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A5判並製184頁

定価:本体2600円+税

発売日 2018年8月31日

ISBN 978-4-7885-1591-8





日本記号学会 編

賭博の記号論 セミオトポス13
──賭ける・読む・考える



「賭けること」の快楽はどこから来るのか?

 「カジノ法案」が成立して、いよいよ日本はギャンブル国家になろうとしていますが、「賭けること」は人間だけでなく、生物の快感回路を刺激する進化の原動力なのだそうです。本書は、「賭ける」「賭博」という人類発生とともにある行為の意味を、多面的かつ記号論的に考察したものです。賭けることは偶然性・無限性に出会い、リアルとは何かを考えることであるという賭博の思想的次元を、深遠な哲学から、競馬の中継というある意味通俗的な次元とからめて考究した第一部と、麻雀などの古典的ゲームからテレビゲーム、パチスロなどまで、実際にやることと考えることの面白さを記号論ならではの方法で考察した第二部から成ります。猛暑の夏に最適の読み物といえましょう。


賭博の記号論 目次

賭博の記号論 刊行によせて

ためし読み




賭博の記号論 目次

刊行によせて  前川 修

Ⅰ部 賭博の論理・賭博の現場
1 Ⅰ部序文 賭博の論理・賭博の現場  檜垣立哉
2 事実性と様相の潰れと賭け Factuality, Modal Collapse and Wager  入不二基義
3 競馬実況における「賭け」―杉本清・元関西テレビアナウンサーを囲んで  杉本清・植島啓司・坂井直樹(司会・檜垣立哉)
4 付論 杉本的競馬実況についてのメモ  檜垣立哉

Ⅱ部 賭博のメディア論―ゲーム・競馬・パチスロ
1 Ⅱ部序文 賭博を見る/読む  佐藤守弘
2 ギャンブルに賭けられるものは何か―ゲーム研究からの考察  吉田 寛
3 「名馬」を必要とする社会―競馬をめぐる〈夢〉の遠近法  瓜生吉則
4 ギャンブルマンガのメディア論
―『パニック7』という名のパチスロマンガ雑誌が賭けたもの  吉村和真

Ⅲ部 記号論の諸相
1 「投射」を手がかりにした「アブダクション」の分析と展開  佐古仁志
2 現代建築における新ライプニッツ主義的実践 ―入江経一とサミュエル・ベケット  佐原浩一郎

資料 日本記号学会第三六回大会について
執筆者紹介
装幀 岡澤理奈 
装画 佐古伸行 


賭博の記号論 刊行によせて

日本記号学会会長 前川 修


叢書セミオトポス13『賭博の記号論』は、二〇一六年に大阪大学で開催された日本記号学会第三六回大会の内容を元にしている。



今回は「賭博」がテーマである。

今から思いかえしてみれば、この大会を開催した二〇一六年は、メディアで賭博がことさら話題になった年だった。オリンピック代表になっていた某競技のスポーツ選手たちが違法カジノでの賭博を理由に処分されたり、プロ野球選手「自身」による野球賭博が発覚したりなど、相次いで賭博がらみのニュースが報道された―「カジノ法案」とも呼ばれるIR推進法が国会で可決されたのもこの年であった。報道では、これらの事件へのコメントとして、スポーツ選手における善悪判断の欠如とか、スポーツ界のタニマチ的体質の問題とかが、その真偽が確認される間もないまま、主張されていた覚えがある。

 これに限らず、こうした賭博報道の機会にいつも話題になるのは、賭博の合法/違法のそもそもの線引きが曖昧であるとか、賭博を構成する二つの要素―「賭事」(参加者が結果に関与できない「運」のゲーム)と「博戯」(参加者が結果に関与できる「技」のゲーム)―の区別の問題とか、さらには、刑法における賭博罪の規定の曖昧さとか、公営ギャンブル容認の理由(公益性)についての異論とかである。

こうした、あまりにも賭博の面白さに目を向けない賭博論に対して、賭博「原」論的な議論もある。そもそも文明の起こりには賭博があった、太古において自然のなすがままになっていた人間はそのつど神の意思を確認すべく祭儀を行ったのであり、そこから派生したものが賭博なのである、到来する運への無根拠な信仰=賭けという行為、それこそが、勝つか負けるかには関係なく、賭博においては重要なのだ、賭けることは生きることである……こんな、少々実存主義的な色合いの濃い、熱い賭博論もたしかに多く耳にされる議論である。

 他方、まったく別の立場をとるのが、本大会実行委員長を務めた檜垣立哉『賭博/偶然の哲学』(河出書房新社、二〇〇八年)である。哲学者でもある檜垣は、自身のフィールドワーク(競馬)に基づきながら、「賭博/偶然」という問題を現在的文脈から鮮やかに切り出している。おそらく同じ主張は本書の檜垣の「Ⅰ部序文」でも繰り返されるはずなのでここでは手短に書いておくが、リベラリズムの浸透と予測計算可能性の増したテクノロジーの進展のなかで、あえて主体自身のうちに織り込まれた無限を前提にして、頻りに課される自己責任性やリスク計算を越えていく行為、いまここにおいて無限と触れ合い、無限と積極的に戯れる所作、それが賭けという遊戯である、そう同書は主張している。賭博/偶然は、実は現在のリスク社会やリベラリズムに偏る思考に転換をもたらす契機となるかもしれないのである(本大会の企画立案の基礎にもなっているので、同書に興味をもたれた読者には、一読をお勧めしたい)。



 さて、このように賭博をめぐる議論をネットであれこれ調べていると、以上のような議論も含め、大きく三つの種類の賭博本があることが分かる。もっとも多いのが「賭博攻略本」、それに続くのが「賭博師列伝もの」であり、そして現在増えつづけているのが賭博「依存症」本である。最後のものは、アカデミックな著作(たとえば心理学、法学、歴史学、社会学、経営学、統計学の賭博研究本)のなかで着実にプレゼンスを増しつつある。化学的アディクションではなく行動的、技術的アディクションとも称されるギャンブル依存症は、今では深刻な病い=治療の対象とみなされているようである。 これに関連することだが、脳科学を参照した依存症研究の分野では、一時期「報酬系」という語が流行した。それは、脳のなかのドーパミン神経系であり、発火してドーパミンを放出させることで快を感じさせる部位のことである。広く生物の学習や環境適応に重要な役割を果たしているこの回路の活性化が、こうした研究では、依存症の核にあるとされているのである。

 そのなかで興味深いのが次のような有名な実験である。

 サルに緑と赤の二種類の光を見せ、緑の光を見せた時には直後にシロップ(報酬)を、赤の光の時には何も与えないという訓練をする。何度か試行すると、緑の光の場合には、点滅時に報酬系が発火するようになる(赤の光では当然発火しない)。次の段階として、今度は青い光を点滅させ、その直後に五〇%の確率で報酬を与えることにする。この訓練を続けると青い光の点滅直後に発火が始まり、それでおさまるどころか次第に発火は高まっていき、光が消える際に最高度の発火レベルにまで高まる、そうした結果が得られたそうである。

 お分かりのように、スロットやルーレットが回ったり、レースが始まったり、くじの抽選が行われたりしている賭けの中間過程が、この緩やかな強度の発火時間帯にあたる。この実験(および人間を被験者にしてこの仕組みを応用した実験)の結果からは、見返り(報酬)の不確実性そのもの、つまりリスクのある出来事から、サルを含めた哺乳類の脳はなぜか快感を得るようにできているということが分かるのである。

 また、ギャンブルに深く関わる、「ニアミス効果」と「直接介入効果」についても、上記の応用実験では研究がなされている。ニアミス効果とは、惜しい負けがギャンブル継続の要因になるという問題であり、直接介入効果とは、ギャンブルの参加者が実際は当たり外れには無関係なのに、その当たり外れの過程に何らかの関わりを少しでももつと、ギャンブルを長く継続し、なおかつ賭ける金額も増えることになるという効果のことである。どちらも一見すると、ギャンブルにまつわるきわめて非合理的な信念なのかもしれない。しかし、それにもかかわらず、この二つの非合理な信念が実験によって証明されたという。

 あくまでもある研究者の見解なのだが、ここで紹介したような不確実性への期待やニアミス効果に見られる報酬系の活動は、系統発生的にも意味があるのだという。進化における適応のうえで、賭けは忌避すべきものなどではなく、むしろ生物が環境に適応し、生存し、進化していくうえでひとつのエンジンになっていたと考えることもできるのである。この進化の重要なモメントが前景化したもの、それが他ならぬ賭博だということになる。

 こうした報酬系ないし快感回路は、驚くことに、生物の進化のかなり早い時期から具わっているらしい(Cエレガンスという体長七ミリの線虫にすでに報酬系はあるという)。もちろん人間の場合には、快感回路にさらに複雑なしかたで判断や計画や情動や記憶の保存がかかわり合い、複層的な時間的過程がそこに作用していることは言うまでもない。ディヴィッド・J・リンデン『快感回路―なぜ気持ちいいのかなぜやめられないのか』(河出文庫、二〇一四年)によれば、そうした記憶や連想、感情や社会的意味のない、言うなれば、何の色も音も匂いも欠いた快感がたとえあるにしても、それは無味乾燥な「灰色」の快感にすぎない、と言う。賭博の快はそこにはない。それはむしろ快感回路と他の中枢(とその諸帰結)とのあいだの隙間にあるのだ。

 おそらく―脳科学的議論とはまったく違うかたちでだが―「賭博の記号論」によってあぶりだされるのは、、こうした隙間にある賭博が快を拡散させながら、複雑なしかたで発火をしつづける、現代的な記号過程のありさまなのであろう。