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キャサリン・モンゴメリー 著
斎藤清二・岸本寛史 監訳

ドクターズ・ストーリーズ
―― 医学の知の物語的構造


四六判384頁上製

定価:本体4200円+税

発売日 16.6.10

ISBN 978-4-7885-1483-6

cover


◆医療の場の複数の物語を読み解く
 ながらく医学は、疾患を治療する科学だと考えられてきました。しかし、一度でも重い病気を経験した人ならわかるように、医学はそれにとどまるものではありません。人間の病いに関する知識とケアに深く関与する実践であるという認識が、ますます高まっています。このような動向は、医学における物語の重視という形で現れてきています。それは、医者からみた疾患の物語であり、また、疾患を病む患者の物語です。医学の場では、複数の物語が輻輳します。本書はこのような医学における物語を重視する流れを決定づけることとなった本で、久しく翻訳が俟たれていました。医師や研修医や医学生たちに新しい視点を提供し、医学教育、ひいては医学そのものを変容させる力をもつ本です。

ドクターズ・ストーリーズ 目次

ドクターズ・ストーリーズ まえがき

ためし読み

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ドクターズ・ストーリーズ 目次
日本語版へのまえがき

まえがき

謝 辞

序 論 医学を解釈する

第一部 医学と解釈

第一章 医学における知識─徴候を読む

科学的な事実、物語的な事例

テクストとしての患者

徴候を意味づける

テクストの著者は誰か?

一つの病い、二つの物語

臨床医学と「グラウンデッド・セオリーの発見」

医学と科学

医学と物語

解釈としての医学

第二章 個別性の科学─医学と不確実性

単一事例

階級制度

科学の進歩

懐疑主義─そして臨床のドグマ

確実性への逃走

一般化の拒否

臨床判断

コンピューターと単一事例

物語と臨床判断の教育

人間科学としての医学

第二部 医学における物語

第三章 患者を表現する

事例提示

「提示すること」

表 現

医師の物語

物語の知

第四章 「こんな患者がいました・・・」─医学における逸話

第五章 事例を書くこと─カルテと事例報告

カルテ

事例報告

事例の物語と医学的因果論

第六章 単一事例研究─臨床病理検討会とシンドローム・レター

臨床病理検討会

編集者への手紙

真面目なシンドローム・レター

滑稽なシンドローム・レター

下位ジャンル

医学の認識論

科学と単一事例

第七章 患者、医師、そして赤色インコ─物語の共約不可能性

共約不可能性

共約不可能性と医学のプロットの幕引き

患者の物語

癒しの物語

患者の物象化

患者の物語を書き直す

患者を語り直す

第八章 物語のための事例

アキレスの盾

文学と医学

患者について読む

文学、歴史、そして医学的事例の豊饒化

医師と患者の主観性

シャーロック・ホームズと医学の物語

監訳者あとがき


事項索引
人名索引

装幀=新曜社デザイン室


ドクターズ・ストーリーズ まえがき

 自分自身が医学の実践に不可欠な知識を理解する必要があったために、私はたまたま医学の解釈的な本質に行き当たることになった。この研究は、私の三か所の医学教育機関での十年以上にわたる教員経験と、さらにいくつかの機関での観察の成果であるが、そもそも私は生物学者たちの一団に混じって、医学生を教え始めたのであった。私は、モアハウス大学医学部の英語教員であり、いわば門外漢だった。この学部は新設で、毎年一年間の教育内容を加えていきながら学生とともに成長していくよう計画されていた。われわれの学部には病院がなく、付属の診療施設もなく、それゆえ患者もいなかった。心肺蘇生術、人間行動学、そして私が教えた医療人文学の科目を除けば、われわれのカリキュラムは、ジョンズ・ホプキンス大学で作り上げられ、二十世紀初頭にフレクスナー報告〔訳註:the Flexner Report. アブラハム・フレクスナーがアメリカとカナダの医学教育について行った調査の結果を1910年に出版したもの〕によって確定された、伝統的なものであった[1]。ごく最近まで、この履修課程は百二十以上のアメリカの医科大学のほとんど全てに普及していたが、それは一般的専門医学教育に関する米国医科大学連合の報告の後でさえ[2]、医科大学の履修課程の基本的な様式であり続けている。学部設立後の最初の二年間は「実際に診療する」ことはあまりないので─学生は三年生になって臨床教育漬けになるまで、患者を診ることはない─開設時、教授陣に医師はほとんどいなかった。病理学者たちを除けば、われわれはみな博士号所持者だったが医学博士ではなかった。解剖学者、生化学者、歴史学者、生理学者、薬物学者、心理者、細菌学者、そして一人の文学研究者であった。

 私が十年間教えていたモアハウス大学が、勇敢にもこの医学部を開設したが、一般教養科目の組織は小さかったので、その間ずっと科学者たちとはつきあいがあった。数年前には、物理学科の主任と私は、観察と記述についての実験科目を教えた。より最近では、私は新入生向けの特別コースで、「進化概念の進化」と題した科目を提供した。多くの私の学生が医学部に進み、ほどなく私は学部の複合的な推薦状を起草する委員会の一員になった。そこから医学部の構想を練っている同僚たちに加わるまでは、ほんの一歩だった。私は、その履修課程の中に人文科学と社会科学を含めることについて検討する委員会の議長を務めた。

 人文科学は、1970年代半ばの時点では、医学教育の中では新しい分野だった。私に割り当てられた仕事は、最初の二年のそれぞれの学年において履修課程に含まれる科目を企画し、人員を配置することだった[3]。上記の課程では、一年生と二年生に対して哲学、文学、人類学、社会学、宗教研究、歴史学、法学を教え、道徳的な専門職としての人生について考えるように後押しし、試みる機会を提供することを目指した。初期には多少の懐疑もあったが─履修科目のための時間はどんな医学部でも最も乏しく、最も価値のある必需品である─医学教育が「基礎科学者」と分類する人々のほとんどは、医学について教える哲学者、歴史学者、法学者、社会学者といった、風変わりな人々の出現に比較的満足していたし、幾人かは刺激を受けてもいた。三年目にその成功がおのずと明らかになると、医学部は医学教育連絡委員会から、学級増設の認可と、臨床教育の学年のための企画を開始してもよいという許可を得た。偶然にも、私は医師たちが着任する直前に退職することになった。

 私は次にロチェスター大学の医歯学部に着任した。そこはより古く、より大きく、総じて華々しいところだった。非常に競争の激しい世界にあって多数の科学的研究資金を集め、また病いの心理社会的な側面に注目したカリキュラムで広く知られていた。私は経験豊かであると見なされていたが、医学教育についてはよく知っていたとはいえ、大学の三次医療施設についてはほとんど知らなかった。私は快適でいられると期待してはいなかった。ここには医師、各分野の専門家、超一級の科学者がいた。学部の規模─最初のモアハウスでのクラスより四倍も大きい─だけでも、ある程度の疎外が約束されているように思われた。何といっても、医学部の最後の二年間の臨床実習と、近隣および提携先の病院の何百人ものインターンと研修医の存在が、この学部を単なる学部ではない、臨床研究および高度に洗練された医療ケアの中心にしていた。

 私がそこで最初にやるべきことは、もちろん自分の授業を終えた後でだが、この奇妙な領域を理解することだった。英文学と文学理論の教育が、大いに助けになってくれるという望みはなかった。自らの無知を改善するために、私は臨床研究を報告するセミナーや、「興味深い」あるいは問題のある臨床事例に関連した毎週の総合症例検討会に赴いた。私は、自分が理解できる題がついているそれらの集まり、すなわち臨床に焦点を当てているものから始めた。私は臨床上の問題についての研究がどのように行われているのかが知りたかった。諸々の問題はどのように理解され、どのように解決されるのだろうか? 何よりも私は、ヒトの生物学の諸科学における教育の数年間が、どのように学生たちを臨床実践の中で問題を解決できるように訓練するのかを理解したいと望んでいたのである。

 私が出席した複数の研究セミナーは、注意深い研究者によって提供されていた。彼らは適切な方法を用いて現実の問題に焦点を当て、しばしば非常に重要な結果をもたらしていた。だが、私が気がついたのは、そこでの発表は、同じ問題についての雑誌論文とは大いに異なっていたということである。何度も何度も、臨床領域のいかんにかかわらず─たいていは発表の終わり近くか、あるいは質疑応答時間のはじめの段階で─研究に結びつく臨床上の問題の存在を最初に研究者に示した事例の話を聞くことになった。「以前、こんな患者がいたのですが・・・」と、発表者は、最初に研究者の好奇心を惹きつけた引き金となった事例についての物語から始めて、それから研究結果を説明するのだった。症例検討会の場合には、その順序が逆転していることに私は気づいた。どの専門科でも毎週行われるこの儀式は、一つの事例の提示とともに始まり、まず最初に診断や治療上難しい問題を持つ個別の患者について考察してから、しばしばその発表者自身の研究に関する議論へと移り、それは、明快な、既存の診断に導かれるか、または新しい治療法へと導かれる─あるいは導かれるべきである─ということになる。

 事例がセミナーの中で非公式に紹介されたにせよ、症例検討会の中でいつもの形で発表されたにせよ、どんな場合であっても、臨床科学のデータを発表する方法は私にとっておなじみのものだった。その内容は必然的に新しいもの─報告された症状と観察され測定された所見から組み上げられたパズル─だったが、患者の病気についての記述や、医師による診断と治療についてのそれは、私が専門とするところだった[4]。それらは物語、つまり、医師と患者という個別の人間たちの行動や動機に関する物語的記述であり、彼らはそれぞれの形で状況に欲求不満を抱いたり、その努力が報いられたり、運命に悩まされたりしている。物語を病院内で見いだすことになるとは、私には思いもよらなかった。医学は科学ではないのか? これらの物語は、単なる逸話ではないのだろうか?

 私は、人文科学の伝統的な理論と理解の方法が、臨床家のすることを理解するのにも有効であることを発見した。1983年、国立科学財団の補助金を得て、私はそれ自体が解釈的な活動になるような一つのプロジェクト、すなわち医学の理解に着手した。二年の間毎日、三つの病院の中で、私は同意してくれた同僚たちの定時回診、朝の報告会、教授回診、退院検討会、問題症例検討会、臨床病理検討会、そして総合症例検討会に同行した。この期間中(そして後に私が他の場所を観察した時、あるいは改めて観察するために戻って来た時)、私は医学生や内科や外科の病棟医に対する臨床教育を観察し、さながら白衣を着た部族の中での民族誌研究者のように振る舞っていた。私はあらゆる教育の場面に繰り返し出没し、その後、執筆をしながら、引き続きサンプル収集を繰り返した。二年の間、私はいつもそこにいる居候だった。私は参与者というよりは全くの観察者という門外漢だったが、それを言うならアカデミックな医学は観察者で満ちている。教員と研修医たちからは、私は同じ一群の建物の中にある医学部の教授として知られていた。初めは私の教え子は少数だったが、最終的には実習で病院局に参加している三年生のほとんどが私の教え子という状態になった。私は白衣を着ていなかった。医師の一団と一緒に病人の枕元に行った場合、私は名前と肩書きと仕事(「彼女はわれわれを研究しています」)で紹介され、その患者の同意が求められた。私のプロジェクトは、医学がどう教えられ学習されるかの方法に関する研究だと理解されており、また、私の専門分野は文学だが(そうではないか?)、国立科学財団から資金提供を受けていることは周知の事実(そして、研究組織の中では重要なこと)だった。研究の細部あるいはその仮説に好奇心を示した人はほとんどいなかった。彼らは私のことを、単に彼らの周辺、いわば「舞台裏」にいて、大学が重要視していることと私が教えている科目から考えて、おそらく私の研究の対象だと思われる「患者と医師の相互作用」に取りかかる前に、予備的に診療行為とはどういうものかについての感触を得ようとしているのだろう、と見ていた(あるいは、私にはそう思えた)。彼らは全く見当違いだったわけではない。

 私が注目した点は、患者のケアを行うことを教える医師と学ぶ医師の間の相互作用で、それは時に同時に起こった。私は、暗喩、暗喩の不在、業界用語とその使用法、あらゆる種類の物語、物語的主題(narrative theme)といった「文学的」現象を聴き取ろうとした。私は、知識がどのように獲得されるのか、また指導はどのように行われるのか、専門家になる過程、学術的な階級組織の効用、医学は科学であるというほとんど疑問を抱かれない前提(と、やはり疑問を抱かれないその前提の使用)についての研究疑問を抱いており、それは次第に仮説にまで高められた。私は、スチロール樹脂のコーヒーカップに、鍵になる言葉を二言三言走り書きして、メモをとることもあった。検討会が終わると自分の研究室に駆け戻って、ノートに余さず記録し、索引づけしていった。私は朝の報告会の様子を録音した。一人の教員と二人の研修医だけが、私が「物語」を特に聴き取ろうとしていることを聞かされていたのだが、そもそも医学においてその言葉は、毎日の症例報告よりも逸話を示唆するものだった。私は、教員たち、病棟医、医学生などの様々な研究協力者に、私の考えを試してみた。明らかに不可避な「現地人化」の過程が始まることも時々はあった。過去何日かの間、自分が「彼ら」の一員であるかのように、事実が告げられ、診断が決定されるのを待ちながら聴いていたことを自覚したものだった。その解決策は、調査する場所あるいは専門分野を変えて、再び全くの門外漢になることだった。医師による患者の理解に本質的なものとして私が発見しつつあるものとほぼ同一の解釈的過程を自分の研究が内包している、という考えを私は大いに楽しんでいた。