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ピーター・バーク 著/井山弘幸 訳

知識の社会史2
――百科全書からウィキペディアまで


四六判上製536頁

定価:本体4800円+税

発売日 15.7.15

ISBN 978-4-7885-1433-1




◆「蒐集」する動物・人間の営為をたどる力作
 好評を博した前著『知識の社会史──知と情報はいかにして商品化したか』(小社刊、3400円)は、「グーテンベルクからディドロ(百科全書)」までを扱いましたが、本書はその続編で「百科全書から現代のウィキペディアまで」を扱います。「知識を集める」「知識を分析する」「知識を広める」「知識を失う」「知識を分ける」から「知識の地理学/社会学/年代記」まで、探検・冒険・略奪、博物館・美術館・図書館・大学・研究所、暗号解読・スパイ・インテリジェンス……などの広範な話題にわたって、知識をどのように集め、分析し、陳列し、実用化するか──知識をめぐるあらゆる話題を取り上げて論じます。その結果、人間とはいかに「蒐集」する動物であるかが、実感として迫ってきます。博学の人・バークならではの作品といえましょう。

知識の社会史2 目次

知識の社会史2 序文(一部抜粋)

ためし読み
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知識の社会史2 目次


謝辞

序文
社会史 諸知識

 第一部 知識の実践

第一章 知識を集める
知識を集めること  第二の発見時代  科学的遠征調査  第三の発見時代?  過去の文化をもとめて  時間の発見  測量  標本の蓄積  フィールドワークの多様性  観察のさまざま  話を聞くことと質問すること  質問票  録音  ノートとファイル  保存書庫  結論

第二章 知識を分析する
分類すること  解読すること  再建(復元)すること  評価  年代決定  計数と測定  記述すること  比較すること  説明すること  解釈すること  物語ること  理論化すること

第三章 知識を広める
話すこと  展示すること  書くこと  定期刊行物  書物  視覚教材

第四章 知識を使う
検索すること  有用知識という考え  実業と産業のなかの知識  戦争における知識  政治における知識  帝国における知識  大学における知識  他の代替的教育機関  収束現象

 第二部 進歩の代価

第五章 知識を失う
知識を隠すこと  知識を破壊すること  知識を捨てること  図書館と百科事典  思想を捨てること  占星術  骨相学  超心理学  人種と優生学

第六章 知識を分割する
博識家の没落  科学者の出現  学会、専門誌、集会  学問分野  専門家と専門的技術  領域  学際的研究  共同作業  危険にさらされた種の生存

 第三部 三つの次元における社会史

第七章 知識の地理学
微視的空間  知識を国有化すること  学問の共和国  中心と周縁  辺境からの声  移民者と亡命者  非国有化する知識  知識を世界化すること

第八章 知識の社会学
知識の経済学  知識の政治学  大国vs小国  圧力を受ける学者  中央集権化の始まり  知識と戦争  研究の後援者としてのアメリカ政府  知識労働者の多様性  労働者階級  知性ある女性たち  組織と革新  思想の学派

第九章 知識の年代学
知識の爆発的増加  世俗化と反世俗化  短期間の動向  知識の改革、一七五〇─一八〇〇年  知識革命、一八〇〇─一八五〇年  学問分野の興隆、一八五〇─一九〇〇年  知識の危機、一九〇〇─一九五〇年  技術化する知識、一九四〇─一九九〇年  再帰性の時代、一九九〇年─

訳者あとがき


参考文献
事項索引
人名索引

  装幀/虎尾 隆


知識の社会史2 序文(一部抜粋)

 「知識の歴史はいまだ書かれていない」。経営理論家で未来学者でもあるピーター・ドラッカーは一九九三年にこう断言し、この主題が「ここ二、三十年のうちに」重要な研究領域となると予言した。ドラッカーもこのときばかりは少々時流に遅れていたようで、知識の歴史への関心はその当時すでに広まりつつあった。『知は力なり』(Knowledge is Power, 1989)とか、『知識の諸分野』(Fields of Knowledge, 1992)、あるいは『植民地主義とその知識形態』(Colonialism and its Forms of Knowledge, 1996)といった表題の書物が歴史家によって書かれていたからである。

 『知識の社会史―グーテンベルクからディドロまで』(二〇〇〇年)を書いた頃、私は「知識社会学」の草分け的存在であるハンガリー人、カール・マンハイムに先んじて目をつけ、長年関心を抱いてきたことを自負していたけれど、振り返って考えてみると、明らかに、私はドラッカーの予言を誘発した「知識社会」(本書三三八頁)をめぐるその当時の論争に、自覚的であれ無自覚であれ、影響を受けた多くの研究者のなかの一人にすぎなかった。一九九八年、すでに二人の著者がこの主題について「知識志向」と表現していた。二〇〇〇年以降、この傾向はさらに強くなり、出版状況にだけでなく、研究課題に反映することも多くなった。その傾向は特にドイツ語圏に限られるわけでもない。

 本書はこれだけで読んでもよいし、『知識の社会史―グーテンベルクからディドロまで』の続編として読んでもかまわない(いずれ両者を併せて『知識の社会史―グーテンベルクからグーグルまで』のタイトルで改訂版を出したいと考えている)。本書を書いたきっかけは、「われわれはどのような道をたどって、現在の知識全体を得たのか?」という問いに対して答えてみようという個人的な好奇心であった。折しも大学を退職し、職業が強いる「授業時間」と「専門分野」から解放されたこともあり、以前よりもこの好奇心に没頭することが容易になった。

 『グーテンベルクからディドロまで』を引き継いで、本書では、『百科全書』(一七五一―六六年)からウィキペディア(二〇〇一年)にいたるまでの、学問の世界における全体的な変遷を概観する。主題とするのは、〔知識の〕処理(processes)であり、とりわけ、定量化(quantification)、世俗化(secularization)、職業化(professionalization)、専門化(specialization)、大衆化(democratization)、グローバル化、そしてテクノロジー化に焦点を当てる。

だが、互いに対抗し合う傾向を忘れてはならない。実際のところ、この論考に主題があるとしたら、それは正反対の方向に向かおうとする、ときおり拮抗状態が崩れて不安定になることもある、諸傾向の共存と相互作用の重要性であろう(本書二七五、三二八、三八八頁)。知識の国有化(nationalization)は国際化(internationalization)と、世俗化は超俗化と、職業化はアマチュア化と、標準化は個別注文方式(custom-made products)と、専門化は学際的共同研究(interdisciplinary projects)と、そして大衆化はそれを抑えようとする反動と共存している。知識の蓄積でさえ、ある程度は知識の喪失によって相殺される。このなかでテクノロジー化だけは、深刻な反作用を受けずに邁進しているように思われる。

 一般的にいえば、知識の諸様相に関する歴史は、他の多くの歴史の場合と同様に、国家的な枠組みのもとで書かれる傾向があり、読者に対して自国民の業績についての印象をことさら誇張して与えることが多い。極地探検を例にとってみよう。これについてイギリス人ならロバート・スコットやアーネスト・シャクルトンを考えるだろうし、アメリカ人ならロバート・ピアリを、ロシア人ならオットー・シュミットを、ノルウェー人ならフリドショフ・ナンセンやロアルド・アムンゼンを、スウェーデン人ならアルフレッド・ナトールストを、フィンランド人ならアドルフ・ノルデンショルドを、デンマーク人やグリーンランド人ならクヌド・ラスムセンを思いつくだろう。国家的な偏向を何とか避けようと思い、本書では分かりやすい比較的手法を採用するつもりだ。

 本書では西欧を中心に扱うが、「五大国」つまりイギリス、フランス、ドイツ、ロシアそしてアメリカ合衆国に話を限定するようなことはせず、他のヨーロッパ諸国やラテンアメリカの話も盛りこむようにしたいと思う。たとえばオランダのような小国でも、自国の知識の歴史に関する膨大な研究―植民地の知識、科学史、博物館の歴史など―がなされている。

 本書で通覧する広域にわたる話題のさまざまな局面に関して、これまで多くの傑出した専門書が刊行されてきた。とくに科学史の分野において顕著である。こうした専門書のほとんどは、単一の学問分野の歴史に限定されている。だが本書では、前述した国家的な偏向ばかりでなく、専門分野固有の偏向を避けるためにも、比較という手法を用いるつもりだ。以下に書くことは全般的な総合(general synthesis)の試みであり、精髄だけを凝縮する仕事(distillation)であり、あるいはより正確には、科学史家が言うところの「仲間の歴史家たちの研究を集めてきて、そこから略奪し(raiding)、組み直し(rearranging)、そしてときおり改変(revising)すること」である。他のものと比べるとこれまで研究者からの注目が極度に低かった話題もあることから、空隙を埋めることもこの仕事のもう一つの側面である。そのため、異なる地域や異なる分野の研究成果をつなぎ合わせることも本書の仕事となる。

 重要なことは、専門家にはしばしば見えない全体像、つまり専門化という現象それ自体をもとりこむような、全体的描写を含む描像を提供することである。一七五〇年から二〇〇〇年にいたる期間の全体図は、私が学問人生の大半をその研究にささげた、近代前期の一四五〇年から一七五〇年までの全体図との比較によって明確なものとなるだろう。だが近代前期と後期との連続性を忘れてはなるまい。とりわけ今では「情報過多」として知られる現象に関して、近年とみに問題意識が高まってきている。私の望むことは、あまり互いに語り合ったりしない二種類の学者、すなわち近代前期と後期の歴史家の間に対話を促すことである。

本書の題名から、あらかじめ二つの疑問―「社会史とは何か」「知識とは何か」―に答えておかなければならない。