戻る


四六判並製192頁

定価:本体1800円+税

発売日 2018年4月11日

ISBN 978-4-7885-1572-7




東北学院大学震災の記録プロジェクト金菱清(ゼミナール) 編

3.11霊性に抱かれて
──魂といのちの生かされ方



亡き人は今もそばにいる

 「タクシードライバーが体験した幽霊現象」で大反響を呼んだ『呼び覚まされる霊性の震災学』から2年、「被災地の幽霊現象」をさらに探るために、学生たちは新たなフィールドワークに挑戦しました。震災の遺族の方々にインタビューを重ねてわかったのは、震災で受けた悲しみを緩和する手法として、多種多様な媒体(ツール)が用いられていることでした。それは、あらゆる方法で霊を供養する文化、被災者に寄り添い続ける僧侶、亡き人に話しかける「風の電話」、手紙を出し続ける「漂流ポスト」、抗議の声を上げた原発事故関連死の遺族、殺処分された牛を慰霊する牛飼いたち、オガミサマ信仰(口寄せ)にみるコミュニティの力でした。そして震災の擬似喪失体験の衝撃とその手法がもつ意味とは。遺族が語るのは、魂の奥底から大切な人を懇願したときに立ち現れる霊性の世界観なのです。

3.11霊性に抱かれて 目次

3.11霊性に抱かれて まえがき

ためし読み



◆著者関連書
生きられた法の社会学
新 体感する社会学
3.11 慟哭の記録
震災メメントモリ
呼び覚まされる霊性の震災学
悲愛


3.11霊性に抱かれて 目次

まえがき 二重の時間を生きるということ(編者)

第1章 霊が語られないまち 他者が判断する身内の死と霊性 赤間 由佳
気仙沼市 唐桑

第2章 無力と弱さを自覚した宗教者の問いかけ 吉成 勇樹
―遺族の心に寄り添う僧侶 石巻・西光寺ほか

第3章 手紙の不確実性がもたらす「生」の世界 岩松 大樹
―亡き人とのつながりを感じるために 陸前高田・漂流ポスト

第4章 原発事故に奪われた故郷を継承する  石橋 孝郁
―牛の慰霊碑建立をめぐって 福島・双葉

第5章 原発事故関連死の遺族が「あえて」声を上げたのはなぜか 佐藤 千里
―原発避難者としての自己確立 福島・浪江町

第6章 風が伝える亡き人への言葉  村上 寛剛
―風の電話のある空間の癒し 岩手・大槌町

第7章 地域コミュニティにおける「オガミサマ」信仰  齊藤 春貴
―魂の行方を見つめる人々 陸前高田
第8章 最後に握りしめた一枚を破るとき  金菱 清
疑似喪失体験プログラムとアクティブ・エスノグラフィ  いのちのかたりべ

あとがき 東北学院大学 震災の記録プロジェクト
装幀=大橋一毅(DK)
  組版 カガワデザインワークショップ有限会社


3.11霊性に抱かれて まえがき―――二重の時間を生きるということ

  東日本大震災から7年という年月は、ご遺族にとってどのような年月であったのだろう。

 ひとことでいえば「引き裂かれた」年月ではないだろうか。決して交わらない二重の時間を送っているともいえる。一般的には、時間が経てば解決してくれる問題もあることは確かで、心持ちも楽になっていくように傍目には見える。しかし、ご遺族は表面には出さないだけで、それとは異なる感情を抱き続けていることもあると知った。

 幼稚園児の娘さんを津波で亡くしたお母さんの話である。5年ぶりに娘さんの幼稚園の同級の子とそのお母さんに道端で出会い、その子を一目見た衝撃は言葉で良い表わせないほどで、人目もはばからず泣きだしてしまった。同級のお子さんは五年経って成長を遂げたいまでは、当時の面影をうっすら残すだけで、思い出そうとしてもまったく実感のわかないものになっていた。そのときに、娘と会えていない期間がこんなにも長いのかと、娘の成長した姿を想像してもかなわないもどかしさで混乱してしまったのである。

 私どもは、昨年ひとつの書物『悲愛―あの日のあなたへ手紙をつづる』(新曜社)
を刊行し、亡き人に手紙を送るプロジェクトを立ち上げた。そのなかで、手紙を書けなくて悩んでいる人に出会った。それがこの女性である。

 このお母さんは、手紙のプロジェクトに先立って、母親としての思いを愛娘に伝えたいと思い、毎年自ら希望して、曹洞宗のお寺の行事に参加していた。亡き人に手紙を書き、3.11にお焚き上げをして送る行事で、最初の1、2年のうちはなんとか言葉を送り届けたい一心で愛娘への想いを書き綴った。しかし、4、5年と経つうちに、思うように言葉を紡ぐことができなくなっていた。

 最初の1、2年は苦しくとも、時が経てば心が休まって書きやすくなる、と普通は考えるかもしれないが、それが逆転していた。2016年には5歳齢を重ねていることになるので、娘が生きていたら11歳になっている。最初の1、2年は愛娘に対してその時の想いを素直に手紙に綴っていた。しかし11歳にもなれば、娘は漢字が普通に読める年齢に達する。そう考えると、震災当時5歳だった愛娘が読めるように「ひらがな」で書くのがよいか、少し大人になった11歳の愛娘に「漢字」で書くべきなのか、そこから迷い始めて苦しくなり、筆を進めることができなくなったのである。

 実際に顔を合わせて共に歩んできた時間と、会うことがかなわず共に過ごせていない時間がある。いわば、災害で止められてしまった時間と、生きていればそこから進んだであろう時間、この二つの時間は決して交わることなく、ご遺族に重くのしかかっているのである。

 誰しも毎年誕生日がめぐってくる。それは亡くなった人も例外ではない。とくにお子さんを亡くされた遺族は、年齢の本数分のろうそくを立てたケーキとプレゼントを用意する。ところが、亡くなった時点での趣味趣向はわかるが、歳月が経つにしたがって、何を贈ってよいのかわからなくなり、本当にこのプレゼントでいいのかと逡巡するようになる。先の同級の子の成長ぶりに狼狽してしまったのも、この二重の時間がかかわってくる。

 「問い」が終わるのではなく、答えのない問いが始まるこの「二重の時間」は私たちに何を突きつけているのだろう?亡き人との関係は「はい、終わり」ではなく、震災後もなき人とどのようにつきあい向き合っていくのかという課題が、月日が経るほどに切実になっていくということである。1年目を見れば二重の時間はわずかな差であったので、ひとつのものであった(そう見えた)。ところが5年6年と経つにしたがって、二重の時間の差は大きくなっていく。当事者が初めて向き合うことになった課題とは、震災の「問い」は5年という年月が経過して初めて顔をのぞかせたことになる。復興は生活の問題を終わらせる方向に向かうが、気付かれてもいない問題が始まっている。こうした複雑な遺族の心情は、実は通常のインタビューではなかなか表に出てこない。

 いま、被災地では何か見え始めているのだろう。それは内なる目線を通せば、復興のあり方ではない。復興は、止まってしまった時間を再生の道へと誘うことになる。その過程のなかで、死者を置き去りにして、生(者のため)の復興が進められる。それに対して、私たちは霊性の立場をとる。霊性は死者と生者の織りなす時空間である。

 この死者と生者の織りなす世界を展開したのは、日本の能楽である。安田登の『異界を旅する能』(ちくま文庫)によれば、能の中心のをなすのが幽霊であり、このシテである幽霊による神話的時間を体感して、人生をもう一度リセットできる可能性を指摘している(安田 2011)。能楽師である安田によれば、当初は、脇役のワキである生者の時が優位に立って展開するが、後半になって、立場が逆転し、シテである死者が立ち現われて、ふたつの時の融合が始まる。

 安田は、ワキがいる時を「順行する時間」と呼んで、われわれが日常生活で実感する過去から現在、そして未来へと進む。それに対して、シテが操る時を、「遡行する時間」と呼んで、現在から過去へと遡る営みを生きようとする。これは、「いつかどこか」とう未来の措定に対して、「いま、このとき」という形で、過去の人が「今は昔」として現れ、「いま、ここ」に遡行する時間が侵入する。ここでのワキの重要な役割は、無為の為として聞き役に徹することである。ワキは自らが欠如の人間として漂泊することによってこの世とあの世をつなぎ合わせる存在である。そして異界と出会うことによって、人はもう一度「新たな生を生き直す」ことができるのである。

 被災地での5年以降とは、この能楽の世界に近いのではないかと感じることがある。本書で紹介するご遺族の方々の実例は、魂の奥底から大切な人を懇願したときに立ち現れる世界観なのである。そして、死者と共に進めていくくことができる時間が流れていることを意味する。この世界から肉体が消えてしまった人々は、過去の時勢に属することになる。ところが、生者がひたすら耳を澄ませて死者の声を聴こうとすると、死者は、過去と現在との境を越え、現在の時間を侵犯し続ける存在となる。霊性という死者と生者のあわいに着目しながら、本書の各章を読んでみると、「今は昔」語りが展開されることだろう。

      編者