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佐藤 公治 著

ヴィゴツキーの思想世界
――その形成と研究の交流


四六判並製320頁

定価:本体2400円+税

発売日 15.5.1

ISBN 978-4-7885-1428-7




◆ヴィゴツキー理解への道案内
 ヴィゴツキーは今から80年前に37歳の若さでこの世を去った心理学者ですが、その研究が今熱い視線を集めています。この再評価の動きの背景には、人間と人間精神の見方についての反省と転換が起きていることがあります。ヴィゴツキー心理学が人間研究の取るべき方向を指し示していることに、改めて気づいたのです。そこで、ヴィゴツキーの理論をどう読んだらよいのか、そのスタンスが問われることになります。本書は、ヴィゴツキーがどのような思想を持っていたのか、どのような形でそれを形成していったのかを、彼が直接・間接に関わりを持った多くの研究者、思想家との交流の中に見てゆきます。文化心理学に関心をもつ読者にとって、ヴィゴツキーの理解に新しい地平を開く必読の本です。

ヴィゴツキーの思想世界 目次

ヴィゴツキーの思想世界 はじめに(一部抜粋)

ためし読み
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ヴィゴツキーの思想世界 目次
はじめに
第1章 ヴィゴツキー、その研究と生涯
   1 ヴィゴツキー再評価の動き
    (1)認知心理学における文化への注目とコールの存在
    (2)ヴィゴツキー研究の先駆者―ブルーナー
    (3)ワーチのヴィゴツキー研究
    (4)文化歴史的活動理論とその他のヴィゴツキー研究

   2 ヴィゴツキーの生涯と研究、その略伝
    (1)第一期―1896年~1924年
    (2)第二期―1924年~1934年
    (3)ヴィゴツキー死後のヴィゴツキー派

第2章 ヴィゴツキーの『芸術心理学』――ロシア・フォルマリズムを超えて
   1 『芸術心理学』の特徴
    (1)『芸術心理学』の誕生とその背景
    (2)『芸術心理学』のメッセージ―人間心理の探究
   2 ヴィゴツキーの芸術理論―主観対客観の対立を超えて
    (1)ヴィゴツキーとポテブニャ
    (2)ヴィゴツキーとロシア・フォルマリズム
   3 ヴィゴツキーのフォルマリズム批判と文学研究のさらなる動き
    (1)フォルマリズムの限界
    (2)文学研究における関係論的視点―ドミナント概念
    (3)ドミナント概念の広がり
   4 ヴィゴツキーとアクメイズム
    (1)アクメイズムの文学研究とその思想
    (2)ヴィゴツキーとマンデリシュターム、そしてジルムンスキイ

第3章 ヴィゴツキーがみた文学の世界――ハムレット、寓話、スターン
   1 ヴィゴツキーの『ハムレット』とその心理世界
    (1)『ハムレット』、ヴィゴツキーの最初の文芸研究
    (2)『ハムレット』の解釈と評価、その誤解
    (3)「ハムレット」と人間心理の本質
   2 ヴィゴツキーの寓話の分析
    (1)寓話はどのように論じられるべきか
    (2)クルイロフの寓話からみえるもの
   3 スターンとブーニン、二つの小説の分析
    (1)小説の形式分析の限界
    (2)ドミナント概念による小説の分析
   付 ハムレットについて

第4章 ヴィゴツキーとエイゼンシュテイン――芸術創造をめぐる交流
   1 ヴィゴツキーとエイゼンシュテイン
    (1)ヴィゴツキーとエイゼンシュテイン、その出会い
    (2)映像の心理学的研究
    (3)文学と映画にみる弁証法的関係
    (4)映画と共感覚
   2 エイゼンシュテインの映画理論とそれが意味するもの
    (1)リアリズム主義を超える
    (2)モンタージュと歌舞伎
    (3)垂直のモンタージュ
   3 エイゼンシュテインが目指した人間精神の世界
    (1)知的モンタージュと内的モノローグ
    (2)個人精神の形成と歴史・文化の形成―ミクロコスモスとコスモス
    (3)エイゼンシュテインの映画論とドゥルーズの『シネマ』

第5章 ヴィゴツキーとシペート――その言語論と意味世界論
   1 ヴィゴツキーとシペート、二人の出会いと影響
    (1)シペート、その人物と思想
    (2)シペートとヴィゴツキーの出会い
    (3)心理学におけるシペートの存在
   2 シペートとヴィゴツキーの美学・文学研究
    (1)シペートの人間精神への解釈学的接近
    (2)シペートとヴィゴツキー、二人の文学・美学研究
    (3)シペートとヴィゴツキー、二人のロシア・フォルマリズムへの関わり
   3 シペートとヴィゴツキーの歴史・文化的視点
    (1)シペートの民族・社会心理学研究
    (2)ヴィゴツキーの歴史・文化的心理学
   4 シペートとヴィゴツキー、二人の言語研究
    (1)ヴィゴツキーとシペートの言葉の内化論
    (2)語の語義と語の意味について
    (3)シペートとヴィゴツキーの言語論の相違
   5 フンボルトの言語論とシペート、ヴィゴツキーへの影響
    (1)フンボルトの「内的言語形式」と「有機体としての言語」
    (2)フンボルトの比較言語研究と言語の多様性
    (3)フンボルトとヴィゴツキーの対話的言語論
   6 シペートとヴィゴツキーの思考・言語研究

第6章 ヴィゴツキーとゲシュタルト心理学
   1 ヴィゴツキーとゲシュタルト心理学の関わり
    (1)新しい心理学の構築とその課題
    (2)ヴィゴツキーのベヒテレフ精神反射学批判
    (3)ドミナント概念とゲシュタルト心理学
   2 ヴィゴツキーはケーラーの『類人猿の知恵試験』をどう読んだか
    (1)ヴィゴツキーがケーラーから学んだもの
    (2)ヴィゴツキーのケーラー批判
    (3)ゲシュタルト原理をめぐる議論
   3 ヴィゴツキーとコフカのゲシュタルト発達論
    (1)コフカとヴィゴツキー派との交流
    (2)コフカのゲシュタルト発達論とその特徴
    (3)ヴィゴツキーのコフカ『精神発達の原理』批判
   4 ヴィゴツキーとレヴィンとの交流
    (1)レヴィンの存在とその影響
    (2)レヴィンが心理学研究で目指したもの
    (3)レヴィンとヴィゴツキー派との交流
    (4)ゼイガルニクとヴィゴツキー
    (5)ヴィゴツキーとレヴィンの人格=情動・知性論

おわりに
文  献
事項索引
人名索引
装幀=新曜社デザイン室


ヴィゴツキーの思想世界 はじめに(一部抜粋)

今からちょうど八十年前に、三十七歳の若さでこの世を去った心理学者がいる。ロシアで生まれ、ロシアから新しい心理学を生み出していこうとしたヴィゴツキー、その人である。心理学の世界では、研究のテーマや話題になる人物が短い周期で変わることが多い。その中で、亡くなってから八十年も経っている人の研究が再び注目されることはきわめてまれである。

 それではどうして、今、ヴィゴツキーなのだろうか。この再評価の動きの背景には、人間と人間精神の見方についての反省と転換が起き始めていることがある。人間を社会的存在としてみることの必要性に気付き始めたということで、彼は人間精神を正しくとらえていくためには、心理学はどのような学問であるべきかということを問題にしてきた。今日でもその新鮮さは失われていない。彼が指摘したことから、心理学の人間研究としてとるべき方向が明らかになってくる。

 そこで、ヴィゴツキーの理論をどう読んだらよいのか、そのスタンスが問われることになる。「これがどうしてヴィゴツキーと関連するの?」と、疑問を持たざるを得ないようなヴィゴツキー研究があるのも事実である。あまりにもヴィゴツキーの考えを拡張してしまった結果である。もちろん、ヴィゴツキー理論を固定化してしまうのではなく、彼が解かなかったことも含めて、ヴィゴツキー理論をどう展開していくかということは、我々に課せられた課題である。だが、そのためには、まずヴィゴツキー理論をどう読むべきか、彼が一連の研究を通して何を言いたかったのかを明確にしておくことが必要である。

 本書ではヴィゴツキーが人間精神についてどのような思想を持っていたのか、そして彼の人間についての思想がどのような形で形成されていったのかを明らかにしていく。ここで主に焦点をあてるのは、彼が直接、間接に関わりを持っていた多くの研究者、思想家であり、文学と芸術を論じ、またそれらを実践してきた人たちとの交流である。ここで登場してくる人たちの中でも特に注目したのは、哲学者のグスタフ・シペート、言語学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルト、映画製作者のセルゲイ・エイゼンシュテイン、心理学者のクルト・レヴィンである。この人たちについては、レヴィンを除いて心理学の世界では取り上げられることはほとんどない。だが、彼らの研究や思想を詳しくみていくと、ヴィゴツキーに与えた影響が明らかになってくる。ヴィゴツキーは心理学とは違う分野の優れた人たちと積極的に関わり、その人たちとの対話から多くのことを吸収し、自己の思想を形成していった。このような思想的対話の様子をつぶさにみていくことで、ヴィゴツキーが人間精神に対して持った思想をより鮮明に描いていくことができる。

 今日、ヴィゴツキーをめぐって様々な研究の展開がある。社会・文化的アプローチ、歴史・文化的アプローチ、さらには活動理論としてヴィゴツキー理論を読もうという動きである。たしかにヴィゴツキーについては、人間精神に社会・歴史的な視点を取り入れた人として人口に膾炙している。彼の研究とその特徴を一言で言えばそういうことになるかもしれない。彼の精緻な理論構成によって人間を社会的存在としてみることの必要性に我々は気付き始めたし、このような人間をとらえていくための基本的な枠組みの変化は、心理学のあるべき姿に近づき出したと言ってよいかもしれない。

 だが、ヴィゴツキーの研究を社会・歴史的研究という視点だけでみたり、活動理論として論じてしまうと、彼が心理学で目指そうとした本当のことがみえなくなってしまう。何故ならば、彼が最終的に目指そうとしたのは、人間の意識の解明にあったからである。彼は人間の精神をすべて社会・文化的なものによって作られるとは考えなかったし、人間の内的な精神世界をこれらの外的諸変数に還元することもしなかった。彼は、人間の精神は社会・文化的なものの影響を受けると言いながらも、個人の意識世界というものの存在を担保しておくことを忘れなかった。ヴィゴツキーの代表作であり、彼の基本的な考えが凝縮している『思考と言語』も、思考するという活動を通して人間の意識を解こうとしたものであった。そこでは、ウイリアム・ジェームズやジグムント・フロイト、その他多くの研究者が問題にしてきた意識研究とは別の形で、人間の意識の本来の姿を描き出そうとした。彼にとっての心理学研究の究極の課題は、社会・歴史的な存在である人間が社会・文化という様々な外的存在と関わり、それらを自己の内部へと取り込み、変形をさせて自己のものにしていくことで、意識世界を形成していく過程を明らかにすることであった。

 この意識の生成過程には様々なことが関わっている。だから人間の意識をとらえるために意識そのものを実在論的に論じてしまうと、これまでの心理学や哲学の多くがとってきたように意識の世界そのものを完結させ、それ自体を閉じたものにしてしまうことになる。ヴィゴツキーはこのような観念論に陥らないために、様々な諸変数との関係、多様なシステム的連関の中で意識が生まれ、作られていくと考えた。彼が言う「心理システム論」である。彼は言葉や道具という物質的なもの、外的なものと関わりながら内的な世界を作っていく人間精神を、意識の問題として描こうとした。人間精神は単一の構造や機能、その変化で説明することはできない。様々な内的、外的な諸変数の機能的な相互関係の中で精神活動は生まれ、また変化をしていく。これが、ヴィゴツキーの人間精神についての基本的な理論枠組みである。その思想は、個々の著書、論文を超えて一貫していると言ってよいだろう。これが本書でヴィゴツキーを読んでいくうえでとっている、基本的な視点である。

 ヴィゴツキーが人間精神の心理学的問題としてはじめに取り組んだのは、文学作品とその分析を通してみえてくる人間の精神世界の姿であった。彼は学生時代に論攷「ハムレット論」をまとめ、そしてこれに続いて、ロシア・フォルマリズムの文学研究と格闘する中で彼独自の文学の世界に表れた人間精神の有り様を『芸術心理学』で描き出した。このようなヴィゴツキーが行った芸術に対する心理学研究も、多くの文学や芸術の分野の研究者、そして芸術家との交流を通して産み出されていったものである。

 ヴィゴツキーが本格的に心理学研究に着手したのは二十歳台後半からで、言葉という文化的道具を仲立ちにしながら人間が思考活動を展開していることに着目し、ここから意識を解明していくための科学的研究の突破口が得られると考えた。この研究は最終的には『思考と言語』に結実していくが、このような彼の言語研究を考えていく上で欠かせない存在に、シペートという研究者がいる。この特異な心理学者であり、哲学者であった人物は、言語についても独自の論を展開していた。ヴィゴツキーはこのシペートの言語論を部分的に参照しながら、シペートとは異なった言語発達の考えを展開していった。シペートとヴィゴツキーとの関係については最近の研究で注目され、また詳しいことが明らかになってきつつある。さらに、ヴィゴツキーの言語論を考える時、シペートも影響を受けたフンボルトというドイツ・ロマン主義言語論の流れをくむ人物の存在についてみていく必要がある。ヴィゴツキーはフンボルト言語学の成果を享受し、またそれらを批判的に論じることを通して、言語研究を展開していった。

 ヴィゴツキーが人間の精神的活動を論じていく時いつも念頭に置いていたのは、文化的道具が果たしている役割であった。人は文化的道具を媒介にしながら外部の対象に働きかけ、またそれらを理解し、自分の考えをまとめ、さらには外に向けて表現行為として展開している。これが自己の精神世界を形成していくことであり、それを支えているのが文化的道具である。この文化的道具の中心にあるのは、人間の場合は言語であるが、言語以外に視覚情報や映像も文化的道具の働きをしている。これらは、人間の内的世界を形成していく役割を持っているという意味では心理的道具にもなっている。ヴィゴツキーは人間精神を論じていく時に、言語以外のものにも幅広く研究の関心を広げていた。彼は映画の視覚的映像や演劇の世界にみる情動表現などにも深い関心を寄せていた。そこには、親しい友人の映画監督のエイゼンシュテインの存在が大きく関わっていた。ヴィゴツキーはアレクサンドル・ルリヤも交えて、エイゼンシュテインと映像心理学についての共同研究を行っていた。これはヴィゴツキーの研究者としてのもう一つの姿でもあった。

 ヴィゴツキーの心理学研究にはゲシュタルト心理学の影響が色濃く表れている。彼のゲシュタルト心理学への関心の背後には、人間を単一の変数で論じてしまう要素主義的な心理学や条件反射による精神反射学は人間精神の本質をとらえそこなっているという批判があった。ヴィゴツキーは、多様な機能の連関として人間の精神的営みをみていくことで、新しい心理学を構築しようとした。特にゲシュタルト学派のレヴィンとの研究の交流は、後半のヴィゴツキーの研究を豊かなものにしていった。その背景には障害児心理学についての共通の問題関心を持っていたことがあるが、ヴィゴツキー自身は臨床的な問題に早い時期から取り組んでおり、それを生涯続けていた。たとえば、晩年の精神障害の問題には情動と人格との間の多様な関係をみていくという発想があり、それを彼は「人格」と呼んでいたが、ここにも、人間の現実の姿をみていこうとする彼の姿勢が表れている。

 このように、ヴィゴツキーは人間と人間精神を多様な視点から論じていた。特定の問題に特化して扱ってはいけないのであり、広い問題圏の中で彼の研究を語らなければならない。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの言い方を借りるならば、ヴィゴツキーの思想は「脱領土化」を目指したものである。つまり、ある特定の時代の、ある特定の出来事を説明するための個別の領土を設定して、そこで使える説明装置を提示するのではなく、広く普遍的な問題に通底し得るような問題圏を設定したからである。あるいはヴィゴツキーは自己の考えを固定化してしまうのではなく、その当時の他の思想家との絶え間ない出会いと接続の中で、自己の思想を展開できる幅の広さがあった。まさに他者との相互作用によって自己の思想を生成変化させていく多様性があったのである。そのような人物の思想を考えていくためには、他者と対話させることがふさわしいだろう。彼が一連の研究で明らかにしようとした問題圏が何であったのかを、人間精神を論じてきた重要な研究者との対話の形をとってみていくことによって、より鮮明にしていくことが可能になる。

 ヴィゴツキーの研究者としての活動期間は学生時代を含めてもおよそ二十数年間で、本格的な心理学研究を開始したモスクワ大学の心理学研究所の研究に限ると十年間しかない。だが、彼のこの短い研究期間は実に濃密な時間であって、そこで実に多くの研究成果を出し、また多くの研究者と深い交流を行っていた。