温又柔さん 「国語」から旅立って

読者のみなさんへ

あなたには、この文章が読めます。

なんの苦もなく意味が呑み込めます。

声に出して読みあげることだってたやすくできることでしょう。

それどころか、私が書いたとおりにそっくりと書き写すこともできるはずです。

さて、あなたはこの文章が日本語だと意識しましたか?

私は小説家です。

名まえは、温又柔。

おんゆうじゅう、と読みます。

日々、小説やエッセイを書いたりしています。

今でこそ、ほかのどんな言葉よりもずっと、私は日本語が得意です。けれども私は、はじめからずっと、日本語だけをしゃべっていたのではありません。

赤ん坊の頃の私は、両親をはじめ、近くで暮らしていた伯父や叔母、いとこたち、それに町の人たちが話す中国語や台湾語と呼ばれる言葉が飛び交う環境の中にいました。
やがて私が三歳になるかならない頃に、父と母は私をつれて、それまで住んでいた台湾から日本の東京に移り住む準備をはじめます。

あるとき、東京の町を家族そろって散歩していたら、あんよがじょうずね、といった調子で一人の老婦人が私たちに話しかけてきました。彼女は私にほほ笑みかけると、いくつ? とたずねました。きょとんとする私の代わりに父が答えます。

コノコハ、ニサイデス。

やさしそうな老婦人が立ち去ってから、ニサイは二歳という意味なんだよ、と中国語(あるいは台湾語)で父は母と私に教えてくれます。

その頃は母だけでなく、私もまた、中国語(と台湾語)のほうがずっと得意でした。

ニサイ、という響きは二歳の私をよっぽど魅了したらしく、日本のひとからほほ笑みかけられると、ニサイ、と自分からすすんで言うようになりました。

ニサイ、は私がうまれてはじめて覚えた日本語だったのです。
もちろん私は永遠にニサイではありません。

たちまち三歳になり、五歳になり七歳になり十一歳になり十三歳になるにつれ、私の日本語はどんどん上達してゆきました。

さて。

今日も私は、小説を構想するために、エッセイを仕上げるために、PCとむきあっています。

私の目の前のモニタ画面に浮かぶのは、ひらがな、カタカナ、漢字。

自分のつかっているこの言葉が、“日本語である”という事実を、私はいつもちゃんと思いだそうと努めています。

そうしないと、はじめからこの言葉だけを、日本語のみを、自分は聞いたりしゃべったり読んだり書いてきたのだと錯覚してしまいそうになるからです。

まわりにいた大人たちの声をとおして中国語や台湾語をたっぷりと聴き、自分自身もしゃべっていた頃のことを、私は“なかったこと”にはしたくありません。

そう、ニサイになるまでの自分のこともきちんと大切にしながら、この言葉、日本語を話し、書いてゆきたいと私は思っているのです。

「国語」から旅立って、と題したこの連載では、どうして私がこんなふうに感じ、思い、考えるようになったのか書いてゆくつもりです……はじまりは、私が小学一年生のときの「国語」の教室から!

どうぞ、おつきあいくださいませ!

2018年9月 温又柔

撮影 ©朝岡英輔

温又柔
(おん・ゆうじゅうWenYuju)

1980年、台北市生まれ。小説家。3歳から日本に在住。法政大学大学院・国際文化専攻修士課程修了。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞し、作家デビュー。両親はともに台湾人で、日本語、台湾語、中国語の飛び交う家庭に育つ。創作は日本語で行う。著作に、『たった一つの、私のものではない名前 my dear country』(Happa-no-Kofu, 2009年)、『来福の家』(集英社、2011年、のち白水社、2016年)、『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年)、『空港時光』(河出書房新社、2018年)、『台湾生まれ 日本語育ち 増補版』(白水社、2018年)など。

2018年10月1日より
連載スタートです!!
毎月1日に更新されます。
楽しみにお待ちください。

illustration:100%ORANGE/及川賢治
第1回

ほんもののガッコウ

文字をおぼえる、文字になじむ

一九八七年の、四月。

わたしは胸を高鳴らせています。

鏡にうつる自分の姿は、おねえさん、のようです。

ピカピカなのはランドセルだけではありません。翌日にひかえる小学校の入学式に着てゆく予定のおろしたての服——紺のブレザーにブラウス、プリーツスカート——で身を包んでいました。頭には、やはり真新しい通学帽がのっています。

ランドセルを背負ったまま、父と母、それから二歳になったばかりの妹がみまもる中、いちねんせいになったら、いちねんせいになったら、ともだちひゃくにんできるかな……とわたしは歌いました。

いよいよほんものの“学校”に通えると思って、わたしはとってもうれしかったのです。

というのも、我が家では幼稚園のことをガッコウと呼んでいました。

その頃、わたしの両親は台湾から日本に来たばかりで、まだ日本語があんまりじょうずではありませんでした。

たぶん父が、どこかで勘違いして覚えたのでしょう。

父よりもさらに日本語がおぼつかなかった母もまた、わたしが日々通っているところのことをガッコウと呼んでいました。

それでわたしも、自分はガッコウに行っているのだと思っていたのです。

あるとき、ガッコウのすべり台は公園のよりもちいさいね、と言ったら一緒にいた子にふしぎな顔をされました。

このときにかぎらず幼稚園にいた頃のわたしは、周囲につうじない話し方をしてしまうことがよくありました。

もうひとつもってるよ、と言えなくて、ヨビがあるよ、と言ったり、また今度ね、と言おうとして、またミライにね、と言ってしまったり……余分な備えのことを「予備」と表現したり、これからのことを示す意味で「未来」と言ったのも、父や母の言い方を真似したからなのですが、周りからきょとんとされることを重ねながらわたしは、父と母の表現はたぶん父と母だけのもので、ガッコウではつうじないこともある、と学んでゆきました。

あのときも、ガッコウと思いこんでいた幼稚園のすべり台のかたわらで、

——ユウジュウちゃん、ここはガッコウじゃないよ。ヨウチエンだよ。ガッコウは、お兄さんやお姉さんが行くところのことだよ。

わたしはそう教えてもらいました。

なるほど、なるほど。

そのとき以来、自分はガッコウではなくヨウチエンにいるのだと思いなおすようになりました。

けれどもおうちに帰ると両親はあいかわらず、ガッコウはどうだった? とたずねてきます。

パパママちがうよ、わたしが行ってるのはヨウチエンだよ、と一回ぐらいは言ったような気がするけれど、父も母もわたしが卒園するまでずっと幼稚園をガッコウと呼んでいました。そのたびに、ヨウチエンなのになぁ、と感じながらも、まあいいや、と心の中でこんなふうに思っていました。

 

(いつかは、わたしもガッコウに行くようになるんだから)。

 

その、いつか、が、すぐそこに迫っていました。

 

——いよいよ、ほんとうのガッコウに行けるんだ!

 

晴れて入学式を終えると、わたしはめでたく小学一年生になりました。

ランドセルを背負ったわたしの毎日の行き先は、ほんものの小学校です。

 

教室では、国語の時間がはじまります。

担任のK先生が、

 

空中黒板!

 

と言って、自分の右手のひとさし指を宙にかざします。

わたしもK先生を真似て、宙にむかって指をのばします。

わたしの隣の席の子も、前の席の子も、同じようにします。教室じゅうの子のひとさし指が揃うのを確かめてから、

 

ア、

 

と声に出しながらK先生は空間に、あ、と描いてみせます。

わたしたちは皆、それを真似します。

 

イ、

 

という声に合わせて、「い」。

 

ウ、

 

と聞こえたら、「う」。

 

目には見えないけれど、人数分のひらがなが空中黒板につづられてゆきます。わたしも、まわりのみんなも、ひらがなの読み方と書き方を、そんなふうにして教えてもらいました。

 

まもなくK先生は、空中黒板ではなく本物の黒板もつかうようになります。

私たちも、宙に指で、ではなく、紙に鉛筆で文字を書きます。

 

このときを境に私の世界はがらっと変わりました。

 

文字を教わるまでの私にとって、言葉といえば、声によって表現するものでした。

言葉は、声に発した瞬間、流れ去ってゆくしかないものでした。

ところが、あ、という字を書けば、ア、という音を紙の上に残すことができます。

言葉と呼ぶにはあまりにも短いけれど、それでも私は、ア、という自分の声が、あ、という文字として、目に見える形になるということに感動と興奮を抱きました。

空中黒板も面白かったけれど、音でしかなかった言葉を、文字を書くことによって紙の上に射とめるという行為に、私は魅了されたのです。

 

ひらがなをすっかり覚えてしまうと、わたしは国語の、とりわけ作文の時間を楽しみに思うようになりました。

 

四百字詰めの原稿用紙が配られると、たちまち升目を埋めました。

一枚では足りない。二枚にも収まらない。新しい作文用紙をせがむわたしに、あなたには書きたいことがたくさんあるのねえ、とK先生が嘆息します。

 

いま思えば、書く、というよりは、しゃべる延長で、わたしは鉛筆を動かしていました。口を動かすときの速度で書こうとするから、文字どおり、息つく間もありません。最後の句点「。」を打ったあとは、水から陸にあがったときのように、たっぷりと息を吸いました。

 

ひらがなという文字を覚えたばかりのわたしにとって、字を書くこと、とは、声を記すこと、そのものでした。書くとはわたしにとって、自分の声を、自分の字で射とめるという作業だったのです。

 

そうやってできあがった自分の文章を、K先生に読んでもらえることも、書くことは楽しいことだと私に思わせました。

K先生はかならず、わたしの作文に赤いサインペンで感想を寄せてくれました。

図工の時間が楽しかったことを書いたときは「おんさんは、えをかくのがじょうずだものね」とあったし、家族で水餃子をつくったと書いたときは「じぶんでかわをつつんだぎょうざはとてもおいしそうだね」と書いてくれます。

赤いサインペンによる端正な文字をたどると、K先生の声が聞こえてくるようでした。

 

わたしの書いたものを、K先生は正してもくれました。

たとえば……

 

「きのう、いもうと、と、びすけとたべた」

 

 

「きのう、いもうと、と、びすけっとたべた」

 

一年生のときの私は、小さい「っ」をしょっちゅう忘れていました。

自分でも、その理由をよくわかっていました。

なにしろ、「っ」という音は、聞こえないのです。

五十個分のひらがな、一つずつなら何にも見なくても、まちがえることなく読んだり書いたりできるようになったあともわたしは、しばらくのあいだ、「っ」の扱い方に不慣れでした。

 

同じく国語の時間のことです。

きょうは誰に読んでもらおうかな、とK先生が教室を見渡します。はい、はい、はい、と元気よく手をあげる子の中にわたしもいます。じゃあきょうはオンさんに読んでもらいましょう、とめでたく選ばれたわたしは、いそいそと教科書をもって立ちあがり、おもむろに読み始めます。

 

おじいさんは、あなのなかにおっこちるおむすびをおいかけました……

 

教科書に沿って、一文字一文字、わたしは声に出してよみあげます。

自分の声が教室中に響き渡るのを感じます。

わたしが全部読み終えるのを待ってから、オンさんのおむすびはすっとととんって転がるんだね、とK先生はほほ笑みました。

「でも、おじいさんのおむすびはすっとんとんと転がったって書いてあるから、オンさんもすっとんとんって読んであげようね」

わたしは自分でも気づかないうちに、おむすびころりんすっとととん、と読んでいたのです。

K先生は、小さい「っ」がどこにあるのか気をつけようね、とも言いました。

 

すっとととん、という響きを、頭ごなしにちがうと否定するのではなく、オンさんのおむすびが転がるときはそういう音がするんだね、と認めながら、そのうえで、正しくはこうだよ、と諭してくれるK先生にみちびかれながら、わたしは教科書や絵本や子ども向けの雑誌に連なる文字をどんなふうに発声したらいいのか学び、徐々に慣れてゆきました。

 

こくご、さんすう、りか、しゃかい……

 

K先生のおかげで、ほんもののガッコウでの日々はわたしにとって、なかなかわるくないものでした。

二学期になる頃には、いちばん好きな科目は? と聞かれると、迷わず、こくご! とわたしは答えるようになりました。

“翻訳家”の誕生

ひらがなと、カタカナ。

漢字も、一、二、三と画数の少ないものから少しずつ……文字は、わたしの中で着実に増えつつありました。

自由自在につかいこなせる文字が、一つまた一つと増えるたびに、書けることの幅が広がる感じがして、わたしはますます書くことに没頭するようになってゆきます。

 

そして、この頃から、小さな「翻訳家」がわたしの心の中に住み始めるようになりました。

 

当時のわたしは、父と母、そして五つ年下の妹と四人で暮らしていました。

家に帰るといつも、日本語以外のことばがたくさん飛び交っていました。

 

わたしの父と母はどちらも台湾人です。

二人とも、日本に来る前は、日本語をしゃべっていませんでした。

中国語を話していました。

 

わたしが、自分の両親は中国語をしゃべるんだよ、というと、 あれっ? と思われることがあります。台湾人なのに台湾語をしゃべらないの? って。

 

確かに、台湾のひとたちは、中国語のほかに台湾語とよばれる言語もしゃべれるひとがたくさんいます。

わたしの父と母もそうです。

わたしは三歳まで台湾に住んでいたのですが、従妹がうまれたときは、父や母、おじやおばたちが赤ん坊である従妹がよこたわるベッドをのぞきこみながらこんなふうに言うのを耳にしました。

 

「這個娃娃、ぴーふーゆーみーみー。ちょ・ごーつゅい。好可愛」

 

這個娃娃と好可愛と漢字で書いた部分は、中国語。

ぴーふーゆーみーみーとちょ・ごーつゅいは、台湾語。

 

これを日本語に「翻訳」すると、

 

「この赤ちゃんほっぺぷくぷく。可愛い。とっても可愛い」

 

という意味になります。

 

両親をはじめ、わたしの周囲にいた台湾の大人たちは、こんな喋り方をよくしていたものです。

 

「台湾語」とは、福建省南部に暮らしていたひとびとが話す「閩南語」(びんなんご)を源とした言語です。

いまから約三百年ほど前、大陸の沿岸部に位置するこの地域から、海を越えて台湾にやってきたひとたちがたくさんいました。

かれらは台湾に移り住んだあとも、出身地である福建省南部の言語である閩南語をしゃべり続けました。

実は、こうしたひとたちを先祖にもつひとは、台湾の全人口の七割ほどを占めます。

わたしの父や母、祖父母たち、さらにさかのぼって曾祖父母のその前の代のひとたちも、福建省南部からやってきました。祖父母や父母が話すのをずっと聞いてきたので、わたしの両親やおじやおばがそうであるように、台湾人のうちの七割ほどは「閩南語」を起源とした台湾語をしゃべることができます。

もっと正確に言えば、台湾語しゃべることができます。

そのうえで、中国語をしゃべります。

 

ちょっとややこしいのだけれど、台湾の正式名称は「中華民国」といいます。

そして中華民国の公用語は中国語です。

公用語とは、ある国や地域でおおやけの場での使用が定められている言語、のことです。

そのため台湾のひとたちは、学校や会社などといった場では中国語をつかわなくてはなりません。

たとえばわたしの母は、家の中ではかのじょの両親──私の祖父母——と台湾語しかつかっていませんでした。

母が中国語をしゃべるようになったのは小学校に通うようになってからだといいます。

父もまた、そうでした。

台湾の子どもたちは、学校では、中国語を教わります。

わたしの両親は、わたしがK先生から、あ、い、う、え、お……とひらがなを教わったたように、台湾の小学校で中国語の読み書きを教わりました。

ただし、ほとんどの子どもたちは、学校では中国語を学びながらも、家庭では親や祖父母と台湾語をしゃべりつづけます。

そのため台湾では、中国語と台湾語、少なくとも二つの言語をどちらもしゃべれる、というひとが少なくありません。

それも、「這個娃娃、ぴーふーゆーみーみー」といったふうに、それぞれを同じ一文に織り交ぜる、といった調子で。

 

少なくともわたしの知る台湾人の多くは、こんなふうに中国語と台湾語を一緒くたにしてしゃべるひとたちばかりでした。

さらに我が家の場合、日本語が加わってきます。

たとえば、こんなふうに。

 

「還在睡覺!  キンキャイ、もう、ワ・ンーザイよ!」

 

まだ寝てるの、と中国語でなじり、早く起きなさい、と台湾語でせかし、もう知らないからね、の、もう、の部分を日本語で強調し、知らないから、と台湾語で言って、最後の語尾は、よ、と日本語。

 

実はこれは、朝寝坊したがるわたしを叩き起こすときの母のしゃべり方なのです。

わたしは、特に母の声をとおして聞こえる中国語、日本語、台湾語がぽんぽんと飛び交う中、日々を過ごしていました。

 

台湾語にしろ、中国語にしろ、聞けばわかる。でもわたしはだんだんと、日本語しか口にしなくなってゆきます。

家の外では日本語しかつうじないので、いつのまにか、家の中でも日本語ばかりしゃべるようになっていたのです。

両親もまた、わたしの日本語が上達することをおおいに喜んでくれました。中国語と台湾語をしゃべらなくなってしまったわたしを、心の中ではさみしく思っていたかもしれません。それでもわたしが、こくごの時間がいちばん好きなの、と言ったり、K先生の赤いサインペインによるおおきな花丸付きの作文を見せると、よくがんばったね、と褒めてくれます。

 

——うちの娘の日本語は、日本人にも負けないぐらいだね。

 

なにしろ、ここは日本。

家から一歩出たら、日本語しかつうじない世界なのです。

 

そのことを、私の中に芽生えつつあった「翻訳家」はよく知っていました。

 

そのため、たとえばさきほど紹介した母の言葉について書くときも、聞こえたとおりに、ではなく、

 

「はやくおきて。もうしらないからね」

 

と「翻訳」します。

だれかに、そうしなさい、と言われたのではなく、自分からすすんでそうしなければならないと思ったのです。

 

というのも、わたしにとってのひらがな(そしてカタカナ)は、「ア、イ、ウ、エ、オ……ワ、ヲ、ン」という五十の音を示すための文字だったのです。

 

文字をおぼえ、文字が自分の中に定着するにつれて、わたしは、き、なら、キ。ほ、なら、ホ。う、なら、ウ、と、ひとつの音と文字とがぴったりと重なっているとうたがわなくなってゆきました。

そして、紙の上に記すことができるのは、「ア、イ、ウ、エ、オ……ワ、ヲ、ン」という五十+αの文字とぴたり重なる音のみなのだと思い込むようになります。

 

これでゆくと、台湾語で「キンキャイ(早く起きなさい)」と私に言うときの母の言葉を、そのまま紙の上に描きつけるのは、なんだか無理があるように思えました。

というのも、母の声をとおして聞こえるその言葉を文字であらわそうとすると、「ギンキャイ」と書いたほうがいいのか、「キンキャアイ」と書くべきなのか、よくわからなくなります。どっちでもあるようでいて、どっちでもないような……つまり、どう書けば“正解”なのか、わからないのです。

けれどもそれを、台湾語ではなく日本語で「はやくおきて」と書けば、どの文字を選べばいいのか迷わずに済みます。

「はやくおきて」は「はやくおきて」以外、書きようがないのだから。

 

それに、母の言葉をたとえ「キンキャイ、もう、ワ・ンーザイよ!」と書いたとしても、K先生には何のことやらさっぱりだったはず。

「はやくおきて。もうしらないからね」と「訳す」からこそ、K先生の赤いサインペンから「じぶんではやおきできたら、おかあさんはうれしいね」という返事をもらえるのだと、わたしは気づいていました。

 

こんなふうにわたしは、作文や日記を書くたびに、家の中で交わされている会話——主に母が、台湾語と中国語まじりで話す言葉——を、文章で書く必要があると、まるごと日本語に“翻訳”するようになりました。

 

そうやって書きあがったものにK先生が花丸をくれるたび、わたしの中に住み着いた小さな翻訳家はますます自信をつけます。そして、母や父の声をとおして聞こえる中国語や台湾語を、せっせと日本語に直してゆきます。

 

言葉は、声に発した瞬間、ただ流れ去るしかない。

ところが、字を書けば、紙の上に言葉を記すことがかなう。

 

ただし、紙の上に射とめることが可能なのは、日本語のみ。

そう思いこんだわたしはいつしか、ひらがな(カタカナ)と対応する五十音以外の音は、雑音だとみなすようになってゆきます。

わたしにできるほんの少しの“中国語”

一九九〇年。

日本の年号が「昭和」から「平成」になった翌年のこと。

わたしは小学校四年生、九歳から十歳になったばかりです。

 

この年、わたしたちの小学校に北京からの訪問団がやってくることになっていました。

中国からのお客さんをもてなすために、わたしたちはこんな歌を練習します。

 

 

你好(ニーハオ) こんにちは
初次见面(ツウチージェンミエン) はじめまして
你来啦、谢谢(ニライラ、シエシエ)ようこそ、ありがとう

祝您们健康(ズウニイメンジェンカン) みなさんおげんきで

 

 

中国語の部分には、カタカナでフリガナがふってあります。

先生が弾くオルガンのメロディーに合わせて、日本語と中国語が交互にでてくる歌詞を、皆で声を揃えて歌います。

 

それから、あいさつの練習もしました。

学級委員のYくんが、クラスを代表して練習したという中国語を披露します。

 

ニーハオ、シエシエ……

 

Yくんが言ったあと、クラス全員で復唱します。

おそらく、わたし以外のひとたちにとっては、中国語を口にするのはこのときがはじめてだったと思います。

わたしも、ほかの皆と同じように、はじめてそれを口にするつもりで、声をだします。

中国語をぜんぜん知らないクラスメイトたちといっしょに発声する中国語は、なんだかいつもの中国語ではないような感じがしました。

練習がひとしきり終わると、担任のT先生が言います。

 

——この調子でがんばって、中国からのお友だちを皆で歓迎しましょうね。

 

そのとき、誰かが言いました。オンさんは中国語しゃべれるんだよ。皆がわたしのほうを注目します。そうだったわね、とT先生が私を手招きします。

——せっかくだから、オンさんにお手本を聞かせてもらいましょう。

T先生が拍手すると、つられてほかの皆もぱちぱちと手を叩きます。

わたしは、どきどきしながらも立ち上がりました。

学校で、日本語しかつうじないはずの場所で、こんなふうにおごそかに中国語をしゃべるように促されたのははじめての経験だったので、ふしぎな感じがしました。先生とYくんの横にたつと、クラスメイトたちがどことなく期待のこもったまなざしで自分を見ています。しん、と静まる教室で、私はついさきほど、Yくんが言ったことと同じことをひとりで喋ってみせます。

 

ニーハオ、シエシエ……

 

私が言い終えると、T先生が率先して拍手してくれました。すぐにほかのひとたちの拍手も続きます。だれかが言います。

 

——Yよりも、オンの中国語のほうが、ほんものっぽいや!

そうだそうだ、とほかの子たちも言います。

それもそのはず。Yくんは、ついさきほど教わったばかりだけれど、わたしは赤ちゃんの頃からずっと、中国語を耳にして、口にもしてきたのだから。

 

わたしは少々こそばゆいながらも、決してわるい気分ではありませんでした。

T先生をはじめ、隣にいるYくん、いつもいっしょに過ごしているクラスメイトたちが、さすがだなあ、という目つきで自分を眺めているのだから。

 

それまでにも、よそのクラスの子や上級生、通っていたお習字教室などで、いきなり、知らないひとから、「ねえ、オンさんってナニジンなの?」と話し掛けられたことが何度かありました。

かれやかのじょは、わたしの名前が日本人っぽくないので、ふしぎに思ってそうたずねてきたのだと思います。

わたしは「タイワンジンだよ」と教えてあげます。

父や母が、日本人からそのように質問されるとそんなふうに答えていたのを覚えていたからです。

「タイワン? 聞いたことない」

と首をかしげられることもあれば、

「台湾人なのにどうして日本にいるの?」

と訊かれたこともありました。

 

さて、どうしてだろう?

 

その頃、わたしの両親のように外国からやってきて日本で暮らしているという家庭は今ほど多くはありませんでした。

少なくともわたしが通っていた小学校の、わたしがいたクラスでは、「外国人」は、わたし一人だけでした(隣のクラスや上級生の中にはいましたが)。

 

日本にいるのは、日本人ばっかりなので、そうじゃないひとがまじってると、あれっ、と感じてしまうのは無理のないことです。

わたしは、あれっという顔をされるたび、こんなふうに説明します。

 

——わたしは台湾人だけど、三歳のときにこっちに引っ越してきて、幼稚園のときから日本に住んでいるんだよ。

 

するとときどきこう聞かれることがあります。

 

——じゃあ、タイワンの言葉も喋れるの?

 

タイワンの言葉を披露するために、わたしはほんのすこし、中国語を喋ってみせます。ニーハオ、シエシエ、パオパオ……

わたしが一通り言い終えると、すごいすごい、と皆が口々に褒めてくれます。

 

とはいえ、一回や二回、そんなことがあったきりで、ふだんのみんなは、自分たちのクラスメートであるわたしがナニジンなのか全然気にしていません。

わたしも、学校にいるときは自分がナニジンなのかめったに考えません。

いや、自分以外は全員日本人なので、自分も日本人なのだと何となく思っていた気がします。

たぶんわたしのクラスメイトたちも、そんなわたしにすっかり慣れていて、わたしが実は外国人であることを忘れていたのではないかと思います。

何しろ、一年生のときからのつきあいなのです。

かれらにとってのわたしは、ナニジンかどうかという以前に、ただのわたしでした。

でも、あの日、中国からのお客さんを出迎える準備のために中国語を練習したことがきっかけで、だれかが突然、思いだしたのです。

——先生、オンさんは中国語がしゃべれるんだよ!

 

……みんなとちがって、自分だけは中国語ができる。

きっと、それをすごいこととして先生やみんなが扱ってくれたから、わたしはひそかに誇らしくなったのです。

 

数日後。

わたしたちの学校が北京からの訪問団を迎える日がついにやってきました。

カタカナのふりがながふってある楽譜で練習した歌を、わたしたちは北京からやってきた“友達”に披露します。

(クラスメートたちと声をあわせて歌うときの中国語は、やっぱりなんだか中国語ではないような感じがしました。)

給食も、北京の子どもたちと一緒に食べます。

あちらは日本語が、こちらは中国語ができないので、身振り手振りで交流します。それでわたしたちはお互いに十分、ニコニコしあえました。

わたしたちが日本語でささやきあうように、北京の子どもたちもときおりお互いに母国語でささやきあっています。

わたしはこっそり耳をこらします。

台湾を離れてからは両親が話す中国語ぐらいしか耳にしていないので、自分と同い年ぐらいの子たちの声をとおして聞く中国語は、何だか新鮮でした。そのうち、オンちゃん、なんか話してみたら、と友だちが私をつつきます。わたしは思い切って、

——ハオーマ(おいしい)?

とたずねました。

ところが、わたしに話しかけられたおかっぱ頭の男の子はきょとんとしています。おなじ机を囲んでいた日本の子たちと中国の子たちが全員そろってわたしのほうをみています。

わたしは少々焦りながらもういっぺん繰り返しました。

——ハオツーマ?

男の子の隣にいたほっぺのまるい女の子が、他問你好吃嗎(かのじょはおいしいかどうかきいている)と早口の中国語で呟くのが聞こえます。男の子もようやく顔をほころばせます。そしてわたしにむかって、

——ハオー(おいしいよ)!

と返事をしてくれました。つうじた! わたしはほっとしたと同時に、とてもうれしく思いました。日本のクラスメートたちも笑っています。お互いにちょっと照れていたのもあって、結局、いっしょにお昼ご飯を食べている間じゅう、わたしがかれらに中国語で話しかけたのはこの一言ぐらいでした。ぎこちない中国語会話がとぎれたあとも、かれらはわたしに対してにこにこ笑っていました。

たったの一言ではあったけれど、自分の中国語が通じたことがわたしはとてもうれしかった。そして、自分の口からもっとなめらかに中国語が出てくるなら、この子たちと仲良くなれたかもしれないのにな、と、日本のガッコウに通うようになってからはじめて自分がもうあまり中国語ができなくなってしまったことを残念に思いました。

 

(ハオチー)

 

それにしても、北京の子たちが話しているのは確かに中国語であったし、わかる単語もぽつぽつあったけれど、あちらにとってのわたしの中国語がたぶんそうであるように、わたしにとってのあちらの中国語も、わたしがずっと慣れ親しんできたものとはどことなく異なる響きに聞こえます。

そんなふうに思っていたら、オンさん、と教室の入り口でわたしを呼ぶひとがいます。

子どもたちを日本に引率する北京の先生たちを案内中の教頭先生でした。

教室の前の廊下の壁に貼ってあった壁新聞の一つに「わたしの故郷・台湾」とあるのを見た北京訪問団の先生たちが、この新聞の作者に会いたい、と教頭先生に頼んだのです。

壁新聞は、社会の授業で、新聞記者になって好きなことや興味のあることについてしらべよう、という課題でつくったものです。

わたしはなんとなく、そう、ほんとうに、ただなんとなく、台湾人の両親に“取材”ができるという理由で、題材に台湾を選びました。

自分の好きな食べ物(水ギョーザや、小籠包、グァバなど日本にはない果物など)や、旧暦のお正月になったら爆竹を鳴らしてあたらしい年を祝うことなどを描いた新聞の真ん中には、台湾の地図を描きました。床に広げた模造紙に台湾の形を下書きしてくれたのは母でした。

新聞の見出しははじめ、「台湾」にしていたのですが、それだと文字数が不足していてさみしいので、「わたしの故郷・台湾」と書くことにしました。

白状すれば、十歳のわたしは、故郷ということばの重みがまだよくわかっていませんでした。けれども“故郷”という漢字が加わると何となく引き締まってみえるのは面白いなと思いました。

できあがった新聞をみて、

 

「わたしの故郷(gù xiāng*)。いいじゃないの」。

 

母も父も面白がりました。中国語にも、故郷、という言い方はあるのです。

 

まさか、私のその壁新聞を、やはり中国語が読める北京の先生たちが注目するとは思いもよりませんでした。この学校には台湾の子がいるのか、と中国からやってきた先生方はすっかりと好奇心をそそられたようです。

 

……少々ややこしい話になるのですが、中国の人たちは台湾は自分たちの国の一部だと考えています。それに対して、台湾の人たちは、中国は中国で、自分たちとはちがう国であると考えています。

どちらも公用語は中国語なので、お互い中国語を話す者同士でありながら、中国と台湾の人の関係は少し複雑なのです。このことについては、おってきちんと書くつもりですが、まずはそのことだけ、頭の片隅に置いておいてくださいね。

 

教頭先生に呼ばれて廊下に出たわたしを、背広姿の立派な恰好の中国の先生たちがにこにこと見つめます。そのうちのひとり、髪の毛をきれいな七三分けにしたふくよかな体形の男性が、

——你是台湾出身的吗? 那么,我们是同胞!

(あなたは台湾出身なんだね。ならば、我々は同胞だ!)

まるで、わたしがおとなであるかのように握手を求めます。わたしがはにかみながらかれの手を握り返すと、おとなたちは和やかな雰囲気で拍手をしてくれました。そのようすを、教室にいる何人かの同級生たちがうかがっているのが、ちょっとこそばゆかったです。

 

同胞(tóngbāo)。

 

はじめて、耳にしたことばでした。

それは、おなじおなかの中からうまれた者、という意味の中国語。台湾は中国の一部だと考えている中国のひとは、台湾出身のわたしを自分たちの仲間とみなすのです。握手を交わすわたしたちのかたわらで、

——××さんは、あなたは台湾人なので自分たちは仲間なのだとかのじょに言いました。

教頭先生の横にいた女性が、七三分けの男性がわたしに掛けた言葉を日本語に通訳するのが聞こえます。そうかそうか、と教頭先生がうなずきます。

わたしは、自分よりもずっと立派な教頭先生が通訳を介さないと理解できない北京のひとたちのことばを自分は直接聞き取れることが、つくづくふしぎに思えました。

——Yよりも、オンの中国語のほうが、ほんものっぽいや!

 

日本人の同級生たちにとっての、中国語を話すタイワン人のわたし。

中国からやってきた子どもたちに、かろうじて通じる自分の中国語。

中国の大人たちの「台湾出身なら、我々は仲間だね」という親近感のこもった言葉。

 

ほんの少しの中国語ができることは、わたしにちょっと特別な、心弾む経験をもたらしました。そのおかげでわたしは、ひょっとしたら自分はほかの子たちよりも少しだけ特別なのかもしれない、とひそかに胸を弾ませます。

その“特別さ”についてわたしが、このときのようなあかるい気持ちで、ではなく、むしろ、心ぐるしさとともに向き合わざるをえなくなるのは、もう少しあとのことです。

(第二回目に続く)

*こういった表記を初めて見る人も多いかもしれませんが、「ピンイン」と呼ばれる中国語の発音記号で、漢字の読み方を示すものです。全部で五十種類あり、ご覧のとおりアルファベットで表されていますが、英語の場合の読み方とは少し異なります。この「ピンイン」については、またどこかで触れたいと思っています。