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日本記号学会 編

叢書セミオトポス12 「美少女」の記号論
――アンリアルな存在のリアリティ


A5判並製242頁

定価:本体2800円+税

発売日 17.8.31

ISBN 978-4-7885-1535-2




◆私たちは「美少女」に何を求めているのか?
 いま日本は「美少女」がいっぱい (!?)。世界からもうらやましがられているそうです。ただ残念ながら、美人は実在するのに「美少女」は実在しないのだそうです。でも美少女は、マンガ、アニメから町おこしのポスターまで、いたるところにあふれています。あたかも私たちは美少女に取り憑かれているかのようです。この「美少女」という文化表象をめぐる諸問題を、オタク文化やサブカルの範囲を超えて、神話・テクノロジー・SF・美術史などの様々な観点から考察します。その議論を通して、美少女とは何者か、現代社会は美少女にどんな救済を求めているのかを明らかにします。記号論ならではの特集です。

「美少女」の記号論 目次

「美少女」の記号論 刊行によせて

ためし読み

◆叢書セミオトポス 日本記号学会編

叢書セミオトポス7 ひとはなぜ裁きたがるのか

叢書セミオトポス8 ゲーム化する世界

叢書セミオトポス9 着ること/脱ぐことの記号論

叢書セミオトポス10 音楽が終わる時

叢書セミオトポス11 ハイブリッド・リーディング

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「美少女」の記号論 目次
刊行によせて  前川 修

はじめに 「美少女」の記号論に向けて  吉岡 洋

T部 「美少女」という記号
 帝国の美少女  小谷真理
 美少女の存在論  小澤京子
 美少女のメディア論―「後藤久美子」と「国民的美少女」  水島久光
 マンガ・アニメにおける物語構造としての「美少女」  小池隆太
 討論  小谷真理・小澤京子・水島久光・小池隆太・吉岡洋(司会)

U部 一年後の「美少女」談義
 鼎談 一年後の美少女  小澤京子・大久保美紀・吉岡洋

V部 描かれる「美少女」
 美少女と美術・美術史  工藤健志・大久保美紀・佐藤守弘・藤浩志・前川修(司会)

W部 ご当地アイドルとは?―「pramo」を迎えて
 pramoミニライブ後のトーク  pramo・浅野克紀・室井尚(司会)
 最終討論  室井尚(司会)

X部 記号論の諸相
 「触れる」ことと「着る」こと―G・G・ド・クレランボーからの一考察  安齋詩歩子
 パースの合成写真の比喩と現代の自己概念  加藤隆文
 長崎・爆心地の矢印―矢形標柱はなにを示したか  小田原のどか

特別付録 『有毒女子通信』第十六号 特集「美少女を捕獲する」
 美少女を捕獲する?  吉岡洋
 美少女は見えない  松尾恵×吉岡洋
 美少女をめぐる断章  小澤京子
 ひらきなおれ、美少女!  小谷真理
 美少女文字の物語  大久保美紀
 母は、美少女を生まない。  松尾恵

資料 日本記号学会第三五回大会について
執筆者紹介

装幀 岡澤理奈 
阿部由布子


「美少女」の記号論 刊行によせて

日本記号学会会長 前川 修

 日本記号学会は毎回、大会テーマとして「エッジな」テーマを議論している。今回選んだテーマは「美少女」である。美少女という記号、美少女という現象、それを真剣に考えてみた。あるときから美少女は巷に漏れ出している。たしかに以前から美少女という語はあったし、美少女と呼ばれる実在/非実在の例は無数にあった。だが以前とはどうやら少々違うこの記号、その蔓延はいったいどういうことなのだろうか。

 そもそも美少女とは誰なのか。

 過去から現在まで、美少女の例を数多く挙げることはできる。物語ならば、神話にはじまり、近代文学を経てラノベ(ライトノベル)にいたるまで、その歴史的展開をひとまずたどってみることができる。イメージならば、美少女をモデルにした絵画作品とか、少女のような映画女優とか、マンガやアニメの美少女キャラクターとかにいたるまで、無数の例をひとは思いつくだろう。あるいは芸能ならば、一九七〇年代以降、現在では飽和状態にあるアイドルの系譜を参照することもできなくはない。語る事例はたしかに多い。

 それではこうしてあげつらった美少女を、どのようにとらえればいいのか。

 いくつかの観点を挙げることはできる。たとえば、美少女という言葉はすぐさまジェンダー的な考察を誘発する。美少女の表象は過去から現在にかけて無数にあり、それが男性から女性への(かつ大人から子供への)きわめて抑圧的な力学を体現していると批判してもよいだろう。これとは逆に、(戦闘)美少女を「ファリック・ガール」として肯定的に論じる精神分析的な議論があることも、周知のことだろう。これに結びついて、美術の世界でも(美)少女概念を脱構築するような試みが多数ある。あるいは美的観点から議論することもできる。少女という語に追加された「美」の基準を問うたり、美少女表象を年代記的に並べて美(少女)の変遷を考えたりすることもできなくない。さらには、美少女アイドルをアップデートされたある種の「巫女」や「依り代」とみなす観点もある。そして「少女」概念の近代性を指摘することもできる。つまり、二十世紀初頭に端を発する、少女雑誌に媒介された、ある時には反イデオロギー的でもあり、ある時にはイデオロギー的でもあるような少女概念、これに「美」のついたものが美少女であると考えてみることもできる。さらには「美少年」との対比から考えるという方法もある。

 しかし、このように美少女とは誰かを確定し、美少女をつかまえるための方法を定めたとたん、美少女はどこかへいってしまう。美少女はたしかに存在するように思える。だが、いざそれに正面から向かい合って捕捉しようとすると、すでにその手のあいだをすりぬけてしまっているのである―本大会の開催された秋田の名物じゅんさいのごとく。

 さらに重要なことに、美少女という記号、美少女という現象は、一部のファンやマニアの嗜好対象であるだけではない。本書でもたびたび言及されるように、ありとあらゆる商品やポスターが美少女アイコンに満ちている。わたしたちは日常的に、そうしたアイコンに否応なく取り囲まれている。美少女という記号は世界に全面的に漏れ出し、染み出している。それは目の端で何気なく触れるだけのことも多く、やりすごされながらも小さな情動の揺れをひきおこす記号である。だから「萌え」や「エロティシズム」とは少々異なる、あるいはフェティシズムとも異なるきわめてカジュアルな現象、それが美少女なのである。美少女を受けとめる側も成人男性限定というわけでもない。本書ではさまざまな論者によって美少女へのさまざまなアプローチが呈示される。しかし結局、そこから明らかになるのは、老若男女を問わず、あらゆるひとびとがそれぞれに美少女を何らかのしかたで散漫に享受していることなのである。

 美少女は、一面ではきわめてフィクショナルなものであり、他方ではきわめてリアルなものである。つまり、現実のアイドルであれ非実在のキャラクターであれ、ひとは、美少女がいずれにしても虚構にすぎないとわかってはいる。しかし他方でひとは誰でも、美少女という記号をひとつの要素とした物語を思い描こうとしたり、あるいはごく単純に、美少女に「なろう」としたりしてしまう。もちろんそれは、外見がおじさんであっても関係はない―だから美少女という記号はヘテロな欲望を前提とした議論におさめようとしてもことごとくすりぬけてしまうのである。そのありかたや受けとめかたは、けっして執拗ではなく、むしろ散漫であり、誰であれ、どこか美少女という記号に「軽く」とりつかれてしまっている。あくまでも軽く揺さぶられて少しだけ幸せを感じてしまうという、この「感じ」が美少女現象の蔓延の根底にはある。

 このように、美少女という記号のとらえがたさを考えるには、逆の言い方をすれば、美少女という記号の可能性をもういちど解放するには、どうしたらよいのか。美少女なんて現実にはどこにもいないじゃないか、そういう声も聞こえてくる。そのとおりである。しかし、どこにもいないにもかかわらず、どこにでもある記号であること、それが醸成しているもの、その軽さや感じは何なのか。本書がそうしたことを考えたいひとたちのための手掛りとなれば幸いである。