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ピーター・バーガー 著/森下伸也 訳

退屈させずに世界を説明する方法
――バーガー社会学自伝


四六判上製368頁

定価:本体3800円+税

発売日 15.5.15

ISBN 978-4-7885-1432-4

cover


◆たまたま社会学者になった人の桁外れの自伝
 『現実の社会的構成』、『聖なる天蓋』、『犠牲のピラミッド』、『社会学再考』などで知られる社会学者バーガーの学問的自伝。原題「アクシデンタルな社会学者の冒険」の「アクシデンタル」は多義的で面白いが、日本語には訳しにくいです。たまたま偶然、社会学を専攻するようになって、たまたま書いた本がヒットし、旺盛な好奇心から世界中のプロジェクトに呼ばれ、成果を発表し、評判になり……、という、桁外れの行動力と思考力を有する知的人間の自伝です。冒頭の「十二番街のバルザック」から最後の「ある種のエピローグ、(いまのところ)墓碑銘ではない」まで、文章もしゃれています。『シャドウ・ワーク』のイリイチとのメキシコでの出会いなど、特に面白いです。バーガー・ファンでなくても十分楽しく読めます。

退屈させずに世界を説明する方法 目次

退屈させずに世界を説明する方法 まえがき

ためし読み

◆書評
2015年6月21日、山梨日日新聞
2015年6月28日、愛媛新聞
2015年10月24日、図書新聞、渡邉頼陽氏評

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退屈させずに世界を説明する方法 目次
まえがき

第1章 十二番街のバルザック
十二番街を巣立つ
「どうすればペルシャ人になれるか?」

第2章 ありえない地平
やる気のない兵士とニセ心理セラピスト
「君はいまやプロテスタント教会に奉仕する身だ。それにふさわしく行動したまえ」
デキシーへ帰る――美女と悪漢
プロテスタントの微笑に包まれて
「書籍奔出」の始まり

第3章 派閥から挫折せる帝国へ
十二番街へ戻る
指の練習
「君はほんとに文学者だねえ」
マニフェスト
「いったん神様ファンになったら、いつでも神様ファンさ」
二重の亡命

第4章 地球をトレッキングする社会学
ジャーナリズム周遊
まぶしい陽光のなかの新思想
近代的意識とは何か
「君に悪い知らせがある」
再び神様ファン

第5章 あまたの神と無数の中国人
神様が少なすぎる、いや多すぎる
香港の摩天楼
ひょっとしていい知らせ?

第6章 過てる政治的小旅行
「合衆国の名誉ある代表のお言葉に感謝いたします」
「非喫煙者も死ななければならない」

第7章 ムブルワからギュータースローへ
国の変容を目撃する
「デリーからギュータースローへはどう行くか?」
まずい時に三冊の本

第8章 ソロイストではなく指揮者として
箸をもつ資本家ともたざる資本家
「どっこいマックス・ウェーバーはグアテマラに生きている」

第9章 第一バイオリンを弾く
コンピュータとヒンドゥー教
テキサスの実業家とロンドンの無知なるコンシェルジュ
狂信なき確信
笑う社会学をめざして
 国々  宗教の諸伝統  状況あれこれ  職業あれこれ
ある種のエピローグ、であって(いまのところ)墓碑銘ではない

訳者あとがき
ピーター・バーガーの主要著作

索引


退屈させずに世界を説明する方法 まえがき

  二〇〇九年の夏、ブダペストの中央ヨーロッパ大学で講演をするよう招聘を受けた。何について講演してほしいのかと尋ねると、それはまったく私次第とのこと。私はそういうのが嫌いである。宣教師じゃあるまいし、ブダペストで説教すべきことなど何もないのだ。すると、「自己史」(ego?histoire)とよんでいる便利な形式があるといってきた。自伝という意味だろうか? いやいや、彼らが言いたいのは講師の知的履歴――論じてきた問題、道々出会った人や出来事――に関する記述ということであった。それなら面白いかもしれない、と私は思った。講演した私が面白いと感じただけでなく、それを聞いた聴衆も明らかに面白そうだった。帰国して私は一冊の本にとりかかった。それがこの本である。

 おなじ年の夏、ブダペスト旅行の直前、私はウィーンにいて、友人の娘と話をしていた。彼女は大学で社会学の勉強を始めたばかりなのだが、幻滅してしまったという。彼女は私の旧著『社会学への招待』を読んだことがあり、わくわくするような知的経験を期待していた。ところが逆に、すっかり退屈してしまったとのこと。最近ウィーン大学でどんな社会学が教えられているのか知らない(故郷の町に帰ると、私にはオーストリア社会学の現状を検査すること以上に面白いことがいろいろあるのだ)。だが、もし当地のカリキュラムがヨーロッパの他の地域やアメリカで広く教えられているのと似たりよったりだとしたら、はなはだ聡明な乙女が退屈しても驚くべきことではない、と私は思う。  社会学をネタにしたジョークはごくわずかしかないが、その一つがここでピッタリだ。ほぼ間違いなく余命はわずか一年と医師に告げられた患者。このおそろしい宣告を受け容れたあと、どうすればいいかと医師に訊くと……

 「社会学者と結婚して、ノースダコタに引越しなさい。」

 「それで治るんですか?」

 「いや、治りはしないけど、一年をずっと長く感じるよ。」

 この数十年、社会学は二つの病を患っている――方法論的フェティシズム、すなわち数量的手法になじむ現象だけに研究を限定する傾向と、昔ながらのお題目をただくり返すだけ(時にボキャブラリーだけ増えている)のイデオロギー的プロパガンダである。どちらの病も退屈を深める。数量的手法それ自体が悪いわけではなく、有益な場合もある。だが往々にして、調査研究に要する高額な経費を進んで提供しようとする人々の利害に合わせようとすれば、ますます瑣末なテーマを探求するためのますます精巧な手法、という結果が生じがちなのだ。またイデオロギー的お題目についていえば、それらは三十年前にはたしかにわくわくするようなものであったかもしれないが、今日ではあくびを催させるだけという傾向が強い。もちろん例外もある。興味深く重要な著作を生む社会学者もいるにはいるのだ。でもそれは少数派だと言って差し支えないように私は思う。

 私はウィーンの乙女に、社会学は退屈なものとは限らないよと言った。もし社会学をずっと続けていたら、退屈でないことを自分がやっていることに気づく日がきっと来るであろう。終身在職権つきの地位を得たあとなら特に、自分の好きなことを思うようにやれるようになる。小役人が仕切っている大学というところにもたくさんのニッチがあるし、給料もたいがい分に応じてそこそこあるし、(これがいちばん大事なところだが)毎年あの長い夏がある。社会学者には大学外にもいろいろと仕事がある。社会学を研究する者は、(人類学をのぞく)他のほとんどの社会科学と違って、非常に広範囲のテーマを論じることができる。かねがね私はそう考えてきたのだが、社会学は人間世界の壮大なパノラマに限りない愛着を感じるひと、いま現実に何が起きているのを発見することに情熱を燃やすひと、――必要とあらば鍵穴を覗きこんだり、他人の郵便物を読んだりするひとに大変向いている。

 大学院生時代、私は一度後者の罪を犯したことがある。当時の私のガールフレンドは法学専攻の若い女子学生とアパートをシェアしていた。彼女はひどくだらしない人間で、自分の持ち物を家中に散らかしていた。ある日トイレに坐っていると、私は彼女のボーイフレンドあての手紙を見つけた。私は高まる期待を抑えきれず、それを読んでしまった。中身はほとんど二人で過ごした週末の心理学的解剖で、一つ一つのできごとが基本的にはフロイト流の用語で説明してあった。彼が何を言ったか、ほんとうは何を言いたかったのか、週末のできごとが彼の隠れたノイローゼとどう関係しているか、彼の母親がその状況でどういう立ち位置にいるか、これらすべてが手紙の書き手にとってどんな意味を持っているか、などなど。私はその手紙を盗んでしまった。それは後世のために保存しておかれるべき、きわめて貴重な文化的ドキュメントだと思ったのだ(言うもはばかられることながら、いつかどこかでそれはなくなってしまった)。

* * *

 最後に謝辞を。私の代理人、ローラ・グロスに感謝したい。彼女は終始とても協力的で、知性と人間としての温かさのたぐい稀な結合とともにそうなのであった。