和田 伸一郎 著
存在論的メディア論
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A5判352頁 定価:本体3200円+税 発売日 04.12.20 ISBN 4-7885-0930-X |
◆ケータイを持ったハイデガー◆ |
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◆目 次◆ ◆本文紹介◆ 第一章で視覚文化論の領域で主体に立脚してしばしば考察が巡らされるプリミティブなメディア利用者のある不安、『ラ・シスタ駅への列車の到着』を最初に見た当時の観客が感じた不安を、ヴィリリオの示唆を手がかりに、主体の枠組みを超えた不安として捉え、主体概念に依拠することなくどのような枠組みからだとこの不安をより包括的に捉えることができるか、というところの議論をずらしていくことを試みる。このときに主体に代わる枠組みとしてわれわれが依拠するのが、ハイデガーのいう〈現存在〉という概念である。 第二章では、この〈現存財〉という枠組みがメディア利用の経験の考察に、どのような発見、広がりをもたらしてくれるか、それをハイデガー哲学に依拠しながら示していく。さらに主体概念よりもいっそう広がりをもつと思われた〈現存在〉の概念でも捉えられないような経験として、メディア利用者にある種の自症閉的経験についてにヴィリリオの議論が位置づけられ、ここにおいて技術のポテンシャルに対して、主体という枠組みにとっても守られずに、剥き出しのままそこに投げ出され、引き渡され、曝し出されているような身体が提示されていることを確認する。 第三章では、再びハイデガーの議論に戻り。主体概念が表象の時代としての近世以降どのようにしてつくられ、人間がそのようなものとなっていったか、またそれ以前の主体ではない人間とはどのようなものだったのかを検討する。このことからわれわれは次のような仮説を導き出す。すなわち、メディア技術は近代という表象の時代に誕生したため最初から表象的、主体的な利用の枠に制限されていたのであるが、しかしポテンシャルとしては本来的にその枠をはみ出すものであったのではないだろうか、と。そして今後のメディア技術の進歩、例えば仮想現実は、メディア技術が誕生したときから、自らのものではないものとして嵌め込まれていた枠を踏み越えることへと向けられているのではないか、と。 とはいえ、自体は複雑である。管理社会の主題に見られるように、一方では主人(主体)である人間が道具としての(監視)技術を完璧に制御しようとする傾向が強まりながら、他方では技術自体が人間の制御しえない怪物へと巨大化、超複雑化しており、出口のないジレンマがますます深まりつつあるからである。 第四章で示そうとしたのは、こうした硬直した危機的状況にいかに思考を働かせるか、思考を活発化させてくれるようないかなる枠組みがあり得るのかということについてである。われわれはこのような枠組みとしてのハイデガーの〈立て組み〉と《性起》の問題を参照した。(「序論」より) |