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日本記号学会 編

音楽が終わる時
――産業/テクノロジー/言説


A5判224頁並製

定価:本体2800円+税

発売日 15.6.30

ISBN 978-4-7885-1438-6

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◆「音楽」が終わって何が始まる?
 最近のデジタル化、IT化などにより、「音/音楽」はあらゆる面で激変しています。制作面での録音技術、音響合成技術の発展、需要面での配信技術の発展などにより、従来とは質的にも変容しています。そのことがもつ意味、社会にもたらす意味とは何でしょうか。最近亡くなった音楽プロデューサー佐久間正英氏の「音楽の終焉」をめぐる提言、最前線で活躍するフォルマント兄弟、The SINE WAVE ORCHESTRA、RAKASU PROJECT.などのアーティストたちの「奇妙な」パフォーマンスを通じて、その意味するところを、記号論ならではの多様な視点から、明らかにしていきます。

音楽が終わる時 目次

音楽が終わる時 刊行によせて

ためし読み

◆叢書セミオトポス 日本記号学会編

叢書セミオトポス7 ひとはなぜ裁きたがるのか

叢書セミオトポス8 ゲーム化する世界

叢書セミオトポス9 着ること/脱ぐことの記号論

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音楽が終わる時 目次
刊行によせて 吉岡 洋
音楽が終わる時―産業/テクノロジー/言説 佐藤守弘

T部 音楽・産業・テクノロジー―音楽制作の現状

レコード産業の地殻変動は音楽をどう変えるのか? 安田昌弘

ポピュラー・ミュージックの終わりとはじまり―音楽と産業の現在
佐久間正英・榎本幹朗・山路敦司・水島久光

空間に音を響かせることをめぐって 水島久光

U部 モノとヒトと音楽と社会―ポピュラー音楽研究のフロント

音楽は人になにをさせるのか? 安田昌弘

「人」は「作品」と如何にして繋がっているのか 南田勝也

ユーザーになるための聴取―デジタル・シンセサイザーの受容過程をめぐって 谷口文和

ハイブリッド・ミュージッキング 土橋臣吾

V部 音=人間=機械のインタラクション

音楽の構成要素についてもう一度考えてみる 安田昌弘

The SINE WAVE ORCHESTRA 城 一裕・古舘 健・石田大祐

RAKASU PROJECT. 落 晃子 ゲスト:平♯重行・伴 蒼翠

フォルマント兄弟 三輪眞弘・佐近田展康 ゲスト:岡野勇仁

全体討議

遍在するサイン波、宇宙的哄笑 吉岡 洋

W部 記号論の諸相

微生物のメディア考古学―生物(学)とアニメーション 増田展大

行為のシミュレーションとしてのビデオゲーム 松永伸司

あとがき 安田昌弘

資料 日本記号学会第三三回大会について

執筆者紹介

日本記号学会設立趣意書


音楽が終わる時 刊行によせて

日本記号学会会長 吉岡 洋

たんなる数字の上では、二一世紀に入ってもう一五年が経過した。前世紀に想像された未来のなかでは、宇宙船ディスカヴァリーに搭載された人工知能HAL9000が反乱を起こした年(二〇〇一年)も、天才科学者天馬博士が亡き息子の身代わりにロボット(後の鉄腕アトム)を造った年(二〇〇三年)も、ドラえもんたちの愛用するタイム・マシンが発明された年(二〇〇八年)も、もはや過去の出来事となってしまった(ちなみに今年は『新世紀エヴァンゲリオン』で最初に「使徒」が出現する年である)。

 けれども私たちは本当に、二一世紀に生きているのだろうか? 一〇〇年時間を巻き戻してみると、今は第一次世界大戦のまっただなかである。一九〇〇年代の最初の一五年間―それは数字の上では二〇世紀でも、文明の基本的な形はまだ一九世紀を色濃くひきずっていた。同じように、私たちの文明はまだ二〇世紀に深くとらわれているのではないだろうか? そして、もし一九世紀を本当に終わらせたのが最初の世界大戦だとすれば、もしかすると私たちはいま、ようやく二〇世紀の本当の終末に直面しつつあるのではないだろうか?

 もちろんこうした考えは、あまり根拠のないアナロジーにすぎないのかもしれない。けれども二〇世紀に登場した新しいテクノロジー、とりわけデジタル情報技術が文明に与える本当のインパクトは、今ようやく現実の姿をとりつつあるとも思えるのである。私たちはたしかにデジタル情報環境に取り囲まれているけれども、いまだに基本的にはそれらをデジタル以前の思考様式によって―電子テキストとして書かれる著作物を紙の書籍の比喩によって、データとして配信される音楽をアナログ録音技術の比喩によって―何とか理解しようとしてきたのではないか? そしてそうした比喩は、今や役に立たない時が来ているのではないだろうか?

 日本記号学会第三三回大会は、「〈音楽〉が終わったら―ポスト音楽時代の産業/テクノロジー/言説」と題され、京都精華大学において開催された。本書はこの学会の成果に基づいて編集されたものである。「音楽が終わったら」というフレーズは、往年のアメリカのロックバンド、ザ・ドアーズのアルバム『まぼろしの世界』(一九六七年)のラストに収録された曲名からとられた。アナログ録音文化の最盛期に創られたこの曲のタイトルが、デジタル情報技術による音楽文化の根本的な変容―ある意味での終焉―を予言するものとして呼び出されたわけだ。 この大会の開催時、ゲストとしてお呼びした音楽プロデューサーの佐久間正英さんがその前年(二〇一二年)にご自身のブログに発表された「音楽家が音楽を諦める時」というエッセイが、ネット上で大変な反響を呼んでいた。レコード(CD)制作にかけられる予算がどんどん縮小され、このままでは本当にいい音楽を創るという営みそのものが、何一つ伝承されることなく途絶えてしまう、と彼は言う。レコード一つ作るのに一五〇〇万円もかかるという話に対して、六〇万円でCDを制作しているインディーズ・バンドの若者たちがバブルだと反発して炎上したらしいが、本当は金額が問題なのではない。それだけのお金をかけてもいい音を作るかどうかという、文化の問題である。そうした文化が許容されなくなったという意味で、音楽家は今や音楽を捨てる時かもしれない、と佐久間さんは書いた。ペシミスティックだが率直な思いであり、ぼくは深く共感して読んだ。

 一方、コンピュータ音楽家のフォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)が近年追求してきた、人工的に合成された声を用いたパフォーマンスは、いわばデジタル情報技術の可能性の中心にいきなり切り込もうとする大胆な試みである。それによって録音された音響の歴史を一気に突き抜けて、音楽の、原初的な出来事としての存在様態に迫ろうとしているかのようだ。初音ミクのようなヴォーカロイドとは似て非なるものである。その意義を聞かれてぼくは、それはロボットでもサイボーグでもゾンビでもなく、パラケルススのような錬金術師たちが蒸留器のなかで造ったと言われる「ホムンクルス」のような存在に近いのではないか、と言った。

 とはいえ、二〇世紀のアナログ音楽文化が終わるというペシミズムと、デジタル情報技術の中心に新たな音楽の生命が立ち上がることを幻視する態度は、実は互いにそれほど隔たってはいないのではないかと、ぼくは考えている。「音楽が終わったら、灯りを消してくれ」と、アドルフ・ヒトラーは自殺する前に言ったとされている。古いものの終わりと新しいものの始まりを捉える思考は、常に両義的だ。誰しも、自分が生涯をかけてコミットしてきた文化が伝承されないことには悲痛な思いであろうけれど、まさにその「伝承されない」ことによってこそ、新たな時代が到来するとも言える。音楽に限られたことではない。終わりの始まり、終わりとしての始まりをぼくは信じたい。