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ルチアーノ・フロリディ 著
春木良且・犬束敦史監訳/先端社会科学技術研究所訳

第四の革命
――情報圏(インフォスフィア)が現実をつくりかえる


四六判上製376頁

定価:本体3400円+税

発売日 17.4.10

ISBN 978-4-7885-1522-2





◆情報通信技術は環境だ!
 モノのインターネット、スマホ、人工知能、無人自動車、サイバー戦争……デジタルICT(情報通信技術)が、単なるツールを超えて私たちの現実をつくりかえつつあります。渦中にあるためとらえにくいですが、私たちは広範な文化的革命の始まりを目撃しているのです。それは大きな可能性とリスクをもっています。ICTが個人、社会、世界、環境に与える影響を予測し、制御し、経済や社会、政治的なダイナミクスを向上させるために、今起こりつつある根底からの変化を読み解く、新しい概念と哲学が求められています。私たちが直面する新たな困難に意味づけを与え、適切な知的枠組みを開発するための、情報の哲学です。本書はその試みです。人間はコペルニクス革命によって宇宙の中心ではなくなり、ダーウィン革命によって特別な種ではなくなり、フロイト革命によって自らの主人でもなくなりました。そして第四の情報革命は、人間をどこに導くのでしょうか?

第四の革命 目次

第四の革命 はじめに

ためし読み

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第四の革命 目次
はじめに
謝  辞

第1章 時 間─ハイパーヒストリー
    人間開発の三つの時代
    教 育
    データ
    メモリ
    接続性
    むすび

第2章 スペース─インフォスフィア
    技術の中間性
    インターフェース
    デザイン
    技術の政治学
    技術の解釈と創造としてのICT
    インフォスフィアでの生活
    むすび

第3章 アイデンティティ─オンライフ
    自己のテクノロジーとしてのICT
    ハイパー自己意識
    アイデンティティのパラドックス
    我々の情報的な性質
    身体性─アプリとしての自己
    スペースにおける存在─場所 対 存在
    時間の中にあること─古びること 対 歳をとること
    記憶と相互作用─自己の安定化
    知覚─デジタルな凝視
    情報からなる身体─e-健康
    e-教育
    むすび

第4章 自己理解─四つの革命
    最初の三つの革命
    第四の革命
    情報有機体
    強化し、拡張し、そして再デザインする技術
    むすび

第5章 プライバシー─情報摩擦
    最もかけがえのない財産
    「~からの自由」としてのプライバシー
    情報摩擦
    匿名性
    エンパワーメント
    なぜプライバシーが問題なのか
    プライバシーの自己構成的な価値
    生体認証
    むすび

第6章 知 性─世界に書き込む
    変化し、衰退していく知性
    バカなほどに賢いもの
    チューリング・テストとローブナー賞
    フレーム問題とシンボルグラウンディング問題
    二つのAIの物語
    むすび

第7章 エージェンシー─世界を覆う
    ICTフレンドリーな環境
    人間のインフォスフィアを使う機械
    洗練された機械+人間の知能=賢いシステム
    人工コンパニオン
    セマンティックウェブとそのシンタクティックエンジン
    ウェブ2・0とそのセマンティックエンジン
    ウェブとインフォスフィア
    むすび

第8章 政 治─マルチエージェントシステムの登場
    政治的アポトーシス
    新しい情報体制?
    政治的マルチエージェントシステム
    インフラ倫理
    ハイパーヒストリーの紛争とサイバー戦争
    むすび

第9章 環 境─デジタルの先の一手
    人新世のコストとリスク
    先の一手
    むすび

第10章 倫 理─e-環境主義

訳者あとがき

文  献
推奨図書
注  釈
索  引

装幀=荒川伸生


第四の革命 はじめに

 この本は、デジタルICT(Information and Communication Technology:情報通信技術)が、我々の自己感覚や、互いの関係のしかた、我々を取り巻く世界を形づくりつつ関わっていくあり方に、どのように影響するかについて述べたものである。ナノテクノロジー、IoT(Internet of Things:モノのインターネット)、ウェブ2・0、セマンティックウェブ、クラウドコンピューティング、モーションキャプチャーゲーム、スマホアプリ、タブレットとタッチスクリーン、GPS、拡張現実、人工知能コンパニオン、無人ドローン、無人自動車、ウェアラブルコンピュータ、3Dプリンタ、アイデンティティ窃盗([訳注1])、オンライン学習、ソーシャルメディア、サイバー戦争・・・、技術マニアも技術嫌いも、同じ質問をする。「次は何なんだい?」哲学者は、その背景についてあれこれ考える。これらのすべての現象を、一つの、マクロなトレンドの多様な側面として説明できるような、統合的視点を見つけ出すことができるだろうか? それに答えるのが難しいのは、まず我々が未だにICTを、外界と、そして我々相互が関わりあうためのツールだと見なしているという点にある。ICTは、実際にはすでに環境なのであり、人類学的な、そして社会的な、世界を解釈する力となっているのである。それは、我々の知的、物理的な現実を生み出し、形成し、我々の自己理解を変え、我々が相互に関わるやり方を変え、世界を理解する方法をより高度化している。そしてこれらすべてが、広く、深く、強力に進んでいるのである。

 したがって本書は哲学の本であるが、哲学者だけのための本ではない。ここでは、我々の生活や信条など、我々を取り巻くすべてに影響する、いくつかの深い技術の力を明確にし、解説することを目指している。しかし本書は、技術論文や学術論文ではない。目次をざっと見ていただければすぐおわかりのように、我々は主としてICTによって引き起こされた、実に大きな文化的革命の始まりを目撃しているというのが私の考えである。どの世代の人々も、生きているのは自分たちであり、過去の人々と未だ生まれていない人々の間にある、唯一の場所に存在しているために、自分たちは特別だと思ってしまう。だから、ものごとをその場から離れて俯瞰的に見ることが大切なのである。けれども、たとえば今が1773年12月16日で、「ボストン茶会事件」のその日にボストンにいたり、あるいは1789年の7月14日で、「フランス革命」の真っ只中のパリにいるとしたらどうだろう。この本で強調したいのは、我々は今、新しい世紀にいて、「インフォスフィア(infosphere:情報圏)」の中にいるということだ。

 ここで述べる情報革命は、我々の未来に大きな可能性をもたらすだろう。だから、この本はほどほどに楽観的でもある。「ほどほど」と言うのは、課題は、ICT技術を、最悪な結果を避けながら、最良のかたちで使いこなすことができるかどうかにあるからだ。どうすれば、その利点を享受できるだろうか? 最適な技術転換を明らかにし、調整し、促進するために、何ができるだろうか? この世界を、ICTに適した環境に変化させていくにあたって、考えられるリスクは何だろうか? 技術で、それが可能になるよう、支援できるのだろうか? それとも、技術は我々の物理的スペースも概念的なスペースも束縛して、それがベストだから、あるいはそれしか道はないのだから、そのように無言のうちに我々が技術に合わせるように強いるのだろうか? ICTは、我々の最も緊急な社会的、環境的な問題を解決する役に立つのだろうか、それとも、それらを悪化させるだろうか? これらは、情報革命がもたらす難問の一端にすぎない。私は、本書が、これらの難問を明確にし、それに取り組む大きな努力に貢献したいと願っている。そして、こうした問題にもっと効果的で実りのあるアプローチをすることで、ICTのもたらす可能性について、より良く理解することができれば、ICTが現在と未来の生活に及ぼす影響についてより深い、より洞察に満ちた理解を得られるだろう。

 ICTによってもたらされる大きな可能性には、それを正しく理解し、正しく利用するという、大きな知的責任が伴う。だから、この本は専門家のためのものではなく、技術の進歩とそれが人類とその見通しうる未来に与える影響に関心のある、すべての人に向けたものなのである。本書は初心者向けの入門書ではないが、テーマに関する前提知識は必要としない。複雑な現象も概念的に簡略化することはできるが、度を過ぎて一線を越えれば、信頼性を欠いたり、内容が歪められて役に立たなくなる。私は、その一線を越えないようにしながら、可能な限りわかりやすくするように努めた。読者の方々が、そのあたりをご理解いただければと思う。

 専門家ではない一般の方々のための本としては、はしがきが長いかもしれない。というのも本書は、情報哲学を基礎として、我々の哲学を更新し、時代に即したものとし、学問の壁を越えることを目指す、より大きな企図の一部なのである([1])。情報化時代の夜明けが、先例のない新しいことごとを生み出している。我々の基礎的な哲学的観点は、歴史、とりわけ工業化時代の歴史の中で作られたものであり、完全に入れ替えるとまでは言わないまでも、時代に合ったものに改訂し、補足する必要があるというのも当然と言えよう。学会やシンクタンク、研究所、R&D企業などはまだましではあるが、一般市民やネットの世界では、明らかに、懸念と期待とがないまぜになった混乱の雰囲気がある。世界や我々自身、そして我々の外界や他者に対する関わりに起こりつつある、胸躍る、根底からの変化への気づきである。この雰囲気と気づきは、研究プログラムや、補助金による応用などの結果ではない。世界に対する我々の見方の変化は、もっとずっと現実的かつ強力に、しかしより混乱気味かつ試行錯誤的でもありながら、我々の目の前と足元で指数関数的かつ不断に流動的に変化している現実に対する、日々の知的、行動的な調整の結果なのである。我々は、未だ成熟した沈殿物とはなっていない新しい条件を作りながら、かつそれに適応しながら、駆け足で未来へと向かい、新しい均衡のあり方を見出しつつある。新しいものごとは、もはや、初期の混乱をもたらすことなく、最終的には安定した「大同小異」のパターンに解消してゆく。たとえば、自動車産業や書籍業界を考えてみると、初期の頃の混乱は、迅速な調整によって安定に辿り着いた。我々の時代を、歴史([訳注2])(ヒストリー)の終わりと、ハイパーヒストリー(この考え方については第1章で述べる)の始まりとして捉える「歴史の新しい哲学」が、新しい自然の哲学、新しい哲学的な人類学、我々と世界を結ぶ総合的な環境主義、新しい政治哲学を生み出すのは明らかだろう。サイバーカルチャー、ポストヒューマニズム、特異点(シンギュラリティ)(singularity)、そしてその他の類似した先端的な考えは、我々の新しいハイパーヒストリーに根ざした試みとして理解できる。たとえそれに説得力がなかったとしても、それらは時代を示しており、暗示や示唆だと考えることもできるだろう。ブラジルには、こういう諺がある。「O buraco e mais embaixo.」穴がより深くなれば、問題はさらに大きくなる。我々は、真剣に、哲学的に穴掘り(探究)をする必要がある。これが、技術的に広がっていくこの世界で、現在と未来の再考をすることが、ハイパーヒストリーの下でのあらゆる局面に適用できる、新しい情報の哲学を求めることを意味する理由である。我々自身は、固有の文化の、末端にある葉や花とも関わっているため、我々の文化の起源やその姿を注意深く眺めておく必要がある。

 情報化社会は、書字、印刷、そしてマスメディアの発明に、遠い起源があることは広く知られている。しかし情報化社会が現実化したのは、ICTの?記録?や?通信?設備が?情報処理?機能に進化した、つい最近のことである。ICTがもたらした変容が多大で広範であるため、哲学的な概念や考え方が大いに後れをとっている。これから手を付けていこうとする課題は非常に重要なものであり、明らかに哲学を俎上に乗せ、積極的に関わる必要がある。情報それ自身の性質を、より良く把握するための哲学が必要とされている。それはICTの、我々自身や環境に対する倫理的な影響を予測し、制御するための哲学でもあり、情報の経済や社会、政治的なダイナミックさを向上させる哲学でもある。そして、我々が直面する新たな困難に対して、意味づけを与えること(意味と理解を与えること)ができるような、適切な知的枠組みを開発するための哲学でもある。要するに、我々の時代の?ための?、我々の時代?の?、情報の哲学が必要なのである。

 私は、我々が立ち向かっていくべき巨大な課題に対して、幻想を抱いてはいない。本書では、ハイパーヒストリーの哲学の観点から、ヒストリーの哲学について、またインフォスフィアの哲学の観点から、自然の哲学に対して、我々の自己理解におけるコペルニクス、ダーウィン、そしてフロイト以降の第四の革命の観点から、哲学的人類学について、そして、グローバルな問題を扱うマルチエージェントシステムのデザインの観点から、政治哲学について、いくつかのアイデアを提起したいと考えている。本書で扱うこれらの内容は、人工的なこと、デジタル、または合成的であることを含んだ、環境全体に対する倫理的な関心と配慮へと広がっていかねばならない。こうした新しい「e-環境」の倫理は、すべてのインフォスフィアとそれに関係するコンポーネント、その世界の住民のための情報倫理に基づかねばならない。以降の諸章では、このような考えに触れ、それに合致する倫理的な基盤(インフラ)の必要性について概観するが、さらに多くのことが待ち構えている。多くの人々が、議論に参加してくれることを望んでいる。

 最後に、本書の読者は、本書に含まれている新しい表現や実験的な言葉、省略語など、多くの用語を目にするだろう。それらは一般的ではなく、いわば暫定的なものである。こういった言語を作り替える試みは、あまりいい印象を抱かないかもしれないが、避けることができないと考えている。読みやすさと正確さの間のバランスをとるのは非常に難しいが、私はそのことを隠そうとは思っていない。ウィーン学団([訳注3])のメンバーである哲学者、フリードリヒ・ヴァイスマン(1896‐1959)の生彩に富んだ比喩表現を言い換えれば、泳ぎの得意な人が流れの上流に向かって泳いで行けるように、素晴らしい哲学者は、現在の言語の慣用に立ち向かって、「会話の上流」に向かって思考するという、難しい技を持たねばならない([2])。その意見に同意するが、我々が直面している深淵な知的な新しさを捉える私の努力が、まだまだ適切には及ばないことも自覚している。より良い理解を抜きに、より良い方針を作ることはできないため、古い考え方の流れにあらがう挑戦は、切実なものである。我々は、我々の時代を適切に把握するため、したがって、それらをオープンな課題として最適に扱うことができる、最適な手法を導き出すための最適な機会として、概念的な用語(ボキャブラリー)と、世界(我々の意味づけをする過程や実践など)に意味を与え、理解する方法を再考し、再デザインする必要があるだろう。同時にこれは、明晰さと理由づけ、最適な証拠と適切な説明、可能な説明、そして不確実性、無知を正直に認めることを諦めるということを意味しない。流れに逆らって泳ぐことは、動転してバタバタすることとは違う。それどころか、訓練がより必須となるだろう。我々は、諦めずに、知的な条件を改善しなければならない。そこで、同じウィーン学団のメンバーである、オーストリアの科学哲学者・社会学者のオットー・ノイラート(1882‐1945)の、もう一つの水に関わる比喩([3])がふさわしいだろう。「我々にはいかだすらないが、しかし無為に溺死するという選択はない([4])」。思考における怠惰な姿勢は、我々の抱えている問題を悪化させるだけである。我々は合理的に努力し、まだ泳げる間に、いかだを作らなければならない。以下の諸章が、その材料になれば幸いである。