戻る

河路由佳 著

日本語教育と戦争
――「国際文化事業」の理想と変容
『日本語の幻の世界化』(仮題)


四六判388頁

定価:本体4300円+税

発売日 11.11.22

ISBN 978-4-7885-1262-7

◆amazon.co.jpへ
cover

◆紀伊國屋書店Books Web へ

◆7ネットショッピングへ



◆世界平和のための日本語教育の面白さと難しさ◆

「国際文化事業としての日本語教育」というと、戦後に始まったと思われがち ですが、国際文化振興会による日本語普及事業、国際学友会による留学生教育 というかたちで、戦前から行なわれていました。外国人向けの日本語教育の先 駆者・松宮弥平、息子の一也、長沼直兄などの足跡をたどりながら、太平洋戦 争に突入するなかで、当事者たちの理想(世界平和に役立つ)がどのように維 持され、どのように変形せざるを得なかったかを、一次資料やインタビューに よりながら克明にさぐります。戦時中の「紀元二千六百年記念国際懸賞論文」 では予想外に多くの質の高い論文が欧米を含む海外から寄せられたこと、東南 アジア留学生のための学友会日本語学校の自由な空気など、意外な事実が明ら かになります。と同時に、言語帝国主義に陥らない日本語教育の難しさも思い 知らされます。新発見に満ちた労作です。著者は東京外国語大学教授です。


戦争と日本語教育 目次

戦争と日本語教育 まえがき

Loading

戦争と日本語教育―目次

序章 「国際文化事業」以前の日本語教育

第一章 「国際文化事業」の幕開け―国際文化振興会と国際学友会の創立
1 幕末から一九三〇年代にいたる日本の「国際文化交流」
2 一九三〇年代の国定教科書に見る国際交流観
3 「国際文化事業」としての日本語普及論
三枝茂智の「民族的対外文化事業」における言語普及論
柳澤健の「国際文化事業」構想における日本語普及論
4 一九三〇年代にいたる日本語学習の需要と日本語教育
5 国際文化振興会の草創期における事業内容と「日本語普及」
出版助成と海外への資料提供
対外文化事業としての日本語学習支援
6 国際学友会の草創期における事業内容と日本語教育
国際学友会に期待された「国際教育」
草創期の国際学友会における英語・日本語

第二章 国際文化振興会における日本語普及事業の展開
1 「国際文化事業」としての日本語普及へ
日本語普及事業の前夜
「日本語海外普及に関する協議会」
2 積極的な日本語普及事業への着手
外務省文化事業部『世界に伸び行く日本語』
国際文化振興会の方針転換
「日本語普及編纂事業」七カ年計画
3 紀元二千六百年記念国際懸賞論文
4 同時期のアジア地域を対象とする日本語普及政策
興亜院による「日本語普及方策要領」
文部省による「国語対策協議会」
日本語教育振興会の設立
5 「国際文化事業」から「対南方文化工作」へ
6 戦争中の「日本語の世界化」論
石黒修の『日本語の世界化』
松宮一也の『日本語進出の現段階』『日本語の世界的進出』
釘本久春の『戦争と日本語』
7 戦争中の日本語普及事業によって生まれた出版物
国際文化振興会「日本語普及編纂事業」七カ年計画の結果
日本語教育振興会によって出版された日本語教材

第三章 国際学友会における日本語教育事業の展開
1 岡本千万太郎の日本語教育観
「国際教育」における日本語観
日本語予備教育における「日本文化」観
日本語による「国際教育」観
2 国際学友会の日本語教育課程の本格化
日本語教育課程の整備
日本語教室から「日本語教育部」へ
「日本語教育部」時代の学習者と日本語教育
日本語教科書の編纂・出版
校舎の移転・設備の充実
国際学友会日本語学校の開校
3 開校当初の国際学友会日本語学校
4 「南方文化工作」と国際学友会
南方特別留学生の受け入れ
大東亜省による指導の強化
教員体制の強化、職員の異動
国際学友会の目的・名称変更案
5 国際学友会日本語学校のカリキュラム・教授法
学習者とクラス編成
時間割とカリキュラム
教材とその教授法
指導の強化
6 戦争末期の国際学友会日本語学校

第四章 日本語普及(教育)事業と敗戦
1 国際文化振興会
日本語普及事業からの撤退
国際文化振興会の日本語普及事業が戦後に遺したもの
2 国際学友会
国際学友会日本語学校の閉校
国際学友会日本語学校が戦後に遺したもの
3 日本語教育振興会
戦後直後の教員養成
戦後直後の調査研究
4 なぜ、日本語教育振興会だけが新規事業にとりくんだのか
長沼直兄の活躍
日語文化協会の終焉

終章 新しい理念の構築に向けて

あとがき
参考文献一覧
関連年表
索引

   装幀―難波園子


戦争と日本語教育 まえがき
―なぜ、あなたは日本語教育の仕事に興味を持ったのですか。

将来この仕事に就きたいと思っている若い人にその理由を聞くと、「国際文化交流に貢献したい」という答が多く返ってくる。いわく「学んでいる外国語の力を生かして、その言語を話す人々を対象にその国との交流の促進に役立ちたい」、「文化の多様性に触れ、広い視野を持てるようになりたい」、「言語を異にする人々と出会い、日本語教育を通じて心を通わせたい」。

気持はよくわかる。思えば私自身、かつて日本語教師を志しその仕事に就いたのだ。今は、後進を育てて、未来の日本語教育の充実に貢献すべき立場にある。そして、この仕事の意味を考えている。この仕事の魅力のひとつは世界のあちらこちらで生まれ育った、普通にはそう簡単には出会えない人と出会えることにある。それまで知らなかった文化に触れ、自分が当たり前だと思っていたことがそうでなかったことに気づいて、目から鱗が落ちることもしばしばである。学習者からすれば、日本語の習得が目的で、それを助けるために教師の仕事があるには違いないのだが、学習者とのやりとりは日々新鮮で、「国際文化交流」の現場にいるという実感があることは、経験的に諾える。学習者の方もそうであろう。言葉を学びながら、それまでの「常識」の外側のより広い世界へ一歩を踏み出し、「国際感覚」を身につけてゆく。日本語学校の一年間は、それぞれの国・地域からやってきた青年たちが、他の国・地域からきた仲間たちと出会い、交流することを通して「国際人」として大きく成長する一年間でもある。

日本語教師の仕事の第一義は日本語の指導、学習支援にあるが、国際文化交流の実践家としての役割もそれと同じくらいの重さで求められる。その意味で、冒頭の青年たちのイメージが間違っているとは言えない。

ところが、「国際文化交流事業としての日本語教育」というのは、戦後新しく始まったと思っていたという声がよく聞かれる。歴史の授業で習った戦争の知識からなのだろう、それまでの日本語教育は植民地、占領地へ向けた戦争目的の「侵略のため」のものだというイメージがあるようだ。それで、戦前・戦中の日本語教育は現在のものとは関係ない、ということになってしまう。自分たちはそれから切り離された全く新しい存在なのだという感覚が、心地よく彼らを包んでしまう。

毎年、私の担当する日本語教育関連の授業に参加する学生の二、三割は留学生である。卒業後、母国で日本語の専門家としてその教育に従事する者も少なくない。留学生の出身地は韓国、中国そして東南アジアが多い。少数であるものの、中央アジア、西アジア、北米、南米、ヨーロッパ、時にアフリカからの学生が参加することもある。戦争中の日本の日本語教育に関心をもったことのない学生もいるが、日本の植民地、占領地として日本語教育を経験した地域の学生たちにとって、この時代の日本語教育へのイメージは明るいものではない。彼らも含めて、相当な割合の学生たちが、戦前・戦中の日本語教育には否定的な先入観を持ち、一方、現代の日本語教育には国際文化交流の華やかなイメージをもち、日本語を学ぶことのメリットを評価し、その学習支援の意義を肯定的にとらえ、積極的な好奇心を示すのである。戦前・戦中の日本語教育は戦争目的に深くかかわる「悪」なるもので、現代の日本語教育はそれとは無関係の「善」なるもの、戦争の対極にある平和的な仕事であるという、ぼんやりとしたイメージがどうやら共有されているようなのである。

しかし、実際には「国際文化交流」と日本語教育の相性は昔から悪くなかった。

日本語学習、およびそれへの支援は、日本語を解さない人が何らかの必要あって日本語を学ぼうとする個々の場面で、それぞれに行なわれてきた。その個々の経験の集積が今日の日本語教育につながっている。

高見澤孟「日本語教育史1 外国人と日本語」によると、記録された最初の日本語学習者は、『日本書紀』の「天武天皇九(西暦六八一年)年十一月二十四日」の項に記された新羅からの「習言者」三名ではないかという。「習言者」は「日本語を習うために来日した言語留学生」(古典文学大系六八)という説と「既に言語を習得し、通訳、翻訳に従事する役人」(古典文学全集五)という説とがあるようだが、いずれにしても日本語を母語ではない言語として学習した人々である。そこには、彼らを迎えてその学習を支援した日本語話者がいたに違いない。日本語教育という営みを、こうした学習者への支援を含めた広い意味で考えるならば、今も昔もその営みは日本語学習者のいるところに発生してきた。その目的こそ多様であるが、人々が、何らかの必要あって今日「日本語」と呼ばれるこの言語を学ぼうとする場面に現われた個々の経験の蓄積が、これを母語としない人々に学びやすい体系を日本語に求め、そのための教材や教授法が開発されてきたのである。

近代日本についていえば、明治期の在日留学生も、欧米人宣教師たちも同じであった。何らかの目的をもって日本語を学ぼうとする学習者がいて、その支援者がいて、日本語教育の現場は生まれてきた。

教育という言葉の定義をより厳密に「誰かが意図的に他者の学習を組織化すること」と考えるなら、日本語教育の歴史は、十五世紀の朝鮮の司訳院、十六世紀のキリシタン宣教師らのコレジオ(学林)あたりが記録に残された初めであろうか。そうした学習する側の必要性から生まれた営みに遅れ、日本が国家的に日本語普及に取り組むのは近代以降のことになる。なかでも本書で主として扱う「国際文化事業」の枠組みのなかで展開されたのは、一九三〇年代からのことである。

本書では、この一九三〇年代半ばにその取組みの始まった日本政府の「国際文化事業」としての日本語教育について、その前史および一九五〇年代にいたるまでの時期を扱う。具体的には、外務省の国際文化事業の管轄下にあって海外への日本語普及事業、また、在日留学生への日本語教育事業の実務を担当した国際文化振興会と国際学友会をとりあげる。国際文化振興会は今日の国際交流基金の前身に当たる。国際学友会は今日の日本学生支援機構の東京日本語教育センターをその直接的な後身とするが、広くとれば今日の留学生に対する日本語予備教育の源といって過言ではない。すなわち、両者は紛れもなく、今日の日本語教育事業の始まりに位置するのである。日本社会の大きな変動の時代、それぞれはいかに始まり、いかなる発展を遂げて戦後を迎えたのか。歴史的な事実をまず明らかにして、今日、そして未来の日本語教育を考えたい。

この時期に、日本の国策としてとりくまれた国外を対象とした日本語普及事業としては、満洲事変後の「満洲」での日本語教育、日中戦争勃発後の中国の占領地における日本語教育、また当時「大東亜戦争」と呼ばれたアジア太平洋戦争時に推進された「大東亜共栄圏の共通語」としての日本語普及が、その規模が比べものにならないほど大きかったこともあってよく知られている。本書で扱う「国際文化事業」としての日本語教育(普及)は、それに比べると目立たない取組みであったかもしれないが、もともと、その対象は(中国以外の)全世界の独立国で、今日の日本語教育を遡ってゆくとむしろこちらに行きつく。

もちろん、この時代の日本語教育は、「国際文化事業」のそれであっても、公教育としての「国語教育」や、植民地・占領地における「国語教育」「日本語教育」と無関係ではあり得ず、それについては本文で述べてゆくことになるが、本書で特に「国際文化事業」をとりあげるのには理由がある。まず、それが構造的にも思想的にも、もっとも今日の外国語としての日本語教育に近いものと考えられるからである。それに関連して、たとえば植民地における「国語教育」についての研究は植民地教育を専門とする研究者によっても担われ研究の層が厚いのに比べ、「国際文化事業」としての日本語教育については日本語教育学を専門に掲げる者が扱うべき身近な問題であるにもかかわらずまとまった記述が少ない。それどころか、あまりにも粗雑な扱いに出会って悄然とさせられることが多い。

たとえば、日本語教師を志す人々を主たる対象として書かれた真田信治『日本語教師・分野別マスターシリーズ よくわかる日本語史』(一九九九)の巻末に付された三頁ほどの「日本語教育史年表」では、

一九四三年 国際文化振興会設立(一九七二年、国際交流基金に引き継がれる)

と書かれている。実際には、国際文化振興会の設立年は一九三四年が正しい。日本の国際連盟の脱退と同期しているものの、「国際文化事業」の夢が人々の間にあった時代なのである。一九四〇年の東京オリンピックや同じく東京での日本万博計画が進められていた。米英に宣戦布告をすることになろうとは、一般庶民は想像もしていなかった。やがて「大東亜戦争」が始まり、その目的遂行のために日本全体が統合されていった一九四三年とはおよそ違っていたのである。この九年間の違いは大きい。この年表は山下暁美『解説日本語教育史年表』から項目を適宜抜き出したものと推測され、これを確認すると、一九三七年、一九三八年に国際文化振興会が「日本語普及に関する協議会」を開いた、と事実に沿った記述があるにもかかわらず、一九四三年の項に「国際文化振興会設立。一九七二年国際交流基金に引き継がれる」と書かれていて、これが引用元だと知られる。明らかに記述が前後しているのであるから、こういうときは、一九四三年の項が疑われてしかるべきである。それにもかかわらず、この誤った記述が引用され続けるのはどういうわけだろう。日本語教育に関わる人々が信頼を寄せる文献であるはずの日本語教育学会編『新版 日本語教育事典』(二〇〇五)の巻末年表では、一九三四年の項に「国際文化振興会設立」と正しく書かれ、その後も国際文化振興会の事業や出版物を紹介する項目があるにもかかわらず、不思議なことに一九四三年の項に再び「国際文化振興会設立(一九七二年、国際交流基金に引き継がれる)」との文言が、矛盾をものともせず生きのびているのである。今日も国際交流基金は海外に向けての日本語教育にかかわる事業の拠点であり、その始まりは、「国際文化事業」としての日本語普及活動の取組みの原点に当たる。われわれはこのことに、もう少し濃やかな神経を使ってしかるべきではないだろうか。

国際学友会の留学生教育としての日本語教育も含めて「国際文化事業」としての日本語教育は、一九三〇年代に始まった。それが戦争の時代に、どのような展開を遂げ、戦後を迎えたのか。日本語教育とは何かという問いへの探求を日本語教育学と呼ぶならば、この時期の経験から、われわれは多くを学べるに違いない。本書がこの時期の「国際文化事業としての日本語教育」をとりあげるのは、そのためである。日本語教育やそれに携わる者の未来のために、じっくり考えたいと思うのである。

河路由佳