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和田敦彦 著

『越境する書物』
――変容する読書環境のなかで 


A5判368頁

定価:本体4300円+税

発売日 11.08.05

ISBN 978-4-7885-1250-4

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◆書物の流れから見えてくるドラマ◆

斬新な研究として高い評価を得た『書物の日米関係』の続編。本はなぜそこにあるのか、誰によって、どのようにしてそこにたどり着いたのか。このような問題意識から、従来の著者中心、テクスト中心の文学論ではなく、書物と読者を媒介するものへと視点をシフトさせた「リテラシー史」を提唱する著者が、その後の成果をまとめたものです。米国の図書館は大量の日本語蔵書をかかえていますが、それはいつどのようにして形成されたのか。その歴史を戦前から戦後にわたって丹念にたどりながら、角田柳作、福田なおみ、高木八尺、さらにはチャールズ・タトルなどの果たした役割を明らかにします。また、太平洋問題調査会、国際交流基金、国際文化会館などが戦前戦後の日米関係において果たした興味深い役割も明らかになります。読み物としても第一級の書です。


越境する書物 目次

越境する書物 まえがき

◆書評

2011年10月9日、高知新聞、大島真理氏評

2011年10月9日、毎日新聞

2012年1月14日、図書新聞、後藤嘉宏氏評

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越境する書物―目次

目次 越境する書物―変容する読書環境のなかで

序章 書物と場所の歴史学
1 なぜ書物がそこにあるのか
2 リテラシーの歴史とは
3 本書の構成

第T部 越境する書物

第一章 書物の場所と移動の歴史 書物の日米関係から
1 越境する書物の背景
2 読者は作られる―米海軍日本語学校
3 戦時期の日本語教育と教科書
4 戦争と書物接収―ワシントン文書センター
5 書物返還の政治学
6 米議会図書館における接収図書
7 日本占領下での図書収集
8 書物と場所の政治学

第二章 書物の戦争・書物の戦後 流れとしての占領期接収文献
1 書物の戦場
2 ふたつの検閲
3 占領期各大学の資料収集
4 輻輳する接収ルート
5 プランゲ・コレクションの入手
6 膨大な文献を前に
7 接収文献のその後―占領期刊行物
8 接収資料のその後―戦前検閲図書
9 接収資料のその後―陸海軍関係資料など
10 流れとしての接収文献

第三章 今そこにある書物 書籍デジタル化をめぐる新たな闘争
1 これは書物ではない
2 明治期刊行図書のマイクロ化
3 複製という商品 
4 誰が写していたのか 
5 書物の変容
6 データベース・リテラシー 
7 古典籍総合データベース
8 本にたどりつく仕組み
9 グーグルブックス図書館プロジェクト
10 知の占有と公共性
11 何をデジタル化するべきか
12 学術の生命線とフィジカル・アンカー

第U部 書物と読者をつなぐもの

第四章 一九三三年、米国日本語図書館を巡る 高木八尺の調査から
1 読書を知るために 
2 太平洋問題調査会と高木八尺 
3 日本学をめぐる状況と太平洋問題調査会 
4 全米調査の実際 
5 非政治という政治
第五章 人と書物のネットワーク 角田柳作と書物の交流史
1 見えない仲介者
2 角田柳作との出会い
3 ニューヨークに至るまで
4 書物を介したネットワーク
5 文化宣揚と文化交流の間で
6 誘惑する仲介者

第六章 越境する文化を支えるもの 国際交流基金と国際文化会館
1 書物の交流を支えるもの
2 芥川龍之介「舞踏会」の変容
3 国際文化振興会とその記録
4 南方政策とインドシナ
5 植民地の「舞踏会」 
6 国際文化交流機関の戦後
7 民間という名の政治
8 海外の日本語図書館に対して
9 文化交流と文化宣揚 

第七章 日本の書物と情報の輸出入 チャールズ・E・タトル出版の半世紀
1 書籍商の血統 
2 タトルと日本
3 行き交う書物と翻訳権
4 日本を販売する 
5 『銀の鈴』広島の奇跡
6 日本からアジアへ

第八章 北米の日本語蔵書史とその史料 書物の受難
1 蔵書史の個と全体
2 オハイオ州立大学の日本語蔵書史
3 オハイオ・ネットワーク
4 ブリティッシュ・コロンビア大学の日本語蔵書
5 日系移民資料が残る必然と偶然
6 アジア研究の受難とカナダの日本語図書館

終章 リテラシー史から見えるもの
1 彼方の読書
2 読書の資料と研究の倫理
3 リテラシー史と文学研究・教育
あとがき
訳語・略号一覧 
情報提供・調査協力者一覧

事項索引
人名索引
装幀―難波園子




序章
 序章 書物と場所の歴史学



1 なぜ書物がそこにあるのか

そこに本がある、ということは当たり前とはほど遠い「出来事」である。その本はいつ、誰によって、どうやってもたらされたのだろうか。そしてまたそのような疑問を明らかにすることに、どのような意味があるのだろうか。本がある、ということはそれらを購入する理由があり、資金の流れがあり、書物を運ぶルートがあり、さらにはそれら手に入れた書物を整理し、使うノウハウがあるということである。私たちは書物を前にして日頃これらのことをそれほど意識しない。だが、もしも海外で目にした書架に日本語の書物が並んでいたとしたら、こうした疑問が湧かないだろうか。あるいはもしもそこに一〇万冊、あるいは二〇万冊を超える日本語の書物があったとしたら。

現在、米国内だけでも一〇万冊以上の日本語の書物を抱える日本語図書館は数多い(図1)。その文献数については、米国内のアジア文献図書館を中心に構成される東アジア図書館協会(CEAL)が、インターネット上で公開している。これらの図書館は単に数多くの図書を所蔵しているのみではなく、日本語文献のマイクロフィルムやデジタルデータの提供、過去の新聞や学術雑誌を含めた情報を日々提供している。むろんこれらの図書が、最初から海外にあったわけではない。ある地域、例えば日本について理解するためには、その地域の人々が、その地域の言語で考え、書き、蓄積してきた書物を網羅的に、体系的に集める必要がある。だからこそ米国内に、日本語文献の図書館が作られてきたわけだが、当然とも思えるこの考えを国境を越えて実現するには、想像を超える困難を伴う。

これら海外の図書館では海の向こうの日本語文献を、選定、購入、輸送しなくてはならないし、どういった本がどれだけ出版されているか、それがどこで手にはいるのかといった情報も必要だ。そして集めた文献を異なる文化圏で整理し、分類し、提供する仕組みや場所、予算も必要である。それらの文献を実際に使う教育や研究プログラムとの連携も考えなくてはならない。膨大な資金と時間と労力をもって作られてきたこれらの日本語図書館も、その歴史をひもといてみれば、最初はたいてい一握りの人々と、小さな書架からはじまっている。

米国内で、いかにしてこれらの日本語蔵書が生まれ、変化してきのか。なぜ、どのような人々が関わってきたのか。それら蔵書の成立や変化には、国家間の政治的、経済的な要因がどう関わってきたのか。本書のもととなった調査は、これらの疑問からはじまっている。

この問いは、同時により大きな問いへ、つまり書物の移動を通してどのようなことが見えてくるのか、書物がそこにあるということの背景に、何をとらえることができるのか、という問いに結びついている。私たちが書物を読む環境、そして書物と私たち読者との関係はどのように出来てきたのだろうか。そのことを問うことにいかなる意味があるのだろうか。以下、本書で明らかにしていく通り、ある蔵書が出来上がっていく歴史を含め、書物の場所や移動は、読書の歴史を考えるうえで欠くことのできない問題なのである。

蔵書が出来上がる歴史は、単にある書物をいつ、誰が購入したというような単純な問題ではなく、情報や知の体系が歴史的に生まれてくる複雑なプロセスである。そしてどのような学問であれ、このプロセスから自由ではない。文学も、歴史学も、医学も、それぞれの領域の土台となる文献やデータが蓄積される仕組みや、それらを利用する制度に大きく影響を受けている。どのような学問領域であれ、それまでの情報の蓄積、共有、分析といった環境を抜きにして成り立たないのは当然のことである。

とはいえ、書物の流通や収集、所蔵、管理といった問題は、一見、二次的で副次的な問題として捉えられがちだ。例えば文学研究といえば誰しもが書物に書かれた「中身」の研究、小説や詩の表現についての研究をイメージする。そしてその「中身」を書いた作家の思想や生涯の研究も盛んである。だが、その小説や詩集がどこに、誰によって運ばれたのかという問いは、文学研究のあまり本質的な問いとは見なされない。哲学にしても、重視されるのは哲学者や、その哲学であって、その書物があった場所や書物をもたらした者ではない。だが果たしてそれでいいのだろうか。書物の場所を問うことは、奇妙な周辺的な問いであってこれらの研究と関わりのない事象なのだろうか。いやむしろ、この問いのなかには、それぞれの学問領域にとってこれまで見過ごされてきた重要な問題が数知れずひそんでいるのではないだろうか。

いかに重要な書物であれ、その書物が読者に届かなければ何の力も持たない。検閲、発禁や閲覧、所有制限のように、意図的に書物の流れが統制される場合にはこうした問題は意識にのぼりやすいが、そうでなくともさまざまな流通手段やインフラ、経済的な諸条件のなかで書物の流れは常に制限や統制を受けている。書物の流通環境や読書環境の制約から完全に自由な読者などありはしないのは当然のことだ。私たちは「自由に」読んでいるわけではないのだ。

書物の場所を問い、その流れを追うという問題意識の根底には、私たちがいかに読み、書く行為と関わってきたのか、そして関わっていくのか、という問いが横たわっている。その問いは、現在私たちがどのような書物を、どのような形で手に取るのかという行為そのものに向けられた問いであり、私たちの情報環境自体を歴史的にとらえなおす契機、端緒ともなるだろう。書物の場所や移動を問うという本書のねらいはそこにある。

もっとも、こうしたやや抽象的なレベルの意義もさることながら、書物の流通をめぐる国際関係を追っていくことで、実に多岐にわたる事象を具体的に明らかにできることも強調しておかねばならないだろう。それは本書の各章で詳細に述べてゆくことでもあるが、例えば日本語の書物の購入や所蔵は、米国内での日本学や日本語教育の発生、展開と結びついているし、それはまた日米間の政治的、経済的な関係性をうかびあがらせる有効な手だてともなる。また、蔵書の歴史をたどっていけば、米国内での日本人や日系人コミュニティがそこに関わりあってきた歴史も見えてくる。日米の図書館や図書館学の歴史はもとより、あらゆる学問、政治領域にわたってさまざまな人々、機関が、国境を越えて書物と関わりあいながら織りなしてきた出来事がそこからは浮かび上がってくるのだ。

私はこうした問題意識のもとで、書物の流れや読書環境の変化について研究する作業を行なってきたが、その研究の一環として、主に日米間の書物の流れを歴史的に明らかにしていく調査をしてきた。二〇〇五年に、米コロンビア大学を拠点として約一年にわたって米国内各地の日本語蔵書の調査を行ない、その後もいくどかの短期的な海外調査を積み重ねてきた。その調査をもとに、米国内の各地の日本語蔵書の成立や変化、そこに関わるさまざまな要因やそこから見えてくる主要な問題について、二〇〇七年に『書物の日米関係』としてひとまずまとめることとなった。本書は基本的な問題意識をその延長上におきつつも、その後の調査をふまえて研究方法や関係史料の可能性について、さらに考察を進めていったものである。

書物の国際流通を歴史的に、それをとりまく状況との関係のもとでとらえるという作業は、いまだ先行する研究があまりないのが現状である。そのため、『書物の日米関係』では、まずは米国内の日本語蔵書の形成を、なるべく広く、通史的に扱うことに重点をおいた。そこでは、米国内の個々の日本語蔵書の歴史は明らかにすることができたが、それら日本の書物を送り出した日本国内の販売機関や、その間に立った組織や人々をどう追っていけばよいのかが、大きな課題として残されていた。ある蔵書の歴史を追うのは資料的にも骨が折れるが、それら書物をもたらした人や機関を追うのはいっそうやっかいな作業である。しかし、それゆえにそこから見えてくるものも大きい。越境する書物の流れを追い、書物の場所を問うことの可能性と意味を、本書では具体的な資料をもとに明らかにしていく。この点についてもう少し詳しくふれながら、本書の全体の構成について説明しておこう。

2 リテラシーの歴史とは

前節では、書物がなぜそこにあるのか、という問いの重要性について述べたが、果たしてこの問いは現在でもなお有効なのだろうか。私たちは、書物が「そこ」に「ある」ということが、もはや自明ではない読書環境に生きているのではないだろうか。

携帯情報端末を通してインターネット上の書物を読むことはもはや珍しくもないが、それらは「書物」と言えるのだろうか、言えるとしてもどこに「ある」のだろうか。端末のディスプレイ上か、それらを提供しているサーバーのうちにあるのか、あるいは、複製されるもととなった書物の場所に「ある」と言えるのだろうか。

もはや書物がいつ、どこにあったか、などということ自体があまり意味を持たないのではないか、という見方もあろう。そのような過去の問題を掘り起こすよりも、今、どれだけの人々に、どれだけ読みやすくデジタルデータを含めて提供することができるか、その方策を考える方が、よほど「現在の読書環境」にとって意味のあることではないのだろうか。

よほど意味のある?何より?私たちの過去の書物との関係を明らかにすることより?しかし、私たちは果たして過去の書物との関係を知っているのだろうか。たとえ海の向こうの書物が手元の端末で閲覧できる状況になろうとも、書物が占めている「場所」の問題がなくなったわけではない。ただその問題が、問いにくく、見えにくくなっているだけなのだ。今の新たな読書環境によって、私たちと書物の関係はどう変わったのか、何を失い、何を手に入れたのか。それを知るためには、過去の書物との関係を明らかにするしかない。考えてもみてほしい。自分が何を持っているかを知らない人に、その人が何を失ったかを問うても答えられようはずもない。ましてや、新しく手に入れたものが、失ったものよりもよかったなどと言えようはずがない。

先の「現在の読書環境」という言葉は、こうした歴史的なまなざしを抑圧しているだけではない。現在の読書環境自体が、実際にはさまざまな差異を抱えていることをも無視している。つい三年ほど前のことだが『ニューヨーク・タイムズ』に、人気のない湿地帯をロバに乗って移動する一人の男性の写真が掲載されていた。彼は「Biblioburro」という看板を抱え、その後ろに荷を載せたさらに一頭のロバが続く。場所は南米コロンビアの内陸部にあるラグロリアで、この小規模な「移動図書館」は一〇年間、毎週末、内戦で疲弊したこの地域をまわりながら、さまざまな書物をもたらしてきたという。

何も南米の事例を持ち出すまでもないが、自身をとりまく情報環境こそが先端である、世界標準であると見なすことほど危険なことはないし、それを無条件に肯定するほど愚かなことはない。書物と場所の問題はこれまでもあったし、あり続けるし、それを問うことの重要性が減じることはない。それはまた私たちの生きていく世界と不可分に関わっている。

ロバに乗ったこの人物は、小学教師として勤めるかたわら、書物が生徒を変える力を目の当たりにしてこの活動を始めている。ある時には山賊に目を付けられて木に縛られ、金銭を持っていなかったために本を持って行かれたこともあったという。持って行かれた本が、その力で山賊を変えてゆくことになったのかどうかは定かではないが、書物はこうした善意や暴力の流れにまきこまれながら流れていく。まわりの人々にひそやかな力を及ぼしながら。逆にいえば、その書物の動きや流れを歴史的にときほぐしていけば、書物を取り巻いていたさまざまな抗争や利害関係を明かしていくことも可能となってゆく。

私が書物の収集や所蔵、管理の歴史からとらえたいのは、単に蔵書の変化ではなく、人種や国家の境界を越えて書物や情報がやり取りされる際に働く力関係であり、その歴史である。それは読者と書物の関係史であり、読者の環境史といってもよい領域である。私は、こうした問題をとらえるために「リテラシー史」という概念、用語を用いてきた。簡単にいえば、読書の環境や読み書く能力の変化、およびその要因をとらえる研究である。そしてこうした問題意識や関心を共有する人々と、共同でこの問題領域を考える研究会を作り、会誌の刊行も行なっている。むろん本書で焦点をあてている日米間の書物流通や受容の問題に限らず、日本国内での書物や読書の歴史、そして関係史料の保存や公開にも関心を向けている。米国における日本語蔵書や読書環境の資料収集や調査は、こうした研究を進めていくために私が力を入れてきたテーマの一つの大きな柱ともなっている。

3 本書の構成

さて、本書は、二部構成をとっている。第一部では、米国における日本語蔵書の形成や歴史について、これまでに自身で明らかにしてきた点を振り返りながら、書物の所蔵や流通から、どのような問題が見えてくるのかを具体的に述べている。扱う問題は占領期に日本で接収された文献から、現在のグーグルや国立国会図書館の進める書籍デジタル化プロジェクトまで含まれるが、これら現在の目の前の問題が、これまでの書物の日米関係の歴史をぬきにしてはとらえられないことを示していきたい。あわせて、越境する書物の場所や流れを追っていくことから見えてくる問題の広がりが提示できれば、と思う。

第二部は、前節で述べた新たな課題に取り組んだものである。書物がそこにある、ということは、そこに書物を送り出し、もたらした人や組織があるということである。越境する書物を支えるそれらの存在に焦点をあててみたい。すでに述べたように、本書での問いは米国の日本語蔵書の問題にとどまらない。第二部の最終章では、カナダの日本語蔵書史を取り上げ、そこからどういったことが見えてくるのか、をとらえている。第二部はこのように、第一部での方法から、さらに調査対象、資料の幅を広げる試みとなっている。米国における日本語蔵書の歴史は、私自身これまでその図書館の過去文書や、大学史料室の文書などを資料のベースとしてきたが、書籍の出版、流通業にたずさわった企業の資料や、海外との文化交流の支援機関の資料など、これまで用いられることのなかった一次資料を数多く生かしながら検討している。

以下、各章の具体的な展開について素描しておこう。前述したように、第一部は日本の書物の流通や移動を歴史的に追っていくことで何が問えるのか、見えてくるのか、という点を論じている。こうした書物の大規模な動きを作り上げた出来事、そして人々や機関を扱う。第一章では戦時期以降、奇しくもそれらの多くの場面に関わることとなった一人の人物を追っていく。それによって、日米間で書物が越境していくこととなったその主要な要因や経緯を素描し、そこから見えてくる問題点を具体的に示していくこともできるだろう。第二章では、日本の書物の大規模な移動が見られる占領期に特に焦点をあてることとした。この時期は、日本の歴史上もっとも多くの日本の書物が海外に流れていった時期でもある。そしてまた、国家間の対立や利害関係がきわめて大きくそこに作用している点で、越境する書物を問う意義や意味がより鮮明に見えてくる時期でもある。第三章で扱うのは、これら書物の移動とは別種の移動、あるいは越境・拡散の新たな形である書物の複製やデジタルデータの流通についてである。占領期が越境する日本の「物理的な」書物の最大の移動期であるなら、近年の書籍のデジタル化やネットワークを介したその流通は、別の形での書物の最大の移動期を作り出している。こうした状況に対して、書物の場所を歴史的に問うということの有効性を明らかにしたい。

第二部は、第一部での問題意識や方法を、より拡張することを試みていく。日米間の書物と読者の関係や、その変化を歴史的に追うということに変わりはない。しかし、第二部では、個々の蔵書の歴史やそれについての資料が中心ではない。むしろ、それらの書物の移動の仲立ちとなった人々や組織が中心である。書物の移動を支え、流通させていった人々や機関が果たした役割をとらえられるよう、日本学の調査機関や支援組織、さらには書籍の輸出や販売にたずさわる企業など、各章ごとに重点的に取り上げて描き出していくこととなる。 具体的には、第四章では、戦前、一九三三年に全米規模でなされた日本学、日本語蔵書調査を取り上げている。なぜ、誰が、どのようにそれを行なったのか、そしてそれは日本の書物やリテラシーの形成といかに関わっていたのだろうか。第五章では戦前、米国に日本語図書館を作ろうと活動した角田柳作の活動を追う。第六章では、国際文化振興会と国際文化会館を取り上げる。これら国際間の文化交流の仲立ちとなった組織は、どのような形で日本の書物とその移動に関わってきたのだろうか。これら組織と書物との関わりはまた、文化と政治とが截然と分かちがたい領域にあることをも示してくれることとなろう。

第七章で扱うのはチャールズ・E・タトル出版である。日米間の書物の輸出入、翻訳権売買、英語による日本関係図書の出版事業など、越境する書物のさまざまな局面に関わっていったタトルの軌跡を追う。その試みは、日本語蔵書の成立や変化を軸とした自身のこれまでのアプローチを大きく転回させ、その可能性を広げていくものでもある。第八章では、米国のみでなく、カナダの日本語蔵書も取り上げる。しかしそれは単に調査対象を広げるだけではなく、越境する書物のうちに、日本、米国、カナダという、より輻輳した国家間の関係が深く刻まれていることを見出していく試みとなろう。そして最後の章で、本書で明らかにしてきた点をまとめ、そのアプローチの有効性、可能性を改めて検証することとする。

本書を作るにあたっては、数多くの組織、人々に取材し、協力や資料提供をあおいでいる。書物の流れについて明らかにする資料、あるいは書物の仲立ちとなった人々や機関についての資料は、書物になるどころかいまだ充分に収集、保存や調査の対象とさえなっていない場合がしばしばある。本書は新たな研究方法、調査方法の提案、実践であるとともに、これまで顧みられなかったそうした資料に新たな意味、価値を見出していく試みでもある。これら協力機関、人々のすべてをあげることはとうていできないが、主な協力者については巻末に掲げることとした。本書はこれらの人々の存在によって出来上がったものである。