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井山弘幸 著

パラドックスの科学論
――科学的推論と発見はいかになされるか


四六判上製312頁

定価:本体2800円+税

発売日 13.3.15

978-4-7885-1327-3

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◆その魅力を語り尽くす◆

パラドックスとは何か、その魅力はどこにあるのでしょう。「一見、不合理であったり矛盾したりしていながら、よく考えると真理である事柄。逆説」と辞書にはあります。「アキレスと亀」の話などが有名ですね。パラドックスはあらゆる分野に現われますが、特に科学の分野には多く、科学的発見が世間の常識を覆すことでなされることが多いからでしょう。本書は、科学の歴史に現われてきた多くのパラドックスを、ユーモアをまじえて詳述します。「アキレスと亀」の卓抜な解釈から始めて、サイズの話、「量る」ことのパラドックス(「たましい」や「幸せ」を量る)、ニセ科学、セレンディピティー論(発見のパラドックス)、そしてサンデル先生の白熱教室でおなじみの「路面電車問題」などまで、さまざまなパラドックスを取り上げ、意想外の思考が展開されます。パラドックスの魅力を満喫させてくれる第一級の読み物・テキストです。


パラドックスの科学論 目次

パラドックスの科学論 はじめに

ためし読み

◆書評

2013年4月、FRAGRANCE JOURNAL

2013年7月7日、産経新聞、池内了氏評

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パラドックスの科学論─目次

はじめに パラドックスからメタドックスへ 

第一章 パラドックスという迷宮
感覚に反するパラドックス  論理的パラドックス  文学のなかのパラドックス  複合的パラドックス  狭義のパラドックス  アキレスと亀のパラドックス  連続か不連続か?  飛行はまちがった理論から生まれた  抗生物質と耐性菌

第二章 ミクロメガスのパラドックス――サイズの問題
万物の尺度をもとめて  第二のパラドックス  宇宙の膨張に気がつくか?  絶対零度の探究  第三のパラドックス  ミクロな病因をもとめて  物質におけるミクロとメガス

第三章 アストライアの天秤――《はかる》ことのパラドックス
測定とは?  ニールス・ボーアの試験答案  時間を測定する  味覚をはかる  どこまで見えるか?  温度をはかる  測定されても存在するわけではない  質量欠損の謎  痛みをはかる  幸福をはかる

第四章 ブラックスワンとの遭遇――異形の存在のパラドックス
帰納のパラドックス  室内鳥類学者のパラドックス  火星人は八本足か?  証明されざる帰納  グルーのパラドックス  王立協会の科学雑誌創刊号  ブラックスワンが現われる  モンスターの出現  異常気象  ブラックスワンであった電気現象  

第五章 デマルカシオンの陥穽――ニセ科学のパラドックス
デマルカシオンとは?  科学と哲学を区別する  ニセ科学の「ニセ」とは何か?  科学における偽造  予言と予測との違い  非競合性の原理  ニセ医学の流行  「役に立つか」という基準  合理性のモデルと境界設定  ポパーの反証主義  反証できない擬似科学  直感的な境界設定 

第六章 セレンディピティー論――発見のパラドックス
一 ニュートンのりんご 
セレンディピティーというパラドックス  ニュートン晩年の逸話  逸話の真相

二 子供とセレンディピティー 
「裸の王様」を発見した子供  洞窟絵画を発見したのは女の子  悪童たちが見つけた洞窟絵画  幻の甘味料チクロの発見

三 旅のセレンディピティー 
セレンディップの物語  コロンブスによるアメリカ大陸発見  コロンブスがスペインに持ち帰ったもの  クックの世界周航

四 夢見るセレンディピティー 
夢と創造性  夢による原子の世界の発見  夢の発見への疑い

五 アルキメデスはなぜ「ヘウレーカ」と叫んだか 
ユリイカの科学観  アルキメデスと王冠問題  ガリレオの解決

六 飛翔するセレンディピティー 
誤りにもとづく発見  気球は誤りから発見された

七 紫紺に染まるセレンディピティー 
偶然に起きた化学反応  紫色の染料モーヴの発見  色への執着

八 擬装されたセレンディピティー 
見えないものの発見  酸素の発見  どうして酸素と分かったか?

九 ネズミの受難とセレンディピティー 
ネズミと人間社会  実験室の中のネズミ  放射線障害の発見  ネズミの死因

十 当たらぬ予言のセレンディピティー 
ランディーのオカルト批判  終末予言  ティティウス=ボーデの法則

十一 暗室のなかのセレンディピティー 
人間と光線との出会い  赤外線の発見  X線の発見  放射能の発見  存在しなかったN線

第七章 クリティカ・パラドクソールム――パラドックスに対する現実的対応
一 抜き打ち試験のパラドックス 
突然変異のパラドックス

二 嘘つきのパラドックス 
嘘をつくことと言明が偽であること  自然界のノイズという偽情報  マイナス・エスパー  ダブルバインド  擬態のパラドックス

三 賭けとパラドックス 
神の法に対する賭け  サンクトペテルブルクのパラドックス  確率には三種の解釈がある  論理的確率  論理的確率は統計的確率と一致しない  確率のパラドックス

四 暴走する路面電車のジレンマ 
路面電車問題とは?  路面電車問題へのメタドックス的対応  小説化されたジレンマ  ペニシリンの臨床試験  第二のジレンマ  第三のジレンマ  免疫による予防と治療

五 砂粒と禿のパラドックス 
一粒、一粒で激変することもある  ヴェーバー=フェヒナーの法則

六 世界創造のパラドックス 
記憶と実在の問題

注 
あとがき 
事項索引 
人名索引 
   装幀――虎尾 隆





パラドックスの科学論―はじめに

 「パラドックスの科学論」と聞くと読者は何を想像するだろうか。どんな内容を期待するだろうか。「科学の世界はパラドックスだらけだ」と言ってるように思う人もいるだろうし、「パラドックスについて科学的に議論してみよう」とたいそうな抱負を述べていると感じる者もいるだろう。これから書こうとしている時点で確たることは言えないが、ニュアンスの違いはあるにせよ、最終的にはこの二つのどちらの要素も含むものとなるだろう。科学の成り立ちや進歩、時代を画する魅力的な発想の転換、科学の歴史には随所にパラドックスが登場するし、科学らしさや科学知識の正統性をつきつめてゆくと肝心なところでパラドックスと遭遇する。そして、われわれが出会うさまざまなパラドックスは、漫画の世界では瓶底のように丸く描かれる科学者の眼鏡を通して眺めたり、あるいは、論理的な一貫性という足かせを外してみると、従来とは異なる相貌を見せてくれる。

 本書は、科学の過去と現在そしてあわよくば未来についてパラドックスという観点から眺めてみると同時に、名だたるパラドックスについては、従来とは一風変わったかたちで、すなわち科学者ならばもって当然の好奇心や細部へのこまやかな執着をもって論じよう、という魂胆で書かれている。まあ、それでは漠として分かりにくいだろうけれど、読み進めるうちに次第に輪郭が浮かんでくることだろう。

 パラドックスとして知られる問題には不思議な魅力がある。その世界にひとたび足を踏み入れてしまうと、そこから抜け出すことは容易でない。容易でないからこそパラドックスだとも言えるのだが、ありえないはずの現象に遭遇しその解釈に窮したり、逆理の罠にはまり堂々巡りを繰り返す、その状況は誰にとっても悩ましく厭わしいものであるようでいて、その実、自分が「知の迷宮」に囚われていることが、何かしら誇らしくも思われ、えも言われぬ知的快感を覚えることさえある。迷宮だとしてもそこは紛れもなく知の宮殿だからである。往古の昔から知られるパラドックスとなると、そう簡単に解きあかすことなどできようはずがない。厄介ごとは御免だ、もう追究するのはやめよう、と思考を停止し解決の道を諦めることも、あるいは、ゴルディアスの結び目よろしくばっさりと切り捨て、こんなものは考えること自体無意味なのだと決めつけ、難癖をつけて放棄することもできないわけではないのだが(一部については、確かにそれに近い状況になることも予想されるけれど)、人間はことあるごとにパラドックスを語り、新たにパラドックスを作り出しさえしてきた。どうやらわれわれはパラドックスを語ることが好きらしい。何かしら魅力があるのだ。パラドックスというタイトルの背文字を見て書棚から本書を抜き取ったあなたも、その魅力を知っているのではないか。ある意味でパラドックスという存在それ自体、パラドックスを生み出している、と言えよう。

 トーマス・クーンが『科学革命の構造』のなかで主題的に取り上げた「パラダイム」という言葉は、当時一世を風靡し、哲学、科学史、社会学をはじめとする広い分野で常態的に使われるようになった。これに対する書評のなかにはパラダイムが流行したことを皮肉って、「パラダイム・ロスト」という表題をつけたものがあったが(確か、社会学者のニクラス・ルーマンだったと記憶している)、言い得て妙で、確かにパラダイムとパラダイスは音が似ているのだ。そして先に述べたわれわれ人間のパラドックス嗜好を併せ考えると、もしかするとpara-という接頭辞の音韻美学的要素が関わっているのかもしれない。パラソルというと貴婦人が海辺で休日を楽しんでいるようなハイカラな感じがするし、ヴィルトーゾの旋律を即興的にパラフレーズするのはどこか恰好がいい。パラサイトと言いかえると、肩身の狭い居候も一転して許される雰囲気になる(違うか?)。パラノイアは高級な病気のように思われ、パラボラ・アンテナを装着すると旧式で単調な生活が一新し現代的になる。パラマウント映画はアラン・ラッドの颯爽と去りゆくシーンと重なる。きわめつけはルネサンス時代の風雲児パラケルスス(Paracelsus)だ。「ローマの名医ケルスス(Celsus)の上を行く(para)」という意味の筆名であった。「パラ」と聞くと理性が麻痺(パラライズ)するかのようである。

 これだけ「パラ」で始まる言葉が人口に膾炙し、頻用されるのを見ると、少々抵抗してみたくなるものだ。正統の知識を「オーソドックス」(orthodox)と言い、逆説を「パラドックス」(paradox)と称するのだから、これらに抗して、本書の論考の特徴を「メタドックス」(metadox)と名づけることにしよう。この言葉は通常は用いられないけれど、アリストテレス全集で『自然学』(Physica)の後に配列された著作という意味のta meta ta physikaから『形而上学』(Metaphysica)が生まれたことに鑑みて、ふつうの意見・憶説(doxa)をふまえた上で、つぎに(meta-)考えられうる、別の観点から得られた知識を「メタドックス」と呼ぶことにしよう。とくに無矛盾で普遍的な原理を確立しなければならない、という方法論的な制約をひとまず脇において、さしあたって急場をしのぐにはどうしたらよいか、という姿勢でパラドックスに向き合おう。パラドックスについてはあれこれ言われてきたけれど、従来の学説の「つぎに考えられること」、特に科学者ならば現実的にどういう対応するか、それを推理して得た知識をメタドックスと考えることにしよう。

 というわけで、本書は科学の歴史や現実世界に生まれるパラドックスを認め、それらに対してメタドックス的に関わっていくことにしよう。