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是永論 著

見ること・聞くことのデザイン
――メディア理解の相互行為分析


四六判並製232頁

定価:本体2400円+税

発売日 17.4.11

ISBN 978-4-7885-1509-3

cover


◆「メディア理解」を理解するために
 やらせ報道批判、SNSの炎上分析など、メディアをめぐる議論は止みません。しかし、あらゆるメディア利用にある「メディアを見て理解する実践」そのものは、身近すぎて盲点になっています。私たちは、CM、トーク番組、スポーツ中継、マンガの表現に接する際、言葉やビジュアルを適切に結びつけて見る・聞くことで理解します。このメディアデザインと理解の実践の把握なくしては有効な批判も分析も生まれないでしょう。あるべき「理解の実践そのものの記述」を実演するメディア理解の分析書。

見ること・聞くことのデザイン 目次

見ること・聞くことのデザイン はじめに(一部抜粋)

ためし読み

『見ること・聞くことのデザイン』初版の以下の箇所に誤りがありました。訂正してお詫び申し上げます。

p.15 図 0-1
【誤】[秋月 1991: 50] → 【正】[秋月 1994: 50]

p.20 16行目
【誤】一般的なうえテーマ → 【正】一般的なテーマ

p.22 12行目
【誤】「そして、」から始まる文 → 【正】削除

p.73 24行目
【誤】P.フランシス → 【正】D.フランシス

p.107 15行目
【誤】名前という名前で → 【正】名前で

p.221 索引
【誤】フランシス,P → 【正】フランシス,D.

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見ること・聞くことのデザイン 目次
はじめに

メディア批判の困難
「理解の仕方」に即した分析
本書の特徴と構成

1章 記述のもとでの理解とはなにか
  記述のもとでの理解とその方法
  カテゴリー集合とその一貫した適用
  発話を通じた行為連鎖の参照
  トラブルの理解と修復
  表現における理解の産出

2章 マスメディアは伝え方を操作しながら事実をねつ造しているのか
  「事実と嘘」
  記述としての「編集」
  スタジオ・トークにおける行為連鎖の参照
  「報道された事実」としての,公共的な理解の達成

3章 メディアに登場する人物は,送り手側の都合で「心にもないこと」を話しているのか
  本当の経験としてのオーセンティシティのデザイン
  受け手におけるオーセンティシティ
  「自分のこと」として理解すること
  トーク番組における経験の語り
  経験の資格をめぐるカテゴリー化
  経験の社会的な配置に向けて

4章 スポーツ中継は見れば分かるようなことを余計に飾り立てているのか
  メディアの中のスポーツ
  実況の問題
  中継における発言の構造化
  リュージュ競技実況における実践
  見ることの規範
  「動き」として見ることの規範
  実況の「物語」と技

5章 広告は目立てばよいのか
  広告の前景化
  広告ではないものとして見るということ
  「広告を見る」という実践
  実践その1 カテゴリー化装置による人物の特定
  実践その2 カテゴリーと結びついた活動
  実践その3 参与枠組みの転換にしたがった活動の理解
  理解の実践に結びついた象徴

6章 マンガは絵で描かれているからかんたんで
  誰でも読めるのか
  「読むこと」の多層性
  マンガのわかりやすさと「見ること」のわかりやすさ
  画像表現における参与空間のデザイン
  コマ展開における行為の理解
  記号として「見ること」/相互行為上のデザインのもとで「見ること」
  ニュースとして記述して伝えるシークエンス
  規範の参照における「読む」という経験の多様性

あとがき
引用文献
索引(人名/事項)
装幀*吉名昌


見ること・聞くことのデザイン はじめに(一部抜粋)

■メディア批判の困難

 2000年以降の日本社会において,メディアを批判するということは,あらゆる人に共通する一種の素養とでも呼べるものになっているようである。筆者自身,2005年から2009年にかけて,BPO(放送倫理・番組向上機構)の委員として,ほぼ毎月,視聴者から寄せられた放送番組に対するさまざまな意見を目にする機会があった。そこで印象に残ったのは,意見のほとんどが番組に対する辛辣な批判であったことと,そうした批判をする姿勢の中にうかがえる,視聴者の批判に対する熱意とゆるぎない確信であった。

 実際に批判をしている人々について考えてみると,近年の大学生が書く文章では,「メディアの論調に無批判に従うのはいかがなものか」というのが,定型的な結論の一つになっているという(内田[2005])。その一方で,過去にメディアに仕事として携わった経験のあるものも含めて,教員の多くが,メディア批判を毎回のように講義の中で繰り広げているという話も筆者の周囲にいる学生から耳に入っている。

 さらに別の指摘では,メディア批判そのものが,当のメディアを通じて定型化・常套句化していると言われている(内田[2010])。近年のテレビ批判について書かれたメディア研究の教科書でも,「やらせ」や「ねつ造」といった問題の指摘は,そのほとんどが,新聞,雑誌,ラジオといったメディアの中で展開しているもので,さらにそれら以上の情報源となったのが,まさにテレビであることを指摘している。問題は「テレビの中で発生し,テレビの中で批判され,テレビのなかで終わりを迎える」といった具合である(中[2008])。そしてその極めつけが,「マスゴミ」という用語までも生み出した,インターネットで流通するメディア批判であり,読者の多くもまた,ネット上でメディア批判の定型化を実感しているものと想像できる。

 確かに一方で,こうした批判のうちいくつかは,2000年代以降の現実としてメディアを取り巻く危機的な状況への意識を背景としているところはあるだろう。2011年の東日本大地震に関するいわゆる震災報道のうち,特に原子力発電所事故の報道に対し,さまざまな問題点が指摘されたことはその象徴ともいえる(烏賀陽[2012])。報道以外についても,テレビの娯楽番組が安易な作りのバラエティ番組一辺倒であることへの不満もよく耳にする。

 メディアの利用状況から見れば,過去15年間における50歳代までに及ぶ新聞閲読時間の低下に加え,20歳代以下においては,テレビの視聴時間がはっきりと低下しており,雑誌やラジオなどの接触時間についても,その減少傾向はかなり大きな形で認められている(橋元[2011])。以上のような事実の指摘と合わせて,いわゆる「凋落」や「劣化」といった言葉をともないながら,メディア批判の論調はますますその勢いを強めているように思われる。

 そうしたメディア批判の高まりとともに,目立ってきた傾向として,「メディア・リテラシー」という言葉を耳にすることが多くなったことも同時に指摘できる。メディアを批判する物言いとともに,「メディア・リテラシーが大切だ」という言い方は,何らかのメディア情報に関するコメントや論評,エッセイなどを締めくくる一つの常套句になっている。

 この言葉は本来,メディアに対する批判だけに単純に結びつくものではない(浪田[2012]など)が,少なくともこの言葉の普及によって,メディア批判を実践することが,多くの人々に動機づけられていることは明らかだろう。

 ここで取り上げる,次のような新聞への投書は,以上にみた背景を考え合わせると,興味深い点を示している。

  
 (前略)夏になると,水着姿の若い男女が降り注ぐ陽光の下,海辺で缶入りの酒類を飲むコマーシャルも流れる。彼らはきっとその後も,酒気を帯びたまま遊泳するのだろう。

 私は酒もたばこもやるが,一日中流れている様々な酒類のコマーシャルを目にすると,飲酒が未成年者には禁止されているということが,無視されているとしか思えない。酒を飲み過ぎると人間の判断力は衰え,体にも良くない。飲酒という行為には相応の節度とモラルも要求されるのだ。

 いくら民間放送の主な収入源がコマーシャルとはいえ,その内容や放送する時間について多少の心配りは必要であろう。酒類に関するコマーシャルの規制などメディアは真剣に検討すべきではないか。(2008年3月5日『朝日新聞』「声」欄より)

  
 「パン工場勤務」の59歳男性によるこの投書から示されるのは,民間放送が特定企業の利益を優先しているのではないかという,一般的なメディア批判だけではない。この批判に関連しては,まず,2005年に世界保健機構が「アルコール関連問題」を指摘する中で,アルコール広告の規制について提言を行っている背景が指摘できる。さらに,日本の現状として,アルコール広告はあくまで酒類業界の自主規制にしたがう一方,表現内容に関する規制はほとんどなく,海外に比べてはるかに強制力の低いものであることを考え合わせると,彼が以上の事実とともに,メディア・リテラシーという言葉を実際に知っているかどうかは定かでないが,批判として秀逸なものであるといえる。

 そして,彼のように,ふだんメディア研究とはあまり専門的な関わりを持たない一般市民が,内容の分析を踏まえてメディア規制をしっかり論じていることは,まさに本来のメディア・リテラシーとして提唱されている理念にもかなっているともいえるだろう。

 しかしながら,日々私たちがメディアに接する場面に照らして考えたときに,この投書が行っている「批判」は,むしろ内容の分析をともなうがゆえに,ある違和感をもたらすと思われる。なぜなら,実際にこうしたコマーシャル(CM)を目にしたときのことを考えてもらうとよいが,海辺を舞台にしているかどうかにかかわらず,ビールのCMに映し出される人々を見るとき,私たちがそこに「本気の酔っ払い」が映っているように理解することは少ないからだ。つまり,CMでよくあるような,人が空を飛ぶようなCG画面などと同様に,私たちは画面上で繰り広げられるこうしたふるまいを,演技や見せかけという,表現上の「つくりごと」として理解しているはずである。

 そのように考えたとき,この投書主は,画面上の海辺でビールを飲んでいるという,あくまでつくりごとに過ぎない表現上の世界に対して,その後に「酒気を帯びたまま遊泳をする」という一つの事実を読み込み,さらにはその事実からこのような広告自体の規制を,「真剣に」検討することを主張してしまっているようにも思える。

 とはいえ,筆者はここで,こうした酒類広告に対する批判や,酒類広告の規制そのものに対して異を唱えるものではない。むしろ,飲酒による死亡事故や未成年の飲酒事故がたびたび報じられる一方で,何の節度もなく電車の車内や街頭のポスター,あるいはテレビやパソコンの画面などに氾濫する,さまざまな酒類の広告を日々において目にする中では,規制をまさに真剣に考える必要も強く感じてさえいる。しかし,この場合の投書主が行っていることは,そのような現実の広告における制約のなさといったものに対する規制の提唱ではなく,CM上の表現にすぎない海辺の男女の姿から,飲酒に関する節度とモラルを訴える中で,規制を真剣に検討することを主張するという点で,批判としての意味を異にしている。そして,CMというメディアの内容に対する批判としては,そのままでは人々によって受け入れることが難しいものとなっていることをここで指摘したいのである。

 これに関連して,最近のCM映像を見て気がつくのは,「これはCM上の演出です」,「CMとしての表現です」といったテロップが表示されることが多くなった点である。統計を取っているわけではないので,どこまで一般的な傾向であるかどうかはともかく,このことから,少なくともこうしたCM上の表現に対して,あたかも一つの事実のように受け取った者から,批判が寄せられる例が実際にあり,そのような批判への事前対策として,こうしたテロップが画面にほどこされているという経緯が推測できる。

 この点においてまず,現代におけるメディア批判の勢いとはうらはらに,


・・・・・・


■本書の特徴と構成

 本書は,日常的なメディア批判や,あるいはメディア・リテラシーの議論としてよく言われるような,メディア表現にまつわる一般的なうえテーマを各章に配置している。そのうえで,それぞれのテーマについて,表現の理解産出における規範の参照という観点から考察しながら,メディア表現をどのように分析していくのかについて,実際の研究例とともに示していく。

 このため,本書では,表現の媒体となるメディアや,表現ジャンルについて,必ずしも網羅的に対象を取り扱うものではない。また,データとなるメディアの,当時における技術水準や形式としても,現代に比べると古い印象のものを含むことがあるが,その場合は,メディア表現の理解における規範を明らかにする目的にとって,妥当なデータを使用しているものとして理解されたい。

 また,本書では,マス・メディア上の表現の理解を取り扱う場合においても,韓国語がまったく分からないものが韓国語のCMを見るような,通常には行われないような実験的な状況を考察することがある。これは後でも示すように,メディア表現の理解について見られる,ある種のジレンマを含んだ状況に対して,受け手が規範をどのように参照しながら,表現の理解を導いているのかを観察するためのもので,通常行われている実験のように,事例から見出された知見の一般性を訴えるものではない。