記帳の中に存在するのは日本語だけでした。

そして、この頃からわたしは、自分がふだん読んだり書いたりしている言葉が、「日本語」であることを徐々に忘れてゆきます。

何しろ、わたしが手にし、読むことのできる本の大半は日本語だけで書かれています。

それにならって“書く”わたしもまた、日本語だけを使うのがあたりまえなのだと思い込むようになりました。

こうして、わたしの中で、「日本語=言葉」という意識は、知らないうちにだんだんと強化されていきます。

 

英文であなたの名前を書きなさい

 

わたしは中学1年生です。

いよいよ、英語を学びはじめたところです。

英語用のノートには、アルファベットの練習がしやすいように特殊な罫線が引かれています。小学校のときに使っていたどのノートとも異なる雰囲気に、わたしは静かに心弾ませます。そして、頭文字を大文字にすることを忘れないように、アルファベットで文章を書いてみます。

 

I live in Tokyo, Japan.

I am thirteen years old.

I am a junior high school student.

 

文中や文末に「、」や「。」ではなく、「,」や「.」と打つたび、新鮮な気持ちがします。

それは、正真正銘の“英文”でした。

いつかのローマ字とは違う。あれは、結局のところ、日本語を表現するための“裏技”にすぎなかったのだから。

両親と台湾に住んでいた頃、まわりのひとたちが話していた中国語や台湾語をのぞけば、英語は、わたしにとってはじめて触れる日本語以外の言語——「外国語」——でした。

とはいっても、中学生になって英語を勉強するときのわたしは、「外国語」を学んでいる、というよりはむしろ、国語、数学、理科、社会……と時間割表の中に新たに加わった科目の一つに取り組む、という気持ちのほうが大きかったのです。

つまり、英語しか話せないひとたちと友だちになるためにがんばろう、とか、まだ日本語に翻訳されていない英語の本を読みたいからがんばるぞ、というのではなく、教室で先生にあてられたときにちゃんと正解が答えられるようにしておかなくちゃ、とか、小テストで満点がとれるようにしっかり復習しなければ、といった動機で、わたしは英語を学び始めたのです。

だからこそ、英語のルール(be動詞や一般動詞の区別、それぞれの過去・現在・未来形、三人称単数現在には「s」がつくこと、疑問文の作り方等)をひとつずつ覚えることは、外国語を学ぶというよりは、どちらかといえば、方程式の解き方や、細胞、気孔、葉緑体といった葉のつくりの呼称や、大化の改新や壬申の乱が起きた年号、漢字と慣用表現の使い方などといったことを暗記することに近かったのです。

要するに、教科書の太字の部分、とりわけ、「ここ、テストに出るぞ」と先生たちが強調するような箇所を中心に頭の中へと叩き込むことを、わたしは“勉強”なのだと思っていました。

その後、高校生になったわたしは、試験範囲に指定された内容を、理解する、というよりは、ひたすら暗記して、テストが終わったとたんにみんな忘れる、という、お決まりのこの方法って、ほんとうの意味での“学び”とはだいぶちがうのでは? と疑うようになるのですが、それはあとでまた書きます。

……こんなふうに、コツコツと“勉強”に励んだ中学1年生のわたしは、いよいよ生まれてはじめての「中間テスト」を受けます。

とはいえ、もうずいぶん昔のことなので、国語、数学、理科、社会……ほかの科目の内容がどんなものだったのかは、さすがに忘れてしまいました。

けれども、英語のテストの最後の一問だけは、いまもはっきりと思いだせます。

 

——英文(ローマ字)であなたの名前を書きなさい。

 

問題用紙の最後に現れた設問を読みながら、わたしは考えます。

(わたしの名前の英文?)

そして、頭に浮かびます。

 

——WEN,YOUJOU

 

それは、わたしのパスポートの姓名欄に「溫又柔」という漢字とともに記載されたわたしの英文名です。

わたしの姓名を中国語読みしたときの音をカタカナで示すと、温(ウェン)又(ヨウ)柔(ロウ)、という音になります。

「WEN,YOUJOU」は、ウェード式と呼ばれるローマ字表記で「ウェン・ヨウ・ロウ」という音を表したものです。

2歳のときにはじめて台湾と日本を行き来したときから、わたしはずっと「WEN,YOUJOU」という英文名が添えられたパスポートを使ってきました。

 

パスポートのことについて、少し。

日本人の場合、海外に行くときは、日本国が発行するパスポートを必ず持たなくてはなりません。

まず、そうしないと日本から出ることができないのです。

次に、どんな国に入るのにも、日本人なら日本のパスポートをその国の入国審査官に提示しなければなりません(パスポートのほかにビザと呼ばれる書類が必要な国もありますが、それはまた今度)。

とにかく、パスポートなしには、日本から出ることや日本以外の国々に入ることはできません。

そして、日本以外の国に滞在しているときは、パスポートがそのひとにとって最も重要な身分証明書となります。

 

それと同じように、わたしたち一家は、台湾——厳密には“中華民国”——が発行したパスポートを持って、日本にやってきました。

台湾のパスポートを持ちながら日本で生活している限り、台湾人である父と母、そしてわたしと日本生まれの妹も、法の上では「外国人」としてみなされます。

中国語よりも日本語のほうが得意でも、台湾にいる時間のほうがずっと短くても、「日本人」ではなく、「台湾人」。

もっと言えば、「外国人」。

これが日本でのわたしたち一家の身分なのです。

そんな外国人であるわたしたちにとって、自分たちが誰なのかを証明するものとして、何よりも大切に扱わなければならないものが、台湾(中華民国)のパスポートです。

実際、万が一でもパスポートを紛失などでもしたら、どうにかして再発行をしない限り、わたしたちは日本にいられなくなるし、台湾に帰ることもままならなくなります。

そのため、わたしの両親は、家族4人分のパスポートを預金通帳や印鑑などといった貴重品とともに常に金庫の中に保管していました。

ものごころついてからずっと、両親がとても丁重に扱うようすを目の当たりにしてきたので、これほど正式な書類はない、とわたしはパスポートに対して思っていました。

そうであったからこそ、英文であなたの名前を書きなさい、という設問と出会ったとき、わたしの頭にはパスポートの姓名欄にあったその綴りが浮かんだのです。

ちょうどわたしは、ローマ字の書き方を習った小学5年生の頃から、台湾に帰るたび、必要書類の署名は自分でしていました。しかも、父と母にならって英文名のサインをしていたのです。

——これが、おまえの英語の名前だよ。

実際、父や母にそう言われたこともありました。

それでわたしは、英語のテストの最後の問題の解答欄に堂々と書きました。

 

——WEN,YOUJOU

 

後日、英語のテストの答案が返ってきて、わたしはハッとしました。

「WEN,YOUJOU」の上に、大きな×印がついていたのです。わたしはその瞬間、すぐに悟りました。

そうか、ここで〇をもらうには「ON・YU・U・JU・U」と書かなければならなかったのか。

何しろ、わたしの英語の先生は、わたしを「オン・ユウジュウ」と認識しています。英語の先生に限りません。ほかの科目の先生やクラスメートたちも、わたしが「ウェン・ヨウロウ」とは知りません。

小学校、いや幼稚園の頃から、わたしは新しく出会うひとたちに自分は「ウェンヨウロウ」だと名乗ったことがありませんでした。それは、台湾にいるひとたちしか知らないわたしの名前なのです。

だから、

 

——英文(ローマ字)であなたの名前を書きなさい。

 

と問われたのなら、先生の知っているわたしの名前を書かなければ、〇はもらえなかったのです。

なぜならこの問いは、わたしが「オンユウジュウ」という綴りのローマ字表記ができるかどうかを確かめるためにあったのだから。

ふだんは金庫の中にしまわれているパスポートの姓名欄にのみ、ひっそりとたたずむ「WEN,YOUJOU」を誇らしげに書いてみたところで、わたしの名前が「ウェンヨウロウ」でもある、ということを知らないひとにとっては、なんのことなのかさっぱりです。ああ、ばかなことしちゃった、わたし、ローマ字は得意なのに。パスポートなんかについつい惑わされて、へんなこと書いちゃった。ちゃんと「ON・YU・U・JU・U」と書けば、〇がもらえたのにな……

 

とまあ、こんな感じで、13歳のわたしは、いま思えば、とてもあっさりと、その×印を受け入れました。

何しろわたしは、すごく“勉強”熱心な中学生だったのです。

「ここ、テストに出ます」。

先生たちがそう言えば、その部分を記憶しようと積極的に努めました。

実際に、努力をすればした分だけ、テストでよい点がとれたし、授業中に先生にあてられても、正しい反応ができました。

考えてみれば、わたしのこの考え方は、7歳だった小学1年生のときにすでに芽生えていたのだと思います。そう、K先生からの花丸がうれしくて、K先生のわからない言葉——母が話す中国語や台湾語——も、K先生に伝わるように日本語に“翻訳”しはじめた頃から、わたしは自分の中にある非日本的な要素は、学校や家の外では通じないという理由で、正しくないもの、まちがったものとして処理するようになっていたのです。

「ウェンヨウロウ」のローマ字表記「WEN,YOUJOU」に×がついたことで、わたしのこの傾向は、さらに拍車がかかってゆきます。

 

「国語」の英語って何?

 

姓名を書く欄は、二つに分かれていました。

First nameとLast name。

はじめて、この表現と出会ったときは混乱しました。Firstは、「最初の」という意味だと習ったのに、英語でFirst nameは、苗字のほうではなく名前のほうを示すのです。日本語とは「はじめ/First」と「おわり/Last」が逆転しています。

英語の先生が、Last nameはFamily nameとも言うのだと教えてくれたおかげで、家族の名前のほうがあとにくるのだな、と納得し、どうにか理解しました。

その日も、LastがFamilyだよね、と頭の中で確認してから、Last nameとあるほうの欄に、YuuJuuと書きます(もう決してYOUJOUとは書きません)。

それから続けて、Family nameの欄に、Onと書きます。

 

YuuJuu ・On

 

姓→名ではなく、名→姓。

英語では、この順番が正しいので、My name is YuuJuu Onと言わなければなりません。

 

その日のわたしたちは、英語で自分の好きなことについて話すための準備をしていました。

英語を学び始めて、半年ほど経ったぐらいの頃。中学1年生の2学期のことでした。

授業のはじめに先生が、“My favorite things”と書いてあるプリントを配ってくれます。

 

Sport

Food

Color

Animal

Music

Book

Movie

Place

……

 

などといった単語があらかじめ印刷されていて、そのあとに続く空欄に英語で自分の好きなものを書き込むという形式のプリントでした。

すぐに書けそうなものもあれば、辞書を調べないとわからないものもあります。もっとも先生は、わかってるつもりの単語もスペルをまちがえることがないように、辞書を使うことを薦めます。

辞書を片手に、わたしはせっせとこの課題に取り組みます。

好きなSportかぁ、運動苦手だからぜんぜん浮かんでこないよ、と頭を抱えていたら、そういうときはNothingと書くんだよ、と先生がアドバイスをしてくれます。MusicやBookに関して一つに絞れないでいると、つらつらと書いていって、,and moreと書き添えるのもありなのだと教わります。

何しろ、自分の好きなことやものについて考えるのです。

隣の席の子と見せ合ったり、おなじ班のひとたちが何を書いているか言いあったり、わいわいと過ごせる楽しい授業だったのですが、

 

Subject

 

の欄で、ふとわたしは手をとめます。

好きな科目、か。

国語、数学、社会、理科、美術、音楽、技術家庭、体育……

小学校1年生の頃からずっと、わたしの一番好きな科目は変わりませんでした。

 

(でも、「国語」って、英語で何て言うんだろう?)

 

辞書で、コ、と探しかけるのですが、ちょうど先生が横を通りかかります。

 

「先生、『国語』の英語って何ですか?」

 

わたしの質問を耳にした先生は、ちょっと思わせぶりに笑ったあと、

 

「『国語』の英語? そりゃ、Englishだろうな」

 

と言いました。English? ちがう、そんなはずないとわたしは思いました。だって、Englishは英語のことだもの、と。そんな疑問がわたしの顔に書いてあったのでしょう。先生はわたしに向かって、

 

「まあ、ここがイギリスやアメリカなら『国語』はEnglishだってことだ。これがヒント。さあ、わかるかな?」

 

わたしは少し考えて、はっとします。

「……Japanese?」

「正解!」

 

このときのことはとても印象に残っていて、のちに『来福の家』という小説に書いたことがあります。

 

——あのね、あちらでは英語が「国語」なのよ。

英語が国語? 混乱しているわたしのおでこをこづきながら、

——日本語が「国語」なのは、日本だけなのよ。

英語教師は陽気に笑った。それから彼女は、ちょっと注目、と他のひとたちの顔もあげさせてから、

——Japanese is my favorite school subject.

チョークで黒板におおきく書いた。

Japanese! 「国語の英語の言い方」を生まれて初めて知った瞬間、目眩を覚えるような驚きを感じた。*

 

考えてみれば、小学校1年生、もっとさかのぼって幼稚園のときから、わたしは家の外で日本語だけを使ってきました。

国語の時間に限らず、数学や社会などはもちろん、体育や休み時間といった体を動かすような時間も、言葉を発する必要があれば先生も周囲も、日本語のみを使っています。

そんな環境にどっぷり浸って日々を過ごしていれば、自分がふだん使う言葉が日本語なのだとはいちいち意識しなくなるのもおかしな話ではありません。

だからこそ、「国語」という言い方を英語に翻訳するときに、自分にとってのそれが、「Japanese」、つまり「日本語」であると思い知らされて、わたしはクラクラしました。

 

(国語って日本語なんだなあ……)

 

もちろん、わたしにとっての「国語」は、という意味です。

もしも自分が、イギリスやアメリカといった英語が公用語である国の学校に通っていたら、わたしは「国語」の時間に、A,B,C,D,E,F,G……と習っていたはず。そう、今の自分にとっては外国語である英語(English)を、「国語」と呼び、日本語(Japanese)のほうが外国語になっていたというわけです。

日々、英語でしゃべっているのがあたりまえと思っているわたし。

日本語は、外国語だと思っているわたし。

今とはちがう自分自身を想像しながら、ふしぎな興奮を感じたことを思い出します。

 

さて。

わたしが、生まれたときから日本に住んでいて、父も母のどちらも日本のひとであったのなら、「国語の英語の言い方」にまつわるわたしの驚きと興奮は、ここで終わっていたはずです。

わたしの国語はJapanese……と胸のうちでつぶやきながら、わたしは更に考え続けました。

 

(それじゃあ、わたしがあのまま台湾で育っていたら……わたしの国語はJapaneseではなく、Chineseだったということか)

 

台湾こと中華民国の公用語は、中国語です。

だからわたしが台湾の小学校に通っていたら、あ、い、う、え、お……の代わりに、ㄅ、ㄆ、ㄇ、ㄈ……と中国語を習っていたはずです。

「ㄅㄆㄇㄈ」は、注音符号と呼ばれる中国語の発音記号の一つで、台湾の子どもたちは皆、ここから文字の読み書きを学びます。

当時の台湾では、中国語のことを、文字通り、「国語(guóyǔ)」と呼んでいました。

台湾に住んでいるわたしのいとこたちは皆、「国語」の時間をとおして、「guóyǔ」すなわち中国語の読み書きを覚えました。

 

——又柔好像日本人!

(又柔は日本人みたいだ!)

 

台湾に“帰国”するたび、わたしはますます皆からそう言われるようになっていきました。

同世代の日本人たちに引けをとらないほどの日本語を習得するのとひきかえに、わたしはどんどん中国語を忘れてゆきました。日本育ちなのだから仕方ない、と大人たちはあきれながらも笑ってくれますが、同世代のイトコたちは、わたしが以前ほどは流ちょうな中国語を使いこなせないのを、からかったりもします。

そこで、わたしは台湾の小学校に通い、中学生になった自分自身を想像してみます。

“彼女”——そうであったかもしれない私自身——の姓名は、WEN,YOUJOU。

YuuJuuではなく、Youjouである“彼女”は、国語の時間に中国語を学び、中国語で生活をし、中国語の世界にとっぷり浸って、自分の言葉が中国語であることをすっかり忘れています……

「国語の英語の言い方」を知ったわたしは、自分の「国語」が、guóyǔ(中国語)ではなくコクゴ(日本語)であるという事実に基づいた、こんな空想を楽しみます。

 

そうであったかもしれない自分と、こうでしかない自分。

 

その間を行き来しながら、想像力を働かせるのは楽しいことでした。ふだん、あたりまえだと思っている自分の日常が、突然、新鮮でかけがえのないもののように思えてくるからです。ひとまず、これがいまのわたし。そう思いながら、13歳のわたしはノートに書きました。

 

My name is YuuJuu ・On.

My favorite school subject is Japanese.

 

そんなわたしが、いつしか「国」というものの成り立ちをめぐって、さまざまな問いにぶつかるようになります。

 

たとえば……

日本と違って、台湾は中国語以外にも、台湾語と呼ばれる言葉もあって、大勢のひとたちがそれをしゃべっているのに、どうして中国語だけが、「国語(guóyǔ)」と呼ばれるのだろう?

複数の言語の中から、ある言語が「国語」に選ばれるとき、何が起きているの?

自分にとって外国語であったはずの言語を「国語」として学ぶことになった人々にとって「国」って何だろう?

そもそも、「国民」って、一体だれのことなの?

 

……こうした問いが生じるたび、「国語の英語の言い方」を知ったときのクラクラした感覚がよみがえります。

 

(以下、第3回に続く)

 

 

*『来福の家』(「白水Uブックス」、白水社、2016年)より