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金菱清 編
東北学院大学 震災の記録プロジェクト 

3.11 慟哭の記録
――71人が体感した大津波・原発・巨大地震


四六版560頁

定価:本体2800円+税

発売日 12.2.20

ISBN 978-4-7885-1270-2

cover


◆著者関連書

生きられた法の社会学
新 体感する社会学
3.11 慟哭の記録
震災メメントモリ

◆被災者自ら綴った魂の記録

3・11さえなかったら、どんなに幸せだったか・・津波や原発の写真や映像が大量に流れる一方、被災地の人々は言葉を奪われ、沈黙を強いられているのではないでしょうか? 被災者の目がとらえた震災を文字記録に残そうと大学のプロジェクトチームが各地を回り、岩手、宮城、福島の被災地全域のあらゆる年齢、職業の男女71人の分厚い被災記が集まりました。家、車ごと津波に呑まれ・・目の前で赤ちゃんが・・電柱に遺体が・・行方不明の肉親は・・まさかの原発避難・・そして電灯がつき、家族と共にいる喜び。絶望の淵から再生を期した魂の記録であり、復興への深い祈りがこめられています。「東北魂」のサンドウィッチマンからも推薦の言葉をいただきました。

3.11 慟哭の記録 目次

3.11 慟哭の記録 まえがき

ためし読み

◆書評
2012年3月11日付、新潟日報
2012年4月1日付、四国新聞、色川大吉氏評
2012年4月8日付、河北新報
2012年4月17日付、週刊現代、佐野眞一氏評
2012年5月13日付、毎日新聞、色川大吉氏評
2012年5月21日付、AERA
2012年6月10日付、東京新聞
2012年6月26日付、朝日新聞
2012年7月、AERA
2012年8月24日付、京都新聞
2012年10月9日、MORGEN 10月号
2012年Autumn、青山学院大学同窓会報
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3.11 慟哭の記録―目次

目 次
出版に寄せて  学校法人東北学院 学院長・大学長・同窓会長 星宮 望
まえがき  編者 金菱 清

TSUNAMI 大津波
大津波 ババのへそくり 泥の中─南三陸町志津川廻館 佐々木 米子
「あれ何の音」、我に返った時はよその家の上、星になったみんな、震災川柳は心のいやし

ここは津波常襲地─南三陸町戸倉字波伝谷 後藤 一磨
流れ去る我が家にさよなら、避難者名簿をもち救助要請に、瓦礫と遺体、おにぎりの美味しさと人の暖かみ

正座したままで逝った父、母、祖母─女川町桜ヶ丘 丹野 秀子
実家と連絡がとれない、屋根の上に家が、母をおいて帰る悔しさ、「仮土葬」に怒り、最後まで家族を守った父

大川小学校で愛する娘を亡くす─石巻市旧河北町 狩野 あけみ
夫の涙にわけがわからない、「愛!おかあさんだよ!迎えに来たよ」、懸命の捜索活動、やっと大好きなお家に

妻や孫を呼ぶ声だけが谷間に谺する─石巻市北上町十三浜大室 佐藤 清吾
橋から津波を目撃、街並みが海上に出現、親族15人安否不明、霊を弔う余生を、浜の生活史と反原発運動

大津波に何回も呑まれ意識を失う─石巻市北上町十三浜菖蒲田 千葉 五郎
泳いでガードレールに、橋の欄干で気を失う、妻と養母を亡くす、釣石神社を地域復興の核に

雄勝法印神楽をなくしてはならない─石巻市雄勝町水浜 伊藤 博夫
3時25分頃黒い山のような波が、125世帯中14世帯除き全壊、雄勝の宝、神楽復興で心を癒す

おじいさんは大好きな海に帰ったんだ─石巻市渡波 丹野 宏美
日光から車を飛ばす、母と祖父母を探しに雄勝へ、床上浸水2メートル、遺体に湯たんぽを、仲間とボランティア

目の前を家もトラックも人も……─石巻市渡波 平塚 将人
位牌を取りに…車が流される、真っ暗な自宅、サイレンとクラクションと叫び声、就活を辞めて大工に

水産会社廃業の選択─石巻市魚町 斎藤 廣
水と瓦礫が車のウィンドーに、足蹴りで脱出、ビスケット二枚、腐った魚の後片付けに二ヶ月、借入金に苦悩

泥に「かな無実です」と刻む─石巻市湊 阿部 果菜
水の中をザブザブ進む、双眼鏡で自宅を発見、父、母と抱き合い号泣、さよなら私の思い出たち

地獄のなかの救命小舟─石巻市南浜町 奥田 裕次 
後ろから津波の第一波が、目の前で赤ちゃんが車と共に… 六時間漂流、震災の爪跡は深く残る

石巻は火と水と寒さ─石巻市日和が丘 遠藤 美千代 
波の音がシャバシャバ、火柱と爆発音でパニック、園児の泣き声、救援も食料も情報もない、原爆の跡のよう

避難所から消えた中国人研修生─石巻市南光町 熊谷 亜美
日和山は孤立状態、火事の延焼で避難警告、溢れかえる避難者、「原発」が爆発、はぐれた研修生とおじいさん

「盗み」に入らざるをえない現実─石巻市貞山 成田 賢人
冷たい水、ストレスの溜まる避難所、スーパーの物がなくなっていく恐怖、助け合いに感謝、防災への心構え

数少ない病院の役割─石巻市山下町 亀山 富二江 
町は水没、病院大混雑、患者は保険証も診察券もお金も薬もない、満床でも受入れ、看護師として明るく

海水と泥と闘う毎日─東松島市赤井 佐々木 和子 
児童クラブで避難誘導、食パン一枚を四人で、二週間後自宅に入り呆然、堤防決壊で台風でも避難勧告

生きたまま焼かれる!─気仙沼市鹿折地区 加藤 弘美  
ヘルパー先で家ごと津波に、ガス爆発で次々と火が、重油とヘドロまみれの体、九人で励まし合う

海を生き抜く信用取引─気仙沼市魚町 齋藤 欣也 
「屋号通り」が消えた、気仙沼は大火災、九割の漁船は遠洋で無傷、静岡へ搬入、待ちに待った鰹水揚

民間ハローワーク─気仙沼市階上地区 守屋 守武 
千八百人の避難者を守る、民間主体で緊急雇用創出、「ありったけの想像力を働かせ、被災者を救う事」

陸の孤島と化した半島での消防団活動─気仙沼市唐桑町宿浦 三浦 清一
バリバリゴゴ…轟音と土煙、石碑に「地震がなったら津波の用心」、まさに火の海、救助捜索と遺体収容

ヘッドライトの下で綴った震災日誌─気仙沼市唐桑町宿浦 熊谷 眞由美 
メモ用紙の裏に日記、「火垂るの墓」の光景、避難所から自宅片付けに通う、4・16電気水道復旧、今回の教訓

開店休業に追い込まれた海産物加工業─塩竈市藤倉 下舘 準也 
スクーターで迂回、家族は無事避難、喘息で苦しい、桂島の津波被害、店の復興と原料確保の難しさ

島の海苔養殖協業─塩竈市浦戸諸島桂島 内海 茂夫  
チリ地震津波に続いて筏流出、海苔の養殖しかない、皆の思いをひとつに 

祖母の手を放してしまった─七ヶ浜町菖蒲田浜 渡邊 英莉 
幸せな笑顔が、必死で木につかまる、助けを求めた人の目が忘れられない、ばあちゃんのご祝儀袋

決死の介護利用者の救助─多賀城市大代 榊原 由美 
川が溢れる(なんなのこれ)、肩まで浸かりながら救出、手を強く握り返す、「助かりたいの?」ひどい言葉

遊園地のコーヒーカップのように回る車─産業道路 多賀城市 川嶋 由子  
なだれ込む津波、ここで死ぬわけにはいかない、一瞬のチャンス、見つかった車は傷だらけ

コンビニの屋根に避難する─仙台新港 黒瀬 英文 
搬入の箱と台車で階段を作る、石油コンビナート炎上で空が赤色に、みんなで手をつなぐ、二度の窃盗事件

夢半ばで逝った息子を想う─名取市閖上 小原 武久 
愛犬を抱いた息子は、「外は寒いのに、パパたちだけがお風呂に入ってごめんね」、一六日ぶりの悲しい対面

仙台空港での三日間─仙台空港 中澤 輝博 
運命の別れ道、空港の「自治組織」、仙台名物が非常食、「ここの救出優先順位は低い」、最終救出バスに

自衛隊ヘリによる脱出─亘理町荒浜 森 健輔  
自転車で写真撮影に、津波なんか来ないだろう、荒浜の惨状を記録し続ける、友と火葬だけのお別れ

代々続いた海苔養殖業の復興へ─亘理町荒浜 菊地 萬右衛門  
神様がお話を聞いてくれれば、懸命の筏片付け、皇室献上の海苔が復興の原動力、霊を慰める切子提灯

黒いものがモジャモジャ向かってきた─山元町八手庭 阿部 行男 
津波と気づかず向かう車、一面海のように、連絡手段がない、テレビ映像に心折られる、復興へ何ができるか

究極の遺体身元照合ボランティア─宮古市磯鶏地区 千葉 胤嗣  
「千葉さんでなければできない仕事」、遺体安置所と避難所を往復、毎日御遺体を拭く

万里の長城を越える大津波─宮古市田老大平地区 山崎 智水 
明治三陸大津波の演劇、寝るだけの避難所生活、公務員は被災者じゃないの? 防災・減災の研究をしたい

町全体が精霊流しのよう─大槌町本町 臼澤 良一  
家が将棋倒しのように、タロ絶対助けるぞ、水と炎が迫り叫ぶ、家族っていいな、まごころ広場うすざわ

不安と恐怖に包まれた孤独な一晩─釜石市鈴子町 菊池 真智子 
車が沈む、プールの底にいる感覚、周りは海、大型タンカーがぶつかる音、店の再開、釜石の水産業復興を

重油まみれの衣類を毎日洗う─釜石市浜町 佐々木 要 
家族との連絡に四日間、引き波で海の底が見えたと知る、遺体と瓦礫だらけ、生簀が家の中に散乱

普段着やジャージ姿の卒園式─釜石市上中島町 佐々木 幸江 
子供たちの午睡中、嘔吐する子や夜泣きのゼロ歳児、卒園式をしてあげたい、「げんきでほいくえん」

間一髪の小学生の避難誘導─陸前高田市小友町 渡邉 淳 
二転三転する避難、小友小学校一階全壊、たくさんの温かい支援に感謝、生かされた命を大切に

港湾都市・大船渡やっぺし─大船渡市盛町中道下 浦島 康弘 
静かに海水があふれ激流と化す、7メートルの丸太が突き刺さる、工具回収、ヘドロかき出し…目が回る

供養碑の下の石を拾い集める日々─大船渡市三陸町越喜来 及川 彌  
浮いた冷蔵庫に乗る、迫る天井、屋根から松の木へ飛び移る、ローソクを火の玉と間違える母

FUKUSHIMA 原発  
福島第一原発に立ち向かう─福島第一原子力発電所 山下 幹夫  
東通村は津波被害なし、福島第一へ乗り込む、防護服と防護マスク、ドンキホーテと建屋、内部被曝に注意

生まれた時から原発があった─大熊町 大川 順子  
原発で働く父を心配、翌日母と新潟へ、言葉になまりがなく原発関係者の多い町、原発全部を否定しないで

避難先も避難区域─大熊町熊三地区 佐久間 和也  
原発から4キロ、全戸避難指示、大熊→福島経由→南相馬→相馬→前橋→いわき、収まらない気持ち

故郷はサバンナの大草原─大熊町大野地区 橘 慶子
三ヶ月半ぶりの一時帰宅、袋いっぱいに詰める、冷蔵庫の中の卵が… 肝心の妹の制服がない

果てなき流浪へ─浪江町川添 新田 泰彦
10キロ圏内町民二万人の一斉避難、12日15時36分の衝撃波、県外避難、故郷・職場・学校はどうなる

障害者として転々と避難し続ける─浪江町権現堂 新谷 師子
原発が爆発、浪江→南相馬→福島→上山→南陽→山形→いわき、不安やストレスは消えない

きずなファーム─浪江町牛渡 亀田 和行 
透析の病院もガソリンもない、原発事故による棄民に、気分転換と癒しの農業、生きていく原点づくり

飯舘のトルコキキョウは人生そのもの─飯舘村比曽 佐藤 照子  
気持ちを鬼にして可愛い牛を売る、飯舘への恋しい気持ちは富士山を越える、誰をも責めず何をも非難せず

我が家を支えてくれた牛と最後の別れ─飯舘村深谷 斉藤 次男 
人生の真逆の坂、44・7マイクロシーベルトを後で知った、日本で最も美しい村が一瞬に、哀しみに終わりを

原発避難・捜索・警戒区域─南相馬市小高区 山本 祐一 
水素爆発で頭は真っ白、避難所生活の長所、原発がなかったら救えた命、当たり前の生活が最高の幸せ

真実は避難者には知らされない─南相馬市原町区 池田 弘一  
大渋滞でパニック、避難所でヨウ素剤配布、「イチ・ゼロ・ハチ、イチ・イチ・ハチ」、アパート二軒分に一七人

脱・ニート─南相馬市原町区 大石 貴之  
最悪のニュース、原発は原爆? カーテンを閉め閃光に怯える、一人で東京へ、親が倒れたら生きていけるか

母子自主避難を決意するまで─南相馬市鹿島区 明石 美加子  
南相馬→福島→南相馬→宮城県加美町、子どもの健康を守るために、悩んだ末の母子疎開

大学を中退して群馬へ─南相馬市鹿島区 三浦 育子  
水平線の白いモヤモヤ、「お願い助かってー」、液状化現象、友にさよならも言えず、大好きな″日本の田舎?

九九日間の避難所運営─相馬市小泉 只野 裕一  
戦場の様相、相馬を離れられない、社協職員のみの「はまなす館」、ピークは千百人、避難所の主人公

漁業の復興を阻む原発問題─相馬市尾浜 池田 精一  
富士山を横に伸ばしたように迫る津波、油まみれで逃げる、浜全体が一変、魚を食べるか食べさせないか

心に燻る「政府も誰も信用できない」─福島市飯野町 鴫原 玲子  
原子力緊急事態宣言、見えない、感じない物質の恐ろしさ、子どもを一時避難、諦めにも似た感情

福島との県境で放牧場を復旧─伊具郡丸森町 大槻 謙喜  
地割れの被害、飼料がなければ死活問題、生乳を廃棄、一時牧草給与と放牧禁止、生活環境と食糧問題

原発見学中に地震に遭う─女川原子力発電所 藤村 魁  
原発内で震度7? 「ここは安全です」、原発を避難所に開放、津波の誤報で高台へ、一歩早ければ命を…

MEGA EARTHQUAKE 巨大地震 
ダム決壊、もうひとつの津波─藤沼湖 須賀川市滝 松川 美智夫  
山津波で死者七名、濁流が地区を呑み込む、連日の捜索活動、「人災ではないか」怒りの声

青少年自然の家で再び震度7─栗原市花山字本沢沼山 佐藤 敏幸  
再出発から一年経たず、中国研修生の協力、修学旅行生を受入れ、利用者との絆・よりどころ・自然を伝える

新幹線のトンネルに一四時間閉じ込められる─秋田新幹線 仙岩トンネル 佐々木 透
トンネル内で停車、不運な大学受験、盛岡で避難所泊、人生初のヒッチハイク、栗原は地震の爪跡

老朽化が危惧された仙台駅にて─仙台駅 佐藤 恵 
デッキで恐怖に泣く、友人の目の前で天井看板が、北斗七星に感動、買い出しに並ぶ毎日

高層マンションで震度6の揺れ─仙台市青葉区国分町 金菱 清  
阪神・淡路大震災に続く二度の経験、長周期地震動と制震、屋上から見た水と煙と炎、123階分の階段

エコノミークラス症候群による心肺停止─仙台市宮城野区 佐藤 美怜 
まさかの避難所、階段にしゃがみ込む母、トリアージは最悪の黒、一人ぼっちの静寂、家族の大切さ

在宅酸素療法患者のいのちを守る─松島、石巻、女川、三陸地域 岩渕 茂利
津波回避のルートは、翌日から患者さんに対応、ヘドロ臭のボンベ配送、まるで野戦病院

避難所を横断して聞き取りを続ける─宮城県全域 木村 彩香 
つなプロに参加、ニーズを探し出すアセスメント、避難所の個性、大島での濃い一週間

脱・就活─大崎市古川 小山 悠
宮城の誇りと悔しさ、内陸部古川の被害、ガソリンがない、熱がさめた就活、現実に向き合い復興を

テーマパークのなかの非日常─東京ディズニーリゾート 伊藤 智裕
Twitter で情報収集、液状化で泥水、ホテルのロビーで仮眠、腕がちぎれそうな満員電車、震災でリセット

プロジェクトを終えて 東北学院大学 震災の記録プロジェクト
大内千春・亀山武史・佐藤航太・小山悠・佐藤恵・植野雄太・遠藤裕太・伊藤智裕・齋藤宇成・渡邊英莉

あとがき 金菱 清 
装幀・地図制作 谷崎文子


3.11 慟哭の記録 まえがき
出版に寄せて
学校法人 東北学院
学院長・大学長・同窓会長
星宮 望


 2011年3月11日に発生した大震災は千年に一度の規模とも言われ、巨大地震、そしてそれに続く大津波と原子力発電所の事故はまさに未曾有の大災害をもたらしました。死者・行方不明者は1万9千人に上り、特に宮城県と岩手県の沿岸部は壊滅的な被害を受けました。大津波は、多数の人命を奪ったばかりでなく、多くの住居と仕事場そのものを奪いました。そして翌12日から福島第一原子力発電所で起こった一連の大事故により、11万もの人々が故郷を追われ、いつ帰れるかもわからない避難生活を強いられています。

 何よりもまず、多くの尊い命が失われたことに対し、深く哀悼の意を表します。そして被災された方々に、心よりお見舞いを申し上げます。いまも苦しみと悲しみのただなかにある多くの方々がこの逆境を乗り越え、安全と平穏な環境での生活が再び訪れますよう、心からお祈りいたします。

 今般の3・11大震災のすさまじい情景を目の当たりにした時の、私個人の印象は、今から約六五年前の「仙台大空襲」の後の仙台市中央部の瓦礫の光景でした。昭和20年7月10日の深夜(午前0時05分頃から約二時間半)、仙台市は米国のB29による大爆撃を受けました。当時、仙台市で、四歳半の子供であった私が、B29の大編隊の轟音と仙台市中心部の真っ赤な夜空の光景を見た恐怖の経験と、そして、それに続いて、戦後の仙台市中心部の瓦礫の有様のはるかな記憶が、今回の災害の状況と符合してしまいます。

 震災直後、本学教養学部の金菱清准教授と新入生を含む学生チームは、この大震災を体験者自身の手によって文字記録として残すプロジェクトを開始しました。本学は東北最大の私立大学であり、多くの同窓生が東北各地で活躍しています。この同窓会ネットワークを最大限に活かすことが、このプロジェクトを進める鍵となりました。大震災から一年が経ち、こうした記録を出版することは貴重であり、歴史的に大きな意義があります。本学のチームが知己や同窓生を辿り、被災された漁師さん、農家の方、会社員、介護士など、宮城、岩手、福島のあらゆる職業、地域の方々を探し歩いて依頼した分厚い記録であり、学生たち自身の被災記録も含まれています。こうした試みは、被災地東北がみずから発信し、人々の声をしっかりと刻んだ価値ある研究であると考えられます。いまだ心の整理もつかず、日々の生活に追われるなかで突然舞い込んだ未知の教員と学生たちからの依頼に応えて、あの日、あの瞬間の想像を絶する出来事を克明に描いて下さった方々の勇気に、心から敬意を表したいと思います。

 自宅の倒壊や流失、最愛の肉親の死去など、これほどの苦難や災害に見舞われたとき、我々は冷静さを保つことさえ難しくなっています。それに対する我々の歩みは、これらの震災を単なる自然現象としての災害と捉えるのでなく、それらの苦難・災害などに対して我々がどのように努力・献身し、社会貢献したか、などが重要であると知らされます。課題の山積する震災復興と地域社会の再生に向けて、日本社会全体が試され、世界が注目しているところです。

 人間には、周囲にいる多くの友人、知人などと知恵を結集することによって解決できることがあると、私は確信しています。このときに本当に重要なのは、対象になっている現実の事柄が、自らの努力によって克服できるものなのかどうかを見極め、識別する「知恵」であると思います。若者たちが学びと社会貢献を通してこうした「知恵」を身につけ、震災復興と被災者支援の中心的な担い手に育っていくことを期待しています。そして、互いに支え合い、共に未来を切り拓いていく責務が我々大人に課せられているのは言うまでもありません。

 ここに描かれたことは架空の物語ではなく、まさに現実に起こったことです。ある日突然襲いかかる大災害の恐怖から目を背けることなく正面から見据え、人間と社会はいかに立ち向かうのか、読者の方々の想像力と行動力を培う手がかりとしていただければ幸いです。

 この書が被災者同士、そして被災者と全国および世界の方々をつなぐ希望の架け橋となり、東北復興のひとつの試みとなるとともに、地震国日本から発信する震災研究として学問的寄与を果たすことを切に願って、出版に寄せるご挨拶とさせていただきます。 (2011年12月14日)





まえがき

編者 金菱 清

世界の読者のみなさまへ

 マグニチュード9・0という巨大地震に長時間さらされた人々の生々しい体感。津波に呑まれた人々の夢とも現実とも知れぬ死の恐怖と切迫感。目の前で赤子が車ごと沈んでいき、遺体が電柱に吊るされている非現実感。火葬もかなわず仮土葬をしなければならなかった遺族の無念さ。行方不明の愛娘を捜して避難所と遺体安置所を巡る日々。そして原発の爆発音を耳にした時の言い知れぬ不安。何万人もの人々が身一つで行き先もわからずバスに乗って避難民と化した絶望感。語りつくせない「3・11」がここにある─。

 2011年3月11日東日本で発生した未曾有の巨大地震と大津波は、リアルタイムで「世界」の知るところとなった。その意味でこの"出来事"はグローバルである。04年のインド洋大津波の時と同様、津波が到達する生の映像がテレビ各局を通して、日本および世界中の家庭に届けられた。この本を手にしている多くの人々が、津波の映像を驚愕の思いで見ていたのではないかと思う。

 全世界の人々、普段は日本が援助している国々からも多額の義援金が寄せられたのは、日中の明るいさなかに起こったこの災害を、映像で疑似体験したことが大きい。もし津波が真夜中に襲っていたならば、家や車などが津波に巻き込まれていく映像を目にすることはなく、避難した人々のインタビューを通して何が起こったのかを想像することしかできなかったであろう。

 上から撮影された数多くの映像は、私たちが想像しそこで考える余地を与えないほど圧倒的なものだった。津波が海岸に押し寄せ、家や車を薙ぎ倒していく。誰しもが言葉を失い沈黙を余儀なくされた。それはまるで9・11アメリカ同時多発テロの時と同じである。高層ビルに飛行機が突っ込んでいく光景は、まるで映画のようであり、誰しも現実とは信じられなかった。本書では、このリアルタイムの進行形で起こる"大きな出来事"について疑問を投げかけてみたい。

 地球の裏側でもリアルタイムで巨大な津波を見ることができた一方で、まさにその時この地震や津波を経験した人々は、停電や電波基地局の破壊、集中アクセスなどによりあらゆる情報を得ることができない状態にいた。これほどの大規模の地震や津波だということを把握するまでに、三日から五日近い日数を要する地域もあった。

 ちなみに明治に起こった三陸大津波は深夜に襲来した。テレビはおろか写真もないような時代であったので、災害発生の一報が東京に入ったのは翌日の午後のことであった。テレビやインターネットを通して、被災地の人々よりも先に視聴者がいち早く災害を目撃することができたことは、歴史的に見て特筆すべきであろう。

大きな出来事から"小さな"出来事へ

 津波の映像とともに、震度を表すマグニチュードや死者・行方不明者の「数値」の情報が加わり、やがて福島第一原発の「無音の爆発」映像に切り替わり、それらが計画停電のニュースとともに「首都圏および東京」そして「海外」の関心事に変化していった。その後の政府の対応のまずさ、被災地への救助をめぐる政治的な空白や停滞は枚挙に暇がない。

 このように目まぐるしく切り替わるまなざしの変化によって、結果として実際の現場で生じている人々の等身大の経験は切り捨てられることになった。もちろん後から被災者のインタビューによって生の経験が語られたが、それらはあくまであの津波の圧倒的な映像を補完する役割でしかない。最も情報を欲している人々がその情報から取り残されることとなった。地震情報や津波警報、行方不明者の安否や生活物資の配布などの必要な情報が、現場で圧倒的に不足していた。仕事や住居を失った人々の無数の声は、圧倒的な映像の陰ですべてかき消されてしまった。というよりもなかったかのように扱われた。問題はこれら小さき名もなき声をどのようにとらえ、表出していくかである。

 千年規模の巨大災害であるからには、当然その被害や影響も広範囲にわたる。だからといって、上から津波の映像を眺めているだけでは、現場で生じている"小さな"出来事はわからない。かといって小さな出来事を拾い集めるだけでは、災害の全体像を把握できないという弱点がある。

身の丈にあった震災の記録>
 本書の記述は、調査者である私がインタビューを行い、それを取捨選択し、まとめる方法をあえてとっていない。実際にその現場で震災に遭遇し、苦難の日々を経験した71人自らが書き記したものである。身の丈から記された記録には、津波の映像を見て「早く逃げて」と願うようなまなざしはありえない。むしろこれまで津波を経験した人は、「(経験上)ここまで来るはずはない」という安堵のもと、庭先で煙草をふかしていたりのんびりお茶を飲んでいる姿が見えてくる。あるいはこれまで津波が来なかった地域は、10メートルの津波警報にも「まさかオカ(陸地)までは来ない」と思っていたところ、いきなり家や車が流されたというケースも見受けられる。

 経験/未経験どちらの場合も、生と死の瀬戸際を彷徨うことになる。災害時における実際の人の行動は、「津波から逃げる」という単純なとらえ方を明確に否定する。人間関係や地理的情報、過去の経験が複雑に絡み合っている。これらの事実はソフトな防災・減災対策の点からも多くの示唆を与えてくれる。もちろんここにあげた人々がすべてを代表しているわけではないが、少なくとも実際どのように人々は行動したのかという実証的証拠となる。

言葉のみで綴る意味
 本書の特徴は一切の写真や画像を掲載しないことにある。貴重な写真や画像はたくさん手元にある。しかしそれらを載せないで、言葉のみで綴られているのはなぜか。その理由は大きくふたつある。

 ひとつめ。書店には多くの震災写真集が所狭しと並べられ、それを手にすることができる。テレビやインターネットには大量の被災地の映像が流されている。私たちはこうした画像や映像によって「言葉」を奪われたわけである。再び画像や映像の洪水によって自然の猛威に対する沈黙を強いられたならば、社会や文化を営んできた人間の言葉は衰退してしまうのではないだろうか。そのような危機感がある。もちろん一枚の写真に感動を覚えることは否定しない。一瞬の映像が言葉以上に雄弁に出来事を物語ることもある。しかし多くの場合、パラパラ漫画のように頁をめくって終わりになっていないだろうか。メディアが流す情報を、日々消費して忘れていくように。そうではなく、現場にいた人々の眼に映し出された写像にもう一度信頼をおき、そこから発せられる声と言葉に真摯に耳を傾けることが求められているのではないか。

 ふたつめ。もうひとつ私たちが言葉を失ったものがある。死に対する感受性である。大震災において、死は何万人という形で数値化されひとつの「群」として抽象化される。二万人に近づかんとする死者・行方不明者とそれを取り囲む家族が見えにくくなる。もちろん遺族の心情を察して死に触れないように配慮するのは理解できなくはない。しかし、肉親を失った家族は精神的に孤立し、実際お会いしてお話してみると表面上は日常生活に溶け込んでいるかのように見えるが、半年以上たった今でも社会から断絶状態にある方も少なくない。それに対して真正面から向き合う必要があるように思われる。

 本書は死を追いやるのではなく、死に魂を吹き込むことでひとりでも多くの方々と想いを共にして、生きる気力を奮い起こしていただければと願っている。震災で突然家族を亡くすとはどのようなことであり、私たちはどのように寄り添うことができるか。これはご遺族が記した手記という手段が有効であると思っている。

「私も」この"出来事"を経験するかもしれない
 私たちには、お手本となるべきよい教訓があった。それが04年スマトラ沖で生じたインド洋大津波である。しかしこの大きな代償は、日本の防災の観点から個人レベルで活かされることはほとんどなかった。誰しもがあの大津波を知っていた。だが目の前の海で同じようなことが起こるとは想像できなかった。よその国で生じた現象はどこか「他人事」であったのである。想像力を欠いていたのではないだろうか。実はリゾート地の映像以外、インド洋大津波で被災国がどのようなことを経験し、その後どうなったのかについて、私を含めてほとんどの人は知らない。あまりにも迫力のある映像でどこかあり得ない(したがって自分の身には起こらない)と見過ごしてしまった危険性がある。

 国内についても同様のことを指摘できる。3・11大震災の津波によって浸水した区域を日本全国にあてはめた場合、海岸線からの距離が10キロ以内で標高30メートル以下となり、日本の国土の10パーセント、総人口の35パーセントに当たる4438万人が居住していることが、国土交通省の分析で明らかになっている。これに活断層、原発立地および周辺地域、山津波・崖崩れなどを加えれば、これからお読みいただく事象は、自分だけ例外でいられることはひとつもない。本書は日本人一人ひとりに突きつけられた問いでもある。いつどこで生じてもおかしくない出来事として、本書を読んでいただければ幸いである。

 亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、本書を捧げたい。 (2011年12月11日)

金菱清