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浅野光紀 著

非合理性の哲学
――アクラシアと自己欺瞞


    

四六判上製402頁

定価:本体3800円+税

発売日 12.07.06

ISBN 978-4-7885-1296-2

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◆合理主義的人間像の陥穽◆

間違っていると熟知しながら自分を騙して嘘を信じこむ。為すべき行為を判断しながら別の行為を実行する。理性的存在であるはずの人間が見せる実に非合理な姿です。嘘と知る自分自身をどうやって欺けるのか、最善の行為ではない行為をとってしまうのはなぜか、古代ギリシャ以来哲学者が挑んできたパラドクスが現われるとき、いったい何が起きているのでしょう。思考と行為のあいだに分裂を抱えた人間の本性を、単に支離滅裂なのだと言い捨てずに説明する術はあるのか? 非合理性のパラドクスを解決し、現代科学の知見とも整合する新たな人間の理解へといたる、気鋭渾身の快著です。


非合理性の哲学 目次

非合理性の哲学 序

ためし読み
◆書評

2012年12月9日、毎日新聞、村上陽一郎氏評

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非合理性の哲学―目次


 序 
第一章 自己欺瞞
1 二つのパラドクス
2 自己欺瞞のプロトタイプ 
3 何が問題なのか:心の分割 
4 合理性の規範 
5 証拠の操作 

第二章 自己欺瞞のドグマ
1 信念のパラドクス 
2 概念と経験:デイヴィドソンの心の分割論 

第三章 自己欺瞞の帰結
1 自己欺瞞と願望的思考 
2 意図と実践推理 
3 意図のパラドクス 
4 心の分割:行為と思考 

第四章 アクラシア
1 実践推理 
2 最善の判断に背く自由な行為 
3 アクラシアの射程 
4 パラドクス 
5 懐疑論 
6 二つのアクラシア:懐疑論論駁 

第五章 実践推理の外へ
1 デイヴィドソン 
2 二つの分割論 
3 動機と価値 
4 近接性から注意へ:ミシェルの実験 
5 想像力、習慣、他者 
6 行為と意識:リベットの実験 

第六章 アクラシアの自由
1 自由意志と決定論:分岐する未来、一つの未来 
2 アクラシアと両立主義 
3 非両立主義 
4 アクラシアの克服と実践理性 
あとがき 
参考文献 ix
索引 i
装幀――難波園子



非合理性の哲学 序

 非合理な現象と聞いて、一般には何が連想されるだろうか。前近代的な風習や儀礼、非効率な企業慣行、戦争やファシズムに見られる集団的熱狂、あるいは狂信や狂気のような個人の心の逸脱だろうか。本書で扱われる非合理性は、これらの現象とも関連性はあるが、そのささやかな日常性を特徴としている。最善の判断に背く愚かな行為、最良の証拠に逆らう都合のいい信念が本書のテーマである。合理的に思考し、信じ、行為できるはずの通常の主体が陥る非合理性こそ、哲学的な問題としての普遍性を有するもの、耳目を惹きつける華やかさや際立つ異常性とは無縁の場面で、私たちの心の構造について重要な事実を告げている問題群である。常軌を逸する度合いと内容の多彩さにおいてさまざまな形態を示す非合理性の、健常者にも馴染み深い、核となる部分を抽出してみたい。アクラシアと自己欺瞞、本書の課題は、この二つの非合理性をめぐる、古来から議論されてきた哲学的なパラドクスを解決することである。また、この作業を通じて、行為を導く心の構造に関して、現代の経験科学的知見とも整合する、新たな認識に到達することである。

 アクラシアといい自己欺瞞といい、それがいかなる現象であるのか哲学者の間でも合意が成立していない、概念規定の仕方にぶれがあるという現状がある。ここに、非合理性の問題の本質がある。「合理主義(rationalism)」は、随意に採用したり棄却できる経験的教説ではなく、意識的思考そのものの特質に由来している。それは、哲学者の概念的思索にその典型を見いだすような、言語を使って推論的(reasoning)にものを考えるという、理性(reason)そのものの構造に淵源する。行為事由の総体に鑑み、最善の行為を選ぶ。証拠の全体に照らして、最も真らしい信念を抱く。私たちは、自身をそうした合理的な行為者、信念主体として表象しがちである。欲求や衝動が行為・信念に直結しておらず、その前に一拍おいて思考過程が挟まるということ、ここに理性的動物としての眼目がある。合理主義とは、それへの最低限の信奉なくしては、互いを人と見なし、信頼し、コミュニケーションへの足がかりも失われてしまうような、必要欠くべからざる原理なのである。一見、合理主義に反するようなもの――神秘体験など――へのロマンティックな憧憬も、それ自体、思考する合理的存在にのみ可能なものとして、また他者の共感も容易に期待できるものとして、合理主義の枠内にある。言語を用い、なんらかの論を立てるということ、それはすでに合理的存在たる自身を証し立てることである。この意味で、合理主義とは、正面からは反駁不可能な概念である。

 だとすると、非合理性を直視し、それについて語ることには、原理的な困難がつきまとうことになる。非合理性とは、合理性に背いた現象のことである。しかし、思考そのものに合理性への傾きがあるなら、非合理性を思考するとは、思考自身による、思考そのものの自己点検という形をとらざるをえないだろう。自身の行為や信念を合理化したがる思考の特質に逆らって、そこに非合理なものを感知し、かつその原因について考察しなければならないのである。この自己批判能力の多寡によって、論者によって、アクラシアと自己欺瞞の特徴づけ方が、まちまちになるのである。

 アクラシアと自己欺瞞には、世俗的・伝統的に採用されてきた規定の仕方がある。アクラシアは、「最善の判断に背く自由な行為」として、自己欺瞞は、「最良の証拠に逆らう都合のいい信念」として了解可能である。しかし、こうした記述の含意するところを、仔細に分析してみると、哲学者の合理主義的な思考の枠組みを揺るがせるような部分が胚胎していることが明らかになる。このとき、哲学者のとる態度は二つに分かれる。自身の合理主義的な思考の枠組みに沿う形で元の現象を再解釈、その記述の仕方を変更するか、元の現象をその記述のままに受け入れ、それを合理主義的な思考の枠組みに改変を迫る経験的所与として遇するか、である。前者の場合に、合理主義的な人間観の程度に応じ、またそれを維持するためにどのような弥縫策を採るかによって、現象の記述の仕方が、論者によってまちまちになるのである。ある者はアクラシアを単なる心変わりに似た現象に、ある者は自己欺瞞を願望的思考に類した現象に同化しようとする。問題の事象を、一見よく似た関連事象に同化することによって、そのパラドキシカルな問題を解決できたと称するのである。

 本書では、しかし、後者の途を採用し、前者の途を踏んだ場合に失われるものを剔抉しようとする。アクラシアと自己欺瞞の世俗的な記述の仕方を字義通りに受け入れ、それが既存の合理主義をどのように脱臼させるかを見るのである。前者の途は、単に哲学者の選ぶ理論的選択ではなく、非合理性をも合理化しようとする、思考そのものの特質が露呈したものである。それは、自分のなすところに知悉し、つねに最善の判断にしたがって、合理的かつ円滑に行為を制御していると思いなそうとする、意識的思考の特質である。

 本書は、前半の三章で自己欺瞞を、後半の三章でアクラシアを扱う。自己欺瞞から議論が開始されるのは、そのパラドキシカルな問題の解決と、その過程で明らかになる自己欺瞞の真の姿、正確な概念規定が、アクラシアの問題に取り組む必須の準備作業になるからである。「準備作業」という言い方は、筆者が、この二つの現象に同等の重みを置いていない、アクラシアの方をより重要視しているという印象を与えるかもしれない。まさにその通りであり、本書の主題である行為と思考の分裂が、行為主体の意識のうちにも瞭然たる形で露出してくるのは、アクラシアにおいてである。 アクラシア(akrasia)は自制を欠いていることを意味するギリシャ語で、我が国および英語圏では「意志の弱さ(weakness of will)」と呼ばれることの多い現象である。自分の最善と思うところを実行に移せない心の弱さがそこでは問題となる。一方、自己欺瞞(self?deception)は、真理に気づきながら、それがセルフ・イメージを脅かすがゆえに、正反対の虚偽を信じて心の安寧を得ようとする現象である。だとすれば、私たちは、自身の意志の弱さ、アクラシアに関して自己欺瞞に陥ることがあったとしても不思議はあるまい。自堕落な悪癖に陥るとき、主体はそれを自身の意志の弱さによるものと認識・諦観して、素直に実行するとはかぎらない。むしろ、行為場面の状況に鑑みて、自分の行為を正当化してくれそうな理由を捻出しつつ実行に移すのである(禁煙志願者:「これが最後の一本だから……」「まあ集まりの席だし……」)。これはアクラシアを、つまり最善の判断と実際の行為との間の乖離を隠蔽し、行為を制御する主体としての地位を保とうとする、思考の挙措である。思考と行為との間に一瞬開けた亀裂を、同じ思考が即座に、欺瞞的に合理化・修復し、統合的な行為主体(agent)としての自我像を維持しようと、不断に努力を重ねているのである。本書で明らかになるのは、これもまた推論的思考というものの果たす本質的な機能の一つであるという認識である。

 そして、こうした欺瞞的な心の動きと同型のものが、一般の行為者のみならず、アクラシアを理論的に説明しようとする哲学者の思考をも侵している。ソクラテス以来、字義通りの意味でのアクラシア(最善の判断に背く自由な行為)の存在を否定し、それを行為時点での、最善の判断に従う現象として捉えようとする試みが絶えたことはない。それは、自由な主体がみずからの最善の判断に背いて行為することを否定する、合理主義的な試みである。アクラシアは、行為の直前に判断の変更が介在する、心変わりに類した現象として捉え直される。こうしたアクラシアの「懐疑論」――字義通りの意味でのアクラシアの存在を疑う立場――を検討するのが重要なのは、この考えを討っておかないと、アクラシアについて論じるスタート地点にすら立てないからである。自己欺瞞という覆いを剥ぎ取り、アクラシアの存在を白日のもとに晒け出さなければならない。そのとき、主体の意識は最善の判断と実際の行為との間で引き裂かれ、自分で自分が理解できない、自分の行為をみずから不審をもって見つめるという事態が現出する。この事態を直視し、その含意するところを考究するために、本書の前半で、自己欺瞞をめぐって闘わされてきた議論の歴史を振り返り、そこでの混乱を正し、自己欺瞞を脱神秘化しておく必要があるのである。

    とはいえ、自己欺瞞が、それ固有の重要な問題を孕んでいないわけではない。従来、自己欺瞞は、矛盾する二つの信念を同時に得ているパラドキシカルな状態として特徴づけられてきた。真理に気づきながら、正反対の虚偽への信奉を自身に植え付けるなら、論理的な帰結として、主体は矛盾する二つの命題を信じていることになるように見える(「Xは浮気している」「いやしていない」)。本書の画期をなすのは、この「信念のパラドクス」を、自己欺瞞に関して喫緊の重要性をもつ課題としては扱わない点にある。それどころか、これは概念的考察に終始しがちな哲学者によって提起されてきた論理的構築物にすぎず、誤った自己欺瞞の規定の仕方であると論じられる。自己欺瞞とは、真理から眼を逸らし、代わりに偽なる信念を自身に植え付けようとする、ダイナミックな過程そのものの名称である。それは真なる信念から偽なる信念への移行期を特徴づける心の状態なのだ。矛盾する二つの信念が同時に抱かれている時点は、厳密に言って存在しない。そしてこの、真理を遠ざけ、都合のいい信念を得ようとさまざまな奇妙な振舞い(「証拠の操作」第一章第五節参照)に及んでいる渦中の主体の心にこそ、自己欺瞞に関して重要な問題はすべて集約されてくる。それは、自分の行為を導いている欺瞞的な意図に、主体本人が気づいていないという可能性である。自分の行為をリアルタイムで導く意図に関する主体本人の盲目性、その一般的可能性を示唆する現象として、自己欺瞞は取り上げられるべきなのである。アクラシアと同じく、自己欺瞞も、思考と行為の分裂をめぐる一形態として捉え直される。信念のパラドクスという問題設定は、この意図をめぐるパラドクスからわれわれの眼を逸らさせてきた虚偽問題、自己欺瞞にまつわるドグマなのである。

    非合理性に関する議論を活気づけてきたのは、デイヴィドソンのいう「心の分割(division of mind)」という主題である(Davidson 1982;1986)。最善の判断に背いて行為するとき、その行為を導いているのは誰なのか、何なのか。自分で自分を騙すという作業の無理は、どのような分裂を当該主体の心に導き入れるか。何ほどか主体の心を分割されたものと見なさないでは、非合理性は説明困難なものと考えられてきたのである。アクラシアや自己欺瞞を関連事象に同化しようとする試みは、心の分割という考えに内実を与えるという、最も重要な作業抜きに非合理性を説明し去ろうとする、怠惰で消極的な試みなのである。

 本書は、非合理性のパラドクスを解決するためには心の分割という考えに訴えざるをえないというデイヴィドソン的なテーマを継承しつつ、独自の分割論を提示する。すでに述べたように、思考と行為の関係をめぐる新たな省察が本書のテーマである。ここで「思考」という言葉は、まったく常識的な意味で用いられている。内面的な独語の形であれ、空気を震わせる発話の形式であれ、言語を用いてなされる、意識的な推論過程のことである。通常こうした意味での思考と行為との関係は、前者が後者を導くものというのが自明の前提とされてきた。行為の前に熟考し、そこで得られた最善の判断にしたがって行為する。行為をめぐる事前の考察こそ、人間行為に理性の輝きを与え、物体の運動や動物の行動と違い、その厳密な予測を難しいものにすると考えられてきたのである。行為を決定するものは思考であり、そこで得られた最善の判断である。本書は、従来の合理主義のメルクマールをこの前提に見る。これは、ソクラテスのようにアクラシアの存在を否定する合理主義者はもちろん、デイヴィドソンのようにその存在を所与のものとして認める現代の合理主義者をも貫いている態度である。この合理主義の前提こそ、非合理性を検討しつつ再審に附さなければならないものである。おそらく、この前提を維持したまま、アクラシアと自己欺瞞を整合的に説明するのは、不可能なのである。

 思考と行為との間には、われわれが考えている以上に間接的なつながりしかなく、そこには齟齬が生じる可能性が本来的に胚胎している。そしてこの齟齬を隠蔽する機能もまた、思考の本質に属する。こうした観点に立ってはじめて、二つの非合理性を体系的に説明する道筋がつけられる。最善の判断に背く行為、アクラシアはもちろん、自己欺瞞においても、行為を実際に導いている意図に、意識的思考が気づいていないという意味で、思考と行為の分裂が生じている。提起すべき心の分割論とは、行為する心の、思考からの独立性に関するものになる。鍵となるのは、「実践推理(practical reasoning)」という概念である。これはまさしく理性(reason)のなせる業、なすべき行為に関する、あらゆる事情に鑑みた熟慮の過程である。従来の行為の哲学は、実践推理に明示的に先導された行為にすべての意図的行為の範型を見、それが明示的に介在していないように見える行為――習慣的・自動的・熟練による行為など――にさえ、ミニマルな推論過程の存在を仮定して同じモデルで説明してきた。確かに、主体の意識的な制御下に行なわれているという一点において、これらすべての行為には連続性があるように見える。行為がともかくも、意図的に、本人の制御下に行なわれているなら、それは思考の導きによるもの、最善の判断に従うものと見なして差し支えないはずだ――。

 本書で切断されるのは、この実践推理と意図的行為の概念的紐帯である。われわれの心に意図が生じ、目的をもった行為が行なわれるのに、なすべき行為に関する合理的な思考過程、実践推理は必要ない。われわれの行為は、厳密に言えば、考える前にすでに決定されているのであり、意図が心中に形成されているのであり、身体すら動き始めているのであり、思考はそれを事後的に合理化して最善の行為の体裁を取り繕っているにすぎない。アリストテレスのいう「実践的三段論法(practical syllogism)」と、実践推理の、従来見過ごされてきた重要な区別に、じつはこうした考えの萌芽は窺うことができる。そして、現代の脳神経科学や心理学も、こうした見解を示唆しているように見える。それは、合理主義者が忌避してきたような、字義通りの意味でのアクラシアと自己欺瞞の存在こそ、現代の経験科学的知見とも整合する、体系的な説明が可能なものであるということである。

 非合理性の哲学とは、実践推理という明示的な思考の背後に隠れてわれわれの行為に決定的な影響を与えている、微細な要因を明るみに出すことである。本書の佳境をなす第五章の四、五節において、そうした要因の探索に向かう。そうした要因は、通常の合理的な行為においても、実践推理と調和的に協働して行為を導いているため、推論的な思考との際立った差異が、気づかれにくかったもののはずである。逆に言えば、そうした要因に働き掛けることに成功しないでは、実践推理(理性)だけでは、いかなる行為にも主体は動機付けられないのである。非合理性こそ、合理的な行為一般を可能にする心の条件を開示する現象である。それを合理性の局所的な失調、例外扱いしてきた従来の合理主義の枠組みは、裏返されなければならない。それは、合理主義を全面棄却する非合理主義に走ることではなく、その洗練化、より包括的な行為説明の理論を目指すことである。