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浜崎洋介 著

福田恆存 思想の〈かたち〉
――イロニー・演戯・言葉
『福田恆存論』(仮題)


四六判428頁

定価:本体3900円+税

発売日 11.11.22

ISBN 978-4-7885-1263-4

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◆2012年、生誕百年の再評価

福田恆存という人をご存知でしょうか。シェイクスピアやD・H・ロレンスの翻訳で知られた英文学者・劇作家です。文芸評論家としても、小林秀雄の跡を継ぐ人と期待されましたが、平和憲法を批判したり革新系の知識人はもとより、清水幾太郎、江藤淳などの保守派の友人たちをも徹底的に批判し、何を言いたいのか分からないとして思想的に孤立化しました。一方で、新左翼の学生たちからは「支持」されました。福田はほんとうは何を言いたかったのでしょうか。本書は、あくまで彼の書いたものを忠実にたどることで、誤解にまみれた福田恆存の実像に迫ります。初期の文学論から、中期の芸術論、そして国語改革批判まで、彼の「歩き方」「生き方」に連続性・一貫性を見出すことで、硬派の思想家・福田恆存の全体像を描き上げます。来年の生誕百周年を前に再評価の起爆剤になりそうな、気鋭渾身の力作です。

福田恆存 思想の〈かたち〉 目次

福田恆存 思想の〈かたち〉 あとがき

ためし読み

◆書評

2012年、図書新聞、新保祐司氏評

2012年1月22日、朝日新聞、中島岳志氏評

2012年3月、表現者41号、富岡幸一郎氏評

2012年4月29日、世界日報、前田嘉則氏評

2012年6月、東京人、三浦展氏評

2012年8月20日、読売新聞

2012年、Kotoba Reveiw Spring、中島岳志氏評

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福田恆存 思想の〈かたち〉―目次

序 章 福田恆存と「保守」
T 戦後史における福田恆存評価――一九八〇年代まで
U 江藤淳からの距離――福田恆存の「保守」派批判
V 三島由紀夫からの距離――福田恆存の二元論
W 「国家」からの距離――福田恆存の清水幾太郎批判
X 本書の立場――その構成・方法・課題

第一章 福田恆存と「近代」――原点としての「イロニー」
T 戦後の出発――「政治と文学」論争を中心として
U 保田與重郎と福田恆存――昭和初期の「心情」
V 「横光利一と「作家の秘密」」から「嘉村礒多」へ――「芸術家」の位置
W 「芥川龍之介論(序説)」について――「比喩」の造形
X 「芥川龍之介T」と「道化の文学――太宰治論」――「風景」の破砕
Y 「純情」からの訣別――「芸術」に向けて

第二章 福田恆存と「芸術」――転回点としての「演戯」
T 〈近代=小説〉の閉塞――福田恆存の課題
U D・H・ロレンスと福田恆存(@)――『黙示録論』について
V D・H・ロレンスと福田恆存(A)――チャタレイ裁判まで
W 『否定の精神』から『芸術とはなにか』へ――昭和二十五年の〈飛躍〉
X 「平和論」論争と『人間・この劇的なるもの』――「全体」とは何か
Y 「全体」から「言葉」へ――過去への視線

第三章 福田恆存と「国語」――決着点としての「言葉」
T 「国語改革」というイデオロギー――国語国字論争まで
U 「現代かなづかい」論争――福田恆存の金田一京助批判
V 福田恆存と時枝誠記――「言語過程説」をめぐって
W 『私の国語教室』と『批評家の手帖』――昭和三十四年の言語論
X 六〇年安保闘争と福田恆存――「見とほさない」ということ
Y 「まねび」と「演戯」――小林秀雄と福田恆存の「言葉」

終 章 福田恆存という人間――総括と感想を兼ねて
T 保守思想と福田恆存
U 福田恆存という人間
注 
あとがき
事項索引
人名索引
 装幀――難波園子


福田恆存 思想の〈かたち〉 あとがき

 本書は、平成二十二年(二〇一〇)に東京工業大学大学院社会理工学研究科に提出した博士論文「福田恆存の思想――作家論・芸術論・国語論の観点から」を元にしている。内容的にはほとんど手を加えていないが、一般読者には不必要かと思われる先行研究の詳細や資料注釈、その他、参考文献表や福田の簡易年譜なども省略した。また、論文自体は二十代から三十代にかけて書かれたため、書き出し(第一章)と終わり(第三章)とでは文体が変化している。その点、限界もあったが、文体の統一や読みやすさを考えて、できるだけ手を入れた。また、構成としては一章ごとに独立して読めるように気を配った。

 私が福田恆存に本気で取り組むようになったのは古い話ではない。中上健次論で大学を卒業した私は、しかし、中上自身も苦しんだはずの問題、つまり「政治と文学」の間で引き裂かれた「私」の問題に苦しみ続けていた。政治とは相対的にでも敵と味方を区別することであり、その区別(一般化)によってのみ社会的実践は可能となるが、その時、「この私」の事実性は見捨てられる。一方、「この私」は、敵と味方の区別に先立っており、その先立ちの手応えにおいてこそ文学は可能となるが、その時、他者との社会的紐帯は見失われる。この「政治と文学」の問題は古くて新しい。近代文学史とはこの逆説を変奏する歴史だったと言ってもいい。その後、私は、この問題を解く緒を得ようとして、昭和戦前期の混乱を生きた小林秀雄を対象に修士論文を書きあげた。そして確かに、小林秀雄には多くのことを教わった。が、それでも私は、小林秀雄において、今現在、自分が生きている「戦後」という時代を問うことには限界がある気がしていた。そんな時、出会ったのが「一匹と九十九匹と」をはじめとする福田恆存の一連の戦後批評だったのである。

 その時の喜びともいえない驚きは、絶好の研究対象を見つけることができたなどという生易しいものではない。私は、これまでの自分が清算されていくのをただ見守るしかなく、また、自分の輪郭が書き換えられていく恐れと興奮に身を任せるしかなかった。私の眼に映った福田の顔は、「保守反動」のイメージからは無限に遠く、むしろ現代の文学者、現代思想家のそれだった。そして、私はそれが本当に不思議だったのだ。冷戦後のグローバリズムや世界紛争を知らず、一見、二十世紀後半の思想潮流にさえ無関係であるかのような一人の文芸批評家が、なぜかくも現代的で徹底的なのか? なぜこれほど同時代的な言葉が、戦後六十年間、単なる保守論壇人の言葉として囲いこまれ、孤立しなければならなかったのか? そして、福田恆存の言葉は、なぜ、高度成長後の日本に生を受けた「この私」を、こうも捉えて離さないのか?

 本書は、それらの問いに貫かれて書かれている。が、論文を書きすすめるなかで、私は、それらの問いの一部は倒錯していたのではないかと疑いはじめてもいた。私は、現代思想を通して福田を見出したのではなく、逆に福田の言葉を通してこそ、初めて現代思想の課題と限界を見定め得たのであり、また、福田の言葉は、その徹底性にもかかわらず孤立していたのではなく、逆に徹底的であったが故に孤立を強いられてきたのではなかったか、と。そして私は、ものを考えるということが、そもそも己れの問題だけを元手に、手ぶらで対象に立ち向かうことなのだということを腑に落としたのだった。かつて福田が語ったロレンスについての言葉を借りるのなら、私は、福田によって「眼を開かれ、本質的な物の考へかたを教はり、それからやつと一人歩きが出来る様になつたのである」。そして、その「一人歩き」の最初の成果が、本書ということになる。・・・・・・

浜崎洋介