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帯刀益夫 著

遺伝子と文化選択
――「サル」から「人間」への進化


四六判上製264頁

定価:本体2600円+税

発売日 14.1.20

ISBN 978-4-7885-1367-9




◆人間の遺伝子は、文化によって選択された!◆

ヒトゲノムが完全解読され、今世紀は「生命科学の世紀」とも呼ばれます。その成果は医学、農業などに幅広く利用されています。しかし、自然科学的な人間研究は文化的存在としての「人間」の理解にどう結びつくのでしょうか。本書は、長年細胞生物学や分子生物学の研究に従事してきた著者による、この2つの人間理解をつなげる試みです。ヒトは「先祖の猿」から「人間」へと、どのように進化したのか? 遺伝子情報をもとに、進化上の兄弟であるチンパンジーとの比較を通して見えてきたのは、ヒトは「自然選択」に加えて、自らが生み出した「文化」による選択を受けたという事実です。ミクロの遺伝子とマクロな文化が交差する進化のドラマをご堪能ください。著者は東北大名誉教授。

遺伝子と文化選択 目次

遺伝子と文化選択 あとがき

ためし読み

◆書評
2014年3月30日、しんぶん赤旗、前田利夫氏評

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遺伝子と文化選択 目次

はじめに

序章進化における「自然選択」と「文化選択」

I先祖の「サル」から「ヒト」への進化
「サル」から「ヒト」へ
ヒトとチンパンジーの違い
解説 遺伝子のしくみ
ヒトへの進化でおきた大規模なゲノム変化

Uヒトの進化をゲノムから解きあかす
ヒト科の進化の軌跡
化石のゲノム情報
コラム 遺伝子の名前
コラム ヒトの種の問題
近代人のゲノムの比較

Vヒトの特色はいかにして生まれたか
ヒトはどうやって立ち上がり、二足歩行を始めたか
ヒトの手の進化
ヒトの手足の特徴を生み出した遺伝子の進化を探る
ヒト特有の大きい脳はいかにしてつくられたか
食物の調理がヒトを作った
ヒトとチンパンジーの生活史の違い

Wヒトから人間への進化
「人間」とは
ホモ・ファーベルとは
ホモ・ローケンスへの進化
ホモ・モラリスへの進化
ホモ・ポリティカスへの進化
ホモ・ソシアリス

X文化と遺伝子の共進化
文化と遺伝子の共進化
現在も続く文化的選択
人の社会性の進化

Y人間に未来はあるか
進化は進歩なのか?
文化は人類の進化を守れるか

あとがき
参考文献
装幀=虎尾 隆


遺伝子と文化選択 はじめに

 われわれ現代人の毎日の生活は、そのほとんどが、人間が作り出したものに依存しています。都会での生活を考えてみましょう。朝起きて食事をして、自転車で、自家用車で、バスで、あるいは電車で職場や学校へ出かけます。そこでは、書物を読み、パソコンを使い、工場では機械を操作して新しい製品を大量に生産します。農業や漁業のように自然と付き合っている人々も、人間が作り出した機械を使わずに活動することはないでしょう。また、人々のお互いの付き合いは多様な社会組織を形成し、われわれは他の人々と形成する社会に依存せずに生きることはできません。

 都会の生活の中でたまには窓の外を見て、遠くの山々や海を眺め、また鳥が飛んでいるのを、木々の緑が深まるのを見て安らぎを覚えたりしますが、自然や他の生き物に依存して生存しているという実感をもつことはたいへん少ないのではないでしょうか。

 東日本大震災のような大きな自然災害がおきると、われわれは初めて人間も自然に依存して生きているということを実感させられますが、それでも、人類の科学文明の力で復興できるという確信ももっています。そして、人間はこの文化の力によって、思想、宗教、科学などを発展させ、地球上で繁栄し、生活を謳歌しています。そして、ほかの生き物とは全く違う、特殊で崇高な存在であるという世界観をもつようになったのです。

 しかし、生物学的には、細菌から植物、動物まで、地球上のすべての生物はおよそ38億年前の始原的な生物から派生したのであり、すべての生き物で共通の遺伝暗号を使い、細胞という基本的な生命単位体で生きているのです。生き物という観点からは、人間は、ヒトという生物種として、他の生き物と基本的にまったく違いはないのです。

 現代の生き物としてもっともヒトに近いのはチンパンジーですが、ヒトとチンパンジーは共通の先祖のサルからおよそ600万年前に分岐したといわれています。現在、人類は、およそ70億人もの人々が地球上のあらゆる地域に広がり、多様な文化的生活をしています。一方、チンパンジーは、他の多くの動物と同じように、自然にのみ依存した生活を送っており、アフリカの森の中に限定されて生活し、100年前に100〜200万匹であった野生のチンパンジーの数は、今や15万匹を割り込んでしまっているのです。

 では、人間はこの共通の先祖としての「サル」からどのようにして「ヒト」という種となり、さらに特別で崇高な地位である「人間」へ進化してきたのでしょうか。このような疑問は、ダーウィンの進化論が発表されてからずっと人々の興味を引いてきました。

 ダーウィンと同時代人であったマルクスは、『種の起源』(1859年刊行)が唯物史観の着想に寄与したことを感謝して、『資本論』の第一巻(1867年刊行)をダーウィンに献本したというエピソードが残っています。そして、マルクスの良き理解者であり共同作業をしたエンゲルスは『自然の弁証法』のなかで、「ダーウィンによってはじめて総合的に叙述され基礎づけられた進化学説が人間精神の前史」までを基礎づけたと高く評価し、「マルクスは、それにしたがって人間の歴史がみずからを動かし発展させてゆく根本法則の発見者であった」と称えています。

 そのエンゲルスは『猿が人間になるについての労働の役割』(1876年執筆、1896年発表)という短い論文で、人類進化の足跡を推論しています。私は学生時代にたまたま読んだことがあり、タイトルだけ覚えていて内容はすっかり忘れていたのですが、いま読み返してみると、おどろくほど現代の生命科学からみても本質的と思われるヒトへの進化の基本的な考え方や、ヒトが人間になるための発展の歴史について主要なポイントを突いています。

 エンゲルスはこの著書で、「労働は自然とともにあらゆる富の源泉である」として「労働」の重要性を説き、「労働が人間そのものを作り出した」と力説します。そして、労働がいかにして生まれたかを、「ダーウィンが説明してくれたヒトの先祖の生物学進化の歴史」の上から説明しようとしたのです。

 まず、「高度に進化した類人猿の一種が、木に登るさいに手と足に違った仕事を割り当て、しだいに直立して歩く習わしを身につけはじめ、猿から人間に移行するための決定的な一歩が踏み出された」とし、さらに、「手が自由になって、次々と新しい技能を獲得することができるようになり、こうして獲得したしなやかさを遺伝して、人間の手はラファエロの絵画やパガニーニの音楽を生み出すことができるほどの完成度に達したのである。」と推論します。

 そして、「労働とともに始まる自然に対する支配は新しい進歩がなされるたびに人間の視界をひろげた。社会の成員を互いに密接に結び付け、相互扶助や協働をおこなうようになり、言語が生まれ」、「労働とともに言語が人間の脳髄の発達を促し、意識、抽象力、推理力を発達させ」、意識、抽象力、推理力や社会形成が「ヒト」を「人間」へと進化させたと主張します。また、「新しい食物を得る手段を獲得し、食糧、すなわち、猿が人間になるための化学的条件たるものがますます多様になり、肉食が脳の完全な発達に大きく貢献した。肉食は火の使用と動物の飼育によって乳製品も含めて価値ある食料の供給を可能にし、人間の解放手段となった。」とも述べています。

 現代の人類進化の学説の推論の基盤は、おおむねこのエンゲルスの推論に即しているようにみえます。

 生物進化では、二つの大きな出来事があったといわれています。まず、38億年前に生き物の原型となる始原細胞が誕生したときが、宇宙の誕生であるビッグバンに匹敵する第一の大きな出来事であり、現在に至るまでに地球上の数百万種を超える膨大な生物種を生み出したのです。そして、第二の大きな出来事は、人類の先祖が「文化」の創造を開始したときであり、その年代は数十万年前にあるという見解が受け入れられているようです。

 つまり、ヒトは他の生物と同様の自然環境からの選択、いわゆる自然選択を受けていた時代から、自然を理解してそれに手を加えることによって「文化」を形成し、自らが作り出す「環境」としての「文化」からの選択により、ヒトだけが特有の進化を果たし、「人間」となって現代に至ったという考え方です。いいかえると、ヒトの遺伝子が「文化」をうみだし、次いで、「文化」がヒトの遺伝子の進化を強力にすすめ、ヒトから人間への進化をもたらしたのです。

 ところで、現代の遺伝学では、ヒトとチンパンジーの遺伝子の違いはわずか1パーセントしかないといわれています。では、このわずか1パーセントの違いで、ヒトはどうやって、チンパンジーと、そして現代の人間へと、途方もない違いを生じさせたのでしょうか。

 本書は、この「大いなる疑問」、つまり、ヒトがこの共通の先祖としての「サル」からどのようにして「ヒト」という種となり、さらに「人間」へ進化してきたのかという進化の道筋について、現代の科学研究がどのように答えようとしているかを探ろうとするものです。