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村上克尚 著

動物の声、他者の声
――日本戦後文学の倫理


四六判上製400頁

定価:本体3700円+税

発売日 17.9.25

ISBN 978-4-7885-1537-6




◆「動物」とは何か、戦後文学の「倫理」を問う
 七〇年前の「大東亜」を呼号した戦争は自国はもとより東アジアと太平洋地域に多大の殺戮・破壊をもたらしました。その反省から戦後文学においても「人間性・主体性の回復」が叫ばれました。しかし(この)戦争そのものが、「人間の尊厳の名の下に」それを持たない存在を排除し殺害していくものだったとしたらどうなのでしょうか。「あいつらは人間ではない(動物と同じだ)」として暴力が横行する。そう考えて振り返ると、日本の戦後文学には動物の表象・声がいたるところに響いています。本書は特に武田泰淳、大江健三郎、小島信夫の作品を取り上げて、人間/動物の境界がいかに作られ、暴力の源となっているか、をたどり、クッツェー、アガンベン、デリダなども援用しつつ、「多様なものたちの共生」の道を探ろうとします。大型新人批評家の登場です。

動物の声、他者の声 目次

動物の声、他者の声 はじめに

ためし読み

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動物の声、他者の声 目次
はじめに

序 章 なぜ動物なのか?
 1 本書の目的
 2 近年の動物に関する哲学的考察
 3 動物の表象に関する文学研究
 4 戦後という時代
 5 作家の選定
 6 本書の構成

第一部 武田泰淳――国家の戦争と動物

第一章 「審判」――「自覚」の特権性を問う
 1 『司馬遷』と『世界史の哲学』
 2 複数の声のフォーラム
 3 記録者の特権性と動物の主題
 4 「罪の自覚」というレトリック
 結論

第二章 『風媒花』――抵抗の複数性を求めて
 1 竹内好の国民文学論
 2 外部への架橋
 3 「混血」としての主体
 4 全知の語りへの抵抗
 結論

第三章 「ひかりごけ」――「限界状況」の仮構性
 1 人間としての倨傲
 2 人肉食をめぐって
 3 「ひかりごけ」の構造
 4 国家と法-外なもの
 結論

第二部 大江健三郎――動物を殺害する人間

第四章 「奇妙な仕事」――動物とファシズム
 1 先行批評の整理
 2 同時代状況から
 3 犬殺しの強制収容所
 4 アレゴリーから変身へ
 結論

第五章 「飼育」――言葉を奪われた動物
 1 動物小説としての「飼育」
 2 江藤淳の近代主義批評
 3 三島由紀夫の反近代主義批評
 4 「飼育」の新たな読みへ
 結論

第六章 「セヴンティーン」――ファシズムに抵抗する語り
 1 「セヴンティーン」の位置
 2 自意識の語りとねじれ
 3 人間・動物・獣
 4 《人間》の問い直しへ
 結論

第三部 小島信夫――家庭を攪乱する動物

第七章 「馬」――戦後家庭の失調
 1 初期小島作品の方法
 2 戦後の家庭機械
 3 馬と家庭の失調
 4 「馬」の政治性
結論

第八章 『墓碑銘』――軍事化の道程
 1 日本人になること
 2 軍隊と動物
 3 軍隊と家庭
 4 軍事化を攪乱する
 結論

第九章 『抱擁家族』――クィア・ファミリーの誘惑
 1 『成熟と喪失』の背景
 2 クィア・ファミリーの誘惑
 3 軍事化とその亀裂
 4 歓待と動物的他者
 結論

第四部 動物との共生へ

第十章 『富士』――狂気と動物
 1 動物と精神障害者
 2 「治療」というイデオロギー
 3 精神障害者のアイデンティティ闘争
 4 治療から分有へ
 結論

第十一章 『万延元年のフットボール』――傍らに寄り添う動物
 1 主体の解体の先で出会うもの
 2 鷹とネズミの構造的対立
 3 傷つきやすさと赦し
 4 沈黙の叫びを翻訳する
 結論

第十二章 『別れる理由』――馬になる小説
 1 代償行為としての姦通
 2 トロヤ戦争を解体する
 3 「馬」の再演
 結論

終 章 非対称的な倫理
 1 戦後文学と動物
 2 動物への暴力を乗り越えるために
 3 今後の展望



あとがき
事項索引
人名・作品索引
装幀─難波園子


動物の声、他者の声 はじめに

 日本は、「大東亜戦争」と呼称した侵略戦争の帰結として、東アジアと太平洋地域に、かつてない規模の殺戮と破壊をもたらした。戦後を生きる人びとに、この事実は大きな思想課題となってのしかかった。欧米において、ナチスのホロコーストの衝撃が、学問や芸術に対して過去のままであることを許さなかったのと同様に、この戦争の記憶は、人びとに分有され、それぞれの領域で暴力への根底的な内省を促したのである。

 そのなかには、文学の創作を通じて、暴力の本質を問い、かつそれを克服するための倫理を見出そうと努めた者たちもいた。日本の文学史では、彼らの達成を「戦後文学」と呼んでいる。

 しかし、私たちは、戦後文学の倫理を正しく受け止められているだろうか。彼らの文学の固有性と正面から向き合う代わりに、なじみやすい倫理を外部から当てはめ、満足してしまっているということはないだろうか。

 ここで言う「なじみやすい倫理」とは、本書でしばしば批判的に検討する「人間性・主体性の回復」というスローガンのことである。確かに日本が遂行した戦争は、交戦国のみならず、自国の人びとからも、人間の尊厳や、自由な主体性を剥奪し、残酷な死へと追いやる性格のものだった。それゆえに、人間性や主体性の回復が戦後思想の重要な課題とみなされたことは事実である。しかし、実際に戦後文学を読むとき、それらが人間性や主体性の回復を志向していると断言するのには、ためらいを覚えずにはいられない。

 なぜならば、多くの戦後文学で描き出されているのは、人間の尊厳の名のもとに、それを持たないとみなされる存在を排除し、殺害していくような種類の暴力だからである。この排除と殺害の対象には、しばしば動物の表象が与えられる。実際、「あいつらは人間ではない(動物と同じだ)」という物言いが、どれほどの暴力を発揮するのかという例を、私たちは戦後文学のいたるところに発見できる。

 ここでは、人間と動物の概念のあいだで転倒が生じている。つまり、「人間」の尊厳を声高に叫ぶ者こそが、正視に耐えないような獣性を発揮し、「動物」として蔑視される弱者たちを容赦なく殺害していくのである。そうだとすれば、私たちにとって、「人間」とは何であり、「動物」とは何であるのか。まずは、この不分明な地帯にあえて立ち止まり、よく考えてみなければならないだろう。少なくとも、その答えが出るまで、人間性や主体性の回復といった出口に安易に飛びつくことはできないはずだ。

 この観点から戦後文学を再読すれば、人間性や主体性という理念が何らかの出口を指し示した事例はほとんど存在しないことに気づかされるだろう。逆に、それらの理念が新たな暴力や抑圧の原因となったり、傷ついた当事者の連帯を妨げたりする事例ならば、いくつも発見することができる。また、主人公が人間性や主体性を回復するのではなく、むしろ動物の境位にまで落とされたり、自ら下りて行ったりすることで、暴力を根底から問い直し、克服するための希望が見えてくるというプロットも、多くの戦後文学に共通して指摘できるのである。

 本書は、このように戦後文学が追究しつつも、十分に認知されずにいた、人間と動物の境界をめぐる倫理について考察しようとするものである。対象とするのは、武田泰淳、大江健三郎、小島信夫の作品である。この三名は、戦後文学史のなかでも、世代や主題に基づいて、別々の集団に区分されてきた。しかし、彼らの作品には、動物の問題への強い関心が共有されている。このことは、さまざまな差異を超えて、戦争という巨大な暴力が、戦後文学者に動物という存在への注目を促したことを示している。

 戦後文学には、私たちに呼びかける動物の声が響いている。そして、自分が、あるいは自分の大切な存在が、いつ動物とみなされ、抹殺することさえ望まれるかもしれないという恐怖が現実味を帯びてしまう社会、そのような恐怖を駆動力としつつ、破綻的な未来へと突き進むかのような社会では、戦後文学のなかの動物が呼びかける声は、より強く、切迫して、耳に届いてくるだろう。

 人間の人間に対する暴力の乗り越えを希求する者にとって、戦後文学は今もなお汲み尽くせない源泉として存在している。