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佐藤公治

音を創る、音を聴く
――音楽の協同的生成


四六判304頁

定価:本体3200円+税

発売日 12.07.25

ISBN 978-4-7885-1295-5

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◆言葉にできないものをいかに伝えるか?◆

コミュニケーションの神髄は、単に何かを効率よく伝えることにあるのではな く、言葉にしがたいものを抱えながら、なおそれを表現しようとするところに あるのではないでしょうか。オーケストラも、構成員のそのような格闘のなか から、音が生まれ、音楽が生成されます。本書は人間の行為を個人の視点から みる心理学ではなく、個人と社会・文化の緊張しあう中間世界からとらえる行 為論を、西田幾多郎、木村素衛、ヴィゴツキー、木村敏らの思想をたどりつつ 呈示し、オルフェウス室内管弦楽団と学生オーケストラの練習のしかたのなか に、そのような協同的な実践のすがたをみてゆきます。心理学の新しい方向を 指し示す、刺激に満ちた一冊です。著者は、北海道大学特任教授。


音を創る、音を聴く 目次

音を創る、音を聴く まえがき

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音を創る、音を聴く―目次

目  次


はじめに

序 章 協同による活動 

第1章 行為と表現行為─人間精神をみる視点 
1 行為としての人間精神
 (1)行動と行為
 (2)心理学における理性主義がもたらしたもの
 (3)行為を支え、「媒介」として働いている身体
2 ヴィゴツキーの「対象行為論」とバフチンの「行為の哲学」
 (1)ヴィゴツキーの行為論
 (2)バフチンの「行為の哲学」
3 ヴィゴツキーの「芸術心理学」

第2章 行為から表現行為へ─表現は自己の内部と外部を創る 
1 西田幾多郎の表現行為論─「行為的直観」
 (1)西田幾多郎の基本的立場
 (2)意識から行為へ
2 行為と身体・道具の関わり─木村素衛の表現行為論
 (1)木村素衛の基礎にあるフィヒテの「事行」
 (2)木村素衛の表現行為論
3 木村敏の「あいだ」論と音楽表現
 (1)木村敏による音楽表現の世界
 (2)アクチュアリティとしての音楽表現

第3章 音楽合奏の構造 
1 音楽合奏という協同活動
2 音楽合奏はどのように成立するか
 (1)室内交響楽の場合
 (2)ジャズ演奏の場合
 (3)フル・オーケストラの場合
3 アマチュア・オーケストラの音楽づくり
 (1)学生オーケストラの音楽づくりの特徴
 (2)アマチュアと文化的創造
4 弦楽器部門の合同練習とプロの音楽家の指導
 (1)演奏表現の工夫
 (2)他パートの音を聴け、しかしそれにもたれるな
 (3)主旋律と対旋律の役割交替を意識せよ
 (4)パフォーマンスとしての音楽─そこに関わっているもの

第4章 音楽合奏─聴くことと音楽表現 
1 プロの音楽家の指導によるパート練習とそこで起きていること
 (1)タイミングとカウントを取ること
 (2)休符で休んではいけない
 (3)他パートの旋律を意識しながら演奏せよ
2 音楽合奏におけるリズムと間
 (1)音楽合奏におけるリズム
 (2)リズムと「間」
 (3)リズムと「間」を支える呼吸
3 演奏と身体性
 (1)聴くこと
 (2)音楽を生み出す身体と身体的表現行為

第5章 協同による音楽づくり 
1 「トップ分奏」─合奏のための「青写真」作り
 (1)リズムとテンポの調整
 (2)演奏の繰り返しによる音の形成と調整
 (3)音楽表現と表現の相互調整のための言葉
 (4)音楽とメタファー
 (5)ブローカーとしての「トップ分奏」
2 オルフェウス室内管弦楽団とコア・リハーサル
 (1)指揮者のいない管弦楽団
 (2)オルフェウス・システム
 (3)「コア・リハーサル」とその機能
3 「コア・リハーサル」と学生オーケストラの「トップ分奏」

第6章 音楽合奏における創発性と慣習 
1 創造性─即興と慣習のはざまで起きていること
 (1)創造性を生みだすことの間にある二つの極
 (2)即興のエチケット
 (3)合奏のエチケット
2 創造的協同性
 (1)ジョン=スタイナーの「創造的協同性」
 (2)ホルツマン─創造的活動の場としての「発達の最近接領域」
3 創造性の社会的過程
 (1)創造性の「システムモデル」
 (2)ソーヤーの「協同的創発性」
4 創発性と慣習
 (1)創造性を支える慣習と伝統
 (2)個別性と普遍性
 (3)個と集団の二重の主体性

終 章 「中間世界」の中の人間の活動 
1 共同体が創造的活動を産み出していくために何が必要だったのか
2 中間世界・中動態としての表現行為
 (1)ポドテキスト(内面的意味)
 (2)交差配列(キアスム)
 (3)中間世界論

おわりに
文  献
事項索引
人名索引


装幀=難波園子


音を創る、音を聴く はじめに

はじめに  評論家・小林秀雄が書いた小さな文章がある。「美を求める心」という題名で昭和32年に書かれたものである(『小林秀雄・全作品21』新潮社)。若い人たちに向けて書いたものであるから実に平易な文章である。小林は美しいものを観、聴いた時の感動は私たちの心の中に真っ直ぐに入り、私たちの心を波立たせると言う。そして美しいものは人を黙らせる。美には人を沈黙させる力があるとも言う。

 美には人を救う力がある。音楽を聴いて勇気をもらい、絶望から救われた経験は誰でも持っているだろう。その時の感動を言葉で言い表してみよと言われてもできない。仮に言葉で言ってみても、言葉を口にした途端に、むなしくなってしまうのである。そんなものではなかったと。

 今、私たちの生活の中で、そして学校の中でコミュニケーションの力、あるいは言葉と対話の力が衰え、細くなっている。だからコミュニケーション力をつけよう、育てようというわけである。他方で、このこととはまるで逆行するようにコミュニケーション・ツールはどんどん進化しているし、発信される情報で溢れかえっている。インターネット情報、ツイッター、そして携帯電話。もちろん、それらのコミュニケーション活動はカッコ付きのコミュニケーションである。

 私たちはその人の声、身体から出てくる生身の言葉を聴かなくなってきている。あるいは芸術にふれていく場合でも、作品に直接目と耳でふれなくてもコピーされたもので済ませてしまうことが多くなっている。映像や録音というその場で直接身体を通して経験することのない世界は、私たちの身体運動的経験を貧弱なものにしてしまっている。同時に、ヴァーチャルな情報や記号によって抽象化された情報で頭の中をいっぱいにしてしまっている。それでもまだコミュニケーション力が足りないという。

 学校教育では間違ったコミュニケーションのための教育や対話論が横行している。もちろん、それは学校現場だけの話ではない。流暢にしゃべること、人とうまく話ができること、人に自分の考えをうまく伝えることがコミュニケーションや対話の力であると、思い違いをしている人たちが多い。大事なのは対話関係である。ロシアの言語学者・バフチンは「テキストの問題」(『ミハイル・バフチン著作集8』新時代社)という小さな論文で、対話的活動と対話的関係を一緒に扱ってはならないと言っている。対話的関係は対話する者同士が議論したいこと、話題にしたいことをめぐって反論、同意を求めて声と声をぶつけ、重ねることによって作られる。そして、この対話的関係は時間と空間が隔たっている場合であっても生まれるものである。このようにバフチンは言う。

 足りないのは言葉や対話する力ではない。細くなり弱くなっているのは私たちの身体が感じること、身体と身体で感じる人との関わりとその体験である。言葉を支えているもの、言葉の裏に存在しているものを共に持てない時には言葉は死んでいく。石原吉郎の言葉である。「ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばに見はなされるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです。」(「失語と沈黙のあいだ」、『石原吉郎詩文集』講談社)。

 失語と沈黙とは別のものである。小林秀雄が若い頃に大阪の道頓堀を歩いている時に突然、モーツアルトのト短調のシンフォニーが頭をよぎり、そこで受けた感動をその後も抱え続け、そのことに決着をつけるべく生まれたのが『モオツアルト』である。これは小林の代表作の一つと言われるものである。小林は言う。「美は人を沈黙させるとはよく言われる事だが、この事を徹底して考えている人は、意外に少ないものである。優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現していて、これに対しては学問上の言語も、実生活上の言葉も為す処を知らず、僕等は止むなく口を噤むのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動を抑え難く、而も、口を開けば嘘になるという意識を眠らせてはならぬ。」(『モオツアルト・無常という事』新潮社)。  沈黙、声にならない感動は人を支え、人を動かす。沈黙せざるを得なかったものを表現して形あるものにしたいという衝動を抑えることができない。人を表現へと向かわせるものである。沈黙せざるを得なかったものを表現しようとするこの欲求、この人の心にあるもの。これが人間の根源としてあるものだろう。武満徹の言葉である。「言葉が言葉自身の肉体をもちえない、あるいはわれわれが言葉を肉化していない、肉体にしていないといったほうが正しいように思います。」(「音」と「言葉」、『武満徹エッセイ選:言葉の海へ』筑摩書房)。

 本書では、人が言葉にしがたいものを抱え、なおそれを形あるものにしていこうとする人間の営みについて考えていきたい。

 以下、本書の内容と構成を簡単にふれておきたい。

 序章では、芸術的創造、特に音楽的な創造活動を関係論的な視点から考えていくことの出発点として行為論を位置づけたこと、その背景にあるものをスティーブン・ペッパーの『世界認識』によって確認している。ここでは「文脈主義」とそれが意味していることを取り上げている。次いで、西田幾多郎の「行為的直観」の考え方を取り上げ、「理性主義」を越えるための理論的な可能性をここに求める意図を簡単に述べている。

 これに続く第1章と第2章では、序章で概観したことを幾分詳しく論を展開している。第1章では、はじめに人間精神を行為論の立場から論じることの理論的意味を確認し、次いで行為論から人間精神についての精緻な理論構成を行ったヴィゴツキーの心理学理論と彼の芸術心理学、そして彼の芸術的創造の考え方を取り上げている。特にヴィゴツキーが研究の初期と晩年の二つの時期に表した「芸術心理学」の問題を論じている。第2章の前半では、序章で要点のみを述べるだけに留めておいた西田幾多郎の「行為的直観」について、彼の行為論と共に幾分詳しくその内容を取り上げている。特に、彼が後期になって強調するようになった表現行為論は、芸術創造を考えていくための基本的枠組みを提供してくれている。この章の後半では西田幾多郎門下で、美学と教育学の分野で一つの足跡を残した木村素衛の表現行為論を扱っている。さらに彼が表現と道具との関わりについて述べていることについてもふれている。この章の最後では、西田の流れの中に必ずしも位置しているわけではないが、西田の思想の影響を受けて独自の精神病理論を展開している木村敏の関係論と音楽表現論について取り上げている。木村敏の音楽表現論や音楽演奏論については他の章でも言及している。

 第3章から第5章までは、音楽合奏の具体例を軸にしながら協同による創造的活動の問題を論じている。第3章では、弦楽四重奏とジャズ演奏についての研究を紹介しながら、音楽演奏を協同的な創造活動としてみる視点とその理論的枠組みを整理している。そしてこの章では、アマチュアの学生オーケストラの練習をみているが、特にプロの演奏家が指導している練習の内容を詳しく取り上げている。プロの演奏家はアマチュアの学生の演奏を指導する中で音楽合奏、特に協同によって音楽を創り上げていく上で大切なことをいくつか指摘している。ここから協同活動としての音楽合奏を議論していくための基本的な枠組みを確認することができる。第4章では、学生オーケストラの低弦部門を受け持つコントラバスの練習とそれを指導しているプロの演奏家が演奏上の問題として述べている内容を詳しくみている。プロの演奏家は音楽演奏で大事にしていることとして、リズム、間、演奏者相互のタイミングを合わせていくこと、そして何よりも他パートの演奏を聴くことを挙げている。そして、このようなプロの演奏家の指摘を理論的な側面から確認することを行っている。この章では、まとめとして音楽演奏とそこに深く関わっている身体性の問題を議論している。第5章でも学生オーケストラの練習の様子をみているが、ここでは各パートのトップが集まって合奏の問題点の洗い出しと演奏表現のための原案作りを行う「トップ分奏」と呼ばれている練習形態とその意味を取り上げている。このような練習形態はアマチュアの学生オーケストラが抱えている問題を解決する方法として生み出されたものであるが、機能的に類似したものとしてプロのオーケストラのオルフェウス室内管弦楽団が取っている「コア・リハーサル」と「オルフェウス・システム」と呼ばれているものに注目している。そしてこの章では、実践集団が自分たちの活動にふさわしい活動形態を生み出していくことを可能にしていく創造的な協同活動について議論している。

 第6章では、創造的な活動を創り出していく共同体のあり方についていくつかの創造性に関する研究をみながら議論をしている。そして、この章では創造的な活動は関係と協同の中で生まれてくるという「創造的協同性」という考えとその可能性について具体的な研究を取り上げて検討を加えている。

 終章では、本書のまとめとして二つのことを述べている。一つは、新しいものが創造されていくのは決して個人の独創性によるのではなく、むしろ創造的活動を支える社会・文化的なものの存在、そして創造的な活動を内包している共同体とそこにおける協同的活動が新しいものを創り出していくということである。そして、第二は個人と社会・文化とはいつも緊張関係にあり、そこでは両者は「交差」し合っているという考えである。人は社会・文化の中で生き、そこで活動をしている。どちらか一方の側に立って人の活動のことを議論してしまったり、説明をしてしまうと大事なものを見失うことになる。人の営みは個人的世界と外部世界との間の境目のない「中間世界」の中で起きている。そしてこの「中間世界」で体験しているものは多分に身体的なものを基盤にしている。このようなことを本書の結論としてまとめている。

佐藤公治