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四六判並製184頁

定価:本体1800円+税

発売日 2019年6月5日

ISBN 978-4-7885-1636-6





鈴木光太郎

謎解き アヴェロンの野生児
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19世紀初頭のフランスで、一人の浮浪児が突然野生児としてスポットライトを浴び、医師イタールの教育の取り組みは本や映画となって世界に広まった。だが、この物語はどこまで真実なのか?調べるにつれ謎が謎を呼び、そして浮かび上がった実像とは?

謎解き アヴェロンの野生児 目次

謎解き アヴェロンの野生児 序章


謎解き アヴェロンの野生児*目次

序章

1章 アヴェロン県、ロデス中央学校

2章 パリ、国立聾唖学校

3章 イタールの教育と挫折

4章 舞台裏――人間観察家協会と内務大臣

5章 禁断の実験

終章



あとがき

装幀=新曜社デザイン室


序章



南フランス。画家のロートレックの生まれ故郷、世界遺産の街アルビから、ミヨーへと県道999号線を車で走ること1時間。峠からつづらおりの道を一気に降りてゆくと、サンセルナンという街道村に逢着する。

 1800年1月8日未明。暗く寒い朝だった。このサンセルナンの染色職人ヴィダルの家に、身元不明の少年が入り込んでいるのが発見される。少年は年の頃12歳ぐらい。1年で一番寒い季節だというのに、裸足で、ぼろぼろのシャツをまとっているだけだった。ヴィダルは、この少年に食べ物を与え、暖炉のそばで休ませた。少年に質問をしても、ことばは返ってこなかった。聾で唖なのかもしれなかった。

 この村にいた郡委員のサンテステーヴは、このニュースを聞きつけ、すぐさまヴィダルの家に駆けつける。そこで目にしたのは、振る舞いが異様なくだんの少年である。その行動から、彼は少年が野生児だと直観する。彼は、少年を自宅に連れてゆき、2晩を過ごさせ、その後少年が逃げないようにと、30キロ離れたサンタフリックの養護施設に少年を移し、このことを直接パリの中央政府に知らせた。

 噂の火はパリでついた。発見から17日後、パリの新聞がこのニュースを報じた。中央政府もパリ市民も、南仏の田舎、アヴェロン県で見つかったこの野生児の話題でもちきりになった。

 食指を動かしたのはパリの学者たちだった。パリでは、人間観察家協会という学会が立ち上がったところだった。協会にとって、野生児はまたとない食材だった。自然状態の人間とはどういうものかを知ることができるかもしれなかった。協会は早速内務大臣のリュシアン・ボナパルトにはたらきかけ、この野生児をパリに呼び寄せるよう要請した。これを受けて、リュシアンはアヴェロン県知事に少年をパリに移送するよう命令を下した。

 少年はサンタフリックに3週間いて、アヴェロンの県庁所在地ロデスの中央学校に移された。しかし、県知事はリュシアンの命令にすぐには従わなかった。少年の親が名乗り出てくる可能性を言い訳に、命令をのらりくらりとかわし、少年は結局そこに6カ月いた。人間観察家協会は、野生児がなかなか送られてこないことに痺れを切らしていた。リュシアンは再度県知事に対し、少年を即刻移送するようにという強い口調の命令を下した。

 7月20日、少年はロデスを発った。パリではみなが少年を待ちわびていた。8月6日の夜半、少年を乗せた馬車がパリに到着すると、街は祭りのような興奮と熱気に包まれた。少年の発見からすでに7カ月が経過していた。

 少年は、人間観察家協会の会員であったシカールが校長をしていたパリ国立聾唖学校に収容され、その後協会の専門家の診断を受けた。彼を診たのは、精神科医のピネル、博物学者のキュヴィエといった錚々たる面々である。その診断は11月28日に開催された講演会のなかで報告された。それは、少年が野生児ではなく、治療の施しようのない重度の精神遅滞というものだった。

 ピネルの講演を聞いた若き軍医、イタールは、この野生児に並々ならぬ関心を抱いた。折しも聾唖学校は校医を必要としていた。イタールは、1800年12月31日付で、軍医と兼務の形で、校医になることに成功する。彼は、この少年の教育に賭けてみることにした。

 その教育の試みの途中経過は、翌年の8月26日に、人間観察家協会の講演会で発表された。ほとんど麻痺していた感覚機能は、訓練の結果、触覚・味覚・嗅覚で改善が見られ、世話をしてくれるゲラン夫人に愛着を示すようになった。この報告は印刷されて9月末に書店に並び、大きな反響を呼んだ。

 イタールはその後もこの少年の教育を続け、その結果アルファベットを見分け、それらを並べて簡単な単語を作ることもできるようになった。またイタールが単語を見せると、その単語が示すものをもってくることもできるようになった。しかし、そこまでだった。というのは、思春期に入ると、強い感情の発作に襲われて、手に負えなくなり、教育するどころではなくなったからである。1805年、イタールは教育を断念した。

 イタールは、この実験的教育の顛末について報告することは考えていなかったが、時の内務大臣シャンパニーが強くその報告を所望したため、1806年にその報告書を提出した。シャンパニーはこの報告の学術的価値を認め、翌年政府の刊行物として出版させた。これによって、この報告は多くの人々の読むところとなった。

 青年期に入ったこの野生児は、その後も聾唖学校の校内にいて、ゲラン夫人の世話の下にあった。しかし、1811年、内務省と学校当局は、ほかの生徒への悪影響を考えて、彼らを学校から退去させ、近くの住居で暮らすことを提案した。ゲラン夫人はこれを受け入れた。

 その後、イタールも含め、少年に関わる者はいなかった。1828年初め、ゲラン夫人に看取られ、かつての野生児は亡くなった。サンセルナンで発見されてから28年。40歳ほどになっていた。
 以上がアヴェロンの野生児のあらましである。この子はヴィクトールとも呼ばれていた。

   イタールの報告の陰で

 イタールの1801年の報告(第一報告)と1806年の報告(第二報告)はその後1冊の本にまとめられ、特殊教育、児童精神医学、発達心理学の古典としていまも読まれ続けている(註1)。この2つの報告が読者の心をつかんで離さないのは、専門用語を使わずに、飾ることなく、しかし熱のこもった書き方をしているからである。とりわけ第二報告は、内務大臣シャンパニーに話すような書きぶりになっていて、イタールが直接話しかけてくるような印象を読者に与える。そしてこの第二報告は、実験的な特殊教育の悲しい挫折の記録でもあった。

 アヴェロンの野生児についての小説や絵本も数多く出版されてきた。その下敷きにあるのはつねにこのイタールの報告だった。よく知られているのは、トリュフォーの映画『野性の少年』である(図1)。1970年に封切られたこの映画は、イタールの記録をほぼ忠実に淡々と追っていた。ロケも実際に野生児が収容されていたパリ聾唖学校の建物や庭で行なわれた。モノクロームの画面とバックに流れるヴィヴァルディの『ピッコロ協奏曲』がなんとも物悲しい情感を醸し出し、強い余韻を残さずにいない映画に仕上がっていた。イタールの役は、監督であるトリュフォー自身が演じた。

 イタールの報告はこのように「古典」として不動の座を占めている。この威光のせいで見えなくなっているが、実はもうひとつの報告が存在する。イタール以前、より正確にはパリへ移送される前の2月から7月まで、少年はアヴェロンの県庁所在地ロデスの中央学校に収容され、博物学の教授であったボナテールの保護下におかれていた。その報告記録は小冊子として1800年9月に出版された。それは、この少年が発見・保護されてからの半年におよぶ重要な記録と言える。

 ところが、この報告書がそのようにみなされることはなかった。パリでこの野生児に最初の医学的診断を下したピネルは、この報告を「とりあげるに値しないもの」と一蹴した。イタールも、この小冊子には目を通していたと思われるが、少年がロデス時代にはどうだったのかといった引用はほとんどない。パリという中央にいた彼らにとって、その報告は田舎者が書いた学術的に無価値な記録でしかなかった。

 それを示すのは、イタールの第一報告の冒頭部分に書かれている少年のパリ到着のくだりである。そこには、少年を連れてきたのが「貧しくも尊敬に値する老人」とある。この老人とはボナテールのことである。しかし、ボナテールは、その時49歳、動植物の観察を専門にしてきた博物学者であり、「貧しい」「老人」などではなかった。

 ボナテールの報告によれば、少年は、ロデスにいる6カ月のうちに、自分で着替え、食事の用意もできるようになっていたし、自分の欲求をまわりの人間に伝えることもできていた。しかし、パリ移送4カ月後に彼を担当するイタールの目のまえにいたのは、そのような子どもではまったくなかった。ことばはもちろん、なにもできない、無気力・無感動な、汚らしい「野生児」だった。  なぜこのような違いが生じたのだろうか? それは、ひとことで言えば環境の変化だった。パリへの移送によって、少年は慣れ親しんだ人々や日常から引き離され、まったく違う環境へと放り込まれた。パリでは、聾唖学校にいる「野生児」を見ようという野次馬は引きもきらず、少年は動物園の檻のなかの珍獣のように、好奇の目と挑発的行為にさらされ続けた。しかも、少年は監督者からも聾唖学校の生徒たちからも日常的に虐待や折檻を受けていた。イタールが最初に会ったのは、そのような経験を経て変わりはてた少年だった。・・・・・・