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久米 博 著

テクスト世界の解釈学
――ポール・リクールを読む


A5判上製360頁

定価:本体4500円+税

発売日 12.12.20

978-4-7885-1322-8

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◆「偉大な読み手」の豊穣な思索をたどる◆

数年前に亡くなったフランスの思想家ポール・リクールは、古典から現代の思想哲学、科学から文学にわたるたいへんな読書家でした。彼は「『私の哲学』というものはなく、一つずつ問題を追求していった著作があるだけ」と言っていますが、その読書量と現代的な関心から、その都度のアポリアに取り組み、思索を展開していったのです。そのリクールの歩みを、主要著書の大部分を訳してきた著者が「テクスト世界の解釈学」として跡づけたのが本書です。『フロイトを読む』から『生きられた隠喩』『時間と物語』『記憶・歴史・忘却』までの著書を読み解きながら、方法意識のユニークさ、問題関心の斬新さを明らかにしていきます。ラカン、デリダ、レヴィ=ストロースとの論争など、フランス思想全盛の時代を彷彿とさせる力作です。


テクスト世界の解釈学 目次

テクスト世界の解釈学 序言

ためし読み

◆書評

2013年2月9日付、図書新聞、川口茂雄氏評

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テクスト世界の解釈学─目次

序 言 

第一部 主題と方法の探求――純粋記述から解釈へ
第一章 意志の現象学
第一節 ガブリエル・マルセルとエドムント・フッサールとの出会い 
第二節 マルセル哲学に学んで 
第三節 フッサール現象学に学んで 
第四節 ヤスパースの実存哲学の影響 
第五節 『意志的なものと非意志的なもの』 

第二章 象徴の解釈学
第一節 『人間 この過ちやすきもの』
第二節 『悪の象徴論』

第三章 フロイトの哲学的解釈
第一節 非意志的なものから無意識へ 
第二節 『フロイトを読む』──フロイトの読解 
第三節 『フロイトを読む』──フロイトの哲学的解釈 

第四章 言語論的転回
第一節 象徴からことばへ
第二節 構造主義との対決 
第三節 構造言語学との対決

第五章 解釈学的現象学の構築
第一節 解釈学の現象学への接木 
第二節 ガダマーの哲学的解釈学
第三節 解釈学的現象学

第二部 テクスト世界の解釈学
第一章 テクスト解釈理論
第一節 疎隔の解釈学的機能
第二節 バンヴェニストのディスクールの言語学 
第三節 テクストとは何か 
第四節 テクスト理論の行動理論と歴史学理論への発展 
第五節 テクスト世界と自己理解 

第二章 『生きた隠喩』──言語の創造性の探求
第一節 アリストテレスの隠喩論 
第二節 隠喩と言語の存在論 
第三節 語の意味論対ディスクールの意味論 
第四節 類似の作業と言語的想像力 
第五節 フィクションと指示作用 

第三章 『生きた隠喩』──隠喩と哲学的言説
第一節 詩的隠喩と哲学的隠喩 
第二節 隠喩の脱構築と隠喩の創造性 

第四章 『時間と物語』──物語と時間性の循環
第一節 リクールとアメリカ 
第二節 『時間と物語』の構想 
第三節 時間性と物語性との結びつき 
第四節 三つのミメーシスとその循環 

第五章 歴史と物語
第一節 物語的理解とは何か 
第二節 アナール派の革新と歴史の法則的説明 
第三節 「物語派」の議論 

第六章 歴史の志向性
第一節 歴史的認識の志向性への遡行的問い 
第二節 説明の手続きとしての「個別的因果帰属」 
第三節 歴史叙述における第一級の本質体 
第四節 歴史の時間と出来事の運命 
第五節 歴史的世界とテクスト世界 

第七章 物語性の変容と物語記号論
第一節 筋のパラダイムの変容と革新 
第二節 さまざまな物語記号論 
第三節 グレマスの物語記号論との〈愛の闘争〉 

第八章 フィクション物語における時間表現の諸相
第一節 物語られる時間 
第二節 動詞時制と言表行為 
第三節 「物語る時間」と「物語られる時間」 
第四節 視点と物語る声

第九章 テクスト世界に投影される虚構の時間経験
第一節 虚構の時間経験 
第二節 ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』 
第三節 トーマス・マン『魔の山』 
第四節 マルセル・プルースト『失われた時を求めて』 

第三部 テクスト世界と読者の世界
第一章 時間性のアポリア論
第一節 アウグスティヌスの魂の時間 対 アリストテレスの世界の時間 
第二節 フッサールの直観的時間
第三節 カントの不可視の時間 
第四節 ハイデガーと〈通俗的〉時間 

第二章 歴史的時間と痕跡
第一節 暦法的時間 
第二節 世代連続──同時代者、先行者、後続者 
第三節 記録文書、史料、痕跡 

第三章 フィクションにおける時間の想像変様
第一節 歴史的時間の中立化 
第二節 虚構の時間の想像変様 
第三節 現象学的時間の歴史的時間の拘束からの解放 

第四章 歴史的過去の実在性と代理表出
第一節 歴史的過去の実在性と代理表出 
第二節 〈同〉のしるしのもとで 
第三節 〈他〉のしるしのもとで 
第四節 〈類似〉のしるしのもとで 

第五章 テクスト世界と読者の世界の交叉
第一節 テクスト世界の再形象化 
第二節 詩学から修辞学へ 
第三節 読解の現象学と美学 
第四節 再形象化の操作の弁証法的緊張 
第五節 歴史のフィクション化 
第六節 フィクションの歴史化 

第六章 物語的自己同一性
第一節 物語的自己同一性 
第二節 同一性と自己性の弁証法としての物語的自己同一性 

第四部 テクスト世界の表象と再認
第一章 記憶力と想像力
第一節 記憶と想起 
第二節 記憶力の現象学──ベルクソン、フッサール、ケイシー 
第三節 回想のイマージュ化 

第二章 歴史家の表象
第一節 対象としての表象と操作としての表象の弁証法 
第二節 物語的表象 
第三節 物語的レトリックと表象の限界 
第四節 歴史家の表象に内在するイマージュ 
第五節 代理表出 

第三章 再認としてのテクスト世界
第一節 記憶の条件としての忘却 
第二節 保留された忘却 
第三節 テクスト世界における自己の再認 

注 
あとがき 
ポール・リクール略年譜 
参考文献 
索引 
    装幀──虎尾 隆






テクスト世界の解釈学 序言

本書の意図するところはささやかである。「テクスト世界の解釈学」という表題のもとに、ポール・リクールの哲学の根幹をなすテクスト解釈学を簡明に解き明かすこと、そしてそれにいたるまでの理論構築を具さに跡づけることである。リクールの広い領域にわたる哲学的研究のなかで、私がテクスト解釈学に焦点をしぼったのは、そこに彼の開拓した独自の領域があると確信するからである。すなわちアリストテレスの『詩学』を土台に、テクスト世界の構築とその読解行為を解明すること。それを通して彼がめざすのは、テクストから行動への展開である。

 リクールは五年間ドイツ軍の捕虜収容所で生活を送り、一九四五年に復員してから本格的に著作活動を開始した。二〇〇五年に九二歳の生涯を閉じるまでに、ファンシナ神父による詳細な書誌によると、著書三八冊、フランス語論文七六八編を発表した。それは一貫した哲学的探求の歩みであった。哲学者リクールを評するには、いわゆるmaitre penseur(独創的思想家)というよりも、maitre a penser(思索の師)とするのがふさわしい。それはphilosophiaの原義に遡り、「ソクラテス的探求」の哲学者という意味である。ソクラテスは「事実の中の探求」から、「言葉の中の探求」に転じ、「それは何か」を問い、人々との問答を通して、その本質を定義した。リクール哲学において重要なのは、彼がさまざまな分野の人たちと対話しつつ、「人間とは何か」を探求し続けたことである。最後の大著『記憶・歴史・忘却』の結びの言葉は「未完」であった。彼の探求に終わりはなかった。

 リクールはあるインタビューで、「私の哲学」というものはなく、一つずつ問題を追求していった著作があるだけだ、と答えている。つまり前の著書で論じきれなかった問題、執筆中に出てきた問題が次の著書の主題になる、といったことの連続で、思想を発展させてきたということである。彼はあえてアポリアといわれる解決困難な問題に挑み、それに正面から取り組んできた。なかでも最大のアポリアは「悪」であり、「時間」である。そうしたアポリアを彼は対立する理論の葛藤の場として捉え、その対立の弁証法的止揚をはかる。そのための武器は理論的博捜である。「大読書家」と評されるように、彼の読書範囲は、古典はもとより、現代の最新の理論にまで、広く多岐にわたる。その結果は、著書に占める引用のおびただしさである。そのなかで特権的に参照されるのは、プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、カント、ヘーゲルである。それら先哲と「共に考える」ことから出発し、現代の著者たちと「共に論じる」のが、彼の思索のスタイルである。

 とはいえ、「共に考える」は必ずしもそれに同調して考えることではなく、それとは「別様に」(autrement)考えることでもある。たとえばガダマーの解釈学、バンヴェニストの言語学から、リクールは多くを学び、摂取するが、それを自分の思索の武器として鍛え直すためである。また論争相手の構造主義理論に対しても、全否定ではなく、構造分析の方法を「説明」として、自分の「理解と説明の弁証法」にとり入れるのである。

 「共に考える」はまた、言語学、神話学、精神分析、歴史学、法学、政治学など、哲学以外の人文、社会科学など、さまざまな知と対話することでもある。「哲学はつねに非哲学と関わる。なぜなら哲学は固有の対象をもたないからである」とリクールは言う。哲学が哲学だけに閉じこもっていては、やせ細るだけであり、哲学の役割はそれら諸科学の成果を総合することにある、と考えて実践してきたのである。しかしそれは同時に、哲学独自のロゴスによって自律性を堅持することでもある。たとえば大脳神経学者ジャン=ピエール・シャンジューとの討論で、リクールは自然科学の言説に対し、哲学の意味論の立場から議論し、その点でけっして譲歩することはなかった。  オリヴィエ・モンジャンはその著『ポール・リクールの哲学――行動の存在論』で、リクールを「雑誌の人」と評している。寄稿した雑誌論文だけでなく、学会、シンポジウム、講演などを含む論文の数には圧倒される。それらの論文は哲学、神学関係はもとより、政治、社会、教育問題についての発言など多岐にわたっている。第二次世界大戦後のフランス思想界が、実存主義、マルクス主義、構造主義、ポスト構造主義と激しく知的覇権を争うなかで、リクールはそのいずれにも属さず、しかしそれらとの論争に積極的に参加した。彼の論文には同時代のアクチュアルな問題に強い関心をもって対決した刻印が明瞭に押されている。

 みずからの哲学の主題の進展に応じて、リクールはそのための方法論を練り上げることに意を注ぐ。実存哲学の主題を現象学的方法で考究することから出発して以来、彼の哲学的方法は、記述から解釈へ移行し、言語論的転回を経て、解釈学的現象学にもとづくテクスト解釈学へと進化していった。その過程は二冊の方法論についての論文集、『諸解釈の葛藤――解釈学試論Ⅰ』と『テクストから行動へ――解釈学試論Ⅱ』でたどることができる。そうした方法論的模索を経て、一九八〇年代からリクールは自己の哲学的立場を、反省哲学、現象学、解釈学の三つによって特徴づけるようになる。それを彼はこう述べる。「私の拠りどころとする哲学の伝統を次の三つによって特徴づけたい。それは反省哲学の系譜に属し、フッサール現象学の勢力圏にあり、この現象学の解釈学的ヴァリアントになろうとする」。  修士論文「ラシュリエとラニョウにおける神の問題」で、これら二人の反省哲学者をとりあげたことから、リクールの反省哲学との関わりが始まる。彼の定義によれば、広義の反省哲学はデカルトに発し、カントを経て、フィヒテ、ヘーゲルにいたる思考様式である。反省とは認識、意志作用、判断などの心的操作を自己理解において統一的に再把握することである。カントの、〈私は考える〉は私のあらゆる表象にともなうことができなければならない、という定式にそれは要約される。

 フランスのポスト=カント主義的反省哲学は独自の流れを形成している。メーヌ・ド・ビランにはじまるその系譜は、ラシュリエ、ラニョウ、ブランシュヴィク、アラン、ラヴェル、マディニエ、デュメリーと連綿と続くが、そのなかでリクールがもっとも注目し、彼自身もっとも影響を受けた反省哲学者はジャン・ナベールである。ナベールによれば反省の特質は、精神を、その行為とそれが産み出すものにおいて考察し、産み出したものの意味を自分のものとすることである。すぐれて精神の行為であるものとは、思考、判断、肯定であり、記号の創造、理解であり、そして実存するための努力を通しての自我の統覚である。

 リクールは「意志の哲学」第一巻以来、デカルトのコギトを批判し、後に虚偽意識批判を受け入れてそれを「傷ついたコギト」として再定式化しようとする。すなわち「コギトは自己を措定するが、自己を所有しない。それは現実の意識の不十全性、錯覚、虚偽を自認することにおいてしか、その本源的な真理を理解しないようなコギトである」。そこで、統合的な体験としてのコギトの〈奪回〉のためにリクールがナベールから学びとったのは、反省は直観でなく、記号の理解を媒介にしての自己理解である、ということである。すなわち、意識という近道での自己把握はなく、意識の純粋な自己措定は、意識の行為が記号のうちに現われるのを通してしか、現われないのである。自己の自己による直接的把握はない以上、自己は自己にとり解読すべきテクストとなる。「反省は自己による自己の直観ではないゆえに、反省は解釈学とならねばならない」とナベールは言う。

 ここにおいてコギトの問題をめぐり、現象学と解釈学が連結する。反省哲学のプログラムを実現するために、現象学と解釈学が動員される。「事象そのものへ」をモットーに、意識に直接、明証的に現われている現象を記述しようとするのがフッサール現象学である。事実から本質の認識に進む形相的還元の方法によって、リクールは『意志的なものと非意志的なもの』で、志向的分析にもとづいて意志作用の純粋記述を試みた。その結果意志そのものは意識の深部に基礎づけられていることを見いだし、それに到達するにはフッサールの超越論的観念論では限界があることを悟る。そこで彼は解釈学的問題を現象学的方法に〈接木〉して、現象学と解釈学とを相互に帰属させる解釈学的現象学を構想する。それは究極の基礎づけの場を直観の次元に属する主観性から、記号解釈、広義のテクスト解釈に移すことである。そこから彼は解釈学を「テクスト解釈との関係における理解の諸操作の理論」と定義する。

 テクスト解釈は、テクストの意味理解を通して自己理解するという、主体の自己理解で成就する。だがそれは拘束された、有限な意味理解ではなく、テクストが展開する世界の解釈に呼応した意味理解である。精神分析や構造主義が意味を還元しようとするのに対し、リクールの解釈学は意味を回復し、意味を創造する解釈学である。ジャン・ラクロワは『フランス現代哲学展望』で、リクール哲学を反省哲学に分類し、さらに「意味の哲学」として解説しているが、それはリクール哲学の出発点であり、また到達点でもあろう。ジャン・グレーシュもその研究書の表題を『ポール・リクール――意味の巡回』としている。

 これに関連して想起されるのは、レヴィ=ストロースとリクールの議論である。レヴィ=ストロースは無文字社会における神話を採取し、構造分析はするが、その意味の解釈はしない。それに対してリクールは、その神話を信じ、生きている者にとっての主体的な意味を求める。「意味が自己理解の一部でなかったら、意味とはいったい何なのか私にはわかりません」とリクールは述べる。これについては本論で詳述しよう。

 この彼の言葉を裏づけるのは、彼の聖書解釈学である。彼は聖書釈義に言語学理論、レトリック理論を導入して、聖書解釈に一種の「言語論的転回」をもたらした。聖書解釈にあたって、まず聖書テクストを客観的な意味分析にかけ、次にそれにもとづいて実存論的な解釈をおこなうのである。そこには「信仰するために理解し、理解するために信仰する」という解釈学的循環がある。本書ではリクールの聖書解釈学には言及できないが、そこではテクストの意味の客観的分析と主体的理解において、一般的テクスト解釈学と聖書解釈学とが互いに相手をモデルとしていることはたしかである。