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上野冨紗子&まちにて冒険隊 著

認知症ガーデン
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A5判並製136頁

定価:本体1600円+税

発売日 16.11.20

ISBN 978-4-7885-1504-8

cover


◆認知症の見方がすっかり変わる本!
 心とは、どのようにみなされるべきものなのか。家族が認知症になると、生活が一変してしまいます。温和だった人が突然怒りっぽくなったり、徘徊しだしたり、家の中をめちゃくちゃにしたり。それなりに安定していた家族生活がもはや成り立ちません。そんな家族が、認知症になった親や夫・妻を連れて、イラストレータだった著者が両親の介護をきっかけに始めたデイケアを訪れます。そこで認知症の人たちが示す意外な行動、スタッフとのやりとりは、何が認知症の本当の問題なのかを私たちに語っています。認知症は早すぎる老いとも言え、誰もが老いを迎えます。「老人」の居場所は、今の社会の中に保証されているでしょうか?
 老いた人のための場=庭をつくる冒険をいっしょにしてみませんか。

認知症ガーデン 目次

認知症ガーデン おわりに そして はじまりに(一部抜粋)

ためし読み


挿絵および表紙画 小林(上野)冨紗子

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認知症ガーデン 目次
もくじ

あおむし と 二丁拳銃

好き か 嫌いか

街 と「特別区」

見ること と 見られること

繭 と ウルトラマン

乳房 と「父の名」

家 と 繭

「特別区」と 繭

治る と 戻る そして 変わる

しばる と 解きはなつ

共同作戦 と 庭

おわりに そして はじまりに


認知症ガーデン おわりに そして はじまりに(一部抜粋)

  やがて、認知症と呼ばれている早すぎた老いも、「普通の老いのように」、社会の中で慣習化され、社会的なポジションが与えられる日がくる ・・・、という夢。これは、甘すぎる夢ではないのか、という疑念がチラッと脳裏をかすめる。

 「普通の老いのように」と言っているが、「普通の老い」には、社会的なポジションがあるというのは、確かか? そう思い込んでいるだけではないのか? 本当に、それは、あるのか? という疑念である。

 こう考え直したのは、秋山さんが見せてくれた社会性のことを思い出していたときだった。

 秋山さんの家を訪れたとき、秋山さんは、こちらの呼びかけに表情で答え、いつもの仕事を一時中断して、客間で私たちに対応し、帰るときには玄関まで送り、来客が帰ったら再び仕事に戻るという、とても自然な、自己統制がとれた社会人的な態度をとっていた。周りの状況はすべてわかったうえで、自分の仕事をそのまま続けるか、中断するかという意思決定をし、社会的にふさわしいと思える、振る舞い方を選択した。

 藤田さんも、小さな机で自分の日課に集中しているように見えても、周りの状況はすべて耳で把握していて、面白いことには皆と一緒に笑ったし、机のそばを人が通るとき、にっこりと会釈してくれた。そのタイミング、ほほ笑み方、うなずき方は、昔の近所のおばさんのそれと、まったく変わらないものだった。

 秋山さんや藤田さんが私たちに見せてくれた、「配慮」、「気づかい」、「マナー」。こうしたかなり高度な「社会性」があることがわかって、「認知症の人は、〈社会的まなざし〉を失ってしまうと思っていたが、ある種の社会性はちゃんと保たれていた」という結論を出したのだった。

 だが、いや、それは、もしかしたら、「逆」だったかもしれないという気がしてきた。

 これまで、「社会での振る舞い方を探る」とか、「きまりを取り込む」という側面からばかり〈社会的まなざし〉を考えてきたが、むしろ、「配慮」「気づかい」「マナー」という側面こそが、〈社会的まなざし〉の本来の働き、役割ではなかったのか。

 「まなざしをやりとりすることによって、社会のきまりを取り込む」というのも、もちろん重要な働きだろうが、それだけが主な役割ではなかったに違いない。いまや、社会的な〈きまり〉の探り合いに追われる毎日で、本来のまなざしの使い方は、忘れ去られてしまったということかもしれない。

 「配慮」「気づかい」「マナー」といった、本来の〈社会的まなざし〉のあり方が、最近になって、単に「探り合う」のみという、ある意味「いやしい」使われ方に変質してしまったと言えるのかもしれない。

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