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四六判並製240頁

定価:本体1300円+税

発売日 2018年5月5日

ISBN 978-4-7885-1562-8





岸 政彦 著

はじめての沖縄
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「よりみちパン!セ」新刊第一弾です!

 はじめて沖縄に出会い沖縄病になって、勝手なイメージを沖縄に当てはめ、押しつけていた20代。本書はそんな著者の、やむにやまれぬ思考が出発点になって書かれた、切実な「沖縄論」です。この本には、初めて沖縄に行く人のための基本的な情報、その歴史や文化、そして観光名所の解説はありません。社会学者として沖縄をテーマにし、沖縄の人びとの話を聞き取りながらも、「ナイチャー」である自身が「沖縄」について語りうる言葉を探し続けて右往左往するのはなぜなのでしょうか。芥川賞・三島賞候補になった著者が描く、個人的かつ普遍的な、沖縄への終わることのない旅。著者による写真も多数収録。

はじめての沖縄 目次

はじめての沖縄 序章(一部抜粋)

ためし読み



他の「よりみちパン!セ」シリーズ



はじめての沖縄 目次



沖縄について考えることについて考える

自治の感覚

沖縄を思って泣く

彼方と過去

変化と喪失

沖縄のはじまり

たくさんの声、ひとつの境界線

ほんとうの沖縄、ふつうの沖縄

ねじれと分断


終章

境界線を抱いて

謝辞


はじめての沖縄 序章(一部抜粋)

 私は社会学者で、おもに沖縄を研究している。特に戦後の沖縄の社会構造とアイデンティティの変化について調査している。しかし、もとから研究者として沖縄に関わっていたわけではない。私は若いころ、ただの「沖縄病」だった。内地(沖縄以外の都道府県。本土、大和、あるいは文脈によっては「日本」と呼ぶ)から沖縄を訪れた観光客が、その魅力にはまり、熱病に浮かされたように沖縄に恋い焦がれてしまう状態を指して、沖縄病という。一九六〇年代からある言葉らしい。私も、二十四、五歳のころ、はじめて沖縄を訪れ、そうなった。大阪に帰ってきても毎日沖縄のことを思い、沖縄の本を読み、沖縄の音楽を聴き、当時はまだ本土では珍しかった泡盛を探して、たまに見つけると必ず買って、家で飲んでいた。

 そうとう気持ち悪い奴だったと思う。ただ、それはそうなる「理由」があった。そして、その理由について考え、調べているうちに、いつのまにかそれが専門となり、一生の仕事にまでなった。それについて考えることは、自分を沖縄から「引き剥がす」ことだった。長い時間をかけて努力して、ようやく沖縄から(ある程度は)距離を取れるようになったのだが、気がつくとそれが自分の本職になっていた。

 観光客として沖縄に出会ってから二十五年以上、社会学者として研究テーマにしてから二十年ほどが経つ。そのあいだに、たいしたものではないが、沖縄についての、あるいは社会調査と社会学についての本や論文をいくつか書いてきた。あるいはもっと、人生そのものについての本も書いた。これからもそういうことがらについての本や文章を書いていくつもりだが、そろそろ沖縄について、あるいは沖縄について考えることについて、もう少し自由に書きたいと思うようになった。そして、この「よりみちパン!セ」のシリーズで書かないかというオファーをいただいた。私自身若いころとても好きだったこのシリーズの一冊として、あらためて沖縄について考えて書くこと、あるいは沖縄について考えることについて考えて書くことは、ふさわしいテーマだと思った。

 だからこの本は、『はじめての沖縄』というタイトルが付けられている。私自身がはじめて沖縄と出会って、沖縄病になって、自分勝手な沖縄イメージを沖縄に対して当てはめてしまっていたときのことが、本書の思考の出発点となっているのである。このタイトルから連想されるのはおそらく、はじめて沖縄に行くひとに知っておいてほしいような、沖縄についての基本的な事実やデータ、歴史や文化を並べた解説本だろう。しかし、この本を読んでも、沖縄についてたくさんの事実を勉強できるわけでもないし、それに詳しくなるわけでもない。これは沖縄についての解説本ではない。中立に、客観的に書かれている本ではないのだ。そういう、時事問題や歴史的事件などについての解説は、ほかに良い本がたくさんある。もし、本書を読んでわからない言葉が出てきたら(特に説明せずに固有名詞や歴史的用語などを使っている)、どうかそういう本にあたって、ご自身で調べてみてほしい。

 ここではただ、はじめて沖縄に出会ったときにさかのぼって、沖縄について、個人的な体験から個人的に考えたことを書いてみたいのである。

 内容もバラバラで、断片的な、欠片のような文章が並んでいるだけの本だが、それでも私なりに、沖縄についてずっと書きたかったことを書いた。


 沖縄は、時事問題や歴史の解説でなくても、「それについて考えたこと」を書くだけでも一冊の本になるような、そういう場所だ。それはまったく、ほんとうに、日本のなかの独特の、特別な場所なのだ。

 たとえば、沖縄について何か文章を書くときに、その文章の「人称」をどうするか、そこに誰が含まれるか、という、「書く」ことにあたってのもっとも基礎的な部分でさえ、考えられるべきことがたくさんある。


 私は普段、「私」という一人称を使って文章を書いている。しかしこの本では、「私たち」という言葉がしばしば使われることになると思う。

 私、というのは、いまこの文を書いているこの私だ。あなた、というのは、いまこの文を読んでいるあなただ。とてもわかりやすいし、はっきりしている。しかし、私たちという言葉には、私以外のたくさんの人々が含まれてしまっている。誰がこの言葉に含まれているのか。まずこのことからはっきりさせておかないと、この本は書くことができない。 沖縄には、「ナイチャー」という言葉がある。「ヤマトンチュ」という同じ意味の言葉もあるが、あまりふだん耳にしたことがない。日常会話ではナイチャーという言葉のほうがよく使われるような気がする。どちらも同じ意味で、「内地のひと」「大和のひと」という意味だ。要するに、「沖縄以外の都道府県のひと」である。

 こういう言い方は、北海道には少しあると聞いたが、これほど強い言葉として日常会話のなかに残っているのは、やはり沖縄だ。他の都道府県には、まず存在しない。たとえば、静岡県の人びとが、日本という国を「静岡県とそれ以外」のふたつに分けて、それぞれを別の言葉で表現するということは・・・・・・・