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ロイス・ホルツマン 著/茂呂雄二 訳

遊ぶヴィゴツキー
――生成の心理学へ


四六判並製248頁

定価:本体2200円+税

発売日 14.9.10

ISBN 978-4-7885-1408-9




◆今の自分を超えて「発達」するために!
 ヴィゴツキーはフロイト、ピアジェと並び称される心理学の巨人です。ヴィゴツキーの唱えた「発達の最近接領域」という概念は、心理学ばかりでなく、教育の領域にも深く浸透していますが、その斬新な思想はいまだ十分に理解されているとはいえません。しかし本書は、ヴィゴツキーの解説書ではありません。ヴィゴツキーの心理学をさらに発展させて、子どもから大人まで、現代社会に生きる私たちが今の自分を超えて「発達する」ための環境を生み出す、生成の心理学の探求の軌跡であり、活動の報告です。世界中の子どもたち、若者、そして企業人が取り組み始めている、遊ぶ=プレイする=パフォーマンスすることによって今の自分よりも成長発達した姿を周囲の人々と生み出していく、新しい、躍動する活動への誘いです。

遊ぶヴィゴツキー 目次

遊ぶヴィゴツキー まえがき

ためし読み
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遊ぶヴィゴツキー 目次

日本語版に寄せて
本書への序
まえがき
謝  辞

第1章 方法とマルクス
認知的パラダイムと認知-情動の分離
なぜ方法か?
問題だらけという問題
行 動
活 動
存ることと成ること

第2章 ヴィゴツキーとセラピー─情動発達の領域を作り出す
ヴィゴツキーの発達の最近接領域と
  ソーシャルセラピーにおける情動発達領域
創造的な模倣とパフォーマンス
個人と集団
完 成

第3章 教室で─パフォーマンスの学習、学習のためのパフォーマンス
発達的学習と遊び
学校を遊ぶ
学校の台本と遊ぶ

第4章 学校の外で─創造的模倣と他者の受け入れ
アイデンティティをパフォーマンスする
舞台でパフォーマンスできるなら、人生でもパフォーマンスできる
新しいステージ

第5章 仕事場で─自分を見つめる
会話が作るzpdとしてのインプロ
社会文化情動的な空間の転換としての遊び

第6章 変化する関係性

訳者あとがき


文  献
事項索引
人名索引


遊ぶヴィゴツキー まえがき

 レフ・ヴィゴツキーに出会ったのは、発達心理学者、発達心理言語学者としてやっていこうという時だった。私は政治的にラディカルになって、ヴィゴツキーを私の政治面でのメンターである哲学者に紹介した。彼と仕事を始めるため私は大学を離れ、ヴィゴツキーを携えて、主流の学者の世界から飛び出した。

 私のはじめてのメンターは、ロイス・ブルームだった。研究者であり教育者であるロイスとは1970年代に、院生としてコロンビア大学の発達心理学大学院プログラムで一緒に仕事をした。幼児の言語学習を研究するには、大学のラボを離れて、家庭や遊び集団に入っていかなければならないことをロイスは教えてくれた。私たちは、遊び、会話し、パフォーマンスしながら、赤ちゃんたちと何時間も一緒にいたものだ。私は、文脈がとても大事であること、赤ちゃんが家庭で行なうのと同じことをラボでもするわけでないこと、赤ちゃんと、何をするか、誰と一緒にやるのかとは一体のものであることを学んだ。ロイスと仕事をすることで、質的研究が量的研究よりも厳密である─実際、数段厳密である─ことを学んだ。ロイスのおかげで、私は研究というものが大好きになった。彼女が私をラボから連れ出してくれて以来、それは私のすべての研究の基礎となった。

 二番目のメンターは、1970年代後半ロックフェラー大学でポスドク研究員として一緒に仕事をした、マイケル・コールだった。マイクは、実験室では認知の社会文化的な性質を見ることはできないため、ラボでの認知研究は生態学的に妥当とはなり得ないことを教えてくれた。彼は科学一般、とくに社会科学や心理学は、政治的であること、そして心理学者の仕事は実践として意味のあるものになりうることを、はじめて私に自覚させてくれた。そのうえマイクは、きわめて実践的であり、きわめて政治的な社会科学者、レフ・ヴィゴツキーのことを教えてくれた。この2つの教え─ヴィゴツキーと心理学の政治性─が、三番目のメンターであるフレド・ニューマンとの出会いの舞台となった。

 フレドと出会ったのは、博士論文が完成に近づきつつあった、コールと仕事を始めた頃だった。フレドは哲学者だったが、政治的組織作りとコミュニティ作りのため、1960年代後半に大学を去った。彼は科学哲学とマルクス主義を背景に、ソーシャルセラピーというラディカルな心理療法を創始していた。フレドは、何十年にもわたる共同研究を通して、さまざまなことを教えてくれた。一つは、世界に出て行く道筋を示してくれたことである。ロイス・ブルームもマイク・コールも、ラボから出て行くことは教えてくれた。しかし、大学のラボのかわりに家庭の居間や遊び場に座っていても、私たちは大学ラボの実験的な考え方や方法をそこに持ち込んでいたのだ。フレドはラボとは関係のない生を歩む道筋を示してくれた。フレドは、アクティブに世界の変革を試みることで、世界を研究する方法の開拓という仕事に誘ってくれた。フレドとともに実践することで、私の人間発達に関する情熱が決して知的好奇心だけからくるものではなく、人間という種が生存し繁栄するためには発達の道筋を見出さなければならないという信念と、この革命的な活動に貢献したいという欲望にも由来すると分かったのだった。

 フレドをメンターにして、30年以上一緒に仕事をしてきたわけだが、私の活動が変わったのはもちろん、私という人間も変わった。いま私は、研究する対象の建設者であり共同の創造者であるという意味でよい科学者になれていると感じるし、ラボと無縁になってよい研究者になれたと感じる。こうは言っても、始めの二人のメンターの教えと贈り物を否定するものではない。学習と発達が社会文化的な状況に埋め込まれていること、心理学が生態学的に妥当でなければならないこと、心理学のもつ政治性、レフ・ヴィゴツキーの現代的意義、これらのブルームとコールの教えは、大学の外へ持ち出して、日常生活者の生へと持ち込むことで深まり、さらに発展した。それらはフレドと私と数百の人々が取り組む活動の一部となった。ヴィゴツキーをフレドのところに持ち込んで、フレドの革命的で哲学的な目でヴィゴツキーを吟味するようにしむけたのは私である。本書の事例に明らかなように、生きたヴィゴツキー主義の発展に私や仲間を取り組ませたのは、まさにフレドだった。

 私はむかし、レフ・ヴィゴツキーを誰もが使う言葉にしたいという夢を綴ったことがある。私は実験学校のバーバラ・テイラースクール(3章)について書き、ヴィゴツキーをハーレムの子どもたちや家族に届けて彼らの発達を再活性化し、学校での学びをもっと先鋭なものにしたかった。私の書いた論文は、社会構成主義と組織行動に関する学術書の一章だったが、この本は私の大望を推し進めるには場違いだった。いま読んでいただいている本書も、読者層はほんの少しばかり幅広いものの、それほど私の夢をかなえる力とはならないだろう。しかし、そんなことは問題ではない。件の一章を書いて以来8年がたち、ヴィゴツキーは、ハーレムだけでなく、アメリカと他の国々の数十のコミュニティに広がっている。  本書の最初の企画段階で、匿名の査読者が本書を執筆する理由についての部分に異議を唱えた。私は、ヴィゴツキーが数万の一般の人々にとっての生きた力となると書いたのだが、これを査読者は、科学的文章というよりも、本の宣伝文だと読んだのであった。本書を書きながら、本書のテーマにとって中心的な問いとなる、この批判に何度も立ち戻った。事実と価値は分離可能なのか? 可能ならばその基準は何か? 主観性、客観性とは何か? 何が科学的主張を構成し、何がその証拠を構成するのか? 科学は説得とは無縁なのか? 主観性から自由か? もしピアジェとフロイトが人々の生を導く力だと書いたのなら、これらの分離に気づいただろうか? おそらく心理学者の誰も、その主張が事実かどうか問題にしないだろう。しかし依然として、証拠をどうやって集めるかだけでなく、説得以外の何のために証拠を集めるのかを問うことができる。

 本書『遊ぶヴィゴツキー』は質的な探求であり、複雑に絡みあう関係、プロジェクト、コミュニティのライフヒストリーであって、そこではヴィゴツキーが重要な役割を演じている。多くは、大学のラボから出て、普通の人々と彼らのコミュニティのもとにヴィゴツキーを届けた私のストーリーであり、私と他の人々がヴィゴツキーと一緒につくり上げてきたことごとのストーリーである。これはまた、非常にユニークな介入研究と、それが制度化された心理学とそれにつらなる教育研究とのあいだに引き起こした軋轢に関するストーリーである。私たちがヴィゴツキーと一緒に作りあげた他のすべてと同じように、この本は自覚的に、徹底して主観的なものである。本書を書いたのは、「ヴィゴツキアン?ニューマン?ホルツマン流の道具と結果の弁証法的実践のメソッド」の価値を読者に伝え、挑発し、説得するためなのである。本書は、普通の子どもたち、若者、そして大人が、さまざまな日常生活の状況でこのプロセスに参画するとき、それがいったいどのようであるかを示そうとしている。彼らが作り出す新しい活動は、彼らの(そして同時に世界の)発達にほかならない。それはまた、現在の心理学実践とその背後にある仮説に存在している、区別、二分法、境界引きに対する、実践的?批判的な問いかけなのである。そういうわけで、『遊ぶヴィゴツキー』は基本的にパフォーマンスを重視するテキストであり、同時に、心理学およびより広い文化で進行している、概念革命の一環であり省察でもあると言える。

 他のヴィゴツキー本で解説されている概念であっても、本書ではほとんど触れられないか、きわめて異なる「解釈」に立って議論しているものがある。たとえば、人間発達の理解にヴィゴツキーが果たした主要な貢献とされる媒介や媒介手段には、ほとんどページを割いていない。もう一つの例は発達の最近接領域(zpd)である。私はそれを、個人の特質としてではなく、社会的な創造の活動として扱っている。他の概念も、ヴィゴツキーに由来するとはいえ、ラディカルに改変し、私の仕事に独自なものになっている。その例は、思考がことばの中で完成されるというヴィゴツキーの主張に発する完成活動、遊びは、子どもが頭一つ抜け出たように振る舞えるようにするという彼の見方に由来するパフォーマンスの概念である。そしていちばん重要なのは、ヴィゴツキーが方法論の探求として述べていることを受けて発展させた、道具と結果の弁証法の導入である。

 多くの研究者がヴィゴツキーの人生、理論、方法論について書いている。それらの研究者の解釈から、ヴィゴツキーについて学んできた。ジェローム・ブルーナー、マイケル・コール、ジョー・グリック、ヴェラ・ジョン=スタイナー、アレックス・クズーリン、カール・ラトナー、ドロシー・ロビンズ、アナ・ステツェンコ、ヤーン・ヴァルシナー、ルネ・ファンデルフェール、そしてジェームス・ワーチである。学術文献には、これらの研究者の間の、歴史的・理論的議論と批判と論争が満ちている。ときどき私もそのような論争に参加して、私としての批判を書いたこともあるが、本書では、そのようなことはほとんどしていない。私は他の研究者への批判を支えにすることなく、自分のストーリーとヴィゴツキーの解釈が読者の解釈の刺激となり、議論の種となって、共鳴して欲しいのである。そうでないやり方では、私の探求の哲学と方法論にまったく反することになるし、私のねらいとする実践を裏切ると感じる。関心のある読者は、私の解釈にとらわれることなく、ご自身で、他の研究者の著作にあたっていただきたい。