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中田基昭 編著/大岩みちの・横井紘子 著

遊びのリアリティー
――事例から読み解く子どもの豊かさと奥深さ


四六判260頁並製

定価:本体2400円+税

発売日 16.4.15

ISBN 978-4-7885-1454-6

cover


◆遊びから見えるもの
 無心に遊んでいる子どもの姿をみると和やかな気持ちになります。しかし、子どもの遊びを先入観を廃して観察すると、遊びは戯れに見えて、実に真剣な営みであることが見えてきます。保育学や心理学は、ともすれば子どもたちを、これまでに蓄積された知識や理論から見てしまいがちです。また保育士さんたちは、現場にいるがゆえに、新鮮に子どもをみる視点を見失いがちです。本書は、子どもの遊びの事例の数々を取りあげて、その活動を支えていたり、可能にしていること、つまり、外見から捉えられる活動の背後に隠されているであろう、その時々の子どもの想い、あり方に迫る試みです。子どもを見る目を変え、深めてくれる一冊です。

遊びのリアリティー 目次

遊びのリアリティー はじめに

ためし読み

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遊びのリアリティー 目次
はじめに

第1章 子どもの成長と遊び
第1節 創造の世界を生きることとしての遊び
第2節 平行遊びにおける子どものあり方
第3節 現実の世界のなかでの想像の世界の浮かびあがり
第4節 年齢に応じた遊びの世界への参加
第5節 ごっこ遊びにおける子どもの豊かさと独創性

第2章 年少と年長の違い
第1節 時間感覚の違い
第2節 現在の充実の違い

第3章 ままごとにおける豊かなあり方
第1節 現実と想像との二重性
第2節 本質の浮き彫りと軽やかさ
第3節 再認識の楽しさ

第4章 模倣と真似
第1節 他者の想いの再現としての模倣
第2節 真似と模倣の違い
第3節 真似における多様なあり方
第4節 真似から模倣への移行
第5節 再現における現実の体験の豊かさ

第5章 本質の浮き彫り
第1節 ごっこ遊びにおける本質
第2節 本質の浮き彫りと見よう見まね
第3節 本質を浮き彫りにする過程

第6章 模倣と真似における指標
第1節 架空の世界の再現と指標
第2節 指標と象徴の違い
第3節 指標と本質の浮き彫りとの違い

第7章 乳児における遊びと現実
第1節 運動機能の発揮と遊び
第2節 繰り返しにおける目的の有無
第3節 遊びと現実的な日常生活

第8章 制作における創造力
第1節 現実への影響と完成への意識
第2節 物の模倣の特徴
第3節 本質の浮き彫りにおける創造力

第9章 競技と遊び
第1節 競技としてのサッカー
第2節 明示的なルールと暗黙の了解
第3節 現実の象徴の有無

第10章 遊びの移行と展開
第1節 年少児における顕在的な遊びの特徴
第2節 遊びにおける顕在化と潜在化
第3節 妥当性の雰囲気と顕在化された遊びの維持

第11章 遊びにおける言葉と感情
第1節 世界を変容させる言葉
第2節 呪文としての言葉
第3節 情動的な行為
第4節 遊びを活性化させる行為

第12章 身体の動きと遊び
第1節 身体の動きを楽しむ遊び
第2節 身体の動きによる自己触発
第3節 身体感覚の変化による楽しさ

第13章 遊びにおける充実感
第1節 充実感と充足感
第2節 可能性の実現と充実感
第3節 充実感における豊かさの多様性

引用文献



装幀=新曜社デザイン室


遊びのリアリティー はじめに(一部抜粋)

 子どもの遊びは、……戯れではなく、高尚な真剣さと深遠な意義をそなえている。


 乳児は、「微笑みを通して初めて……人間精神とお互いに通じ合うようになり、初めてそれと一体化することに至[1]る」(Frobel, II S. 386, 三338−339頁)という言葉は、乳幼児教育学の理論的基盤を構築し、幼稚園の普及に大きな貢献を成したため、乳幼児教育学の父と称されている、フレーベルの言葉である。乳児と目が合うと、どれほど嫌な気持ちに苛まれていても、気持ちが和まされ、幸せな気分に満たされる、といったことは、おそらく私たちの誰もが経験したことではないだろうか。

 仕事に疲れて帰宅した親が、屈託なくスヤスヤと寝息をたてている我が子の寝顔を見つめているだけで、一日の疲れが消えていき、幸せな気分に満たされる、ということもしばしば耳にする。

 こうしたことからすると、乳児や幼児との出会いは、私たちにとって、一服の清涼剤であるかのようだ。いやむしろ、嫌な気持ちに苛まれている人や、仕事に疲れて帰宅した親にとっては、まさに砂漠でたどり着いたオアシスであるかのように、私たちは乳児のまなざしや幼児の寝顔にたどり着く。

 おとなにとってのオアシスは、子どものまなざしや寝顔だけではない。この本で理論的な拠りどころとしている哲学者の一人であるフィンクの遊びについての論考の題目は、「幸福のオアシス」となっている。

 子どもにとってだけではなく、私たちおとなにとっても、遊びは、何かしらの義務や責任を負っている日常世界から私たちを解放し、軽やかな世界へと誘ってくれる。しかし無心に遊んでいる子どもたちの姿は、それを見ているだけでも、心が癒されたり、和やかな気分となったり、笑いを誘ってくれたりする。フィンクの言うように、遊びも、やはりオアシスなのだ。

 しかしおとなにとってオアシスである遊びは、子どもにとってはどのようなものなのだろうか。

 「ママはそんなことしない!」。これは、幼児が好んで遊ぶままごとで、母親役の子どもに対して他の役の子どもからしばしば発せられる言葉である。この言葉から明らかとなるのは、ままごとでは、ある役を担っている子どもは、その役によって演じられている人間らしく振る舞わなければならない、ということである。それゆえ、ままごとでは、子どもの現実の家庭生活が再現されることが非常に多い。振る舞いだけではなく、口調も再現されている家族にかなり近いものになる。

 全く練習したことがなくても、しかも、幼児としては現実の日常生活では決して発したことがなくても、「あなた、食事をしながら新聞を読むのはやめてくださる!?」といった言葉を、おそらくその子どもの母親が実際にしていただろう表情や口調で発する。

 いわゆる戦隊モノのヒーローになりきって遊んでいる子どもたちからも、ままごとと同様、「○○レンジャーの武器はそんなんじゃない」、といった言葉がしばしば発せられる。戦隊モノのテレビ番組を見ている時には、微動することなく食い入るように見ていて、翌日の幼稚園や保育所では、一回も練習していないのに、子どもたちは、その戦隊モノのヒーローの変身や技を競うように再現する。

 編者が勤めている保育者養成大学で実習に行った学生が、ままごと遊びで、乳児に見立てられた人形に授乳する母親になる展開となり、服の上から授乳しようとしたら、「それじゃおっぱい呑めないでしょ!」と子どもに叱られ、かなり戸惑ってしまったと報告してくれたことがある。遊びであるにもかかわらず、いやむしろ、この本で具体的に探られるように、遊びであるからこそ、ごっこで、子どもたちはこれほどまでにリアリティーにこだわる。

 遊んでいる子どもたちのこうした姿を見て、私たちおとなは、「子どもってすごいね!」「おとなを本当によく見てるね!」、といった想いに駆られる。それゆえ、ままごとを見ているおとなにとっては、こうした子どもの姿に驚いたり、感心したり、時には、自分の家庭生活があたかも暴露されているかのような、気恥ずかしさを覚えることさえある。

 しかし、これからこの本のそれぞれの章で具体的に探られることになるが、子どものすごさは、リアリティーへのこだわりにかぎらない。たとえば、戦隊モノのごっこ遊びでは、仮面ライダーがカブトムシと戦っているという、年少児に特有の、おとなには思いつかない想像力の豊かさと発想の独創性が見られる。美容院ごっこのお客役の女児が美容師役の女児に自分を託すことによって、現実の自分がきれいになったわけではないのに、本当にきれいになったかのような気恥ずかしさを覚えるといった、年長の幼児ならではの感受性が窺えることもある。

 先に述べたようなままごとにおけるリアリティーへのこだわりと同時に、現実の幼児としての自分には許されない、自分の秘めたる想いをままごとの世界で実現するという、想像力の豊かさを発揮している子どももいる。たとえば、赤ちゃんが生まれたために父親の気持ちが新生児に向かっていることを何となく感じている寂しさを、「今日〔お父さんと〕二人っきりでごはん食べるんだー!」、といった展開に託する姿さえ見られる。

 しかし、先ほどの学生の場合に典型的となるが、子どもたちの遊びを見ていて、驚いたり、感心したり、気恥ずかしさを覚えたり、戸惑ったりするのは、子どもの遊びに慣れていないおとなである場合が多い。というのは、日々子どもたちに接している保育者にとっては、先に述べたような子どもの姿は、日常的な光景となっているからである。

 しかし日常的であるがために、当初は「すごい!」と思われていた、遊びにおける子どもの「すごさ」が見失われ、日常茶飯事になってしまう、といった馴れが生じたりする。あるいは、その対極として、いわゆるベテランの域に達することにより、子どもたちとの日々の関わりを通して培われた、その保育者に独特の感性の鋭さと豊かさによって、子どものすごさが際立たされる保育が展開されることもしばしばある。しかし、どちらの場合も、子どものすごさの内実がきちんとした言葉で文章化されることなく、感覚的な言葉にとどまってしまうことも多いようである。

 同じことが、子どもの遊びについて研究している者についても言える。いやむしろ、研究者であるがゆえに、つまり、子どもの遊びを研究の対象としてしまうがゆえに、発達理論や研究方法にとらわれがちとなり、現場の保育者よりも一層、子どものすごさに気づけなくなっているのではないだろうか。

 もはや当たり前となっており、保育の現場や研究において日常茶飯事になっている子どもの姿から、その背後に潜んでいる子どものすごさ、すなわち、子どもの遊びの豊かさや奥深さ、彼らの想像力や創造力や感受性の豊かさを捉えることが求められるのではないだろうか。いわば氷山の一角でしかない、目に見える子どもの活動から、それを支えている目に見えない子どものあり方に迫ること、すなわち、それらを探ることが必要になるはずである。

 こうした想いから、私たち三人の筆者は、乳幼児によって実際になされている現実の遊びを事例として取りあげ、そこでの子どもたちのあり方と、彼らによって営まれている遊びの世界がどのような豊かさや奥深さをそなえているかを、明らかにすることを試みた。

 しかしこの試みを遂行するにあたり、私たちは、子どもたちの活動や行為を何らかの基準や尺度やカテゴリーを使って整理したり、何らかのモデルにしたがって子どもの活動や遊びの世界を考察したりすることはしない。また、いわゆる研究者の立場から、子どもの遊びの意義や意味を考察することもしない。

 そうではなく、私たち三人は、それぞれの事例における子どもたちの活動を、そのまま受け入れ、その活動を支えていたり、可能にしていることに、つまり、外見から捉えられる彼らの活動の背後に隠されているであろう、その時々の子どもの想いを含めた、彼らのあり方に迫ることを試みたい。こうした試みによって、私たちおとなにとって「すごい!」、子どもの遊びの豊かさと奥深さを探りたい。このことによって、子ども自身にとっては当然のことであるが、保育の現場だけではなく、従来の研究によっても言葉にされてこなかったことを、言葉として記述していきたい。

 そこでこの本では、どのような幼稚園や保育所でも日常的に生じているであろう遊びが、事例として取りあげられることになる。

 この本の以上のような観点からすれば、日常的な保育の現場は、いわばいまだ磨かれていない、宝石となるべき鉱石の採掘場であり、一人の人間としての子どもの豊かで奥深いあり方が日々発揮されている場である。そして、乳幼児教育学が、現実の子どものあり方に即した学問でありながらも、現実の保育実践にも貢献しうる学問であるためには、まず何よりも、磨かれていない鉱石と同様、これまで探られることのなかった保育の現場における子どもたちの豊かで奥行のあるあり方に光を当て、明らかにすることが求められるのではないだろうか。

 この本では、こうした想いで子どもの遊びについて探ることを試みるが、哲学の一領域である現象学を理論的背景としている。しかし、現象学には深く入り込むことをせず、どうしても必要な場合にかぎり、主に注で、現象学からの引用によって、本文で述べられている内容の補足をすることにした。

 この本では、以上の観点から、それぞれの章のテーマに沿って、子どもの遊びについて探ることになる。ここではその内容を先取りして紹介することはしないが、それぞれ章の冒頭で、その章のテーマと各節の内容を簡単に紹介している。

 以上のように、この本では、具体的な事例や子どもの遊びについての様々なエピソードと、それに基づく記述が中心となっている。保育者の方は、自分自身の保育実践での同様の子どもの遊びにおきかえて、あるいは、保育者をめざしている場合は、将来出会うであろう子どもの遊びを想像しながら、読み進めていただければと思う。読者の方々に、いくらかでも、子どもの遊びの豊かさと奥深さを実感していただければ幸いである。
 なお、それぞれの章の担当と役割は、次の通りである。

 第1章は、この章の分担執筆者である大岩みちのが、ビデオ映像からこの章で取りあげる場面を選び、それを事例としてまず文章化した。その文章を基に、大岩と中田基昭で、子どもたちのあり方を検討し、その結果を大岩が再び文章化した。

 第2章から第13章までは、これらの章の分担執筆者である横井紘子が、これまでの観察記録と、事例としてまとめていた保育実践等の記録のなかから取りあげる事例を選び、この本の主旨に即して探ったことをまず文章化した。そのうえで、その内容を中田と共にさらに検討した。横井が、その結果を再び文章化した。ただし、注の原典に基づく本文の補足は、中田が執筆した。

 最後になりましたが、前著『家族と暮らせない子どもたち』(中田基昭編著、2011年)に引き続いて、この本の刊行をお引き受けくださった新曜社代表取締役社長塩浦ワさんには、心よりお礼を申しあげます。しかも塩浦さんは、前著と同様、この本の原稿のかなりの部分に直接手を入れてくださいました。編集者は一番はじめの読者と思っている編者にとっては、こうして手を入れていただくことは、筆者と読者の方々との出会いを導いてくださることになり、非常に心強い支えとなりました。子どもの遊びの豊かさと奥深さを実感していただきたいという、この本でめざしている想いが読者の方々にいくらかでもお伝えすることができたとしたならば、ひとえに塩浦さんのおかげであると思います。この場をお借りして、私たち三人を代表して、感謝の言葉を述べさせていただきます。

 2016年2月
編者