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苧阪直行 編

自己を知る脳・他者を理解する脳
――神経認知心理学からみた心の理論の新展開


四六判上製320頁
+カラー口絵15頁

定価:本体3600円+税

発売日 14.7.25

ISBN 978-4-7885-1397-6

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◆社会脳シリーズ6
 社会脳シリーズ第6巻の配本です。自分のことは自分が一番よく知っていると思いがちですが、本当にそうでしょうか? 自分を知ることは他者を理解することより難しいかもしれません。本巻では、自己と他者の意識はどのように脳内で表現されているのか、「他者の心」を推測する心のはたらきである「心の理論」の脳内メカニズムはどのようなものかを、脳イメージングを駆使したさまざまな研究を通して紹介します。自分の手ではないゴムの手の模型が、あたかも自分の手であるかのように感じられるラバーハンド実験や、意図や攻撃、情動の脳メカニズムの探索、他者と同調する脳を2台の脳スキャン装置を連動させて観察する実験など、今回も興味のつきない内容です。

自己を知る脳・他者を理解する脳 目次

自己を知る脳・他者を理解する脳への序(抜粋)

社会脳シリーズ

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自己を知る脳・他者を理解する脳 目次

「社会脳シリーズ」刊行にあたって
社会脳シリーズ6『自己を知る脳・他者を理解する脳』への序

1 アレキシサイミアと社会脳守口善也
はじめに─自分のことがわかること
自分のことがわかることは、なぜ大事なのだろう?
アレキシサイミア(失感情症)とは?
自閉症スペクトラム
自閉症スペクトラムとアレキシサイミア
自分のことがわかることと、他人のことがわかること
アレキシサイミアでの心の理論
共感とは?─共感における自己と他者
運動感覚レベルの同調とミラーニューロン
感覚運動レベルのマッチングと認知的共感
  ─理論説vs.シミュレーション仮説
アレキシサイミアと感覚運動レベルのマッチング
自分の感情への気づきのモデル
改めて、自己と他者の理解について
おわりに

2 身体的自己の生起メカニズム嶋田総太郎
はじめに
ラバーハンド錯覚
運動主体感と身体保持感
遅延感覚フィードバックへの順応
おわりに

3 自己を知る脳─自己認識を支える脳矢追 健・苧阪直行
「自分」が「自分」であるということ
自己認識とは
「私」はどこにいるのか
身体的自己とその脳内神経基盤
鏡の中の自己─顔と身体
「この手」は誰のもの?─身体保持感と運動主体感
心的自己とその脳内神経基盤
自己参照効果とは
心的自己は「特別」なのか
統合された自己とは

4 自己の内的基準に基づく意思決定中尾 敬
はじめに
不確実下における正答のある意思決定
社会的状況における正答のある意思決定
正答のない意思決定
正答のある意思決定と正答のない意思決定の違い
おわりに

5 自己を意識する脳─情動の神経メカニズム守田知代
はじめに
自己認知の発達過程
自己意識情動の発達過程
自己認知に関与する脳領域
自己意識情動を喚起させる手法
羞恥心を増幅させる手法
主観的な情動経験にかかわる領域
羞恥心とメンタライジングとの関係
自閉症スペクトラム障害者の自己意識情動
おわりに

6 心の理論の脳内表現大塚結喜
はじめに
心の理論の脳内基盤
Eネットワーク
人称問題

7 エージェントの意図を推定する心の理論
   ─知覚脳からアニメーションを楽しむ社会脳へ苧阪直行
はじめに
エージェントの意図を推定する社会脳
  ─アニメーションを用いたfMRI実験
ハイダーとジンメルの実験
ミショットの実験
おわりに

8 他罰・自罰の方向性を切り分ける外側前頭前野
   ─攻撃の方向性の神経基盤源 健宏・苧阪直行
はじめに
P−Fスタディ
おわりに

9 自他を融合させる社会脳─合唱をハイパースキャンする苧阪直行
はじめに
fNIRS(機能的近赤外分光法)とは?
ハイパースキャニングとは?
おわりに

引用文献
事項索引
人名索引
装幀=虎尾 隆


自己を知る脳・他者を理解する脳への序(抜粋)

─自他の境界の脳内パズルを解く

 本書のテーマは自己と他者である。自己は他者なしには考えられないし、他者も自己なしでは考えられない。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という言明に対して、まさに「われ思う、ゆえに他者あり」あるいは「他者あり、ゆえにわれ思う」と言えそうだ。認知脳科学の進展は、自己と他者のかかわりを社会脳の視点から理解しようとする試みを生みだしつつある。冒頭で述べた「ゆえに他者あり」という表現のうちの他者を社会と置き換えてみてもよい。本巻はこの視点から社会的存在としての脳を、自己と他者の間で相互に照らし出す冒険を行う。この冒険の醍醐味は、自他の境界の脳内パラドックスを解きほぐすことにある。自分のことは自分が一番よく知っているという人がいるが、本当にそうであろうか? 本巻で探る諸テーマでは自分を知ることは他者を理解することより難しいということを、社会脳の視点から検討している。自己と他者がどのような脳内表現をもつのかは、永遠の知的興味あふれるテーマである。

 自己と他者のかかわりをとらえるのに、まず自己があって、そこから他者が生まれるという立場と、他者があってこそ自己が生まれるという立場があるように思われる。いずれの場合も自他の社会的相互作用が前提となる(Frith & Wolpert 2003)。一方、自己の脳内表現に問題を絞るならば、そのどちらでもなく、両者はいわばメビウスの輪のように(裏をたどるとそれがいつのまにか、表にもなる)、あるいは同一のものの違った見方に過ぎないととらえる立場もあるようだ。他者のなかの自己を考えてみよう。集団の中で仲間と共に育った場合と比べて、一頭だけ孤立して育ったサルは、自己認識が困難になるというが、これは他者との相互作用が自己意識の形成とかかわることを示唆している。本書でたびたび出てくる「他者の心」を推測する心のはたらきである「心の理論(theory of mind)」についても、他者の心は自己の心のはたらきのシミュレーション(自己の他者化)として読み解くことができるという考え(シミュレーション説)がある一方、自己は独自の理論で読み解けるという考え(理論説)があることは1章でも触れられているとおりである。「他者の心」は物まねニューロンで有名なミラーシステムがかかわるという考えもある。さらに、「自己の心」も「他者の心」も入れ子構造をもつリカーシブ(再帰的)な心のはたらきを担うワーキングメモリによって解き得るという見方まで、その解明の方向性についての現状は混とんとしている。

自己と他者の迷路
 さて、自己を知るには、まず自己に気づくこと(セルフアウェアネス)が必要と考えられる。そして、その実現には、自己ならざるものとの出会いの場が必要であるという。そして、自己ならざるものというのは、現実の他者でも、事物でも、あるいは自分の心に浮かんだ表象であってもよいという(西田 1948)。つまり、哲学者、西田幾多郎の言葉を借りれば、「物来って我を照らす」という禅の公案のような表現ともなる。ここでは、気づくことは考えることであり、自己は対峙する「何者か」によって照らしだされるのである。

 自己に気づくには環境が常に変わることも必要だと考えられる。刺激の全くない世界を考えてみよう。ぬるま湯の水槽で首を真綿で巻いた状態で水中に浮いた身体を想像する。このような刺激のない状態にしばらく置かれると自己の身体保持感が消え、しばらくすると幻聴や幻視などが生じることが心理学の実験で確かめられている。ぬるま湯によって触覚はその機能が鈍り身体が消え、手足を動かすことのフィードバックによってはたらき出す自己主体感も鈍くなるのだ。このような刺激がない環境では自己への気づきが希薄になる事実は、他者や社会を含む環境の変化が気づきに必要であることを示している。

 ここで、自己と異なるものとして、たとえば他者の手を考えてみよう。他者の手が自分の腕を打った時、その痛みとともに他者が、そして痛みの中に自己が感じられる。一方、他者に予想外にくすぐられたときは、こんどは痛みに代わって笑いが生まれるが、自分で自分をくすぐっても笑いは生まれない(苧阪 2010)。

 身体的自己とかかわる触覚や体性感覚は、これは自分の手だという身体保持感と、手を動かしているのが自分であるということで運動の主体感とかかわる(2章)。自分の手が他者の手として認識されるエイリアンハンドなどの身体失認(asomatognosia)や自己の身体性を否定するコタール症候群の症例などが自己認識の障害であるのに対し、身近な妻をそっくりの他人と見てしまうカプグラ錯覚や、その反対に見知らぬ他人をよく知っている人物と見てしまうフレゴリー錯覚などの症例は、他者認識の障害といえよう。自己と他者をどのように脳が区別しているのかを考える上で興味深い。カプグラ錯覚の患者は、他者がさまざまな人物に変装して自分に害を加えるという妄想をもつのである。統合失調症などの社会的不適応症が自己の他有化の体験として現れるという考え(木村 1981)も、身体的自己の自己保持感や主体感の希薄化とかかわりが深いと想像される。自己の他有化は、自他の間の主客の境界をなくし、自分の行為が他者の意思によって遂行されるかのように体験されるという。別の症例では、側頭葉テンカンの症候の一つとして離人症経験があるが、これは脳外科医のペンフィールドの報告によると、側頭葉への電気刺激によって誘発されることが見いだされている。これらの疾病は、脳には自他の意識を担う共通した、あるいは独立した領域があることを示している。

 また、哲学者の西田(1948)は『私と汝』という論考で、自己が自己を知るということは自己において絶対の他を認めることであり、それは同時に他者の中に自己をみることであると言っている。そして、私(自己)が内的に他に移り行くということは、逆に他が内的に私に入って来ることであるとも述べている。社会脳にとっても含蓄の深いコメントである。・・・・・・・(一部抜粋)