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牧野陽子 著

〈時〉をつなぐ言葉
――ラフカディオ・ハーンの再話文学


四六判392頁

定価:本体3800円+税

発売日 11.8.25

ISBN 978-4-7885-1252-8

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◆ハーンはまだまだ面白い!◆

「雪女」や「のっぺらぼう」の話を日本古来の怪談と思っている人は多いのではないでしょうか。ほんとうは原話をもとにハーンが英語で書いたものから広がったのです。本書は、ハーンの再話(採話ではない)したものと原話を対照して、なぜこのように書き換えたのかを問いながら、ハーンの再話の魅力をさぐります。よく知られた「むじな」「雪女」「耳なし芳一」、そして「夏の日の夢」(浦島物語)などの深層にあるもの、さらには、「茶碗の中」や「安藝之介の夢」などの小品の喩えようのない魅力の秘密を、異なった〈時空〉へのハーン独特の感受性にあることを明らかにします。古いものから新しい魅力を生むハーン「再話」文学の魅力を全開した、文句なしの力作評論です。


〈時〉をつなぐ言葉 目次

〈時〉をつなぐ言葉 はじめに

◆書評

2011年10月9日、東京新聞、平川祐弘氏評

2011年11月4日、週刊読書人、池田雅之氏評

2011年11月27日、週刊エコノミスト

2011年11月27日、信濃毎日新聞

2011年12月20日、WEDGE 2012年 1月号

2012年10月7日、読売新聞

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〈時〉をつなぐ言葉―目次

目次 〈時〉をつなぐ言葉―ラフカディオ・ハーンの再話文学

はじめに ハーンの『怪談』

第一章〈夜〉のなかの〈昼〉―「東洋の土を踏んだ日」「盆踊り」
一 ラフカディオ・ハーンとエドワード・モース
二 人力車の風景―『日本その日その日』と「東洋の土を踏んだ日」
三 開かれた世界―細部の豊かさ
四 “寺へ行け”―〈夜〉のなかの〈昼〉
五 無音の空間―「盆踊り」
六 内なる交響へ

第二章 民話を語る母―『ユーマ』
一 ハーンとマルティニーク
二 母なる存在
三 異文化の養母―『チータ』と『秘密の花園』
四 民話を語る母―混血の存在
五 再話文学へ

第三章 〈顔〉の恐怖、〈背中〉の感触―「むじな」「因果話」
一 「むじな」
二 「ゴシックの恐怖」
三 〈背中〉の感触
四 輪廻の幻影

第四章 水鏡の中の〈顔〉―「茶碗の中」
一 未完の物語
二 原話「茶店の水椀若年の面を現ず」
三 分身の物語

第五章 世紀末〈宿命の女〉の変容―「雪女」
一 「雪女」
二 原話をめぐって
三 雪の女
四 白い女たち
五 過去というタブー

第六章 語り手の肖像―「耳なし芳一」
一 海の物語
二 タブーの空間
三 再話の力 
四 芸術家の肖像

第七章 聖なる樹々―「青柳物語」「十六桜」
一 樹霊の物語
二 「青柳物語」――樹霊のいざない
三 「十六桜」――樹下の切腹
四 樹々の原風景

第八章 海界の風景―「夏の日の夢」
一 ハーンと浦島伝説
二 チェンバレンの『日本の古典詩歌』
三 ハーンにおける「水江浦島子を詠める歌」
四 海の彼方 地の光

第九章 地底の青い空―「安藝之介の夢」
結び ハーンの再話文学
 注
 あとがき
 主要参考文献
 索引


〈時〉をつなぐ言葉 はじめに ハーンの『怪談』

ラフカディオ・ハーン晩年の怪談には、不思議な魅力がある。

いずれの作品も透明な雰囲気に支配されている。言葉は簡潔で研ぎ澄まされ、純粋ともいえるほどの緊張感がはりつめている。若いころのハーンの紀行文にみられる印象派風の装飾性と技巧が消えて、平易な言葉遣いのうちに象徴性が漂う文体である。

また、人物も舞台も日本の話でありながら、どこか日本ではない場所を思わせる。ただ怖いだけではなく、何か考えさせるような深みと余韻がある。そしてハーンという作者の名前はわからなくても、その作品が知られ、語り継がれているのは、それぞれの作品のもつ表現の力、言葉の力のなせるわざにちがいない。

たとえば「雪女」や「むじな(のっぺらぼう)」の話が、古くから日本に伝わる怪談だと思っている人は少なくないだろう。どちらも、子供向けの絵本などの「日本昔話」シリーズには欠かせない話であり、また地方で編纂された郷土民話集などにも似た話が登場する。

だが、私たちが知っている「雪女」も「のっぺらぼう」も、そのままの形で元から日本にあった話ではない。今から百年ほど前にラフカディオ・ハーン(一八五〇―一九〇四。帰化名、小泉八雲)によって英語で書かれた短編作品なのである。そして、どちらもハーンの作品を通じて一般に知られるようになった。ただ、この場合、ハーンにとって日本は異国であった。日本の古典の一節なり日本の作家の作品が人々の間に定着していくのとは、違う。

異国の人々の想像力のなかにその国の〝民話〟として根付いていくハーンの作品の言葉の力とは、いかなるものなのか。一見素朴な物語に秘められたその魅力はどこからくるのか。

ラフカディオ・ハーンはアイルランド系英国人を父に、ギリシャの島の娘を母に、ギリシャのレフカダ島で生まれ、アイルランドで子供時代を過ごした。アメリカのシンシナーティやニューオーリーンズで新聞記者として活躍し、西インド諸島の紀行文を刊行後、四十歳で来日した。英語英文学教師として松江の島根県尋常中学校、熊本の第五高等中学校、さらには東京帝国大学、早稲田大学で教えながら、『知られぬ日本の面影』(一八九四年)、『東の国から』(一八九五年)、『心』(一八九六年)、『霊の日本』(一八九九年)、『日本雑記』(一九〇二年)、『怪談』『日本 一つの試論』(一九〇四年)など、十数冊に及ぶ日本関連の著書を次々と発表している。松江で小泉セツ(節子ともいう)と結婚、のち帰化して小泉八雲という名前になり、一九〇四年、東京の西大久保の家で没した。

作品は紀行文、文化論、随想、短編小説風の小品、民話・怪談の再話作品と多岐にわたり、英米圏の読者を対象に英語で書かれている。ハーンは当時の人としては珍しく、西洋優越主義的な偏見に囚われずに、類まれな観察力と深い共感の眼差しで、日本の文化・民俗・宗教について記し、明治期の庶民の生活と心情を描いた。だがそのなかで最も長く、幅広く読まれてきたのは一連の怪異譚だろう。

ハーンの数多くの怪談―「耳なし芳一」「おしどり」「因果話」「茶碗の中」「和解(浅茅が宿)」「お貞の話」「破約」「夢応の鯉魚」「生霊」「むじな」「雪女」など―はいずれも短編で、純粋の創作は一つもない。どの話も、日本の古い物語を素材に〝再話〟、つまり語り直したものである。原典は『今昔物語』『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『夜窓鬼談』『臥遊奇談』から現在ほとんど読まれない『百物語』『新撰百物語』『怪物輿論』『通俗仏教百科全書』『鐺日奇観』などまで広範囲にわたっている(ハーンの蔵書は現在、富山大学図書館ヘルン文庫にある)。また、土地の民話や言い伝えを記したものもある。

十九世紀後半の欧米では、エキゾチスムと民俗学的関心から、東洋や南洋の民話伝説集が数多く編まれた。だがハーンの場合、ハーンの作品と、用いられた〝原話〟を比較してみると、原話には細かく手が加えられ、ほとんどの物語が、話の筋は同じでありながら、元の話と異なる雰囲気に仕上げられているのがわかる。一見日本の古い物語でありながら、実は、ハーン自身の、そしてハーンが生きた世紀末の感性によって変容をとげたものなのである。

ハーンの〝再話〟は、極めて自覚的な文学的営みとしてなされた。そしてハーンは、怪異な世界のなかに、近代科学文明が置き去りにしようとしている薄明の領域を見出し、怪奇話という形に自己の内面世界を託した。

ハーンがなぜ怪談に心を寄せたのか、ハーンの幼児体験にその原因が求められてきた。母と、ついで父と切り離された不幸な子供時代が心に深い傷を残し、幻想と怪奇の世界に走ったとする説である。確かにハーンがアメリカ時代に書いた新聞記事の犯罪描写の克明さには何か異様なものが漂い、またシンシナーティ、ニューオーリーンズや西インド諸島でも土地の幽霊話に興味を示して記録している。そしてハーンの残した何枚かのスケッチや水彩画からは、精神分析でいう無意識の世界に通じるような何か強烈な不安感が漂ってくる。たとえば、海の朝日を描いた絵の波の描き方などはムンクの「叫び」の背景にうねる縞模様に酷似しているし、青と黄の鮮烈な色使いはゴッホを思わせる。ハーンが長男一雄にテニソンの鷲の詩を書き取らせた際に描いたという絵の岩山も深い青一色の峨々たる山容がただものではない。しかしハーン晩年の怪談が単なる怪奇趣味の所産ではなく、澄んだ深みをたたえているように、岩山を背後から包む濃い藍色の宇宙には、ハーンがめざした境地の静かな高みがほのみえて、見る者をひきつけるのである。

特筆すべきことは、怪談の再話作品が、ハーンの日本時代に次第にその数を増していったことである。当初は、土地の伝説として紀行文の間に挿入された。民俗学的観点から「古い時代の信仰、それも大乗仏教のような高等なものではなく、西欧人には垣間見ることの難しい、前世と再生というものに関して、当時の庶民が抱いていた一般通念」を示してくれる(「勝五郎再生記」『仏の畑の落穂』)ものとして、取り上げることもあった。だが次第にハーンはそのなかから、より抽象化した問いを浮き上がらせていく。と同時に、独立した短編作品としての完成度も高めていったのである。そして著者が生前に発表した最後の作品集、『怪談』にいたるのである。

ハーンの文学的人生のなかで重要な転換点があるとすれば、それは日本に来た時、つまり日本との出会いということになろう。たしかに人間は単純ではない。人生のどこかに線を引いて明快に図式化できるわけではなく、多くの場合は、輪郭の定まらぬ部分をもったまま時のなかを歩んでいく。だが過去をひきずりつつ変化をとげていく、その流動体のような対象のなかから何らかの形を引きだすのが、研究であり、解釈だといえよう。

そしてハーンの場合、来日以降の生活も作品も、それ以前にはない特徴を帯びて深まりをみせていくことが指摘できる。ハーンの十四年間の日本体験の軌跡と、晩年に到達した世界観については、『ラフカディオ・ハーン 異文化体験の果てに』(中公新書、一九九二年)で論じたので、そちらにゆずりたい。そのなかで怪談を中心としたハーンの再話文学の成立に関連して、ここで再度述べておきたいのは、最晩年の『怪談』をまとめる前の時期に多く書かれた一連の〝哲学的〟随想についてである。

ハーンが〝前世〟や〝因果〟など仏教の世界観に強い関心を示したことはよく知られており、「塵」「日本の俗謡における仏教引喩」「涅槃」「環の中」(『仏の畑の落穂』)、「禅の公案」「死者の文学」(『異国風物と回想』)、「仏教に関する日本の諺」(『霊の日本』)など、東京時代の初期の著作には少なからぬ数の仏教関係の随筆が含まれている。ハーンの怪談の多くで、死者、あるいは死者に準ずる存在との出会いが描かれるが、そこでは生者が死者といかに関わるか、はたしてその死者の存在や訴えを受け止めるか否かに主眼が置かれ、死者の霊と直面した主人公が何を感じ、以後どのように生きたかという点に物語のクライマックスがある。美しい恋人が実は死者だとわかる「宿世の恋(牡丹燈籠)」「伊藤則資の話」において問われるのも、男が覚悟をもって死者との結合、二人の因果を、つまりは自らの前世を受け入れることができるかということである。仏教的背景をもつこれらの怪談では、輪廻や因果といういわば〝仕掛け〟によって幽霊が主人公にとって他者ではなく、自己の過去から直接に立ち現われる存在となる。

一方で、ハーンがハーバート・スペンサーの著書に思想の拠り所を求めたこともよく指摘される。ハーンの解釈は学術的なものではなく、感性に重きをおいたものだが、そうした思索のなかで醸成された特有の感覚を書きつづったのが、「第一印象」「美は記憶なり」「美の中の悲哀」「青春の香り」「青の心理学」「小夜曲」「赤い夕日」「身震い」「薄明の認識」「永遠に憑きまとうもの」(以上『異国風物と回想』第二部「回想」)などの東京時代の随筆である。ハーンは人間の五感の心理を分析して、たとえば夕日や青空、干草の匂いなどに触れた時に覚える悲しみの入り交じった感慨は、「死に滅びた生命の、忘れ去られた喜びと悲しみの反響」であり、祖先の記憶が底知れぬ眠りのなかから揺り起こされるのだという。見知らぬ人間から受ける〝第一印象〟も、相手の顔の中の一つの面影に対して自分のなかにひそむ死者が反応し、出会いの瞬間に過去の世の記憶が無意識に蘇ったのだという。

このような過去に遡る記憶をハーンは「有機的記憶」「遺伝的記憶」「集合的無意識」と呼んだ。そして、自分の霊魂は「幾億兆という霊魂の寄せ集め」であり、「我々の感情も思想も願望も、幾千万億の死んだ人たちの感情や思想や欲望を再構成したものにすぎない」(「塵」)と考えた。西欧近代の〝自我〟観を根底から否定するがごとくに、心は個人のものではなく、無数の人々の、しかも死者たちの集合体だというのである。ハーンは「有機的記憶」をめぐる議論のなかで、二種類の「過去世」、つまり輪廻転生前の前世なる過去と、血統を遡った祖先という意味の過去を区別せずに用いている。ハーンが仏教思想と進化説を適当に折衷したと評されるのは、こうした用語の曖昧さに一因があるのだろう。ハーンは神道に対しても、その根本を祖先や死者という「過去世」との繋がりの上に成立する宗教とみなして、当時の他の欧米人とは異なる理解を示したが、ハーン本人にとって、これら相異なる思想体系の接点は、時間の連続性という一点にあった。時を遡及し、生命の連綿たる継続性によって自己確認をする〝感覚〟なのである。そしてそれは、「ちょうど自分の神経の一筋一筋が途轍もなく長く伸びて、それが百万年の遠い遠い昔に紡がれた、妖しい感覚の織物につながり、その無数の糸が……人間の頭脳などではとても捉えられない茫漠たる恐怖を、過去の深淵の中から、私という人間の意識の中へ、こんこんと注ぎ入れている―そんな心持だ」(「環の中」)と述べているように、静かな戦慄を伴う自覚でもある。ハーンは厳密な理論より、こういう感覚をイメージ化し言語化することに意味を見出した人だった。

ハーンの怪談の再話は、このような「時間」「過去世」をめぐる思索に裏打ちされて、表裏一体のものとして同時進行の形で数を増やし、完成されていった。共通するのは、人間の現在にとっての「過去」、それも通常の時間体系だけではなく、個体意識を超えた生命の連鎖としての「過去世」の持つ意味を問うていることである。ギリシャ人の母とアイルランド人の父の双方と幼時に別れ、一種の欠落感をもって生きてきたハーンにとって、それは根源的なテーマだった。そして、再話作品の多くで、人の背負う、内なる積み重ねとしての「時間」が重要なモチーフとなる。個々の物語において問われる〝過去〟とは、個人の記憶でもあり、幼年期でもあり、また前世の場合もあれば、民族の、人類の過去の場合もある。そしてハーンにおいては、過去の物語を語り直すという再話の手法が、〝過去〟を問うというテーマとまさに一致しているのである。

最後の作品集『怪談』において集大成されたハーンの〝再話文学〟とは、従来の文学概念を覆すものだといえる。それは、著者の個性を重視し、創作としての独自性と新しさこそが価値であるとみなす近代西欧の文学観とはまったく異なる作品のあり方を示している。再話文学は、人々が語り継いできた素朴な物語世界に意味を見出し、そうした物語に新たな衣を着せて言語化することで、さらに次の時代へと語り継いでゆくこともまた文学の本質であることを示すものなのである。そしてその再話文学が〝日本〟という場との出会いと不可分のものとして完成されたのであれば、グローバル化が進むなかで多文化社会のあり方が問われる現代にあって、多くの示唆をあたえてくれる言葉と思考の形であり、あらためて評価すべき価値観ではないかと私は考える。

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