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日本記号学会 編

叢書セミオトポス9 着ること/脱ぐことの記号論
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A5判242頁並製

定価:本体2800円+税

発売日 14.10.10

ISBN 978-4-7885-1410-2




◆人間がまた新鮮に見えてくる
 人はなぜ服を着るのでしょう。服を着ることは必要不可欠でしょうか。衣服は「第二の皮膚」とも呼ばれますが、「裸体」もまた、衣服によって作り出されます。衣服を「脱ぐ」ことによってです。冒頭から〈脱ぐこと〉をめぐって、ファッションの哲学の第一人者・鷲田清一氏と抱腹絶倒の対談が展開されます。さらに「人を着る」「音を着る」「都市を着る」といったことにも話題が及び、新聞紙に身を包みパフォーマンスをする「新聞女」についての考察もあります。
 このように本号は、人間が衣服を「着ること/脱ぐこと」の意味を、多くの題材により根源的に考察したものです。また、昨年逝去された元記号学会会長で学会育ての親、山口昌男先生と記号学会との関わりを、親しかった会員が珠玉のエピソードをまじえて語っています。他では見られない追悼特集です。

着ること/脱ぐことの記号論 目次

着ること/脱ぐことの記号論 刊行によせて

ためし読み

◆叢書セミオトポス 日本記号学会編

叢書セミオトポス7 ひとはなぜ裁きたがるのか

叢書セミオトポス8 ゲーム化する世界

叢書セミオトポス10 音楽が終わる時

叢書セミオトポス11 ハイブリッド・リーディング

叢書セミオトポス12 「美少女」の記号論

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着ること/脱ぐことの記号論 目次
刊行によせて 吉岡 洋

第一部 着ることを脱ぎ捨てること
〈脱ぐこと〉の哲学と美学 鷲田清一 vs 吉岡 洋
新聞女―アートは精神の解放 大久保美紀

第二部 「憧れ」を纏うこと
「なぜ外国のファッションに「憧れ」るのか」を問うということ 高馬京子
表象としての外国のファッション―エキゾチシズムをめぐって 高馬京子
日本映画に見る「モガ」の表象―洋装とアイデンティティ 池田淑子
キャラ的身体のためのファッション 大久保美紀
ヨーロッパの輸入、再生産、そして逆輸入と再々生産
  ―ゴスロリ・ファッションをめぐって 杉本バウエンス・ジェシカ
「憧れ」とともに生きる―シンポジウムを終えて 大久保美紀

第三部 (人を)着る(という)こと
袈裟とファッション 小野原教子
音を着る―フルクサスの場合 塩見允枝子
ギー・ドゥボールとその「作品」
  ―映画『サドのための叫び』における「芸術の乗り越え」と「状況の構築」 木下 誠
(人を)着る(という)こと 小野原教子

第四部 日本記号学会と山口昌男
山口昌男先生を偲んで 吉岡 洋・室井 尚・立花義遼・岡本慶一

第五部 記号論の諸相
研究論文
究極的な論理的解釈項としての「習慣」とパースにおける「共感」 佐古仁志
研究報告
家族関係修復のセミオシス─発達記号論ケース・スタディ 外山知徳
ペルシャの青─ホイチン(回青)の壺に現われた形而上の諸々 木戸敏郎

資料 日本記号学会第三二回大会について
執筆者紹介
日本記号学会設立趣意書


装幀―岡澤理奈


着ること/脱ぐことの記号論 刊行によせて

日本記号学会会長 吉岡 洋

服を着るのは必要なことだろうか? そんなの当たり前じゃないかと、ほとんどの人は答えるだろう。もしも服を着ないで外を歩いたら、たちまち好奇の眼にさらされ、たぶん警察を呼ばれるだろうし、悪くするとテレビや新聞で晒しものになる。だいいち、寒くて風邪をひくではないか。服は必要にきまっている。

でも、ちょっと考えてみてほしい。服が必要不可欠にみえるのは、服を着ることが当たり前とされる社会に私たちが生きているからである。動物は服を着ないし、私たちの遠い祖先も服を着ていなかった。根本的な意味においては、服を着るのは必要ではなく、生きるためには本来しなくてもいいこと、ひとつの「過剰」にほかならないのである。

衣服を身につけることは、人間がみずからの身体を「自然」から区別する行為である。身体を自然から区別する徴は、もちろん衣服だけではない。たとえば刺青もそうした徴付けのひとつだろう。刺青が皮膚そのものに刻印されて身体の意味を半永久的に変化させるのに比べ、衣服は身体に密着しながら皮膚との間には隙間を保ち、またきわめて容易に着脱、交換可能である。

そのように考えてみると、衣服とは実に不思議なものだ。それは「第二の皮膚」と呼ばれたりもするが、そのことは逆に衣服が、本当は皮膚からもっとも遠いもの、何かしら不気味な存在であり(脱ぎ捨てられた衣服に私たちはときおりそうした不気味さを感じる)、だからこそ私たちはなんとかしてそれを「第二の皮膚」として自然化しようと努力しているようにも思えるのである。

「裸体」もまた衣服によって作り出される。裸体が先にあってそれが衣服を着るのではない。その逆である。『創世記』におけるアダムとイヴは、衣服を知らないにもかかわらず自分たちが裸体であることを恥じたとされるが、そんなことは実際はありえない。デズモンド・モリスの『裸のサル』は、体毛を持たない(正確には体毛の薄い)サルという意味であるが、これもまた、体毛を衣服に見立てた擬人的比喩にすぎない。事実、体毛の乏しい動物は他にもいるが、彼らはけっして「裸」であるわけではない。「裸」とは「衣服の欠如」としてはじめて意味を持つのである。

衣服を身につけることは、「着る」「纏う」「装う」などさまざまな言い方で表現される。服を着るとは意味を着ることであり、人間の身体を意味の体系に登録することなのである。

そこで第一部では、哲学者の鷲田清一さんをゲストにお迎えし、「着る」よりも前に「脱ぐ」というテーマをめぐってお話をうかがった。衣服が「裸」という意味を支えているとすれば、「脱ぐ」とはまさにその意味を作り出す行為である。わたしのツッコミ不足でやや脱がせ方が足りない、というご不満もあるかもしれないが、それは今後の課題とさせていただきたい。続いて、神戸ファッション美術館における第三二回大会で素晴らしいパフォーマンスを披露していただいた「新聞女」こと西澤みゆきさんについての報告がある。

人はなぜ外国のファッションに憧れるのか?という問いをめぐる「ガールズ・トーク」を目指した第二部「「憧れ」を纏うこと」では、ファッションそのものではなくファッションをめぐる表象や欲望の構造に焦点が当てられる。文化や国を越境するファッションはどのように人間の衣服を纏う行為と関わるのか、大正昭和の映画に見られる「モガ」から現代のゴシック・ロリータやアニメキャラまでさまざまな主題が論じられる。

そして最後に、本大会実行委員長の小野原教子さん司会による第三部「(人を)着る(という)こと」では、通常の意味でのファッションや衣服ということを越え、「着る」といった行為をもっとも根源的なレベルに立ち戻って考えることが試みられる。「袈裟を着る」、「音を着る」、「都市を着る」といったテーマを通して、私たちは「着る」という行為の宇宙的な拡がりに思いをめぐらすことができるだろう。