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亀山佳明 編

記憶とリアルのゆくえ
――文学社会学の試み


四六判上製272頁

定価:本体2600円+税

発売日 16.3.3

ISBN 978-4-7885-1465-2

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◆「現代」とはどういう時代なのか?
 文学が社会の中での行為である以上、社会の影響を受けるのは当然でしょう。 そこから、小説が近代社会に合致したなジャンルであることも肯われ、ルカーチのマルクス主義的反映論も出てきます。逆に、登場人物の描かれ方、行動などから「社会」への示唆を得ることもできます。ジラールの「欲望の模倣理論」などです。本書は、両方向を取り入れて、現代の様々な「文学」を題材に「文学社会学」の新しい可能性を探ったものです。伊藤整の文学論を手がかりに「自我の放棄」を扱った作田先生の力作論文、円朝を題材にした「芸能の社会学」、村上春樹の個人主義の問題、寺田寅彦における追憶の問題、終末期医療と身体論などの様々な考察のなかから、現代社会の重要なテーマ――記憶とリアルの回復――が浮かび上がってきます。

記憶とリアルのゆくえ 目次

記憶とリアルのゆくえ まえがき

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記憶とリアルのゆくえ 目次
まえがき 亀山 佳明

寺田寅彦における追憶の形式 近森 高明

分身と記憶─古井由吉「朝の男」をめぐって 亀山 佳明

村上春樹と個人主義のゆくえ 松浦 雄介

『ボヴァリー夫人』から『アンナ・カレーニナ』へ 織田 年和
 ─三者関係論と二つの不倫小説

管理される生と生きられる身体のあいだに 西山けい子
 ─『ウィット』に描かれる終末期医療

かけわたす人、円朝 工藤 保則

文学からの社会学─作田啓一の理論と方法 岡崎 宏樹

日本近代文学に見られる自我の放棄 作田 啓一
 ─伊藤整の枠組に従って

日本近代文学に見られる自我の放棄(続) 作田 啓一
 ─リアルの現れる場所

あとがき 亀山 佳明


記憶とリアルのゆくえ まえがき

 当たり前のことであるが、文学作品を創作したり、それらを鑑賞したりするという文学的な営為は社会という場においてなされる。その一方で、文学作品それ自体の内には様々な人々の行動や関係あるいは感情─たとえば、他者との協調や対立、風景をめでる行動やその情緒─が描かれる。このように、文学と社会とは多様な関わり合いをもっているために、互いに他方の影響を大きく受けずにはいない。ここで、われわれが「文学社会学」と呼んでいるのは、このような文学と社会との相互の関係のあり方を考察する学問領域のことを指してのことである。

 わが国で早い時期にこの領域に注目した人物として、夏目漱石を思い浮かべることができる。今から百年以上も前に、漱石は留学先のロンドンでこの問題に直面せざるを得なかった。当時、英文学の研究をめざしていた彼は、英国人の著した研究書を読み漁っていた。ある時、そうした試みは、他人がうまいと勧める酒を、自ら納得することもなく、他人にも勧める行為、つまり虚偽的な行為、であることに気づく。また、文学をもって文学を研究することは「血で血を洗う」無謀な行為であると思うにいたる。そこで、彼は研究の方向を大きく転換する。文学はその社会に必然があって生まれるのであるから、社会の影響をまぬがれない。何故に文学がその社会に生まれたのか、何故に人々はそれを必要とするのか、そうした「文学とは何か」という根本的な問題に取りかかるのである。このために、彼は文学書を読むことを止め、哲学・心理学・社会学などの諸学問を学び始める。一連の漱石の苦闘は、後に『文学論』として結実することになるが、彼の試みをその後の文学研究の歴史においてみると、世界に先駆けるものであったと理解される。文学と社会との関係を論じる、その議論は「文学社会学」という領域を拓く試みでもあった。

 文学者であった漱石は文学の存立を社会的背景においてとらえようとした。そういう意味からすれば、文学に社会という視点を導入しようとする試みであった。これとは逆に、社会という領域に文学を持ち込もうという試みが考えられる。このような視点を採った代表的な研究例に、G・ルカーチの仕事を挙げることができるであろう。彼は古代・中世社会に栄えた叙事詩と近代市民社会に生まれた小説との比較を試みた。共同体を前提にする叙事詩においては、主人公たちは世界と自分とが調和していると感じていた。ところが、近代の叙事詩たる小説においては、社会の分裂が文学の世界観に反映するために、小説の主人公たちは世界と自己との絶え間ない葛藤に遭遇せざるを得ない。それゆえに、自己の分裂に悩まされることになる。この議論では社会構造と世界観との照応関係が前提とされている。世界観を表現する文学作品は、それを成立させている社会構造を反映するはずであるという考え方である。ルカーチ自身は後にこうした視点をより積極的に展開してゆくことになるが、反映論という視点によるアプローチはマルクス主義的な文学研究においてより顕著となっていった。

 これら両者の研究は文学を成り立たせている社会という背景からとらえようとしたところに共通性が見られる。これら両者の方向性とは別に、文学のうちに描かれた人間的な存在様式や社会関係に注目するアプローチが考えられる。そうした代表的な研究例を、われわれはR・ジラールの文学研究に見ることができる。彼はセルバンテス、スタンダール、ドストエフスキー、プルーストという代表的な近代文学者たちの作品を読み込むうちに興味深いことに気づく。それらの作品に登場する人物たちが一様に奇妙な行動をとるためである。彼らは自分の欲望にもとづいて行動する代わりに、自分の身近な人物たちの有する欲望を模倣し、その模倣された欲望にもとづいて行動するからである。近代的主体である彼らは、自らの自発性を放棄するはずの他者に依存した行動をとりながら、その事実を自らは認めようとはしない。ジラールはこうした欲望のあり方を「模倣の欲望」といい、その行動様式を「ロマンチックな虚偽」と呼んだ。このジラールの考察は人間行動を研究する領域に大きな刺激を与えるものであった。社会学という領域では行為者の主体性が前提にされ、他者と関係を結びながら制度を形成するということが当然視されている。こうした考えのもとに社会学理論は構築されているので、ジラールの議論はその前提の修正を求めることになる。この議論を社会学が取り込んでゆくとき、社会学的な理論はより豊かなものとなる。この文学から社会学が学ぶという方向性に注目した研究者たちが、かつて彼のやり方に倣って新たな「文学社会学」を発想したことがある(作田啓一・富永茂樹編『自尊と懐疑─文芸社会学をめざして』筑摩書房、一九八四年)。今から三十年ほど前になされたこのような試みを、われわれも本書において踏襲しようとするものである

 ところで、われわれの生きている後期近代社会においては、先のような文学作品はすでに人々の親しむものではなくなってきていることは確かであろう。柄谷行人によると、内面を描くことを主眼とする近代文学は既に終焉を迎えたのではないか、という。彼は、D・リースマンの定式を使って、近代文学は市民社会を生きている内面をもった人間、内部指向的な人間、にこそ適合した表現形式であって、大衆社会(後期資本主義社会)を生きる他人指向型の人たちの好むものとはならない、というのである。なぜなら、彼らは内面に従って生きてはいないのであって、絶えず他人からの評価を規準に行動しているためであるから、という。このような社会にあっては、アニメや漫画、読み物などというエンターテイメントが、人々の享受対象の中心とならずにはいないのである。文学と社会との関係のあり方をとらえた、この柄谷の興味深い説は、われわれには納得のゆく指摘に思えるのである。

 それでは、かりに柄谷の言う通りであるならば、文学を社会学の立場から研究する意味も終わったことになるのであろうか。この点についてのわれわれの意見は柄谷とは異なったものである。むろん、新たな読み物を中心にした研究がなされることも必要であろうが、それだけではない。確かに近代文学は終わりを迎えたのかもしれないが、文学の研究は終わってはいないと考えるからである。とりわけ、先に述べたように、社会学の立場からするなら、近代文学が残してきた資源のなかには豊かなものがいまだ数多く埋もれたままであり、それらを発掘する作業は始まって間がないと思われる。それらの発見物を社会学の領域に導入して生かす道がいまだ残されているのではあるまいか。たとえば、W・ベンヤミンが文学研究のなかから見つけ出してきた「アウラ論」は今ではメディア研究の領域では欠かすことができないし、セルバンテスの『ドン・キホーテ』から導き出された、A・シュッツの「多元的現実論」は現代社会学の主要概念の一つを形成している。

 このように見ると、社会学の領域からすれば、文学の領域はいまだ発掘されつくしていない宝の山に見えたとしても不思議ではないであろう。われわれがなさなくてはならないことは、地下資源の豊かな鉱脈を探し当て、そこから埋蔵物を発掘、精製して見せることである。こうした試みの一つをここにおいて展開しているのであるが、そうした試みが題目通りに達成されていると強弁するつもりはない。しかし、われわれが目指しているのは、こうした試みのありうること、また、それが社会学という領域を豊かにする可能性を有していることを伝えたいだけである。近年、社会学の領域は実証研究で満ちあふれている代わりに、理論方面の研究はますます注目されることの少ない領域と化しているというのが偽らぬ印象である。こうした事情にはいろいろな理由が考えられるが、われわれのささやかな試みが理論研究の一つの可能性を示唆しえているとするなら、これにすぐる喜びはない。

  二〇一六年二月
編 者