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ジョン・サール 著/菅野盾樹 監訳

意識の神秘
――生物学的自然主義からの挑戦


四六判上製272頁

定価:本体3200+税

発売日 15.2.20

ISBN 978-4-7885-1421-8

cover


◆論争をとおして現代哲学の最前線へ!
 いま「心の哲学」、なかでも意識をめぐる哲学がおもしろい。脳科学の発展により、哲学の主役に躍り出たようです。デカルト以来の心身二元論は全く書き換えられようとしています。本書は、「デリダ─サール論争」などで知られるサールが、この分野の論客、F・クリック、エーデルマン、ペンローズ、デネット、チャーマーズなどの主著を取り上げて(さらには往復書簡などのやりとりもして)、心の哲学の錯綜する状況をわかりやすい見取図に書き直したものです。そのさい、論客たちの立場を二元論、唯物論(一元論)などに分類して批判し、「生物学的自然主義」の見地から、「心身問題」は間違った問題の立て方であり、意識は因果論的には物理的なものに還元できるが、存在論的には還元できないと自分の立場を明快に主張します。スリリングな論争を読みながら、心の哲学の最前線を俯瞰できる第一級の著作です。

意識の神秘 目次

意識の神秘 まえがき

ためし読み

◆書評
2015年4月10日、週刊読書人、宮原勇氏評

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意識の神秘 目次
まえがき

第一章 生物学的問題としての意識

第二章 フランシス・クリック、結びつけ問題、そして四〇ヘルツの仮説

第三章 ジェラルド・エーデルマンとリエントラントな写像

第四章 ロジャー・ペンローズ、クルト・ゲーデル、細胞骨格
 補論 ゲーデルの証明とコンピュータ

第五章 否定される意識──ダニエル・デネットによる説明
 補論 ダニエル・デネットとの往復書簡

第六章 デイヴィッド・チャーマーズと意識する心
 補論 デイヴィッド・チャーマーズとの往復書簡

第七章 イズリアル・ローゼンフィールド、身体イメージ、自己

結 論 意識の神秘をどのように意識の問題へと変換するか

 原注
 監訳者あとがき
 事項索引
 人名索引
 図版出典一覧

装幀──虎尾 隆


意識の神秘 まえがき

 この時代は、私の研究者人生における意識の研究にとって、最も刺激的であると同時に、最もいらだちを覚える時代である。刺激的であるのは、意識を、哲学、心理学、認知科学そして神経科学までもが研究の主題として重要視し、実際、ほとんど中心的テーマとして扱うようになったからである。いらだちを覚えるのは、その主題が全体として、とうの昔に明らかになったと私には思われる、誤解や誤りにいまだに悩まされているからである。

 この興奮――とその誤解のいくつか――は、本書で論じられている諸著作によって例示されている。本書は、私が一九九五年から一九九七年の間に『ニューヨーク・レヴュー・オヴ・ブックス』誌に掲載した一連の書評に基づいている。その間〔一九九五年から一九九七年〕の時間と、書物としてのより広い視野のおかげで、元の評論のいくつかを拡張、改訂し、議論全体に統一性をもたらすことができた。

 本書の各章で論じられている問題についてなされてきた――そして依然としてなされている――議論にたいして、見通しの利くところからこの題材〔意識〕を見渡すとき、私には次のように思われる。すなわち、意識に関して満足な説明を得るための最大にして唯一の哲学的障害は、一群の時代遅れなカテゴリーや、宗教的、哲学的伝統から受け継いできたそのようなカテゴリーに付随する一群の前提を、われわれが受け入れ続けてきたことである。われわれは、「心的」と「物理的」、「二元論」と「一元論」、そして「唯物論」と「観念論」という諸々の観念が明晰であり、そのままで立派な観念であるという誤った想定と、諸々の問題がこれらの伝統的な用語で提示され、解決されなければならないという誤った想定とから始めている。われわれはまた、科学的還元という観念――それによれば、複雑な現象は、それらの現象を作動させている基礎的なメカニズムによって説明されうるし、場合によっては、そのような基礎的なメカニズムのおかげで消去されうる――は明晰でありほとんど困難はないとも想定している。われわれはそこで、意識――すなわち、眠っているときの夢を見ている状態だけでなく、目が覚めている通常の状態の感覚(sentience)や気づき――を、分子や山のような「物理的」現象と比較する時、それらがとても特異なものに見えるということに気がつく。山や分子と比較すると、意識は「不可解」で、「エーテル的」〔エーテルは天界を構成する神秘的な物質とか光の媒質だと考えられていた〕で「神秘的」にさえ見える。意識は、ニューロンの発火のような、脳のほかの物理的特性が物理的であるようには、「物理的」であるように見えない。意識はまた、熱や固体性のような物理的属性に関しては上手くいっている普通の科学的分析によって、物理的プロセスへと還元できるようにも思われない。

 多くの哲学者たちは、あなたが意識を実在すると認めるならば、何らかのヴァージョンの「二元論」――宇宙には二つの形而上学的に異なる種類の現象、すなわち心的な現象と物理的な現象とがあるという見解――を採用することを余儀なくされるだろうと考えている。実際多くの著作者にとって、まさに二元論の定義には、もしあなたが山のような「物理的」現象に加えて痛みのような「心的」現象を受け入れるならば、あなたは二元論者であるということが含まれている。しかし伝統的に構想されてきた二元論は、望みのない理論に見える。なぜならば、心的なものと物理的なものとを厳密に区別したならば、その二つのものの関係を理解可能にするすべはないからである。二元論を受け入れることは、達成するのにほぼ四世紀も費やした科学的世界観全体をあきらめることのように思われる。では、どうすべきなのか。

 多くの著作者は、弾丸を噛んで苦痛を耐え忍び、二元論を受け入れる。たとえば、物理学者のロジャー・ペンローズと哲学者のデイヴィッド・J・チャーマーズについては、後ほど論じられる。しかし現代哲学において、最もありがちなやり方は、唯物論が正しいに違いなく、意識を何かほかのものへと還元することによって消去しなければならないと主張することである。ダニエル・C・デネットは、この立場を採用している哲学者の明白な例である。意識が還元されるべき現象の候補として好ましいのは、純粋に「物理的な」用語やコンピュータ・プログラムで記述される脳の状態である。しかし本書で論じるように、意識を消去しようとするこれら還元主義的試みのすべては、それらが取って代わろうとした二元論と同じくらい望みがない。ある点で、還元主義的試みは二元論より悪い。なぜならば、還元主義的試みは、その試みが説明することになっていた意識状態の実在を否定するからである。そして最後には、われわれがみな、痛みや喜び、記憶や知覚、思考や感じ、気分、後悔、そして空腹感のような、内的で、質的な主観的状態を持つという明らかな事実を否定して終わる。

 還元主義と唯物論へと人を駆り立てる衝動は、次のように想定する根本的な誤りに由来すると私は考えている。すなわち、もし意識をそれ自身で実在するものとして受け入れるならば、われわれはとにかく二元論を受け入れ、科学的世界観を拒否することになるだろうという想定である。本書全体を貫くテーマが一つあるとすれば、意識は、自然で生物学的な現象であるというものである。意識は消化、成長、あるいは光合成と同じくらい生物学的生活の一部なのである。

 われわれは、「心的なもの」と「物理的なもの」とを二つの相互に排他的なカテゴリーにする哲学的伝統のせいで、意識やほかの心的現象が持つ、自然で、生物学的な特徴にたいして盲目にされている。そこから抜け出す方法は、二元論と唯物論の両方を拒否し、意識が質的で、主観的な「心的」現象であると同時に、「物理的」世界の自然な部分であることを受け入れることである。意識状態が質的であるという意味は、痛みを感じること、経済状況について心配することのようなあらゆる意識状態に関して、その状態にあると質的に感じる何かがあるということである。そして意識状態が主観的であるという意味は、人間やほかの種類の「主体」によって経験されるときにのみそれらの状態が存在するということである。意識は、心的、物理的という伝統的なカテゴリーのどちらにも具合よくはあてはまらない、自然で生物学的な現象である。意識は、脳内のより低次のミクロプロセスによって引き起こされ、より高次のマクロレベルではその脳の特徴となる。この「生物学的自然主義」――わたしはこのように呼ぶのを好んでいる――を受け入れるためには、最初に伝統的なカテゴリーを捨てなければならない。

 私が思うに、われわれがまさに人間として存在することを理解するのに意識が中心的であるとわかるまでに、二十世紀の人々はどうしてそんなにも長い時間を要したのかと、次世代の人々は不思議がるだろう。なぜそんなにも長い間、われわれは、意識が問題ではないと、すなわち意識が重要ではないと考えたのか。逆説的なのは、意識こそが、どのような事柄であってもそれが何らかの者にとって問題となるための条件である、ということである。すなわち、意識を持つ主体にとってのみ、問題となる何か、重要な何かについての問いがありうるのである。

 私が本書を書いたねらいは、意識に関する問題にたいして、重要で影響力のある見解のいくつかを評価し、そうするなかで私自身の見解を提示し、正当化することにある。私は、ここで書評に選ばれた本がその主題〔意識〕に関する「最良の」本であるとは言わない。反対に、それらの本の質にはばらつきがあるという私の意見は、以下の章でまったく明瞭になるだろう。私の考えでは、それらの本は質において、とびきりすばらしいものから実にひどいものにまでわたっている。それらの本はさまざまな理由で選ばれた。すばらしいからというものもあれば、影響力があるからというもの、典型的であるからというもの、示唆的であるからというもの、現在の混乱の徴候を示しているからというものもある。それらの本のどれも意識の問題を解決してはいないが、解決への道を示しているものもある。脳がどのようにして上手くやっているのかを生物学的に詳細に理解するとき、われわれは意識を理解するだろう。脳は具体的にはどのようにわれわれの意識状態や意識プロセスを引き起こすのか、そしてこれらの状態やプロセスはわれわれの脳において、そしてわれわれの生活一般において具体的にはどのように機能しているのか。

 私は自分自身の見解を最初の章と最後の章で提示する。あとの章はそれぞれ私以外の書き手のうちの一人に向けられている。それらの章のうちの三つには、補論が含まれている。第四章については、その章の本文からかなり専門的な資料を切り離したかったからだし、第五章と第六章については、二人の著者が〔私による〕彼らの本の書評に返答したからである。彼らの返答と私の再返答とを、それぞれの章に補論として再掲した。

 私は本書を執筆するにあたり、たくさんの人々から手助けと助言とをいただいた。第一に、そしておそらく最も重要であるのは、私が書評を書いた六人のうちの五人――フランシス・クリック、ジェラルド・エーデルマン、ペンローズ、デネット、そしてチャーマーズ――が、さまざまな仕方で私の論評に答えてくれたということである。私は特にチャーマーズとペンローズにたいして、この資料の以前のヴァージョンにおいて、彼らによれば私が彼らの見方を誤解していたところを指摘してくれたことに感謝している。私の再返答だけでなく、私の元の書評にたいしてデネットとチャーマーズが公刊した返答は、本書に全文そのままの形で収録している。

 さまざまな同僚たちが資料のさまざまな部分に目を通してくれ、有益なコメントをくれた。私は特にネッド・ブロックに感謝する。私はゲーデルの定理とその定理のペンローズによる使用を理解する際に、数人の数学的論理学者たち、特にマック・スタンレーとウィリアム・クレイグに大いに手伝ってもらった。『ニューヨーク・レヴュー』誌のロバート・シルバースは、私がこれまで出会ったなかで最もすばらしい編集者であり、彼が情け容赦なく、根気強く明晰な説明を要求してくれたことから、私は多大な恩恵を受けた。私が彼から学んだ大いなる教訓は、知的な複雑さを犠牲にすることなしに、専門家でない人々に困難な問題を提示することができるということである。また私のリサーチ・アシスタントであるジェニファー・フディンと、とりわけ私の妻であるダグマー・サールに特別の謝意を表する。本書を彼女に捧げる。