戻る


四六判並製192頁

定価:本体1300円+税

発売日 2018年5月5日

ISBN 978-4-7885-1565-9




白川静/監修 山本史也/著

増補新版 神さまがくれた漢字たち
──



「白川漢字学」のもっともやさしい、最初で最後の、唯一の入門書!

 人間と自然、そして神さまとの豊かな関係から生まれた漢字の世界を解読し、わたしたちの「漢字」を見る目を180度変えた故・白川静氏による白川文字学は、昨今、ようやく教育現場で活かされ始めています。漢字は、言葉は、単なる情報やコミュニケーションの手段ではなく、その成立のうちに、豊かでおそるべき人間の思索とその歴史の深みが刻まれているのです。私たちの「いま」は「歴史」のすぐ隣にある──そのことを生き生きと描いた必読の書です。


増補新版 神さまがくれた漢字たち 目次

増補新版 神さまがくれた漢字たち 付 漢字世界に悠々と遊ぶ

ためし読み



他の「よりみちパン!セ」シリーズ


増補新版 神さまがくれた漢字たち 目次

序文 白川 静

第1章 初めの物語

第2章 からだの物語

第3章 さいの物語

第4章 生と死の物語

第5章 空翔けるものの物語

第6章 「物語」ののちに


付 漢字世界に悠々と遊ぶ
装幀=祖父江 慎 + 根本 匠(cozfish)


増補新版 神さまがくれた漢字たち 付 漢字世界に悠々と遊ぶ

 かつて不明であったことが、再び、眼前に突き出されます。そして、困惑を深めます。

 「天」であったか、「天」であったか、また「女」は、「女」でなかったのか、と。むろん、「常用漢字表」の指導法では、「天」、「女」、いずれもが「許容」されます。しかし、より不審なのは、「北」の書き方です。「北」もまた「許容」とされますが、むしろ、その「北」こそ、わたしたちが、これまで、そして、いま書き慣わしているかたちであるはずです。ただ、教科書体と呼ばれる、この字体は、やすやすと活字体に制圧され、わずか、「北」のみが通行します。習熟してきた字体は、追放され、もうどこにも定位をもたぬような思いに駆られて、いたいたしさが募ります。

 「常用漢字表」は、漢字の逐一に、音と訓とを指定します。たとえば、「文」の音を「ブン」、訓を「ふみ」というふうに。もっとも、音訓の一方を欠く漢字が見え、「貝」は、「かい」と、その訓を与えるものの、「貝」の音「バイ」が、削られます。また、「欠」には、「ケツ」の音が与えられるものの、もとより、それは、「?」にこそ与えられる音であり、本来の「ケン」音は失われます。果てには、「生」から、「ジョウ」の音を除きます。「誕生」を、どう訓んでよいのか、はたと立ち眩みます。

 わたしたちにとって、その精神生活にきわめて密接する訓すらも顧みられることなく、その音のみを指定します。「想」、「念」に「おもう」の訓、「看」、「視」、「観」に「みる」の訓が脱落しています。すでに想像することも、念慮することも、また看護することも、検視することも、観察することも、かなわぬことです。脱落が、不意の脱落であるなら、まだしもですが、それが、一種の作為にもとづくとするなら、あるいは、省略こそ、平易化に即く方法であると自任してのことであるなら、ことはさらに深刻です。

・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
 「常用漢字表」は、いかにも民主主義的な「規制」を装いながら、そのうちに、言語統制を企てる、巧みな装置より外のものではないでしょう。教師の利便性を融通し、負担を軽減することによって、その善意を、ひろやかに浸透させます。あたかも、その善意に従うことが、唯一、現代に応じうる教育法であるかのように演じます。

 そのような方法は、いわゆる「指導書」を通じて、国語教師に、実践的に示されます。

 いま、光村書店『創造』(小学校六年〔国語〕学習指導書)に沿って、漢字の指導法について考えます。その「教師の手立て・対応」には、「文作りに熱中するあまり、字形がおろそかになっていては困る」と述べます。作文に没頭することが字形を粗雑にあつかうことにつながるのか、解しがたいことです。あるいは、漢字は、一点一画もゆるがせにせず、けっして急いで書いてはならぬ、と戒めているのかも知れませんが、いったい、急いで書くことが、その字形を損ねる結果を呼ぶのか、どうか、なお信じがたいことです。

 また、「指導の工夫と可能性」には、「漢字ダウトゲーム」を推奨し、「漢字ダウトゲームにはさまざまな方法があると思われる。基本は、間違った漢字を見つけ、「ダウト」と指摘すると得点になるという方法である。児童の実態に合わせ、正しい漢字を書くとさらに得点が加算されるなどの工夫も考えられる」とつづけます。いまや、漢字は、競争の場に曝され、わずかに、ゲームのコマとして翻弄されます。ここにいう、「間違った漢字」、「正しい漢字」が、どのようなことを指すのか、不審のまま、漢字は、ひたすら、その正誤のいずれかに投げ込まれてゆきます。

・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
 漢字は、もっぱら情報機器に奉仕する手段に成り下がります。文章は、「読み手」の煩雑さと、誤解を避けるために、入力には、どうしても、適切な漢字が選択されなければならぬことを求めるのでしょう。「書き手」とは、畢竟、入力者の謂に異なりません。しかし、入力することと、書くこととは、そもそも、まったく別次元の行為であるはずです。しかし、文化審議会においては、まるで「書くこと」と「入力すること」とが同一視されます。それが、文化審議会の漢字認識の水準であるとみなしてよいものと考えます。

 わたしたちは、漢字自体ではなく、その「規制」された漢字のうちに、その習得にひたすらつとめます。漢字の教育指導は、過剰なサービスと懇切な配慮を加えながら、人々の言語観を「規制」します。「規制」された言語観は、あるいは、「情報化」に対応しうるかも知れません。しかし、そのような言語観は、ついに、人々の精神の深部を照らし出すこともなければ、馥郁とした古典的世界に招き入れることも不可能でしょう。

 このとき、そのような「規制」から跳躍して、みずからの漢字世界に遊びえた碩学こそ、白川静先生でした。

    *

 先生が去って逝かれる二年ほど前、娘を伴って、京都桂にある白川先生の自宅に訪れたときのこと。家は質素をきわめます。

 「薊野のトマトです」。中学二年生の娘が、怯えたふうに手渡します。いくらか耳の遠くなった先生は、しかし、その細い声をすみやかにつつんだかと思うと、朗々とした声で、「ありがとう」と、無邪気にほほえまれました。

 私はといえば、あらかじめ作成しておいた、中国の碩学・王国維と白川先生の対照年譜をさしだします。先生は眼鏡を外し、流覧されたのち、「もったいない」と、はずかしげに応ぜられます。「ものたりない」と、私。むしろ白川先生の学問は、ゆうに王国維を凌ぎます。

 先生の関心は、漢字を超えて、はるばると、アジアの歴史、文化、思想全般に注がれます。先生の構築する文学は、その一斑にすぎません。しかし、アジアの古典的世界が、漢字によって形成されてきたとするなら、その漢字に参入することが、その世界を理解するための、欠かしえない方法であることは明らかです。先生は、まず、その漢字の淵源を探求してゆきます。その試みは、完結することなく、むしろ今後なお機能し、またゆたかに展開するはずのものでしょう。

 そしてその試みは、わたしたちを、その「規制」された漢字の圏外へと、はるばると解放します。区々とした「規制」のうちに息づまるわたしたちは、ここに救われ、そうして、はじめて、その「規制」の圏外に放たれた漢字世界に、悠々と遊びうる自由を獲得するのです。 

二〇一八年 三月 山本史也 記