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平石典子

煩悶青年と女学生の文学誌
――「西洋」を読み替えて


A5判360頁

定価:本体4200円+税

発売日 12.02.15

ISBN 978-4-7885-1273-3

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◆「新しい男」「新しい女」はいかに誕生したか

日露戦争が始まる前年の明治三六年、一東大生が「人生は不可解なり」との遺書を残して華厳の滝から投身自殺をしました。以来、「煩悶」と自殺がブームになり、若者の望みは立身出世から煩悶青年にシフトしたのです。女子の高等教育の必要も叫ばれ、「女学生」も誕生しましたが、そこには「良妻賢母」から「堕落女学生」「宿命の女」など、様々の「女学生神話」が形成されました。森田草平と平塚らいてうの心中未遂事件もありました。本書は、これら「新しい男」「新しい女」のイメージの形成を文学作品のなかに探ったものですが、特に、西洋文学の翻訳を通して、そのイメージがどのように読み替えられていったかをたどります。そこには現在の若者像の萌芽がいたるところに見られます。ユニークな視点からの若者論です。著者は筑波大学准教授。

煩悶青年と女学生の文学誌 目次

煩悶青年と女学生の文学誌 まえがき

◆書評

2012年4月8日、朝日新聞、保坂正康氏評

2012年4月22日、読売新聞、尾崎真理子氏評

2012年5月25日、クロワッサン

2012年5月25日、週刊読書人、長谷川啓氏評

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煩悶青年と女学生の文学誌―目次

はじめに

第一章 明治の「煩悶青年」たち 
一 「煩悶青年」とは何か 
   煩悶の萌芽 
   「巌頭之感」の衝撃 
   煩悶の流行と変質 
二 文学のなかの煩悶青年たち 
   ロシア経由の無為 ― 文三から欽哉へ 
   煩悶できる身分 
   「恋」という煩悶 
三 明治末の『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』
   「煩悶青年」の物語としての『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』
   自由劇場試演とその反響 
   鴎外のテクスト 

第二章 「女学生」の憂鬱
一 「女学生」というメタファー 
   開かれた少女たち ― 明治の新教育 
   『薮の鶯』の少女たち 
   「恋愛」する女学生 
二 「恋愛」の波及 
   『女学雑誌』の役割 
   「恋愛」の翻訳 
   翻訳の功罪 
三 「女学生神話」の確立 
   ファンタスムの誕生 ―「新聞小説」と女学生 
   「神話」の確立 
   「知性」と「堕落」―『魔風恋風』と囲い込まれる女学生 

第三章 「堕落女学生」から「宿命の女」へ
一 「堕落女学生」の行方 
   引き裂かれる頭と身体 
   「悪女」の可能性 
   新しい二極化 ―『青春』の女たち 
二 明治東京の「宿命の女」 
   翻訳のなかの「宿命の女」 ―『みをつくし』とダンヌンツィオ 
   エキゾティックな強者 
   クレオパトラと「新式の男 」―『虞美人草』をめぐって 

第四章 「新しい男」の探求 ― ダンヌンツィオを目指して 
一 『煤煙』という出発点 
   「塩原事件」と『死の勝利』― 明治日本のダンヌンツィオ 
   「宿命の女」の造形 ―『煤煙』の女性像 
   「新しい男」の出現 
二 漱石と・Oの青年像 ―「新しい男」とは何か 
   塩原事件と『三四郎』 
   漱石の「新しい男」 ― 長井代助 
   『青年』における「新しい男」と女性たち、そしてその後継者 
三 「醜い日本人」をめぐって ― ダンヌンツィオと高村光太郎を結ぶ糸 
   ダンヌンツィオのジャポニスム ― サクミの登場 
   ロティの影 ―『快楽』のサクミとその翻訳 
   日本人の手になる「醜い日本人」 ― 高村光太郎の「根付の国」 

第五章 女たちの物語
一 「令夫人」から「妖婦」へ ― 大塚楠緒子の作品をめぐって 
   「令夫人」からの発信 ―『晴小袖』と『露』
   ロマンティック・ラブ・イデオロギーの解体と再構築 
   明治の「パオロとフランチェスカ」ブーム 
二 遅れてきた女学生小説 ―『あきらめ』の意義 
   女をめぐる言説 
   遊歩者としての女学生 ― モデルニテの獲得 
   同性愛的世界 
三 女たちの新たなる地平 ―『青鞜』に集う物語 
   『青鞜』創刊号のフィクション ―「生血」と「陽神の戯れ」 
   フラッパーとブッチ 
   「真の恋」の希求 

おわりに
 注 
 あとがき 
 事項索引 
 人名・著作・雑誌索引 


   装幀 ― 難波園子


煩悶青年と女学生の文学誌 はじめに

 本書は、明治中期から後期において、日本の文学のなかで新しい若者像がどのように形成されたのか、ということを明らかにしようとするものである。明治の日本は、突然世界史のなかに組み込まれ、十九世紀の進歩史観に基づいて、「近代文明」への階段を登り始めた。そのなかで、「近代文明」の在り処である「西洋」の文学が若者たちにどのような影響を与え、彼らの自己像および他者像の形成に関わったのか、ということに焦点を当て、比較文学的なアプローチでの究明を試みる。

 明治文学における西洋文学の影響と受容、という問題は、日本の比較文学研究が長年取り組んできたテーマであり、既に多くの成果が存在している。本書では、そうした先行研究を参考にしながらも、西洋文学を、日本の知識人たちがどのように読み替えたのか、という差異の部分に着目する。文学作品の「翻訳」― translationの語源は trans = 横切る +la│tus =もたらされる、でまさに「移動」を意味するもの(1)だが ― におけるテクストの差異や異同を考察することによって、明治の日本文学における若者表象の特色が、より鮮明になるのではないかと考えるからである。「基本的には、あらゆる翻訳は「誤訳」であり、あらゆる読解は「誤読」なのかもしれない」と多和田葉子は語っている(2)が、翻訳者がテクストに必ず自分と、翻訳が読まれる世界での価値観や効果を反映させるものであることは、ボルヘスが『千夜一夜物語』の翻訳史を追った「『千夜一夜』の翻訳者たち(3)」にも明らかだろう。とすれば、差異や異同に着目することによって、当時の西洋文学の読者(そして翻訳者、紹介者)であった明治の知識人たちが「何を見たかったのか」ということが明らかになるのではないだろうか。また、翻訳だけではなく、その伝播の様相からも、若者表象の特徴が見えてくるのではないか。西洋の文学にあらわれた特徴的な人物類型が、時には読み替えられ、ねじれながら、日本のテクストのなかで広がっていく過程を追うことによって、明治後期の若者表象の特色を考察したい。その手法からも、本書は一つの作品や特定の作家を深く分析するものではなく、広く同時代の文脈のなかで西洋文学と日本文学との関わりを考察することになる。

 一方、明治の若者を論じたものとしては、E・H・キンモンス『立身出世の社会史』(広田照幸ほか訳、玉川大学出版部、一九九五年)、木村直恵『「青年」の誕生 ― 明治日本における政治的実践の転換』(新曜社、一九九八年)などがある。また、明治の女学生に関する研究は、本田和子『女学生の系譜 ― 彩色される明治』(青土社、一九九〇年)以降、文学や社会学など、さまざまなアプローチから進んできたといえる。本書は、木村が論証した、慷慨から内省、未熟へと移ってゆく青年の自画像のその後として「煩悶青年」と文学との関わりを考察するとともに、そうした青年たちの「新しい男」としての自己像と、それに伴う文学的想像力が、他者としての「女学生」像を形成してゆくさまを検証する。そして、当時の女学生たち自身も、このようなイメージから自由でなかったこと、むしろ彼女たちに貼り付けられたイメージを逆手にとる形で明治末期の「新しい女」たちの文学運動を盛り上げていったことを明らかにする。このような視点からの研究が、現代の若者・女性論にも寄与するところがあればと願う。

 考察手法は基本的には文学テクストの分析であるが、翻訳をも含めたフィクションを分析するにあたっては、同時代のテクストのなかに作品を置きなおし、その意味を考察することを心がけた。明治の知識人たちが触れたであろう外国語のテクストに関しては、できる限り原典を参照したが、イプセンの作品やロシア文学など、著者の能力を超えるものに関しては、現代の日本語訳に拠っていることを記しておかなくてはならない。また、本書で扱う「若者像」は、「煩悶青年」と「女学生」という言葉に象徴されるように、あくまでも当時の文学に最も積極的に関わった階層である、高等教育を受けた知識階級の若者たち(4)を指すものであることも、断わっておく必要があるだろう。

 以下、各章の概要を述べる。

 第一章は、「立身出世」を追い求めるべきものとされていた知識階級の青年たちが、そうした価値観に背を向けて、自己の内面へと向かう様子を「煩悶青年」という呼称を軸に追ってみた。天下国家を論じることをやめ、恋愛などの身の回りの問題を重視するようになる若者たちの姿からは、彼らが「西洋」の文学にあらわれた青年像をモデルにすることで、自己像の正当化を図ろうとする姿が見える。また、イプセンの『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』をめぐっては、作品の本来の姿からは離れる形で、親の世代の価値観に背を向けて生を謳歌する若者の物語としてこの作品が日本で受容される様相が明らかになる。

 一方、第二章で扱うのは、「新しい」青年たちがパートナーとして選び取ろうとした、「新しい」女性たち、当時の「女学生」である。ここでは、女学生たちがどのように自己を表現したか、という点よりは、女学生たちが客体としてどのように表象されたのか、ということが中心になる。新時代の女性として、西洋的な教養を身につけることを期待された女学生たちは、日本社会のなかでは、最初から物議を醸す存在だった。三宅(田辺)花圃が描き出す、社会に貢献したいという女学生の願いは、顧みられることがない。一方で、西洋風の男女交際や恋愛を説くことによって女学生を「啓蒙」しようとする『女学雑誌』の戦略は、精神性を称揚し、肉体性を排除するという、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの日本的な受容の広まりとともに、青年男女に刷り込まれていく。しかしながら、生身の人間の関係である「恋愛」を、理念だけで語ることはできない。女学生たちは性的スキャンダルに巻き込まれることにもなる。その結果、メディアと文学を中心とした言説は、「女学生神話」を作り出し、女学生たちを囲い込んでいくのである。

 続く第三章では、女学生をめぐる否定的な言説が、ヨーロッパ世紀末文学の影響を受けながら、新しい女性表象を形成していくことを論じる。「女学生神話」の波及とともに、女学生たちの知性と身体は相反するものとして描かれ、結局彼女たちは身体的(性的)な存在として、その知性を剥奪されてきた。しかし、そのなかで、性的な側面ばかりが強調される彼女たちの表象は、自らの性的魅力を利用して男性を誘惑する、悪女としての自覚を持つ女性像をも生み出していく。一方、煩悶青年のパートナーとして、都会的で西洋的な女性をヒロインに据えようとする文学的想像力は、ヨーロッパ世紀末文学のなかの「宿命の女」像にも魅力を感じるようになっていく。

 第四章では、男性の価値観の変容の様子を、イタリアの詩人・作家であるガブリエーレ・ダンヌンツィオの作品との接触を軸にして考察する。森田草平と平塚明子が一九〇八年に起こした心中未遂事件と、その事件をもとに森田が創作した小説『煤煙』は、世紀末文学としての特色を備えたダンヌンツィオの小説に多くを負ったものとして、当時の知識人たちの興味をひいたものだった。ダンヌンツィオの作品と『煤煙』を対照することによって、『煤煙』に描かれる男女が、当時の日本文学のなかでどのような新しさを備えていたのかを明らかにする。そして、この新しい男性表象が、夏目漱石と森鴎外をも刺激し、彼らが彼らなりの「新しい男」像を創造したことを考察する。また、ダンヌンツィオの『快楽』に登場する日本人の描写をてがかりに、この日本人描写がどのような過程を経て生まれたのか、そしてこのような日本人の描写が日本でも採用された例として、高村光太郎の詩を見てみたい。

 最後の第五章では、これまで論じてきたような女性表象に囲まれながら、実際の女性作家たちが、どのような発信をしたのか、という点について考察する。その際、注目するのは、大塚楠緒子、田村俊子と、初期の『青鞜』に寄せられたフィクションである。大塚楠緒子は、女学生の「その後」の物語を数多く描いた作家だが、西洋の文学や文化に関する知識も作品のなかに取り入れながら、女性の側から見たロマンティック・ラブのあり方などを模索している。田村俊子は、『あきらめ』という作品において、遊歩者(fl穎euse)としての女学生と、同性愛的な世界を描くことによって、女学生が単に視線を注がれるだけの存在ではないことを示す。この作品において描かれるのは、主体的な存在であろうとする女学生なのである。大塚も、田村も、男性たちの紡いだ女性表象をも取り入れ、それを自分なりに解釈して新しい女性表象を試みている。最後に分析するのは、一九一一年に創刊となった『青鞜』に寄せられたフィクションであるが、初期の『青鞜』のフィクションからは、大塚や田村の作品をうけて、さまざまな方向で女性の主体性を主張しようとする女性たちの意気込みを感じることができるだろう。

 なお、本書において使用される「西洋」という言葉は、当時「近代文明」のありかとされていた、西ヨーロッパおよび北アメリカの、白人社会のことを指すものである。その場合、明治期と同様、ヨーロッパ中心主義的コノテーションが含まれているものとする。

平石典子