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新形信和 著

日本人はなぜ考えようとしないのか
――福島原発事故と日本文化


四六判並製212頁

定価:本体1800円+税

発売日 14.12.12

ISBN 978-4-7885-1415-7

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◆大事故の原因は日本語にある?!
 福島原発事故から三年半、事故の十分な原因究明もなされず、安全基準も曖昧なままはやくも原発再稼働が決まりました。根拠のない「安全神話」はそのままに原発維持・推進は容認されつつあります。本書は、『日本人の〈わたし〉を求めて』(小社刊)で、日本文化と西洋文化の異質性を、確固とした〈わたし〉のある西洋語と主語のない日本語の違いから剔抉した著者が、今回の原発事故について、その処理のしかた、責任の取り方、今後の対策の立て方などを検証しながら、その根本原因はやはり日本文化の特性にあること、特に確固とした主語がなく、主体が断片化していることにあることを、説得的に説いたものです。もちろん日本文化にいい面はありますが、敗戦、大事故などの逆境では非常な弱点をもっていることを認識すべきだと言います。小粒ながら力作です。

日本人はなぜ考えようとしないのか 目次

日本人はなぜ考えようとしないのか はじめに

ためし読み

◆書評
2015年3月15日、中国新聞、甲田純生氏評
2015年3月22日、河北新報、甲田純生氏評

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日本人はなぜ考えようとしないのか 目次

はじめに

第一部 日本人の〈わたし〉を考える

第一章 〈わたし〉について
 「私」と「I」は異質である
 「私」と「I」の異質性の自覚が欠如している

第二章 〈わたし〉はどこにいるか――見ることについて
 〈わたし〉は中心窩のところにいる
 マッハによる〈わたし〉のスケッチ
 死にたいする対応のしかたで〈わたし〉のありかたが決まる
 『暗夜行路』における〈わたし〉の消滅

第三章 世界の外に存在する〈わたし〉と世界のなかを自由に
    移動する〈わたし〉――ルネサンスと日本の伝統的絵画
 ルネサンスのパースペクティヴの視点
 神にたいする信仰の直接化
 日本の絵画における視点のありかた

第四章 〈わたし〉のありかたの違い
     ――ヴェルサイユ宮殿の庭園と桂離宮の庭園につい
 連続する視点――ヴェルサイユ宮殿の庭園
 断片的で非連続な視点――桂離宮の庭園、絵巻、年号

第五章 〈わたし〉と〈わたし〉の出会いかた――挨拶について
 西洋人の挨拶と日本人の挨拶
 日本語における自分の称しかたと相手の称しかた
 〈わたし〉と「私」との関係

第六章 日本人の〈わたし〉の位相――仏像と臨済録
 東大寺戒壇堂の広目天像
 『臨済録』の「目前」について
 無我の位相

第七章 自己意識と自意識――主語(主体)について
 「I see Mt. Fuji」――主語(主体)が存在する意識の構造
 「自己意識」の確立――デカルトの「考える〈わたし〉」
 「富士山が見える」――「自己意識」と「自意識」の違い

第八章 見立ての構造について1
 ふたたび見立てについて
 日本語のなかの見立て
 宗教も見立てによって成立している
 ヴェルサイユ型知性と桂離宮型感性
 河合隼雄の「中空構造」と見立ての文化論
 日本人は自分のことを西洋人に見立てている

第二部 福島第一原発事故をめぐって¥()

第九章 非連続で断片的な思考と〈わたし〉のありかたの問題
 福島原発事故で露呈したもの
 統一的な視点の欠如
 〈わたし〉のありかたの問題

第十章 見立てに走る精神
 予想される事態を直視しないことと精神の雑居的な二重構造
 「現実的解決を心理的解決に置き換える」
 「「最悪のシナリオ」が消えてしまう思考回路」と空気の支配
 見立てに走る精神

第十一章 「和魂洋才」方式の破綻
 原子力規制委員会の新しい規制基準
 日本文化と西洋文化の違いを自覚することの必要性

おわりに
あとがき
図版出典一覧
索引

装幀――虎尾 隆


日本人はなぜ考えようとしないのか はじめに

 東日本大震災から三年半が過ぎました。あの大震災からうけた三つの衝撃を忘れることができません。地震による甚大な被害もさることながら、沖から襲ってきた圧倒的な高波に、係留されていた漁船も、家も、電柱も、車も、すべてのものが呑み込まれ、押し流されていった津波の光景は衝撃的でした。また、福島第一原子力発電所の原子炉の建屋が爆発し、一号機、三号機、二号機がつぎつぎにメルトダウンするにいたった恐怖感をともなった衝撃、これが第二の衝撃です。そして第三は、事故にいたるまでまかりとおっていた「原子力発電所は安全である」という神話が破綻して、その内実がどのようなものであったのかが明らかになりましたが、神話を構成していた事態のあまりのずさんさに衝撃をうけたことです。三年半という時間は過ぎましたが、福島原発事故は、被害を受けた人たちにとってそうであるように、過去の出来事ではなく、今なお現在の出来事です。

 この第三の衝撃がきっかけとなって、比較思想・比較文化論が専門のわたしは、同じ過ちを繰り返さないためには、あまりにもずさんなこのような事態がどのようにして生じたのかを解明する必要があると考えるようになりました。また、そのようなしかたで、原子力問題に素人のわたしでも、福島第一原発事故にかかわりを持つことができるのではないかと思ったのです。すでに、国会の「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」の黒川清委員長が、英語版の報告書(要約版)の冒頭で、福島原発事故の根本原因は、われわれの「反射的に従順であろうとする心性、権威を疑うことへの抵抗感、「計画通りであること」への愛着、集団主義、そして島国根性」などの「日本文化に深く根を下ろしている習性にある」(日本語訳は筆者による)、つまり、事故の直接的原因や間接的原因ではなく(直接的原因や間接的原因は原子力関係の専門家によって解明されるべきですが)、根本原因は日本文化にあると語っています。この発言は、西洋諸国や日本の多数の識者から、事故の原因究明を妨げる見解であり、ナンセンスであると強く指弾されました。しかし、黒川清委員長の指摘の方向性は正しいとわたしは考えています。問題があるとすれば、黒川清委員長の日本文化の捉えかたが、いささか紋切り型で表面的であったことにあると思われるのです。

 わたしは『日本人の〈わたし〉を求めて――比較文化論のすすめ』という本を二〇〇七年に新曜社から上梓しました。この本で試みたのは、わたしたち日本人が日本を近代化するために明治以降ひたすら摂取することに努めてきた西洋文化と伝統的な日本文化とがいかに異質なものであるかということを明らかにすることでした。西洋文化の受け入れについては、夏目漱石が「現代日本の開化」という講演のなかで語っている、日本の近代化は、外発的であり皮相上滑りである、ということばがよく援用されます。日本は、内発的に近代化を成し遂げた西洋のような、十分な時間的な余裕はなく、西洋が百年かかってやり遂げたことを十年でやらざるをえない、だから、内発的な経過をたどろうとするには無理があり、どうしても皮相上滑りになってしまうというのです。日本の近代化が外発的で、皮相上滑りであるという漱石の指摘はまったくそのとおりであり、異論をさしはさむ余地はありません。しかし、漱石がこのように指摘したときの根拠となっているのは、(時間の)量的な問題であり、質的なことは、少なくともこの講演では、問題にされていません。わたしは、日本の近代化が外発的で、皮相上滑りであるのは、漱石がいうように、内発的な経過をたどるための時間的余裕がなかったばかりではなく(漱石がそのように指摘してから、すでに百年以上の時が経過していますが、ますます皮相上滑りになっているのではないでしょうか)、受け入れようとした西洋文化と伝統的な日本文化との異質性にわたしたち日本人が無自覚であったことに由来するであろうと考えて、前著を書きました。

 福島の原発事故を経験して考えたこと、それは、事故の根本原因が現代の日本文化にあるのではないかという疑いをいだきながら日本人の問題をもう一度徹底的に検証してみようということでした。自己のありかたについて、すなわち、このような事態に立ちいたらざるをえなかった自己の欠点を、じゅうぶんに自覚しそれを改めることができなければ、将来また同じような事態を繰り返すことになるのではないでしょうか。

 この本の第一部(第一章から第八章まで)は日本の文化について語られています。また、第二部(第九章から第十一章まで)では福島第一原発の事故にかんして考えたことが語られています。第一部から順に読み進んでくださっても、あるいは、第二部をまず読んでから第一部に戻っても、自由な読みかたをしてくださればよいと思います。ただ、一つだけ申し上げておきたいことがあります。それは、この本を書くときにわたしは、学問や研究で普通行なわれるように、日本人の精神構造をたんに自分の外の対象とみなして分析したのではないということです。そうではなく、自分自身の主体の内部の問題として検討しようと心がけました。日本人の精神構造を自分の外の対象とみなすことによって、そのようにみなす主体そのものは、(対象としての)日本人の精神構造から切り離されて、その外に存在するものになり、対象としてとりあげた日本人の精神構造とは直接関係ないものに変わってしまいます。難しそうなことをいいましたが、読者の皆さんに、この本に書かれていることを自分自身の内部の問題として受けとめていただけたら幸いであると申し上げたかったのです。