温又柔さん 「国語」から旅立って

読者のみなさんへ

あなたには、この文章が読めます。

なんの苦もなく意味が呑み込めます。

声に出して読みあげることだってたやすくできることでしょう。

それどころか、私が書いたとおりにそっくりと書き写すこともできるはずです。

さて、あなたはこの文章が日本語だと意識しましたか?

私は小説家です。

名まえは、温又柔。

おんゆうじゅう、と読みます。

日々、小説やエッセイを書いたりしています。

今でこそ、ほかのどんな言葉よりもずっと、私は日本語が得意です。けれども私は、はじめからずっと、日本語だけをしゃべっていたのではありません。

赤ん坊の頃の私は、両親をはじめ、近くで暮らしていた伯父や叔母、いとこたち、それに町の人たちが話す中国語や台湾語と呼ばれる言葉が飛び交う環境の中にいました。
やがて私が三歳になるかならない頃に、父と母は私をつれて、それまで住んでいた台湾から日本の東京に移り住む準備をはじめます。

あるとき、東京の町を家族そろって散歩していたら、あんよがじょうずね、といった調子で一人の老婦人が私たちに話しかけてきました。彼女は私にほほ笑みかけると、いくつ? とたずねました。きょとんとする私の代わりに父が答えます。

コノコハ、ニサイデス。

やさしそうな老婦人が立ち去ってから、ニサイは二歳という意味なんだよ、と中国語(あるいは台湾語)で父は母と私に教えてくれます。

その頃は母だけでなく、私もまた、中国語(と台湾語)のほうがずっと得意でした。

ニサイ、という響きは二歳の私をよっぽど魅了したらしく、日本のひとからほほ笑みかけられると、ニサイ、と自分からすすんで言うようになりました。

ニサイ、は私がうまれてはじめて覚えた日本語だったのです。
もちろん私は永遠にニサイではありません。

たちまち三歳になり、五歳になり七歳になり十一歳になり十三歳になるにつれ、私の日本語はどんどん上達してゆきました。

さて。

今日も私は、小説を構想するために、エッセイを仕上げるために、PCとむきあっています。

私の目の前のモニタ画面に浮かぶのは、ひらがな、カタカナ、漢字。

自分のつかっているこの言葉が、“日本語である”という事実を、私はいつもちゃんと思いだそうと努めています。

そうしないと、はじめからこの言葉だけを、日本語のみを、自分は聞いたりしゃべったり読んだり書いてきたのだと錯覚してしまいそうになるからです。

まわりにいた大人たちの声をとおして中国語や台湾語をたっぷりと聴き、自分自身もしゃべっていた頃のことを、私は“なかったこと”にはしたくありません。

そう、ニサイになるまでの自分のこともきちんと大切にしながら、この言葉、日本語を話し、書いてゆきたいと私は思っているのです。

「国語」から旅立って、と題したこの連載では、どうして私がこんなふうに感じ、思い、考えるようになったのか書いてゆくつもりです……はじまりは、私が小学一年生のときの「国語」の教室から!

どうぞ、おつきあいくださいませ!

2018年9月 温又柔

撮影 ©朝岡英輔

温又柔
(おん・ゆうじゅうWenYuju)

1980年、台北市生まれ。小説家。3歳から日本に在住。法政大学大学院・国際文化専攻修士課程修了。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞し、作家デビュー。両親はともに台湾人で、日本語、台湾語、中国語の飛び交う家庭に育つ。創作は日本語で行う。著作に、『たった一つの、私のものではない名前 my dear country』(Happa-no-Kofu, 2009年)、『来福の家』(集英社、2011年、のち白水社、2016年)、『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年)、『空港時光』(河出書房新社、2018年)、『台湾生まれ 日本語育ち 増補版』(白水社、2018年)など。

2018年10月1日より
連載スタートです!!
毎月1日に更新されます。
楽しみにお待ちください。

illustration:100%ORANGE/及川賢治
第4回

わたしの中の彼女たちの姓名

(高校生編)

ちょっぴりへんてこな、わたしの名前

 

わたしは高校2年生。いよいよ、中国語の授業がはじまります。チャイムが鳴り、わたしは「第二外国語」に中国語を選択した十数名の同級生たちと席につきます。各クラスからの参加者が集まるので、まだ名前を知らない子も何人かいました。

皆、それぞれの机の上に真新しい中国語の教科書を置いています。そんなふうにして授業がはじまるのを待っていたら、小学1年生の4月、表紙に「こくご」と書いてある教科書を、筆箱とノートとともに机にならべたときのことがよみがえってきます。あのときも、いよいよほんもののガッコウがはじまった、とワクワクしたっけなあ、と。同時に、こんなふうにも思います。

(もしも台湾の学校に行ってたら、わたしは6歳のときから中国語を勉強してたんだなあ)

子どものときから常に身近だった中国語を、「第二外国語」としてあらためて学びなおすのには、ふしぎな感覚がありました。

先生がわたしたちの教室にやってきます。ふたりいます。わたしたちの高校で行われている「第二外国語」の授業では、その外国語を専門とする日本人講師とネイティブの講師がペアになって教えることになっていました。中国語のクラスにやってきたのは、20代半ばの日本人講師と、現役の大学院生でもある20代前半の中国人女性でした。参加者もまた女子生徒のほうが圧倒的に多かったこともあり、教室は一気に華やかなムードになります。日本人のほうの先生がにっこりと笑います。

「みなさんがこれから学ぼうとする中国語は、日本人にとっても非常になじみ深い言葉です。なぜなら、漢字が共通しているから」。

よくとおる声でそう言ったあと、「わたしたちの教室では、お互いの名前を中国語で呼び合いましょう」と彼女は提案します。その後中国人の先生が、出席簿にある生徒の姓名を日本語と中国語で順々に読み上げます。

小田さん、は、オダさん、から、Xiǎotiánへ(「小」は中国語で発音するとxiǎo。「田」はtiánとなるためです)

井上さん、は、イノウエさん、から、Jǐngshàngへ(同じく「井」はjǐng、「上」はshàng となります)

皆、慣れ親しんだ自分の姓名が、日本語とはまったく異なる響きである中国語に「変身」した結果を、くすぐったそうな表情で受けとめてゆきます。

わたしの番になりました。オン、ユウジュウさん?……出席簿にあるわたしの姓名のフリガナを、中国人の先生が読みます。自分の名前が呼ばれると、ほかの人たちがそうしていたように、わたしは手を挙げました。教室を見渡していた先生と目が合います。わたしを見た先生の顔に笑みがぱっと浮かびます。

温又柔是你?哇,这么好听的名字

あなたが、温又柔? わあ、とってもいい名前ね!)

もうひとりの日本人の先生をのぞき、わたし以外の誰も、彼女の言うことを理解するひとはいませんでした。中国語を理解しない生徒たちがきょとんとしているのに気づいた彼女は、

「彼女の名前はとても特別です」

と日本語に切り替えて説明します。

「“温柔(wēnróu)”は、中国語では、優しい、という意味あります。だから彼女の名前、とても優しいです」

その場にいた全員が自分に注目するのを感じて、わたしは照れくさくなりました。そして自分から、

「わたしは台湾人なんです」

と告白します。そのとたん、なるほど、という空気が教室に満ちました。いい(・・)なあ(・・)、と同級生の一人がため息まじりに感嘆します。まだあまり親しくない別のクラスの子でした。彼女の反応を皆が可笑しがり、場の空気が和みます。日本人の先生が、わたしにたずねます。

「オンさんは、いつからこちらに住んでいるの?」

わたしが、2歳のときからです、と答えると、なるほどね、という気配が教室にまた漂います。

……こんなふうにして、中国語を「第二外国語」に選択した同級生たちの間に、私の名前はたちまち知れ渡りました。それまでも初対面のひとに名前を告げたとたん「日本語がおじょうずですね」と言われることがしょっちゅうあったので、自分の名前が特別なのはよくわかっていました。でもこのときはいつもとは違う意味で特別でした。

温又柔是你?哇,这么好听的名字!)

その夜、わたしは「あなたが、温又柔? わあ、とってもいい名前ね!」という先生の言葉を思い返していました。日本で、それも、人前で、自分の名前があんなふうに褒められたのは、はじめてだったな、と思いながら。まったく嬉しくなかったわけではないし、どちらかといえば少し誇らしくさえあったのですが、時間が経てば経つほど、初回の授業で思いがけず目立ってしまったという気恥ずかしさや、たとえ、それほど素晴らしい名前なのだとしても、ふだん、めったにその恩恵にあずかれていない、という気持ちのほうが上回り、複雑な気持ちでもありました。

中国人の先生が感嘆したように、中国語ができる人なら、温柔(wēnróu )(優しい)という言葉を知らない人はいません。そのため、“温又柔(WēnYòuróu)”という姓名に接すると、“温柔(wēnróu )”、つまり、“優しさ”を連想しないではいられないのです。

わたしは考えます。もしもわたしが、ふだんから“ウェン”と名乗っていたのだとしたら、自分の苗字と呼応する“ヨウロウ”という名に備わる“優しさ”にもっと敏感だったはずだし、特別な名前でよかったな、と前向きでいられたのでしょう。けれどもわたしは、“ウェンヨウロウ”ではなく、“オンユウジュウ”として暮らしています。「温」を“オン”と名乗るわたしにとって、“ユウジュウ”という名は、“ヨウロウ”とはまったく異なる意味で特別(・・)でした。

わたしは、“ウェン”と“オン”のどちらであろうと、姓を含めた自分の名前はふつうじゃない(・・・・・・・)、と思っていました。少しさかのぼって、小学校低学年の頃からわたしは、もっとふつうの名前が欲しかったな、とよく考えていました。たとえば、名乗ったとたん「何で日本語ができるの?」とか、「あれっ、日本人じゃないの?」と言われずにすむような名前。要するにこの頃のわたしにとって、ふつう(・・・)の名前とは、日本人の名前のことにほかなりませんでした。

何しろ、幼稚園の頃からずっと、家を一歩出ると、ほぼ常に自分以外の全員は日本人、という環境でわたしは育っていました。学校や教室だけでなく、テレビやマンガをとおして親しむおはなしの登場人物たちも、皆、日本人です(もちろん、ジェシカやリズといったように海外の小説の登場人物たちはべつでしたが)。

そんなふうだったので、わたしはときおり、自分にふつうの名前(・・・・・・)をつけて遊ぶことがありました。

めぐみ、りえ、えみ、ともこ……

いまからわたしは“えみ”になってみようとか、きょうは一日“りえ”になって過ごそうなどと心の中で決めて、りえはいま宿題をしている、とか、えみはごはんを食べる時間です、などと心の中で思い描きながら、はた目にはいつもどおりのことをする、ただ、それだけの遊びでした。そんなふうにして、べつの名前の女の子になったつもりで過ごすのは、自分のまま自分ではない誰かになったみたいで、楽しかったのです。

こういう遊びをするときの、わたしの特にお気に入りの名は、ユウ、という響きを持つ名でした。ユウジュウ、の、ユウ、と響きが重なっていて、自分の分身に授けるにはうってつけの名だったのです。ゆう、とひらがなで思うときもあれば、漢字を当てることもありました。そういうとき、本名の「又」は、絶対に使いませんでした。そもそも、又柔、の「又」を、ユウ、とすぐに読んでもらえることなどめったにないとわたしは知っていました。それで、「優」という漢字をいつも選びました。

10歳になった頃からわたしは、“ゆう”あるいは“優”と名づけた架空の女の子についての物語を書くようになってゆきました。ノートを開き、そこに彼女のこととして、日々のあれこれを綴ってゆくのです。自分自身が日々、思い、感じ、考えていることを、“ゆう”や“優”に託して、追体験するかのようでした。それは、自分自身のこと、自分が思うことをあるがままに記すときとはちがった面白さがありました。いま振り返ると、そうすることで自分を慰めていたような部分もあったと思います。

というのも、ほんもののわたし——ユウジュウ——が、ほんとうはこうしてみたかった、とか、もっとこうであったらよかったのにな、と思い描くわたし自身を、“ゆう”や“優”は、わたしのノートを舞台として、さりげなく、そしてのびのびと生き直してくれるからです。 

たとえば、気が強くて、意地悪なクラスメートにもちゃんと言い返せるわたし。あるいは、帰り道に声をかけてくれた上級生に対してもっとにこやかに余裕をもって接することができたわたし……こんなふうに、べつの名をつけた“わたしのような、わたしではない”彼女のおはなしについて書くことが楽しくなるにつれて、いつか、おはなしを作るひとになりたい、とわたしは思いはじめるようになります。それは、本を書くひとになりたいという気持ちへと直結していました。

本というものへの憧れがはじめてわたしの中に芽生えたのは、もっとずっとさかのぼって5、6歳の時期、「てんとう虫コミックス」というシリーズから刊行されていた『ドラえもん』を、繰り返し読んでいた頃でした。

本を読むのはよいことだと言って、父と母は幼いわたしを、本屋さんによく連れて行ってくれました。両親と出かけた本屋さんで、ドラえもんの絵が描かれた表紙の本をはじめて見つけたときは、親しい友だちに再会した心地になりました。わたしは元々『ドラえもん』のテレビアニメが大好きだったのです。父にこれを買って欲しいと頼むと、又柔が読みたい本ならとすぐ承知してくれました。幸いなことに、マンガもまた立派な本だと思う父親にわたしは恵まれていたのです。だから、このときに買ってもらった1冊こそ、わたしが自分から望んで最初に手に入れた本なのではないかと思います。

買ってもらったばかりの『ドラえもん』をいそいそめくってみると、一話目に描かれていたのがテレビアニメで何度も見たことのあるおはなしだったので、絵を順番に追ってゆくだけでも、ちゃんと内容が理解できました。その後に続くマンガのストーリーもなじみ深いものばかりだったおかげで、まだほとんど字が読めないわたしにも十分に楽しむことができました。その1冊をそんなふうに繰り返し“読む”うちに、吹き出しの中にある文字のうち自分が知っているもの——お、とか、ん、とか、ゆ——があれば、指でそれをなぞりながら声に出すようにもなります。おかえり(・・・・)、など、たまたま読める文字が続いたときはすごく嬉しくなったし、そういうときは、テレビを通して耳になじんでいたドラえもんたちの声が聞こえてくるようで心が弾みました。

こうして、テレビにマンガも加わって、わたしはますます『ドラえもん』に夢中になります。

……ドアを開けたら、はるか遠くの町に繋がる。

畳を上げたら、そこは宇宙空間だった。

水面にふしぎな雫を垂らすと、水の中にほんものの世界とそっくりの無人の世界があらわれる。

特別の靴をはいて絵本の中に入り込み、その世界の中でしばらく遊んでみる。

こんにゃくを食べたら、犬や猫と言葉が通じた……

そういったちょっぴりふしぎな出来事や現象が、わたしたちのよく知る日常や身近なもの——机やドアや靴——を通して、ひょっこりと目の前にあらわれるという『ドラえもん』の世界は、わたしにとってかけがえのないほどに魅惑的でした。

そうであったからこそ、母に連れられて行った父の会社に並んでいた事務机を前にして、どうしても引き出しを開けてみたいとねだったこともあります。そう、もしかしたらそこにはタイムマシーンが待機しているかもしれない、と思ったのです! そう、ドラえもんのタイムマシーンの出口が、のび太の机の引き出しに繋がっていたように。

いつしかわたしは、『ドラえもん』のおはなしのいくつかを、すっかりそらんじていました。母や父、ときには赤ん坊の妹をも相手に、自分のお気に入りのストーリーを自分なりに組み立てて語って聞かせるのは、お手のものでした。登場人物はそのままに、オリジナルストーリーを即興でこしらえることもありました。

しばらくすると、お絵描き帳の真っ白い紙を舞台に、自分のお気に入りのおはなしを“描く”ようになってゆきます。マンガ本の影響で、キャラクターたちの口のそばには必ず吹き出しをつけて、その中にセリフを書き込みました。とはいえ、「おまたせ」と書くつもりが「おませ」と一字抜けてしまっていることなどもしょっちゅう。それでも、自分のお気に入りのストーリーを紙の上に“再現”するつもりで行っているこの一連の作業が、5歳から6歳になる頃のわたしには面白くてたまりません。“語る”ときとちがって、自分のペンによるドラえもんやのび太——とはいえほんものとは似ても似つかないレベルなのですが——の姿が目の前の紙の上にあらわれ、言葉を交し合っているそのことに、つい感動して、その“痕跡”をしみじみと眺めたことを覚えています。いま思えば、きっとこのときにわたしは、書く(描く)ことを通して、目の前の紙の中に自分の好きなおはなしが創り出せることを発見したのだと思います。そしてこのときの新鮮な驚きと喜びこそが、本というものへの憧れをわたしの中に芽生えさせたのです。

その後、小学校に進学し、ひらがなとカタカナを自在に使いこなせるようになったわたしは、ドラえもんの世界の模倣ばかりでなく、一枚の紙の上や、ときには数頁にわたるノートの中に、自分の作ったおはなしができあがってゆく喜びをますます味わうようになっていきます。“ゆう”や“優”と名付けた女の子について書くようになる頃には、“おはなしを作る”とは、このわたしがいま生きている現実よりも、ほんの少しだけ居心地のよいべつの世界を、自分が書く言葉によって確保することなのだとほぼ確信していました。

ふりかえってみると、まだ字を読むのもおぼつかなかった頃から『ドラえもん』に夢中だったわたしは、たとえば、畳を上げたら宇宙空間があらわれる、というような、日常の延長上に繰り広げられるのび太たちの数々の冒険を繰り返し味わううちに、おはなしとは、現実そのものよりも少し楽しくて、どこか夢のあるものでなければ、と学んでいたのだと思います。

少々へんてこな名前で生きている自分自身の、あんなふうになりたい、とか、こんなふうでありたい、という願望や夢想を、ふつう(・・・)の名前をした女の子たちに託しながら、おはなしを作って楽しむことは、わたしにとって、なかなか自分の思いどおりにはならない毎日を、どうにか乗り越えてゆくための支えだったのかもしれません。そうであったからこそ、一日のうちの、このひとときは、わたしにとって最も心安らぐ時間でした。お気に入りのノートを開けば、そして鉛筆をしっかりと握って文字を綴れば、いま自分がいる現実よりも、少しだけ住み心地のよさそうな場所が目の前の紙の上にあらわれてゆく……考えてみればわたしは、作家や小説家という言葉をはっきりと知る前から、そういう場所は必ずあるのだと信じたくて、おはなしを作っていたい、と願っていたような気がします。

わたしは、どちらかといえば、中国人?

 

さて、ふたたび、17歳。

小中学校の頃と同じように、高校に入ってから新しくできた友だちも、仲良くなるにつれて、わたしが台湾人であるということをいつのまにか忘れてしまいます。わたし自身も、日々の生活の中で、自分が実は日本人ではない、と思い出すことは、正直、滅多にありませんでした。

ただし、「第二外国語」の授業に参加するときだけは別です。

 

我是日本人,你呢?

(わたしは日本人です。あなたは?)

我是中国人。」

(わたしは中国人です)

 

教科書の例文に目を凝らしながら、さてどうしよう、とわたしは思います。

--いつか、必ず、わたしの中国語を取り戻す。

その、いつか、が、こうして思ったよりも早くおとずれ、わたしは毎週、いそいそと中国語の授業に出席しました。

発音の練習。少しずつ増えてゆく語彙。知る限りの語彙で短文を読み上げる練習……それはわたしにとって、未知の言語を学ぶというよりは、知ってはいるけれど忘れてしまったものを、再びたぐりよせる作業にも似た、ふしぎななつかしさを感じるものでもありました。 

発音の基礎や単語の一つひとつを白紙の状態から覚えなければならない同級生たちが苦労する中、わたしは記憶の中の父や母、親戚たちが話していた声を思い起こして参考にすれば、誰よりも早く、その場で求められている中国語の単語や文章を口にすることができました。そのたび、オンさんはいいよね、と同級生の一人——初回の授業で真っ先に、いいなあ、と感嘆していた彼女です——に羨ましがられました。あたしも台湾人に生まれたかったな! と面と向かって言われたときは、そんな自分が彼女やほかの皆と混じって中国語を勉強していることが後ろめたくなったほどでした。

とはいえ、日本人と中国人の先生はふたりとも、わたしを特別扱いはせず、少しできのいい生徒、というぐらいに思っていたのではないかと思います。

 

你是日本人吗?

(あなたは日本人ですか?)

是,我是日本人。」

(はい、わたしは日本人です)

 

そんな会話のやりとりを練習することになったあの日も、先生たちはいつもどおり、わたしたちをひとりずつあてていきました。さて、どうしよう。わたしは悩みました。自分の番が回ってくるまでに、決めなければなりません。

 

不是

(いいえ)

 

わたしは、覚悟をします。

 

我不是日本人。」

(わたしは日本人ではありません)

 

自分の声が、教室中に緊張を生み出すのを確かに感じました。ふたりの先生も、ほかの生徒たちもわたしの次の言葉を待ち構えています。

 

我是中国人。」

(わたしは中国人です)

 

子どものときから父や母、親戚たちが口にするのを数えきれないほど耳にしてきたので、「台湾人、táiwānrén」の中国語の発音を、このときのわたしが知らなかったわけではありません。けれども17歳のわたしは、「第二外国語」の教科書にはっきりと印刷されている「中国人、zhōngguórén」のほうを口にするのを選んだのです。教室ににわかに生じた緊張を、日本人のほうの先生が破ります。

「オンさんがそう言うのなら、そうなのね」

ほかのひとたちにも言い聞かせるような調子で彼女はうなずいていました。中国人の先生は笑みを保ったまま、特に何も言わなかったと記憶しています。

(わたしが言うなら、そう?)

それならわたしはいっそ、「是,我是日本人(はい、そうです。わたしは日本人です)。」と答えてもよかったかもしれません。むしろ、そのほうが当時の自分の感覚により近かったのですから。けれどもあのときのわたしは「我是日本人。」と答えることができませんでした。それは正しい(・・・)答えではないと思っていました。

なぜならわたしは、自分のことを、台湾人だと思っていたのです。

ふだんは忘れているけれど、ほんとうは台湾人。実は台湾人。こう見えて台湾人。 

そうであるからには、「日本人」よりも「中国人」と答えたほうが、より(・・)正しい(・・・)。そう、この二択しか、存在しないのなら。

実は、わたしが使うことになった「中国語」の教科書のどこを探しても、台湾人、の三文字は見当たりませんでした。

また、わたしの教科書の例文に登場する日本人たちは中国に留学中という設定で、舞台は中国の首都・北京でした。北京飯店、中南海、北京駅、長安街……さまざまな写真がところどころに掲載されています。特に印象的だったのが、見開きで載っていた毛沢東の肖像画で有名な天安門広場の一枚です。

 

日本人と中国人。

その二択なら、台湾人である自分は中国人のほうに近しいのだとわたしは思い込んでいました。なぜなら、中国人と台湾人は、どちらも中国語を喋るからです。

17歳のわたしはまだ、よく理解していませんでした。

台湾人と中国人。

両者の間に横たわる、複雑で、深い溝を知りませんでした。同じ中国語を喋りながらも、中国と台湾がそれぞれ別の国家として存在している理由を考えたことがありませんでした。そして中国と台湾が、お互いについて正式な「国家」としては決して認め合っていないという、その事情についてもほとんど何も知らなかったのです。

中華人民共和国と中華民国。

何しろこの頃のわたしは、中国と台湾の、国家としての「正式名称」もあいまいなままでした。天安門広場の中央に掲げられた肖像画の人物・毛沢東との国共内戦に敗れた蒋介石が台湾に撤退したからこそ、台湾の人々は中国語を喋らなければならなくなった。そう、毛沢東が建国した中華人民共和国を認めず、みずからが君臨する中華民国こそが正式かつ唯一絶対の「中国」だと蒋介石が主張したために、わたしの父や母、伯父や叔母たちは、中華民国の「国民」として、「國語guóyǔ=中国語を学ぶことになったのです。

 

……けれども、わたしがこうしたことを正面から思い知らされるのは、もう数年あとになります。

——我不是日本人, 我是中国人

やんだ挙句、そう答えた17歳のわたしは、中国語とは、自分の母国語だったかもしれない言葉(・・・・・・・・・・・・・・・・・)、という程度に、漠然と捉えていました。そして、それこそがわたしが中国語を学ぼうと決意した最大の理由だったのです。

日本語ではなく、中国語を喋っている自分自身を、わたしは小さいときからしょっちゅう想像してみることがありました。それは、台湾で育っていたかもしれないわたし自身について想像することでもありました。

——又柔,你最近怎么样? 我还可以。

(又柔、あなたはこの頃どんな感じ? わたしは、まあまあってとこかな)。

ときおり思い出したように、彼女——台湾で育っていたはずのわたし自身——に、かろうじて覚えている中国語で呼びかけることもありました。

わたし自身の「分身」である“又柔(Yòuróu)”は、“ゆう”や“優”たちとは別格の存在でした。なぜなら彼女だけは台湾に住んでいて、中国語を喋っているからです。わたしは、「又柔」という漢字を挟んだこちら側には“ユウジュウ”と呼ばれる自分がいて、あちら側には、“Yòuróu”として生きている彼女がいる、とよくひとりで想像しては楽しんでいたのです。そうであったからこそ、

——温又柔是你?哇,这么好听的名字

中国人の先生が感嘆しながら「温又柔(Wēnyòuróu )」と口にしたときは、ひそかにどぎまぎしたぐらいでした。その響きは、もう長いこと、このわたしの姓名というよりも、台湾にいる彼女(・・)の姓名として、心の中でずっと大切に思っていたものだったので。

オンユウジュウとウェンヨウロウ。

わたしは、彼女——台湾で育っていたはずのわたし自身——の母国語であるからこそ、中国語に対して特別な親しみを抱いたのだし、それを「第二外国語」として学べるのが、とにかく嬉しくて仕方がありませんでした。

——又柔,我终于开始学习你的语言,国语

(又柔、いよいよわたしも、あなたの言葉、中国語を学びはじめたよ!)

ところが厳密には、わたしが教わることになった中国語は、台湾人たちが「國語guóyǔ」と称する中国語ではなく、「普通话/ pǔtōnghuà」と呼ばれる中国の中国語でした。そう、それは彼女——「又柔」という漢字を挟んだあちら側で、ヨウロウとして生きているもう一人のわたし——の言葉そのものではなかったのです。

もっとも高校在学中のわたしは、「國語」と「普通话」の違いや、その違いを生み出すことになった歴史的経緯や、現在進行形で続く政治的な状況の深刻さが、まだよく呑み込めず、この調子で「第二外国語」としての中国語を勉強し続けていきさえいれば、“ウェンヨウロウ”と名乗るのにふさわしい台湾人(・・・)らしさ(・・・)を自分はきっと取り戻すことができるはず、とのんきに思っていました。

 わたしが、わたしに似た彼女を書こうとしても……

 

さて、こちら側のわたし(・・・・・・・・)

中国語を学びはじめたものの、高校生になったオンユウジュウの日々は、中学までと大きく変わったわけではありません。一日の中で、ペンを握り、何かを書くひとときが最も心安らぐ、というのも同じでした。わたしはあいかわらず、暇さえあれば何かを書いていました。日記。手紙。そして、小説らしきもの……中学を卒業するまでわたしは、自分がおはなしを書いている、ということを誰かに告げたことはありませんでした。隠しておきたかったわけではないのですが、おおっぴらに言いふらすようなことでもないとも思っていました。

けれども高校生になってできた数人の友だちには、ごく自然と打ち明けられたのです。しかも、わたしが書いたものを、彼女たちはけっこう面白がってくれます。わたしがプリントの裏面とかルーズリーフに書いた「作品」を回し読みした友人たちが、次回作は? とか、新作は? などと期待してくれるので、わたしはすっかりその気になり、休み時間に読み終えられる程度の短いおはなしを書いては、“短篇小説”と称して披露しました。そうやって書いたものが、ありがたいことにやはりなかなか好評だったため、調子にのって、わたしは作家になるしかないのかな、などと気取ってみたり。いま思えば恥しいのですが、幸いなことに、そんなわたしを、わたしの友だちは笑ったりしませんでした。むしろ、ユウちゃんなら作家になれるよ、と肯定してくれていたのです(わたしはずっと、心に決めていたのです。高校生になったら自分のことを“ユウ”と呼んでもらおうと)。

自分が書いたものを好きと言ってくれるひとがいる。そのことは17歳だったわたしにとって、とてつもなく嬉しく、また大きな力となりました。読まれることの手応えを知れば知るほど、以前にも増して、書くという行為に没頭するようになっていきました。

一方で、卒業後の進路についてもそろそろ考えなければなりません。小中学生の頃と同様、高校2年生のこのときもまた、わたしの最も得意な科目は「国語」でした。理系か文系かでいえば、わたしは迷うことなく文系を選ぶつもりでいました。

個人面談の日、担任のⅠ先生がわたしにたずねます。オンは将来どんなことがしたい? わたしはほとんどためらわず、作家になりたいと思ってます、と告げました。わたしの答えを聞いたⅠ先生は、そうか、とほほ笑んだあとわたしをまっすぐ見つめます。

「それで、どんな作家になりたいんだ?」

わたしはすぐに答えられません。少しのまのあとやっと口から出たのは、小説を書いてみたいんです、という言葉でした。作家といえば小説を書くひとたちのことだとわたしは思っていたからです。その時期のわたしときたら、題名に惹かれて手に取った喜多嶋隆さんの『ポニーテールは、振り向かない』に夢中になって、“ポニーテール”シリーズ全5冊を読破したのち、山田詠美さんの『放課後の音符』『蝶々の纏足』『風葬の教室』を立て続けに読み、その後は山田さんが薦めるフランソワーズ・サガン『悲しみよ、こんにちは』に手を伸ばし、サガンがたった18歳でそれを書いたことに驚愕したばかりでした。町の本屋さんにも学校の図書室にも、ありとあらゆる種類の本が揃っているというのに、わたしは気がつけばそんなふうに、一人のどことなく意固地な、よくいえば凛としたたたずまいの少女が主人公の小説ばかり選んでしまうのでした。そんなふうなことをまとまらないままに話すと、そうかそうか、とI先生はまたもやうなずき、穏やかに諭してくれます。

「作家になりたいなら、好きな小説に限らず、いろんなジャンルの本をたくさん読むべきだろうな」

それから、こうも言い添えました。

「それに、いろいろな経験を積んで見聞を広める必要もあるね」

先生の言うとおりです。

“書く”ことばかりで、いろいろな経験は言うまでもなく、“読む”ことがわたしには圧倒的に足りない、ということを先生の一言で思い知らされました。そして、これからはいろいろな本を、もっと読もう、たくさん読もう、と決意しました。

それからは、文芸書のみならず、他の分野の本も意識するようになりました。そのうち、哲学や現代思想の棚の前で立ちどまることが増えました。本屋さんや図書室で長く過ごすうちに、自分を成長させてくれる言葉はこうした本の中にあるにちがいないと予感したのです。そうであったからこそ、少々とっつきにくくても背伸びをして、自分なりにどうにか理解しようと努めました。琴線に触れる言葉と出会うと、必ずメモをしました。たとえば、とある哲学入門書で引用されていたアルベルト・アインシュタインのこの言葉……

——学べば学ぶほど、自分が何も知らなかったことに気づかされる。自分が何も知らなかったと気づいたら、気づいた分だけ、また学びたくなる。

(わたしは、ちゃんと学んでいる?)

勉強なら、一応、していました。毎日、授業をそれなりに真面目に受けていたし(とはいえ、あまりにも退屈な時間には、授業とは関係ないことをノートの余白に綴ったり、夜更かしした翌日は眠気に負けて居眠りすることもあったけれど)、定期テストが近づけば、それに備えるべくちゃんと勉強をしていました。たとえば、あの日も。

放課後だったと思います。わたしはふたりの友だちと図書室にいました。窓の向こうの校舎と校舎の合間から、橙色に光る夕焼け雲が見えました。校庭ではサッカー部かどこかの部活が練習中らしく、ホイッスルの音がときおり響きます。

「こんなとき」

わたしが呟くと、向かいの席でせっせと勉強に励んでいたAちゃんが顔を上げます。カウンター席の奥に司書の先生はいたけれど、わたしたちのほかには誰もいませんでした。

「アンキパンがあったらいいのにな」

Aちゃんだけでなく、わたしの隣にいたNちゃんも、ほんとだね、と笑います。

アンキパンとは、ドラえもんのポケットの中に入っているひみつ道具の一つで、パンの表面にノートや本の文字を写して食べると、その内容が確実に暗記できる、という道具です。Aちゃんが周囲をはばかるように笑いながら、

「アンキパンよりも、わたしはコンピューターペンシルのほうがいい」。

コンピューターペンシルもまた、ドラえもんの道具の一つ。どんな問題も、ペン先をかざしただけですらすらと勝手に解いてくれる代物なのです。AちゃんとNちゃんとは出会ってすぐに波長が合いました。こんなふうにわたしが急にドラえもんの話を持ち出しても、ふたりともすぐにわかってくれるので、いつも嬉しく心強く思っていました。

この日、わたしたちは来たる定期試験に備えて勉強中でした。わたしは「世界史B」のノートを広げていました。蛍光ペンに彩られた重要単語や用語の数々——ランカスター朝、ヨーク朝、テューダー朝——を頭に叩き込むのにいいかげんうんざりしてきたところで、アンキパンのことが頭に浮かんだのです。AちゃんとNちゃんの反応がよかったので、ここぞとばかりにわたしは身をのりだします。

「これ、いまがんばって覚えても、試験が終わったらみんな忘れちゃうんだよね」

中学のときから、漠然と抱いていた疑問でした。

「それに、教科書をめくればぜんぶ書いてあることを、なんでいちいち覚える必要があるんだろう?」

AちゃんとNちゃんの表情にも神妙さが帯びてきます。

「仮に、ここにあることが絶対に覚えておくべき重要なものなのだとしたら、こんなふうに、やみくもに暗記するんじゃなくて、もっとこう、全体の流れというか、それぞれの出来事の背景を順を追って把握したうえで、ちゃんと理解しながら一つ一つの用語や単語を覚えたいよね」

Nちゃんがうなずきます。

「いいね。その方法なら、知識がしっかり定着しそう」

「でも、残念ながらいまのわたしたちに、そんな時間はないんだよ」

Aちゃんがため息まじりに宣告したとおり、「世界史B」の試験は数日後に迫っていました。

わたしたちは、なんとなくわかっていました。目前に控える試験のために、いま、自分たちがせっせとしていることが、ほんとうの意味では勉強とは呼べないのだということを。仮にこれが、こんなことが「勉強」なのだとしたら、勉強とはなんと退屈なものだろう。アンシュタインの例の言葉とはあまりにかけ離れています。

けれどもAちゃんもNちゃんも、そしてわたしも、自分たちを取り囲む現実を思うと、それほど強気ではいられませんでした。

試験のときは、各科目でできるだけ高得点を取ったほうがいい、とわたしたちは刷り込まれていました。そのほうが進路に関する選択肢は増え、先生たちの期待は高まり、親を安心させることにも繋がる……そういう世界で、わたしたちはわたしたちなりに真面目に生きていました。逸脱が、こわかったのです。もしもそこからこぼれ落ちたなら、いま、自分を縛るものから自由になれるかもしれない。でもその分、いま、想像できないような、べつの厳しさに晒される可能性もある……。

「こうやって三人で嘆き合ったことも、そのうち、いい思い出になるのかな?」

AちゃんとNちゃんの、どちらがそう呟いたのか、もう忘れてしまいました。あるいはそれはわたし自身の心の声だったのかもしれません。わたしたちはちゃんとわかっていました。こうして嘆くことはあっても、結局自分たちはまあまあ平穏な日々を生きているのだ、と。ただ、それは、ぬるま湯にも似て、ずっと浸っていたらいろいろなものがふやけてしまう。さて、どうしよう?

 

その夜、試験勉強そっちのけでわたしはノートを開き、メモをとります。

人気のない図書室。ホイッスルの音。窓の向こうの夕焼け空。頬杖をつきながら、丸暗記なんかかったるいと親友たちに嘆く一人の女の子……このことを書いてみたい(・・・・・・・・・・・)この頃からわたしは、自分が抱く些細な違和感——試験のための丸暗記にいったい何の意味があるのだろう、というような——や、そのことをどのように割り切り、また、どうにかして受け入れようと戸惑うさまを、おはなしの中で再現し、その過程で自分自身の感情について考察することに興味が湧くようになっていました。それは、等身大の自分について記述するという意味では日記を書くことにも似ていましたが、日記ならば、わたしはわたしでしかいられません。わたしは、わたしではない誰かに、わたしが感じ、考え、思っていることを、あえて追体験させることをとおして、自分が何を感じ、考え、思っているのか、自分なりにもっと客観的になって、できる限り正確に言語化したかったのだと思います。

——こんな丸暗記なんか、なんの意味があるのかな?

わたしは、彼女に名前をつけなければ、と思います。

彼女の名が持つ、音や響き。家族からの呼ばれ方。親しい友だちがつけてくれた愛称。教師や、それほど親しくない同級生たちに呼ばれるときのために、姓も考えます。

それは、とても重要な作業でした。名前に関するこういったことを一つずつ決める過程で、わたしの分身、または一部でしかなかった彼女は、わたしの言葉を住処とする、わたしとは異なる輪郭をもつ存在となってゆくのです。

わたしの中のわたしによく似た彼女の姓名を考えるとき、わたしはいつも真剣でした。真剣にそのことを楽しんでいました。そう、複数の候補の中から最もふさわしい姓名を吟味することは、重要であると同時に、とても楽しい作業でもあったのです。

けれども、いまふりかえってみると、名乗ったとたん、例の、日本語がおじょうずですね、とか、どこの出身なのですか、などと訊かれるような姓名——そう、「温又柔」のような——を、こういうときのわたしは、のっけから排除していました。

わたしがいつも書きたかったのは、自分自身とよく似た、ごくふつう(・・・)の、17歳の女の子についてのおはなし。それなのに、いや、そうであるからこそ、彼女たちは必ず、作者であるわたし自身とはちがって、日本人でなければならなかったのです。必ず、そうでした。いや、むしろ、彼女たちが日本人ではない、という選択肢ははじめから頭にありませんでした。 

 

だって、あの日も、わたし以外の全員が、こう答えていたではないか?

 

是,我是日本人。」

(はい、わたしは日本人です)

 

誰かに、そうしなければならないと強いられたり、命じられたのではありません。ただ、なんとなく、そのほうが、おはなしの主人公としては、ふつう(・・・)、なのだとわたしは思い込んでいました。そして、そんな彼女たちには、やはり、ふつう(・・・)の姓名が似つかわしいのです。

中国語で発音するなら輝かしいけれど、日本語で名乗ると少々へんてこで、ふつうではない。そんな特別(・・)な姓名は、日本人である彼女たちにはふさわしくない。こういう姓名の持ち主は自分だけで十分だ、と17歳のわたしは思っていました。

ウェンヨウロウとオンユウジュウ。

ところが、「温又柔」を挟んだ、こちら側とあちら側は、実のところ、きっぱりと分断されている対岸同士などではなく、むしろ、こちらとあちらを分かつ境目はとても曖昧で、そうであるからこそ、どちらか一方にのみ留まりたくとも、知らず知らずのうちに見えない線を越えていたり、逆に越えられなかったりと、常に両岸の間を揺れながら育つ者もいる……数年後、そのことに気づき、日本で育った一人の台湾人の女の子について書こうと決意するまで、わたしの中の彼女たちの姓名はどれも、日本語として(・・・・・・)、とてもふつう(・・・)なものばかりだったのです。

                                          (連載第5回に続く