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小宮友根 著

実践の中のジェンダー
――法システムの社会学的記述


四六判328頁

定価:本体2800円+税

発売日 11.9.20

ISBN 978-4-7885-1254-2




◆作動中のジェンダーを捉える◆

ジェンダーという言葉は、性と社会をめぐる議論では社会的な性差を指す言葉としてすっかり一般的な表現です。しかし性差が〈社会的〉だとはいったい何を意味するのでしょうか。性差の原因が後天的・人為的だということでしょうか? 著者はこの一般的理解が陥る危険を示し、より豊かな現実の理解のため、 社会の現場に戻る経験的な研究を促します。私たちの社会生活は、お互いに行為し理解しあうという〈意味〉をめぐるやりとりであり、「性現象の社会性」はこの社会生活の実際を適切に記述することでこそ明らかになるというのです。 フェミニズムやシステム理論が予示した社会秩序の研究を、ジェンダーと法をめぐるトピックを実際に記述するなかで実現する清新な野心作です。


実践の中のジェンダー 目次

実践の中のジェンダー まえがき

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実践の中のジェンダー―目次

まえがき  i
 1 「規範」としてのジェンダー
 2 ジェンダー概念と社会批判
 3 法的実践の中のジェンダー

Ⅰ部 社会秩序の記述
第1章 性現象の「社会」性
 1 はじめに
 2 パフォーマティヴィティ概念の構成
 3 パフォーマティヴィティ概念の困難
 4 「構築」主義の「思考上の制約」
 5 行為の記述と社会生活の編成
 6 おわりに
第1章補論 行為とコンテクストの相互構成的関係
     あるいは間接的言語行為について
 1 オースティンの「パフォーマティヴ」
 2 デリダのオースティン批判
 3 デリダのオースティン批判の問題点
 4 コンテクストを作ること

第2章 社会システムの経験的記述
 1 はじめに
 2 社会秩序の概念化をめぐる問題
 3 ルーマンの「社会システム」
 4 ルーマンの「相互行為システム」
 5 「対面状況」の社会システム論的記述
 6 おわりに

第3章 社会秩序の記述と批判
 1 はじめに
 2 論争: 会話分析 vs. 批判的談話分析
 3 ミクロ―マクロ問題
 4 「価値判断」と記述の身分
 5 おわりに

Ⅱ部 法的実践の中のジェンダー
第4章 法的推論と常識的知識
 1 はじめに
 2 「法と社会」という思考法
 3 実践としての法的推論
 4 判決文の理解可能性
 5 おわりに:全体社会のサブシステムとしての
        法システムの作動

第5章 強姦罪における性的自由
 1 はじめに
 2 強姦罪の正当性をめぐる争い
 3 強姦罪の「古い」解釈
 4 法的実践のなかの「被害者の意思」
 5 おわりに

第6章 被害者の意思を認定する
 1 はじめに
 2 「判決文を書く」実践
 3 「被害者の意思」を推論する方法
 4 被害者の意思を認定する
 5 おわりに

第7章 ポルノグラフィと「女性の被害」の経験
 1 はじめに
 2 反ポルノグラフィ公民権条例
 3 「行為」か「表現」か
 4 ポルノグラフィと「女性の被害」
 5 おわりに:革命的カテゴリー
あとがき
文献
人名索引
事項索引

装幀=桂川 潤


実践の中のジェンダー まえがき
 本書の目的は、私たち人間が「性別」という属性を持つことの、社会現象としての側面にアプローチする、ひとつの方法を描きだすことである。私たちが「性別」を持つことにかかわるすべての現象を性現象と呼ぶならば、そのある部分は、紛れもなく「自然現象」である。人間が有性生殖をおこなう生物であるということは、進化の過程の中でかたちづくられてきた生物学的事実である。他方、フェミニズム理論が「ジェンダー」という概念で指し示そうとしてきたのは、性現象の、社会現象としての側面だった。たとえば、「生物学的性差」とは区別される「社会的性差」、という意味での「ジェンダー」概念は、今ではかなり一般的になったと言ってよいだろう。しかし、問題は「社会的」ということの内実である。私は本書で、性現象の「社会性」について、一般的に「社会的性差」と言われるときのそれとは異なった内実を与えたいと考えている。それゆえ、まずは本書の概要を紹介しながら、この主題をめぐって本書が論じようとしていることに大まかな輪郭を与えておこう。

 1 「規範」としてのジェンダー

 まず、ジェンダーという概念で指し示されるものの中には、しばしば「性差」とは呼びにくいものが含まれていることに注意をうながしておこう。たとえば、「女らしさ/男らしさ」のようなものが「ジェンダー」と呼ばれる場合がそうである。「性差」とは、統計的事実としてあらわれる男女の特徴の差を指し示す概念であるから、その差が男女の生物学的な違いに由来しようと、育った文化の中で身につけたものであろうと、それはあくまでどのような差がどの程度あるのかを示す事実的概念である。これまで存在すると考えられていた性差が、新たな調査によって実は存在しないことがあきらかになったら、「しかじかの性差が存在する」という言明はただちに覆されることになる(もちろんその逆も同じである)。

 それに対して、「女らしさ/男らしさ」として一般に語られるようなものは、必ずしも事実として存在する性差を表現しているのではない。身体、衣服、ふるまい、何であれ私たちが事実として持つ何らかの特徴に対して「女/男らしい」という言葉が用いられるとき、そこでは事実が記述されているのではなく、むしろ事実の評価がおこなわれているのである。このとき、その「女/男らしさ」に合致しない特徴を持つ女性/男性がどれだけいても、それによってただちに「らしさ」の中身が覆されることはない。むしろ、「らしくない」女性/男性がたくさんいる、と言われるだろう。事実によってただちには覆されず、むしろ事実を評価する枠組として機能するこの点において、「女/男らしさ」は規範的なものである。したがって「ジェンダー」のこの側面は、「社会的性差」という事実的概念によっては、決して捉えることができない。

 このように、「ジェンダー」という概念は「社会的性差」のことだと言われつつ、同時にそれとは異なった規範的な何かを指し示すための概念としても用いられる。そして、本書が特に展望を与えたいと考えているのは、ジェンダー概念がそうした規範的な何かを指し示していることが、いかなる意味で性現象の「社会性」の表現だと言えるのかということなのである。このことは、ジェンダー概念をめぐる議論の中で、これまで十分に言語化されてこなかった点であるように思う。そのためには、「性差には社会的原因がある」という、性差の原因の説明とは異なったしかたで、「社会的」という言葉の内実を検討していかなければならないだろう。本書の第I部(特に1章と2章)は、そのための作業にあてられている。

 1章では、ジュディス・バトラーの「パフォーマティヴィティ」概念の持つ可能性について検討している。私が思うに、バトラーの理論は、性差の因果説明とは異なった議論平面に「ジェンダー」という言葉を置こうとする試みとして、フェミニズム理論の中でも傑出した存在である。その主張の核心は、私たちが帯びるアイデンティティ 1)の理解可能性が、徹頭徹尾、私たちが何かを「おこなうこと」と結びついている、という点にある。「パフォーマティヴ」とは「行為の遂行」という意味にほかならない。

 こんな例がわかりやすいのではないだろうか。1960年代後半、ハーヴィ・サックスという社会学者は、自殺防止センターにかかってくる電話を録音し、会話の内容を文字に書き起こして分析することを試みていた(Sacks 1972a)。その中でサックスは、自殺防止センターに電話をかけてくる人たち(自殺してしまおうかと悩む人たち)が、きわめて頻繁にひとつのフレーズを用いることに気がつく。すなわち、多くの人が「誰も頼れる人がいないんです」と言うのである。この言葉は、文字通りに聞けば奇妙に聞こえるかもしれない。なぜなら、電話のかけ手は現にセンターのスタッフを「頼って」いるからである(頼れる人はいるのだ)。けれど、いまこの言葉を目にして、私たちは特に奇妙に思うこともなく、かけ手が端的に「助けを求めている」ことを理解することができるはずだ。ではどうして、私たちは文字通り言われてはいないことを理解できるのだろうか。

 サックスによればそれは、その言葉の上に「困ったときに助けを求めてよい(求めるべき)相手」が誰であるかについての規範が示されているからだ。「親」「配偶者」「恋人」などは「助けを求めてよい(求めるべき)」カテゴリーに属する相手である。反対に「知り合い」くらいではそうではないかもしれないし、まして「他人」であれば「助けを求めるべきではない」相手だろう。だから、私たちは通常困ったことがあれば、後者ではなく前者のカテゴリーに属する人に助けを求めるだろうし、そうすべきなのである。もしこの規範に反するようなかたちで悩み相談をしたりすれば、それは非難されるべきことになりうる。重大な悩み事を配偶者には言わずにちょっとした知り合いなどに相談していたりすれば「なぜ相談してくれなかったのか」と非難される可能性が生まれるだろう。あるいは、それは「配偶者には言えない悩み事に違いない」という含意すら生まれるかもしれない。

 ところで、自殺防止センターに電話をかける人にとって、センターのスタッフはほぼ間違いなく「他人」である。つまり「助けを求めるべきではない」相手である。「誰も頼れる人がいないんです」という発話は、実は電話のかけ手がこのことをきちんと理解していることを示している。自分には配偶者や親や恋人のような「助けを求めてよい」相手がいない。あるいは自分の悩みはそうした人たちには相談できない悩みである。それゆえ、いわば最後の手段として、しかたなく「他人」であるあなたたちに助けを求めているのだ、と。つまり、「誰も頼れる人がいないんです」という言葉は、「頼るべき相手がいない」ということの表現となっているのである。この点で、その言葉は、他ならぬ「自殺防止センター」へと電話をかけたことの理由になっており、頼るべきではない相手に頼ることの言い訳にもなっている。そしてまさにそうであるがゆえに、それは「自殺防止センタースタッフへの助けの求め」という行為として理解可能なのである。

 重要なポイントを述べよう。この例の中で、自殺防止センターのスタッフと相談者はまず、特定の社会関係のもとで出会っている。すなわち「他人どうし」として出会っている。そして、この出会いの特徴は、電話のかけ手自身によってまさにそのように理解されている。すなわち、「誰も頼れる人がいないんです」という発言によって、電話のかけ手はいま話している自分たちが「他人どうし」であるという理解を示しているのである。

 それゆえ、次のように言うことができるだろう。一方で、この出会いにおける彼/女らのアイデンティティ(「他人どうし」)は、「助けの求め」という行為の遂行をとおして提示されている。他方で、そのようにみずからのアイデンティティを提示することで初めて、彼/女らは他ならぬ「自殺防止センタースタッフへの助けの求め」をおこなうことができている。この意味で、彼/女らのアイデンティティの理解可能性は、行為の遂行の中に埋め込まれているのである。

 そして、こうしたことは「性別」というアイデンティティにとっても、基本的には変わりのないことである。すなわち、私たちが「男性」としてあるいは「女性」として、特定の出会いの中にあらわれるとき、それはどのような行為の遂行をとおしてのことだろうか、と問うことができる。あるいは逆に、ある行為が他ならぬその行為として理解されているとき、そこには「性別」というアイデンティティがどのようにかかわっているだろうか、と問うことができる。こうした問いは、性差の「社会的」原因を問うのとはまったく違った意味で、性現象の「社会性」を捉えることを可能にしてくれることを、本書ではあきらかにしていきたいと思う。1章では、生物学的におこなわれる「因果説明」と対比させながら、バトラーの理論の中にあるその可能性を描き出してみたい。

 2章では、がらっと変わって、ニクラス・ルーマンの理論が検討の対象となっている。とはいえ、照準している現象が変わっているわけではない。上で述べたサックスの例から言えるもうひとつの重要なことは、いま自分がいかなるアイデンティティのもとでいかなる行為をしているのかということは、誰よりもまず、その出会いの参加者自身にとっての関心事だということである。自殺防止センターに電話をかける相談者は、「他人に助けを求める」ことをしなければならない。他方センターのスタッフは、「他人どうし」というその関係性を、「相談」という活動が可能なものへと変えていかなければならない(たとえば「助言者」「相談者」というカテゴリーが適切となるように変えていかなければならない)。このように、みずからが帯びるアイデンティティと、みずからがおこなう行為が何であるのかを示すことは、その出会いの状況を適切に作り上げるための、きわめて重要な要素なのである。

 このことは、「性現象の社会性」へと接近しようとする本書の試みにとっても、きわめて重要な意味をもつ。というのも、私たちが「女/男」というアイデンティティを持つ存在であるということが、上で述べたような意味で、行為の遂行の中に埋め込まれている様子を捉えようとするならば、ある人がいかなる行為をおこなっていて、いかなるアイデンティティを帯びていて、いかなる状況へと参加しているのかということは、研究者が分析的に定義してよい事柄ではなくなるからである。問われなくてはならないのは、社会生活に参加している社会成員自身にとっての理解可能性である。言いかえれば、みずからがいま「何者」として、いかなる行為をおこなっているかを社会成員自身が提示/理解しあうことで作られている秩序へと接近することができなければならない。そして、私が思うに、ルーマンのいう意味での「社会システム」とは、そうした「秩序」を指し示すための言葉だった。2章では、ルーマン理論のひとつの可能性を、そうした意味での「社会システム」の経験的記述へと向かう点に見いだしたい。

 こうした検討をとおして、本書ではジェンダー概念が含んでいた「社会的」という言葉に、おおむね次のような内実を与えたいと思っている。すなわち、自己や他者の行為やアイデンティティが、いまどのように理解されるべきかを、行為の遂行をとおして人びとがお互いに示しあっている、その様子を指して「社会的」と呼びたい。そして、私たちが「性別」というアイデンティティを持つことの意味を、その「社会性」の中に位置づけなおして記述していこうと思う。・・・・・・

(まえがきより一部引用)

小宮友根