温又柔さん 「国語」から旅立って

読者のみなさんへ

あなたには、この文章が読めます。

なんの苦もなく意味が呑み込めます。

声に出して読みあげることだってたやすくできることでしょう。

それどころか、私が書いたとおりにそっくりと書き写すこともできるはずです。

さて、あなたはこの文章が日本語だと意識しましたか?

私は小説家です。

名まえは、温又柔。

おんゆうじゅう、と読みます。

日々、小説やエッセイを書いたりしています。

今でこそ、ほかのどんな言葉よりもずっと、私は日本語が得意です。けれども私は、はじめからずっと、日本語だけをしゃべっていたのではありません。

赤ん坊の頃の私は、両親をはじめ、近くで暮らしていた伯父や叔母、いとこたち、それに町の人たちが話す中国語や台湾語と呼ばれる言葉が飛び交う環境の中にいました。
やがて私が三歳になるかならない頃に、父と母は私をつれて、それまで住んでいた台湾から日本の東京に移り住む準備をはじめます。

あるとき、東京の町を家族そろって散歩していたら、あんよがじょうずね、といった調子で一人の老婦人が私たちに話しかけてきました。彼女は私にほほ笑みかけると、いくつ? とたずねました。きょとんとする私の代わりに父が答えます。

コノコハ、ニサイデス。

やさしそうな老婦人が立ち去ってから、ニサイは二歳という意味なんだよ、と中国語(あるいは台湾語)で父は母と私に教えてくれます。

その頃は母だけでなく、私もまた、中国語(と台湾語)のほうがずっと得意でした。

ニサイ、という響きは二歳の私をよっぽど魅了したらしく、日本のひとからほほ笑みかけられると、ニサイ、と自分からすすんで言うようになりました。

ニサイ、は私がうまれてはじめて覚えた日本語だったのです。
もちろん私は永遠にニサイではありません。

たちまち三歳になり、五歳になり七歳になり十一歳になり十三歳になるにつれ、私の日本語はどんどん上達してゆきました。

さて。

今日も私は、小説を構想するために、エッセイを仕上げるために、PCとむきあっています。

私の目の前のモニタ画面に浮かぶのは、ひらがな、カタカナ、漢字。

自分のつかっているこの言葉が、“日本語である”という事実を、私はいつもちゃんと思いだそうと努めています。

そうしないと、はじめからこの言葉だけを、日本語のみを、自分は聞いたりしゃべったり読んだり書いてきたのだと錯覚してしまいそうになるからです。

まわりにいた大人たちの声をとおして中国語や台湾語をたっぷりと聴き、自分自身もしゃべっていた頃のことを、私は“なかったこと”にはしたくありません。

そう、ニサイになるまでの自分のこともきちんと大切にしながら、この言葉、日本語を話し、書いてゆきたいと私は思っているのです。

「国語」から旅立って、と題したこの連載では、どうして私がこんなふうに感じ、思い、考えるようになったのか書いてゆくつもりです……はじまりは、私が小学一年生のときの「国語」の教室から!

どうぞ、おつきあいくださいませ!

2018年9月 温又柔

撮影 ©朝岡英輔

温又柔
(おん・ゆうじゅうWenYuju)

1980年、台北市生まれ。小説家。3歳から日本に在住。法政大学大学院・国際文化専攻修士課程修了。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞し、作家デビュー。両親はともに台湾人で、日本語、台湾語、中国語の飛び交う家庭に育つ。創作は日本語で行う。著作に、『たった一つの、私のものではない名前 my dear country』(Happa-no-Kofu, 2009年)、『来福の家』(集英社、2011年、のち白水社、2016年)、『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年)、『空港時光』(河出書房新社、2018年)、『台湾生まれ 日本語育ち 増補版』(白水社、2018年)など。

2018年10月1日より
連載スタートです!!
毎月1日に更新されます。
楽しみにお待ちください。

illustration:100%ORANGE/及川賢治
第3回

わたしは失敗作なの?

(中学生篇Ⅱ)

中国語ができないのは、失敗?

 

「ユウジュウちゃん、中国語は?」

中学2年生のときのこと。休日に母と一緒に歩いていたら、小学校からの同級生であるAちゃんのお母さんとばったり会いました。

わたしとAちゃんが小学1年生の頃から母親同士も顔見知りで、そのまま立ち話になりました。わたしは、母が自分の友だちのお母さんと話している状況がなんだかうれしくなりました。わたしがもっと小さな頃、たとえば小学校低学年の頃の母は、周囲との会話についてゆけないため、保護者会や父母参観のときも他のお母さんたちから少し離れて、一人でいることのほうが多かったのです。もっとも母はわたしの顔さえ見たらうれしそうにニコニコ笑っていたのですが。

自分の友だちの母親と会話が成り立っている母の傍らで、

(ママ、ふつうのお母さんみたい!)

心ひそかにわたしは喜びます。そんなわたしのようすに気づいたAちゃんのお母さんが、そういえば、と切り出します。

「お宅では、子どもたちにお国の言葉は教えないの?」

おくにのことば、という日本語が母につうじているかどうか、わたしは心配になりました。案の定、母はきょとんとしてます。わたしが助け舟を出そうとすると、

「ユウジュウちゃん、中国語はどうなの? 話せるの?」

Aちゃんのお母さんはそう言い直しました。アア、と母は(わたしの耳には)日本語とも台湾語ともつかない相槌を打つと、

「コッチで育った子。だから、この子、話すの日本語だけよ」

まったくできなかった以前と比べればだいぶましになっていたものの、あいかわらず母の日本語は、てにをは、が抜けていたり、文法がちょっとおかしかったりします。ついさっきまでは、母がふつうのお母さんのように世間話をしているようすがうれしかったのに、急にわたしはハラハラしてきます。

(ママの日本語、通じなかったらどうしよう……)

幸い、母の意図は伝わったようです。Aちゃんのお母さんは、母とわたしの顔を見ながら、こう続けました。

「あら、そうなの。せっかくお母さんが台湾のひとなのに、中国語ができないなんてもったいないわねえ」

母の言葉が通じるかどうかばかり心配していたので、話題の矛先が自分に向けられていると気づくのに少し遅れました。母と目が合います。続けて聞こえてきた母の声はからりと明るいものでした。

「そう? わたし、ぜいたく言わない。この子日本語できる。わたしも主人も、それでいい。むりやりふたつ、日本語も中途半端では困る……」

「あらあらでもね」

Aちゃんのお母さんが母を遮ります。

「あたしの知り合いのところのお子さんたちは、日本語に全然問題ないけど、中国語もぺらぺらだったわよ」

そう言って、ふたたび、母と私の顔を順番に見ます。

「そこのお宅も、オンさんみたいに子どもが小さいときに来日したのよ。あたし、すっかり感心しちゃって。だってそのおうち、いまだに兄弟同士が中国語でじゃれ合ってるんだもの。聞いたら、国の言葉を子どもたちに忘れてほしくないから家の中では日本語を禁じてるんですって。オンさんのところも、そうすればいいのに……」

じっと見つめられて、わたしはだんだん居心地が悪くなってきます。そのおうちえらいね、と母が嘆息交じりに呟きます。そうよえらいのよ、とAちゃんのお母さんの声はさらに大きくなります。あたしえらくない、と母が笑います。

「……えらくないことないわよ。オンさんはやさしいんだわ」

わたしの目にはAちゃんのお母さんが苦笑いしているように思えます。しかし母の口調はあいかわらず明るいものでした。

「やさしい? そうそう、わたし、やさしい。きびしい、ではない。ねえ?」

母に同意を求められたわたしはなんとなくばつが悪くてあいまいに笑います。ユウジュウちゃんはせっかくご両親が台湾の方なんだから日本語しか話せないなんてもったいないわよ、とAちゃんのお母さんは繰り返します。そのときでした。あたし失敗しちゃったの、と母は言いました。親としての自分自身を笑い飛ばす調子で母は続けます。

「この子に厳しくしない。だからこの子中国語話さない。あたし、失敗ね」

母があっけらかんと言うので、Aちゃんのお母さんもわたしもつられて笑ってしまいます。

 

Aちゃんのお母さん、ママのことをやさしいなんて言ってたけど、ほんとは甘いって言いたかったんだろうね、とあとになってわたしたち母娘は笑い合いました。

——わたし、ぜいたく言わない。この子日本語できる。わたしも主人も、それでいい。むりやりふたつ、日本語も中途半端では困る。

実はそれまでにも何度となく、両親から私は聞かされていました。

——日本に住んでいるんだから、まずは日本語がちゃんとできればそれでいい。

この話に及ぶたび、父の知人の家族の話が引き合いに出されました。

わたしたちより2年ほど先に台湾から日本に移住したその家族には、来日当時、5歳になる娘がいました。日本で暮らし始めた彼らは、幼い娘が母国語を忘れないように自分たちと会話をするときは日本語で返事することを娘に固く禁じました。家の中は台湾であるとばかりに中国語を徹底したのです。娘さんは小学生になってしばらくすると、学校に行きたくないと言い出しました。自分の日本語がヘンだと友達にからかわれると言うのです。彼女の両親は大変ショックを受けました。日本での生活が長引くにつれて家の中でもだんだん無口になっていた彼らの娘は、だからといって中国語に何の問題もないわけでもなかった。むしろ台湾人の親の耳には、中国語すらややたどたどしく響いていたそうです。要するに親をはじめ周囲の大人たちが気づかないまま、その娘さんは日本語と中国語のどちらの言語も中途半端な状態になっていたのです。

あの日、母は私にその話を繰り返したあと、言いました。

「あなたにそういう思いはさせたくなかった。だから、中国語は後回しになっても、とにかく日本語だけはちゃんとできるようになってほしいと願ったの」

どちらも、は望まない。

むしろ、どちらも中途半端になったらかわいそう。

それなら、どちらか一方だけでいい。

そう願っていたからこそ、両親は日本で育ちつつあるわたしに中国語を強要しませんでした。

そして、そのおかげでわたしは日本語をほぼ不自由なく使いこなせるようになったのです。

それなのに

——せっかくお母さんが台湾のひとなのに、日本語しかできないなんてもったいないわねえ。

わたしは台湾人なので、日本語ができるだけでは十分ではないのだ。

中国語——両親のお国のことば——もできてはじめて、この子は“成功”だと、みんなから思われるんだ。

ニサイ、という日本語を覚え、12年が経っていました。

——あたし失敗しちゃったの。だからこの子、中国語を話さない。

実はわたし、母には伝えられなかったけれど、いずれ中国語もしっかり覚えなおして、日本語と中国語のどちらもペラペラになるんだ、と心の中ではいつも思っていました。

——台湾人なのに、中国語ができないなんてもったいない。

ひとからわざわざそう言われなくても、いつか中国語をちゃんと学ぶんだ、ととっくに心に決めていたのです。

時機が熟したら、両親をはじめ、叔父や叔母といった親しいひとたちの声をとおして記憶しているあの言葉を、わたし自身の母国語だったかもしれない中国語を、取り戻そう

わたしは、自分には絶対にそれができる、と信じていました。

何しろ、幼稚園に通う前までのわたしは、日本語よりもじょうずにそれを喋っていたのだから。

その日、わたしは決意を新たにします。

今、日本語を話しているように、中国語も必ず話せるようになろう。そうなったらきっと、誰もわたしを“失敗”だなんて言えないはず。

 

あの子、言葉わかるの?

 

中国語を習いたい。

 

ではなく、

 

中国語を取り戻したい。

 

わたしがそう思うようになったのは、別のもう一つの出来事も影響していました。

話は、わたしが中学1年生の夏にさかのぼります。

ちょうどその年の春から、父の台湾出張が増えていました。

ほとんど単身赴任のような父のその状態は変わらず、帰ってこれたとしても数日もしないうちにまた台湾に飛んでゆく、ということが続きます。

夏が近づくと、母は私たちに言いました。

——今年の夏休みは、パパのいる台湾で過ごそうか?

なんて素敵な計画だろう!

母の提案にわたしはすぐさま賛成しました。

小学3年生の妹もまた、留守がちな父にたくさん会えるなら、と喜んでいました。

それまでも私たちの一家は、年に一度、だいたい冬か春先の頃、台湾に帰省していました。

小さいときは、台湾に行く日が決まると、出発を待ち遠しく思っていました。

飛行機に揺られて、はるばるたどり着いた台湾では、まず、父方の祖母を囲んで親戚じゅうが集まってわいわいと過ごしました。大勢いる叔父や叔母たちは、たまにしか会えないわたしに優しくしてくれるし、年上のいとこたちもよく遊んでくれました。

父方の親戚だけではありません。

母方の祖父母や、叔父と叔母にも会いにゆきます。こちらの皆も、わたしをとても可愛がってくれました。

中華圏の国々では、旧暦のお正月——春節——を盛大に祝います。

あとになって思うと、父と母はいつもこの時期に合わせて、私と妹を連れて台湾に帰っていたのです。

そうであったからこそ、わたしにとって、年に1度だけおとずれる“台湾”は、どちらかといえば、誰もがみんな、なんとなく浮かれている、まさに盆と正月が同時に来たような、ハレの雰囲気と分かちがたく結びついていました。

けれども、この夏——父をたずねて、台北に約3週間ほど滞在した日々——は、それまでの“台湾”と全然ちがいました。

まず、とても暑かったのです。

太陽が出ているうちはうかうか出歩けないほど、台湾の夏はこんなにも暑いのかと、わたしはその年、はじめて思い知らされました。

台北なんかマシだよ、南部に行ったらもっともっとすごいんだよ、と皆は言うけれど、13歳だったわたしが知る日本(東京)の夏よりもずっと暑いことだけは確かでした。

この年のわたしたちは、父の弟にあたる叔父の一家が暮らすマンションに身を寄せていました。従妹たちのいる家に寝泊りするのは、はじめこそ旅行気分もあいまって心が弾みましたが、3日もしないうちに、わたしは何をしたらいいのかわからなくなります。

何しろ、暑さをしのぐためには冷房の効いた室内に一日中閉じこもっているしかない状態なのです。

父は忙しくしていました。

朝になると叔父とともに出かけ、夜になるまで会社——父の会社の本社は台北にあるのです——に入り浸っています。

母は楽しそうです。

ここぞとばかりに、祖母や叔母たちと台湾語や中国語でのびのびとお喋りにいそしんでいます。

妹は従妹たちと、お互いに言葉が通じないなりに、いや言葉が通じないからこそ、ままごとだのなんだの、ジェスチャーを駆使して遊んでいます。13歳のわたしには、8歳の妹や7歳と6歳の従妹たちの遊びは、さすがに子どもっぽすぎます。そうかといって、お正月のたびによく遊んでくれていた年上の従姉や従兄たちは、それぞれの生活に忙しそうで、ぜんぜん相手してくれません。

することがないと、1日というのは、とてつもなく長く感じられます。

それまでは台湾で退屈したことがなかったので、本なども特に持ってきていません。唯一あるのは、飛行機で読むために空港の売店で買った1冊の雑誌(当時大人気だったスターやアイドルたちに関するグラビア情報誌)のみ。

叔父たちの家には、当然、日本語の本などないので、しかたなくその雑誌をわたしは隅から隅まで読むしかありませんでした(おかげで、あまり興味のなかったアイドルが近頃夢中になっているお菓子だとか、別のアイドルが飼っている犬の名前などを覚えました)。

そんなふうに数日を過ごした後、退屈そうにしているわたしを見かねたのか、きょうはビデオ屋さんに行ってみようか、と叔母が提案します。

1990年代はじめ、台湾でも日本と同じようにビデオをレンタルするお店が流行っていました。当時は放送局の数が限られていて、テレビ番組があまり充実していなかったせいもあって、レンタルビデオ屋で借りられるビデオは台湾の人々にとって貴重な娯楽でした。

ひょっとしたら又柔が見たいと思う日本のビデオもあるかもしれないよ、と叔母が言ってくれます。

妹や従妹たちも、久々のお出かけに賛成します。

早速、母も含めた皆で叔母の運転する車で、出かけることになりました。家の外を出て、駐車場へ移動する間も、夏の厳しい暑さが迫ってきます。

空調を効かせた車の窓から見える台北の町は埃っぽく、車だらけで、活気に溢れていました。

10分ほどで、目的地に着きました。

叔母が、ほらこの棚よ、と示すほうに行くと、「クレヨンしんちゃん」や「ドラゴンボール」、「ちびまる子ちゃん」など、おなじみのイラストが描かれたパッケージが目に入ります。

日本とちがうのは、それぞれのタイトルの場所に中国語が連なっているところでした。

「蠟筆小新」

「七龍珠」

「櫻桃小丸子」

読めたり読めなかったりする画数の多い漢字——当時のわたしはまだ、それが「繁体字」と呼ばれるとは知りません——が、とても新鮮に思えました。

ほかにもいろいろ見てみたくなり、店内を歩きまわっていたら、ある棚の一角にたどり着きます。

「A計劃/Project A」、「警察故事/Police Story」、「奇蹟/Canton God Father」……ジャッキー・チェンのコーナーでした。

そのうちの一つ、「城市獵人/City Hunter」を、私は手にしました。

「あら、成龍(Chéng Lóng)でいいの? 日本のアニメもいっぱいあるのに」

叔母さんが言います。

ジャッキー・チェンのことを台湾の人たちが成龍(Chéng Lóng)と呼ぶのは、両親から聞いて知っていました。わたしは叔母に、これが見たかったの、と返事します。一緒にいた母は、ああこれは、と納得顔です。

「城市獵人は、もともと日本の漫画だもん。この子、あの漫画が好きだからね。台湾ではもうビデオになってるのね」

その頃の日本では、ジャッキー・チェン主演作『シティー・ハンター』のCMがテレビでよく流れていました。日本では公開されたばかりなので映画館に行かなければ観ることができません。それが、なんと台湾ではもうビデオになっているのを見つけてわたしは嬉しくなったのです。退屈しのぎに読み尽くした雑誌のおかげで、共演している後藤久美子のことにも詳しくなっていたところだったし……妹たちも、一本のビデオを胸に抱えていました。日本版ビデオのパッケージなら「ドラえもん」とおなじみのロゴが入る部分には「小叮噹」という三文字が躍っています。

のちに、音訳である「多啦A夢(Duō lāAmèng)」が「ドラえもん」の中国語圏における正式名称として定められるのですが、わたしが子どもの頃の台湾では「小叮噹(xiǎodīng dāng)」とも呼ばれていたのです。

帰宅ののち、わたしは早速『城市獵人/City Hunter』をビデオデッキに入れ、リモコンを操作します。

重放(再生)、停止(停止)、快進(早送り)に快退(巻き戻し)……ボタンの印も位置も、日本で使っているものとよく似ているので、どうにか使いこなせます。

映画が、無事、始まります。

主役の冴羽遼を演じるジャッキー・チェンがあらわれました。

そして、わたしの知らない言葉でしゃべりはじめます。

ティアボー(何を言ってるかわからない)、と母と叔母が笑っています。

そう、わたしが台湾のビデオ屋で借りてきた「城市獵人/City Hunter」のジャッキーは、広東語をしゃべっていたのです。

それもそのはず。『城市獵人/City Hunter』は香港映画。ジャッキー以外の登場人物たちも、当然、彼らの母語である広東語をしゃべっています。

広東語は、母と叔母もわかりません。けれども母たちは、画面の下のほうに流れる中国語の字幕が読めます。

中国語で字の読み書きを教わったことのないわたしには字幕がぜんぜん読めません。

叔母が、吹き替え版にしようか、と提案してくれます。

わたしがうなずくと、叔母はリモコンで切り替えてくれました。

ジャッキーが、今度は、中国語をしゃべりだします。

吹き替え版のジャッキーなら、いつものように日本語をしゃべってくれるはずだと淡い期待をしていた数秒前の自分自身にわたしは呆れました。

ここは、台湾。

台湾版のビデオに、日本語吹き替え版があるはずないのだから!

「中国語しかないね。でも、中国語なら又柔でもわかるからいいよね」

叔母が言います。

正直なところ、まったくわからない広東語よりはましだろうけれど、ちゃんと理解できるかというとあまり自信がありません。

母も言います。

「シティー・ハンターなら、漫画でいつも読んでるでしょ? それに成龍の映画は、細かいことがわからなくても面白いから問題ないよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ!」

字幕でも音声でも、日本語に頼れないとは。

やや不安だったけれど、母の言うとおり、原作漫画をとおしてよく知っている話のはずだし、何よりあのジャッキー・チェン主演なのだから、言葉が多少わからなくとも、アクションシーンは見栄えがあるはずだし、きっと面白いだろうと期待して、そのまま見続けることにしました。

母と叔母も、わたしのそばで画面を見つめています。

物語が、どんどん進んでゆきます。

ジャッキー・チェンはあいかわらずコミカルで、俊敏です。

ただ、中国語をしゃべるジャッキーは、なんだか自分の知っているジャッキーではないみたいで、少し落ち着きませんでした。

しかも母の楽観的な予想は外れ、映画『城市獵人/City Hunter』のストーリーが、原作『シティー・ハンター』とは程遠いものだったため、劇中の流れを追いかけるのもままなりません。

母と叔母は、登場人物たちが何か冗談めかしたふるまいをするたび、笑っています。わたしも、母や叔母が笑ったら、少し遅れつつもなるべく笑うようにしました。

というのも、実はわたし、中国語ならわかるでしょ、と叔母に言われたとき、なんとなく誇らしかったのです。

叔母はわたしがちゃんと中国語ができると思ってくれているようで。

それで、映画のストーリーも、細かいセリフのニュアンスも、本当はよくわからないくせに、なんとなくわかったふうをよそおっていました。

映画が終わると、母も叔母も、なかなか面白かったね、などと言いながら伸びをします。ストーリーやセリフがほとんど理解できないのに面白そうに鑑賞するふりをしながら1時間半もひたすら画面に目を凝らし続けたわたしは、内心、へとへとになっていました。

その後、母たちは家族の夕食を調達するために夜市に出かけてしまいます。

リビングに一人残されたわたしは、ぼんやりと考えます。

わたしも台湾で育っていたら、この一時間半、成龍(Chéng Lóng)主演の『城市獵人/City Hunter』を心から楽しめたはずなのに。

そしたらわたしもジャッキーのことを、成龍と呼び、彼が中国語で次々と口にするジョークを耳で聞いて、笑えたはずなのに。

ジャッキー・チェン作品に限らない。

台湾人であるというのに、今のわたしには、吹き替え版にしろ、字幕にしろ、日本語を頼らないと、中国語の映画やドラマが楽しめないのだ……

そんなことを思っていよいよ切なくなっていたら、別の部屋で遊んでいた妹たちがやってきて、ドラえもんが観たい、と言います。

気分を変えたかったし、ほかにすることもないので、わたしも一緒に観ることにします。ビデオを再生し、おなじみの主題歌が流れたあと、本編がはじまってすぐに妹が笑いだしました。

「おねえちゃん、のび太の声がヘンだね!」

そうなのです。

「ドラえも~ん」ではなく、「小叮噹(xiǎodīng dāng)~」とドラえもんを呼ぶのび太くんの声は、わたしたちが知っているのび太くんの声と全然ちがっていました。

続けて登場した中国語をしゃべるドラえもんも、同じでした。

単に中国語をしゃべっているから、らしくない、のではなく、大山のぶ代さんや小原乃梨子さんといったおなじみの声優さんたちの声ではないので、どこかヘン、に感じて落ち着かないのです。

私と妹が可笑しがってると、日本語のわからない従妹がふしぎそうに、妳們在笑什麽(なんで笑ってるの)? とたずねます。

真的小叮噹的聲音不是這樣(本当のドラえもんは、こういう声じゃないの)」

と、妹が教えてあげます(*妹の中国語はわたしよりもさらに自己流です、ご了承ください)。

妹の言葉に、真的小叮噹(本当のドラえもん)? 従妹は小首をかしげます。

「ドラえもんは、前からずっとこの声だよ」

「ちがうってば。ドラえもんは本当はこういう声じゃないんだよ」

妹と従妹に挟まれて、わたしは考えます。そして、日本的小叮噹(日本のドラえもん)、という言葉が口をついて出ます。

日本のドラえもんは、こういう声じゃないの」

従妹がわたしをじっと見つめています。妹が得意げに言い添えます。

本物のドラえもんは日本語をしゃべるしね」

わたしは心の中で考えました。

だからって、中国語をしゃべる台湾のドラえもんは、偽物なのかな?

台湾人の従妹にとっては、こちらのドラえもんが本物のドラえもんなのかもしれないのに。

それから、もしも自分(と妹)も、台湾で生まれ育っていたのなら、中国語をしゃべるほうのドラえもんを本物のドラえもんだと思っていたかもしれないのだと思います。

——ドラえもんは、前からずっとこの声だよ。

わたしには従妹の気持ちがよくわかりました。

何しろわたしもまた、ジャッキー・チェン本人の声よりも、日本語吹き替え版の声優である石丸博也さんの声をとおして耳にするジャッキーの声のほうが、自分にはより本物らしく感じてしまうのを痛感したばかりなのだから。

と、そこまで考えて、ふと気づきます。

もしそうであったのなら、わたしはきっと、大山のぶ代さんたちの声を耳にしながら、ドラえもんの世界に夢中になることはなかった。もちろん台湾で育ったとしても、十中八九、日本製の漫画「小叮噹」をわたしは好きになったと思います。でもやっぱり日本生まれのドラえもんを、その作者である藤子・F・不二雄の母国語である日本語をとおして夢中になれたのは、すごく幸運だったということ?

——台湾人なのに、中国語よりも日本語のほうがずっと得意。

そのせいで切なかったことと、そのおかげでうれしかったこととが、ぐるぐると渦巻くのを感じながら、自分がなんだかふしぎな存在に思えてきます。

 

そしてその数日後、今も忘れられないある出来事は起こりました。

呼び鈴が鳴ったので従妹がドアを開けると、一人の女の子がいました。あとで聞いたら、叔父の一家と同じマンションに住んでいる顔なじみの子ということでした。

「おばさん、いないの?」

だしぬけにそう言うと、勝手知っている具合で部屋に上がります。彼女からそうされるのに、従妹たちは慣れっこのようでした。ん? とその子が、妹の存在に気づきます。

「我第一次看到妳。妳是她麽們的朋友嗎(あなた、はじめて見た。あの子たちの友だち)?」

早口だったのもあり、妹はきょとんとしています。

それで言葉が一切つうじないと判断したのか、彼女は再び従妹のほうに向き直ります。

「她好像日本人。為什麽日本人在妳們家(この子日本人みたいだけど。なんで日本人があなたたちの家にいるの)?」

朋友(péngyǒu、友達)じゃなくて當姐(dāng jiě、父方従姉)なの、と説明する従妹の声が聞こえてきます。

「日本人じゃないよ。この子も台湾人だよ。いつもは日本に住んでいるけど」

と続くのも、聞こえてきました。ふーん、とその子は言います。

次の瞬間、部屋の奥のほうで彼女たちのようすを見ていたわたしの存在に、その子はようやく気づきます。わたしたちの目が合います。わたしはたぶん、無表情でした。先に目を逸らしたのは、彼女のほうでした。そして、她呢(あの子は)? と従妹のほうを向きなおります。

國語她聼得懂嗎?」

直訳すると、あの子は中国語を聞きとれるの? と彼女は言ったのですが、わたしの頭の中では、とっさにこんな日本語に置き換えられました。

——あの子は言葉、わかるの?

わたしは愕然としました。

そして、なんて失礼な態度なの、と、自分よりも明らかに年下だと思われるその子を叱りつけてやりたくなりました。

でも、すぐに言葉が出てこないのです。

口を半ば開きかけた状態でわたしは彼女のほうを睨みました。

さすがにただならぬ視線を感じたのでしょう。

彼女はふたたびこちらを見やります。

わたしたちの目が合います。

けれどもわたしの口からは言葉が、彼女の言う國語——中国語——が、出てこない。ただ、黙って、身震いするしかないのです。

 

夜になっても、悔しさがなかなかおさまりませんでした。

叔父や叔母たちはいつも、辛抱強くわたしの中国語に耳を傾けてくれます。年下である従妹たちだって、こちらが言わんとすることをどうにか読み取ってくれようとします。

だからこそ、わたしは安心して、中国語をしゃべることができたのです。

けれども、わたしを理解しようと努めるそぶりがまったくないひとの前では、わたしはあんなふうにただこわばってしまうばかり。

わたしはショックだったのです。

あんなふうに見ず知らずの、ごくふつうの台湾人に、憎まれ口をたたくことも思いどおりにできなかったなんて。

わたしは考えます。

昔々、台湾に住んでいた頃のわたしは、いつだって「又柔很會說話」と褒められていたのに。

——又柔はお喋りがじょうず!

かつてのわたしは、台湾の皆から、いつもそうやって感心されていたのに。そんな自分が、「國語她聼得懂嗎?(あの子、言葉わかるの?)」と言われてしまうなんて。

このときわたしは、決意したのです。

 

わたしは、わたしの中国語を、言葉を、いつか必ず取り戻す。

 

中国語ができるようになれば、わたしはきっと……

 

「台湾人なのに中国語ができないなんて、もったいない」

國語她聼得懂嗎(あの子も、言葉できないの)?」

わたしが必ずまた中国語じょうずになりたい、と心に決めていたのは、Aちゃんのお母さんに「もったいない」といわれたときの切なさや、台湾で見ずしらずの子に何も言い返せなかったときのくやしさだけが理由ではありません。

いつからかわたしは、街角などで中国語を耳にすると、その瞬間、高揚感と安堵感がいちどきに訪れるような、ふしぎに楽しい気持ちになることがよくありました。

(日本で中国語が聞こえてくると、なんとなく嬉しくなるのはどうしてなんだろう?)

台湾にいた頃、祖父母をはじめ、伯父や叔母たちが交わす会話をひたすら耳にしていた赤ん坊のときの記憶が刺激されるからか、あるいは年に一度、春節の台湾で過ごしたときの祝祭的な気分がよみがえるのか、とにかくわたしは、東京の路上で電車に乗るときのホームや祝日に家族で出かけた百貨店などで、通りすがりの人たちが中国語で会話しているのを聞きつけると、いつもこっそりと耳をそばだてました。

 

今まで、ふと耳にした中で最も格別だった中国語は、中学3年生の古典の時間に聞いたものです。

その日、先生は漢文を教えていました。

モウコウネン*、と言って黒板に「春暁」とチョークで書き「しゅんみんあかつきをおぼえず」と言ったあと、先生はカセットレコーダーのスイッチを押しました。しん、と静まり返った教室に流れてきたのは、なんと中国語でした。

 

春 眠 不 覚 暁

処 処 聞 啼 鳥

夜 来 風 雨 声

花 落 知 多 少

 

太古から読み継がれてきた名詩の、神々しく整ったその音の響きに、わたしはすっかりぼうっとなりました。

それもそのはず。

わざわざカセットレコーダーを用意した先生の狙いは、まさしく、漢詩を原文(中国語)で口ずさむときの韻の美しさを、中学生のわたしたちに感じてもらうことだったのです。

 

春/chūn 眠/mián  不/bù  覚/jué  暁/xiǎo

処/chù  処/chù  聞/wén  啼/tí  鳥/niǎo

夜/yè  来/lái  風/fēng  雨/yǔ  声/shēng

花/huā  落/luò  知/zhī  多/duō  少/shǎo

 

暁、鳥、少。

先生は順番に示しながら説明します。

——五言絶句は原則として、第二句と第四句の末尾に同じ響きの音が置かれます。ただし、この詩は例外。第一句の「暁」も、韻を踏んでいます。

「暁」が、「xiǎo」と読むのは知らなかったけれど、「鳥」が「niǎo」、そして「少」が「shǎo」という音を備えた漢字であると教わり、わたしは、ふだんの自分が「トリ」とか「ショウ」と認識している文字が、実は中国語でもある、と感じ入ります。それは妙に感慨深いことでした。

 

——小飛了!

(鳥が飛んでったね)

——你要多

(どのぐらいいるの?)

 

「鳥」が、「niǎo」であることや、「少」が「shǎo」であることを、この教室では、たぶんわたしだけは、昔からとっくに知っていた……

思いがけず耳にした漢詩の原音に魅了された余韻の中で、中国語と深い縁を持つ自分がにわかに誇らしく感じます。

台湾人である父母が喋っていたから、とか、自分も台湾で育っていたらそれを喋っていたかもしれないから、という個人的な思いを越えた、中国語という言葉そのものへの新鮮な憧れが、このときはじめて胸の中に芽生えたのです。

 

……こんなふうに、いろんな感情が入り混じりながらも、中国語を勉強し直したい、してみせる、という気持ちがわたしの中で徐々に揺るぎないものになってゆきます。

とはいえ、すぐにでも、という感じではまだありませんでした。

将来、大学に進学できたら、そこで学ぼう、というぐらいのつもりでした。

だから通っていた塾の先生から「もしも中国語に興味があるなら、第二外国語として教えてくれる高校がある」と言われたときは、ちょっとどぎまぎしました。

そっと秘めていた願いを、見透かされたようで。

それからわたしは、自分が思っていたよりも数年早く、中国語を学ぶ、いや、取り戻す機会が到来しつつあると信じて、受験勉強にいそしむようになりました。

自分の第一志望の高校が学区外にあったのも、わたしには好都合でした。

というのも、高校進学を考えるようになってからのわたしは、小学校1年生のときからの同級生たちを含む、ほぼ顔見知りの中学の同級生たちがまったくいないところで、自分自身にとって未知の自分と、出会ってみたいとひそかに思っていたのです。

中学校の、それも自分のいる教室がほぼ全世界という日々は、安心感こそあったけれど、どことなく窮屈でもありました。

すでにできあがっている人間関係の中で、わたしは、“みんながわたしと思っているわたし”だけが、本当のわたしではない、と、何となく思っていたのです。

(できれば、今、みんなが知っているわたしだけでなく、もっと別の、そう、わたし自身が自分のことをもっと好きになれるようなわたしになってみたい)

今思えば、わたしだけでなく、誰もが少しずつ、そんな気持ちを抱えていたはずです。

けれども、お互いのことを子どもの頃から何となく知り合っているという環境では、他の人たちがよく知っているそれぞれのイメージから、その人自身にとってより望ましいイメージへと飛躍することはなかなか難しいものがあります。少なくともわたしは、そう感じていました。

幸い、わたしの志望校は、今住んでいる町から遠いため、校内では自分のほかに受験するひとはいません。

チャンスだ、と思いました。

(今までのわたしを、誰も知らないところに行こう。そこで、今よりももっと、良い自分になろう)

新しい場所に身を置き、新しい日々を始める自分を想像すると、わたしの気持ちは高鳴ります。何よりも、自分が目指す新しい場所では中国語を教えてくれるというのも大きかった。

(中国語ができるようになればきっと、わたしは今よりももっとわたしらしくなれるにちがいない)

15歳のわたしにとって、“わたしらしい”とは、自分自身がこういう自分でありたいと望む自分のことでした。

中国語という、自分にとって特別な言葉を学び直せば、きっとわたしは日本と台湾のどちらにいても、堂々と自分を誇れる……

こんなふうに、中学3年生のわたしは、辛い受験勉強に耐えて、志望高校に合格できたら、そのときにはきっと、今よりも新しく、そして望ましい自分になれるはずだと期待していました。

 

(以下、連載第4回に続く)

*孟浩然。唐の時代の代表的な詩人。