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高橋修 著

主題としての〈終り〉
――文学の構想


四六判288頁

定価:本体2600円+税

発売日 12.03.23

ISBN 978-4-7885-1283-2

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◆〈終り〉をめぐるスリリングな論考◆

〈終り〉とは何でしょうか。小説はなぜ終るのでしょう。ひとは〈終り〉を仮構することで世界を意味づけるとする著者は、〈終り〉にはさまざまなイデオロギーがからみついており、テクスト内の論理だけでなく、その外部である時代の想像力が深く関わっていると考えます。このような視点から、二葉亭四迷の『浮雲』の中断的〈終り〉、自然主義小説の終らない〈終り〉、夏目漱石のオープンエンディングな〈終り〉、村上春樹『ノルウェイの森』の特異な〈終り〉、探偵小説の〈終り〉など、さまざまな〈終り〉を主題化し、〈終り〉をめぐる人々の欲望を、テクストのおかれた場所から読み解いていきます。

主題としての〈終り〉 目次

主題としての〈終り〉 はじまり

ためし読み

◆書評

2012年6月10日、上毛新聞

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主題としての〈終り〉─目次


第一部 主題としての〈終り〉
第一章 消し去られた〈終り〉――二葉亭四迷『浮雲』(1)
一 消し去られた「(終)」 
二 受け容れられる〈終り〉 
三 拒否される〈終り〉/〈モード〉としての自然主義 

第二章 〈未完〉の成立――二葉亭四迷『浮雲』(2)
一 二葉亭の死 
二 〈未完〉の成立 
三 完結する〈未完〉 
四 近代主体論的な〈終り〉 

第三章 〈終り〉をめぐる政治学――二葉亭四迷『浮雲』(3)
一 解釈される〈終り〉 
二 実証される〈終り〉 
三 『浮雲』的な〈終り〉にむけて 

第四章 探偵小説の〈終り〉――森田思軒訳『探偵ユーベル』
一 問題の発端 
二 「周密訳」をめぐって 
三 ユゴーの受容 
四 「探偵小説」というあり方 

第五章 同時代的な想像力と〈終り〉――徳冨蘆花『不如帰』
一 方法としてのメタファー 
二 越境しない語り 
三 片づけられた〈終り〉 

第六章 オープンエンドという〈終り〉――夏目漱石『明暗』
一 大団円的な〈終り〉 
二 オープンエンドという〈終り〉 
三 漱石的な〈終り〉 
四 『明暗』の〈終り〉に向けて 

第二部 〈終り〉をめぐる断章
第一章 三人称的な〈終り〉の模索――坪内逍遙訳『贋貨つかひ』
一 物語の枠 
二 〈人称〉の翻訳 
三 言語交通としての〈翻訳〉 

第二章 韜晦する〈終り〉――二葉亭四迷『平凡』
一 自然主義と『平凡』 
二 語りと「描写」 
三 教科書のなかの『平凡』 
四 『平凡』の〈終り〉 

第三章 勧善懲悪小説的な〈終り〉――夏目漱石『虞美人草』
一 「勧善懲悪」という枠組み 
二 アレゴリー小説としての『虞美人草』 
三 『虞美人草』の結末 

第四章 〈暴力〉小説の結末――芥川龍之介『藪の中』
一 〈物語〉の〈場〉 
二 〈藪の中〉の〈暴力〉 
三 閉じられる〈眼差し〉 

第五章 〈痕跡〉としての「J山節」――深沢七郎『J山節考』
一 作られた「民話」 
二 「潜勢力」としての「J山節」 
三 物語の〈場〉としての「J山節」 

第六章 一人称小説の〈終り〉――村上春樹『ノルウェイの森』
一 自己療養としての語り 
二 意匠としての語り 
三 切断と結合 
四 脱=中心化された〈終り〉 

注 
あとがき 
初出一覧 
索引 
      装幀――難波園子






主題としての〈終り〉 はじまり

 「終末論」を直線的にのびた時間のある一点に「終り」を設けて、そこから世界を意味づけようとする壮大な「虚構」だとするフランク・カーモードは、著書『終りの意識――虚構理論の研究』(岡本靖正訳、国文社、一九九一・四)で時計のチック・タックという音をあげて、われわれの認識のありかたを説明している。単なる時計の反復音に、始め(チック)と終り(タック)というフィクショナルな意味を与えて、ひとまとまりの「プロット」であるかのような「調和」を見いだすのは、「時計を人間化」している、つまり単純な継起的な時間の流れを虚構によって「有意味化」しているというのである。

  われわれが関連し合った二つの音の二番目の音をタックと呼ぶ事実は、われわれが虚構を用いて、終りをして時間構造に体制と形式を与えることを可能ならしめている証拠である。二つの音の間の、すなわちチックとタックの間の間隔はいまや有意味な持続をはらんでいることになる。私は時計のチック・タックを、われわれがプロットと呼ぶところのもの、すなわち時間に形式を与えることによって時間を人間化する体制のモデルと考える。そしてタックとチックの間の間隔は、われわれが人間化する必要を感じている種類の、純粋に継起的で混沌とした時間を表わしている。

 比喩的で難解なカーモードの文章を、訳者である岡本靖正は「「始め」と「終り」との間に「虚構」によって「調和」を仮構し、「チックとタックの間に意味を与え」、現実を「意味づけ」ようとすることは、われわれの深い「欲求」」のあらわれであると解説している。「終り」を仮構することで時間構造に秩序と形式を与え、「始め」と「終り」の中間項である「現実」を意味づけようとしているというのである。クロノス的な単なる時間の継起的な流れを、「人間化」し意味に満たされたカイロス的時間に変えるためには、「終り」を設定し、「始め」と「終り」を虚構によって「調和」させなければならない。世界は「終り」という地点が仮構されてこそ意味づけ可能になる。

 しかし、こうした「終り」に関する認識は、宗教的神話的終末論に限らず、われわれの知のあり方とも重なっている。一見、終末論的な歴史観を相対化しているアーサー・C・ダントが提唱する「物語(1)り文」(narrative sentences)という考え方も、「始め」「中間」「終り」という物語の構造をベースにして歴史的事象の連関を説明しようとするものである。ダントによれば、歴史とは過去の出来事を回顧的に物語化する科学的言明のひとつであり、それは「物語る」という行為によって遂行されることになる。この意味では、歴史は必然的に「終り」から事後的・回顧的に語られざるを得ない。これは小説がすでに終った出来事を、終った時点から語るのと相似している。「終り」こそが起点であるという逆説もありえる。カーモードの言を踏まえて、大橋洋一が述べるように、「人間の文化とは、はじめもなければ終りもないカオス的なものに終わりを設けることによって意味をつくりだすいと(2)なみ」であるとすれば、「終り」を考えるとは世界観・歴史観に関わるような優れて文化史的な営為であるといえよう。「終り」を経験したいという欲求は、世界を意味づけたいという欲求に重なっている。

 こうした「終り」の重要性に着目した、日本文学をめぐる研究書や雑誌の特集はいくつかあった。『終わりの美学――日本文学における終結』(上田真・山中光一編、明治書院、一九九○・三)、「未完の小説」(『季刊文学』一九九三・一○)、「特集〈終わり〉を読む――近代文学篇」(『国文学 解釈と鑑賞』二○一○・九)などがそれである。しかし、いずれもテクスト内部の論理、あるいは文学ジャンル内の論理を中心にして論じているようにみえる。例えば「終り」論の先駆となった『終わりの美学』では、共同研究の中心であった上田真は欧米の研究成果(トーゴヴニック『小説の(3)結末 』)を紹介する形で、長編小説の終り方を次のように分類している。それによれば、@「環状終結」(作品の末尾がその起首と呼応して、全体からみると大きく円を描いている場合)、A「平行終結」(末尾の部分が書き出しだけでなく、小説中途の部分と呼応している場合)、B「不完全終結」(小説を終えるのに必要な要素が欠けている場合)、C「切線終結」(小説が終りに近づいたところへ新しい人物やテーマが出て来る場合)、D「接続終結」(作品の末尾に新しい小説に続く明らかな意志表示がある場合)ということになる。上田みずからが言及していることだが、「文学研究における終結の問題」は形態的な考察にとどまり、文化論的な意味づけには到っていない。また、「特集〈終わり〉を読む」古典文学篇と近現代文学篇を編んだ仁平道明は、近現代文学篇の巻頭に「〈開かれた結末〉〈閉じられた結末〉の二元論をこえて」という文章を掲げ、〈オープンエンド〉をめぐる二元論を相対化してみせるが、やはり「終り」のもつ文化史的社会史的な側面はネグレクトしているようにみえる。

 しかしながら、何をもって「終り」と認識するか、どのように意識的な「終り」が仕組まれているのか――「終り」にはテクストの外部たるその時代の想像力が深い関わりをもっている。「終り」のあり方にこそ同時代のイデオロギー、われわれの思考・行動や生活の仕方を根底的に制約している発想の枠組みが集中的に発現していると思われるのである。「終り」が仮構される場には常にイデオロギーが渦巻いているのだ。

 例えば、日清戦争後の社会状況をあげれば、戦争においては完璧な勝利だと思っていたが、三国干渉によって遼東半島還付の詔勅が発布され、一転して戦勝が敗北のように見えてしまう。「終り」は先延ばしにされ、「臥が薪しん嘗しょう胆たん」というスローガンのもと国民は新たな戦いに駆り立てられて(4)いく。そうした、時代の空気は小説の「終り」方にも明瞭に表象されている。国民的想像力と共犯関係にあった徳冨蘆花『不如帰』の結末は、単なる悲劇では終れない。浪子の死(病死)を敗北のままにすることはできなかったのだ。それゆえに、後日談風のさらなる「終り」が必要とされることになったのである。

 また、村上春樹『ノルウェイの森』では、演劇学専攻の作中人物「僕」(ワタナベ)の言として、「デウス・エクス・マキナ」と呼ばれる劇の終り方――最終場面で「カオス」に決着をつけるための神が登場して混乱を整序する――を紹介する一方で、小説では直子の死後も決着がもたらされず、「カオス」のままに物語が閉じられている。そこに記された「終り」のあり方には、生きる場所を失って失速する「僕」という一九八○年代的な主体のあり方が色濃く表われているといえよう。

 むろん、「終り」をめぐるイデオロギーといっても多層化しており、一義的に論ずることはできない。それらは、重層的に重なりながら「終り」の意識を作り上げている。本書では、プロットの論理またジャンルの掟にしたがって必然的にもたらされる「終り」だけでなく、@近代文学の解釈の場に機能しているイデオロギー、A政治的社会的な言説の場に機能するイデオロギー、B近代主体論的な人間観に関わるイデオロギーなど、それぞれの作品に即しながら近代文学の「終り」を論じていく。それをとおして、「終り」とはテクストの論理と読者の文学意識・同時代意識とが交差するところに浮上する歴史的な事象であるという考えの一端が明らかになることを願っている。

高橋修