荒川 紘 著 教師・啄木と賢治
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四六判400頁 定価:本体3800円+税 発売日 10.06.30 ISBN 978-4-7885-1201-6 |
◆盛岡中学は北国版「坂の上の雲」だった!◆ 啄木と賢治は同じ岩手・盛岡中学出身の文学者・詩人であり、ともに優れた教師でもありました。教育が国家をつくるという理念のもとに国家主義的な教育が強力に推し進められた時代に、啄木は「日本一の代用教員」という自負をもって、賢治もまた国定教科書や「教授細目」によらず、生徒たちの自主性を重んじた「人間をつくる」教育を実践しました。本書は、教師・啄木と賢治を軸に、江戸時代からの寺子屋や私塾から、自由民権運動の学塾、大正期の自由教育運動、生活綴方運動など、「もう一つの教育」を視野に入れつつ、近代の教育史をたどり直し、岐路に立つ現在の教育を考え直そうとするものです。 ![]() | |
◆教師・啄木と賢治――目次 はじめに 明治の日本はヨーロッパを範とした学校を設立することによってヨーロッパの近代文明を移植しようとした。どんな田舎にも小学校ができ、そのための教員養成を目的とする師範学校が整備された。大学や専門学校もつくられた。小学校の卒業生が現われるころから各地に中学校も生まれ、中学校をもとに高等学校も誕生した。実業学校ができ、女学校も生まれた。いち早く、陸海軍の将校を育成するための学校も設けられていた。日本人は「近代」の「学び方」もヨーロッパから学んだのである。 学校教育の拡大によってアジアで最初に「近代化」を達成させた日本は短い期間で戦争のできる国に成長した。日清戦争につづく日露戦争の勝利は「世界の一等国」となったとの過信を生み、その過信は満州事変を惹き起こし、そののち、日中戦争から太平洋戦争とつづく十五年戦争を戦いつづけることになる。岩手県立盛岡第一高等学校の前身である盛岡中学校は、十五年戦争の歴史においても顕著な役割を演じた人材を輩出した。日清戦争の終結した翌々年に入学した板垣征四郎は陸軍士官学校に学び、高級参謀となって満州事変を計画・実行し、傀儡の「満州国」を樹立する。板垣の一級上で海軍兵学校に進学した及川古志郎は海軍大臣に就任すると、太平洋戦争へ踏み出す契機となる日独伊三国同盟の締結に同意した。三国同盟の締結にもっとも強く反対していたのが、盛岡中学校で及川の二級上であった米内光政である。米内も海軍兵学校に進学し、連合艦隊司令官、海相、首相を経験したが、三国同盟締結を阻止できなかった。しかし、太平洋戦争がはじまってからは東条内閣の倒閣や戦争の終結に努力している。 その一方で、及川古志郎の同級生には第二高等学校から東京帝国大学に学び、アイヌ語研究の第一人者となった金田一京助がおり、板垣征四郎の同級生には第一高等学校から東京帝国大学に進み、『銭形平次捕物控』で人気作家となる野村胡堂がいた。軍人も出せば、言語学者や作家も出す。盛岡中学校は学校教育というものの面白さを見事に示してくれた。 そして、板垣征四郎の一級下には石川啄木がいた。及川に目をかけられ、金田一や野村から文学の手ほどきをうけた啄木は五年生のときに退学するが、詩集『あこがれ』を出版して文壇に登場し、歌集『一握の砂』も出す。その啄木の最初の職が母校である渋民小学校の代用教員、「日本一の代用教員」を自負していたとおり、啄木は教育の可能性をとことん追求した教師であった。「教育勅語」が発布され、日露戦争に勝利して国家主義が高まる時代に、国定教科書や「教授細目」にはしたがわず、自己流の教育にとりくむ。子どもたちも啄木の授業を楽しみ、自発的な英語の課外授業にも喜んで参加した。啄木の自宅にも押しかけ、教えをうけた。啄木のバイオリンの演奏で唱歌を歌うこともあった。宮沢賢治は盛岡中学校で啄木の一一年後輩で、盛岡高等農林学校に進学、郷里・花巻の郡立稗貫農学校(後に県立花巻農学校)の教師となった。賢治も教科書を離れて、自己流の教育をおこなうことに心がける。抽象的な数学でも直感的な理解を重視し、英語では蓄音機をつかった英会話の授業をおこなう。生徒を連れて教室を飛び出し、自然を直接に体験させ、そこから農学や科学を学ばせる。みずから脚本を書き、生徒総動員の劇を上演したこともあった。賢治も夜には詩や童話づくりに励み、在職中に詩集『春と修羅』や童話集『注文の多い料理店』を世に出す。 二人とも国家主義のもとで強まる管理と統制の教育を批判し、教育は自主的なもの、個性重視の人間教育を基本となければならないと考え、それを実践した。教室には明るさがあった。活気があった。ともに教師であった期間は短かかったが、退職後も教育につよい関心をもちつづける。啄木はいくつもの新聞社勤めをしながら小説や評論をもって世の教育を批判し、教育を改革するためにも社会は改革されねばならないと考えていた。賢治は農村の再生を願い、みずから設立した羅須地人協会で農民の教育に力を注ぐとともに、教育では競争主義を戒め、個性こそが重視されねばならないとする童話を創作している。 賢治が世を去る二年前にはじまった十五年戦争は、同胞とアジアの人々に言葉に尽くせない困苦と犠牲をもたらして日本の敗戦で終わる。そのとき、日本人は真の近代教育の出発点に立つことができた。戦争に加担した国家主義教育を反省し、教師と生徒の自主性を尊重し、真理と平和と民主主義を愛する国民の育成をめざして、教育の目的は「人格の完成」にあるとする「教育基本法」を制定する。啄木や賢治の教育精神がよみがえったのである。だが、戦後もしばらくすると、日本の社会は経済の成長に惑わされ、教育の真の意味を見失う。教育までもが市場化され、経済原理が学校を支配する。学校では、競争主義のもと、分に応じて能力を産業界にささげるという新しい国家主義教育が強いられる。そのための管理と統制の教育が強化され、子どもが生来もっている個性を成長させるという人間教育は排される。「人格の完成」とは逆の教育がなされているのだ。 学校が荒む原因がそこにあるのは明白である。私たちはふたたび教師・啄木と賢治を必要とする時代を迎えている。教室に明るさと活気をとりもどすには、私たちは日本を戦争に明け暮れる暗黒の時代に導いた近代の教育の歴史を反省すると同時に、教師・啄木と賢治、それに二人とその精神を共にした自由民権運動の学塾、大正時代の自由教育運動、生活綴方運動などに関わった教師たちに学ばねばならない。そこから教育の原点に立ち返り、「教育とはなにか」を考え直す。遠回りのように見えても、そこから出直さなければならない。 そう考えて、私は、教師・啄木と賢治を歴史の主軸に据え、政治と戦争の歴史をも視野に入れた日本の近代教育の歴史を書いた。政治と戦争から切り離しては、日本の近代教育史を正しく論じることができず、経済原理に支配されている現代の教育を再生させる力とはならない、と考えるからである。 |