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長谷川公一 著

『脱原子力社会の選択 増補版』
――新エネルギー革命の時代


四六判448頁

定価:本体3500円+税

発売日 11.7.10

ISBN 978-4-7885-1245-0

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◆緊急出版! フクシマ事故までの15年!◆

『週刊朝日緊急増刊 朝日ジャーナル原発と人間』を読むと、安全審査、被曝、過酷な現場など、原子力発電の驚くべき実態と政府の甘さが次々と明るみに出されています(長谷川公一「もう一つのチェルノブイリ」参照)。本書は、カリフォルニアの原発閉鎖と新エネルギーを紹介して反響を呼びましたが、増補版では福島原発事故までの15年を徹底検証します。JCO事故をはじめ相次ぐ事故やトラブル隠し、経産省の耐震審査の緩み、メディアの沈黙など、まさに失われた15年だったのです。社会科学的観点から長年の安全軽視を許した原子力ムラの政治支配を厳しく検証し、ただちに脱原子力を宣言し、安全規制を強化するよう、政府に強く求めています。


脱原子力社会の選択 増補版 目次

脱原子力社会の選択 増補版 まえがき

◆書評
2011年9月1日、クレヨンハウス通信

◆増補版前の書評
1996年8月18日、東京新聞、中沢志保氏評
1996年8月18日、河北新聞
1996年9月、出版ニュース中旬号
1996年9月1日、西日本新聞、中沢志保氏評
1996年9月8日、日本経済新聞
1996年9月25日、環境新聞
1996年10月2日、赤旗新聞
1996年10月5日、週刊ダイヤモンド、宮脇 淳氏評
1996年12月29日、東京新聞、佐々木 力氏評
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脱原子力社会の選択 増補版―目次

増補まえがき―「もう一つのチェルノブイリ」を待たねばならなかったのか
  
プロローグ 一九八九年六月の稲妻
(1)原子炉停止命令 (2)「新エネルギー革命」の夜明け
第1部 サクラメント電力公社の危機と再生
第1章 われらが電力公社
第1節 州都サクラメント
(1)もうひとつのワシントン (2)カリフォルニア・ドリーム (3)カウンティと市
第2節 住民自治の電力公社
(1)非営利の電力サービス (2)電力公社という制度 (3)サクラメントの悲願―苦渋の船出
  
第2章 ランチョ・セコ原子力発電所の悲劇
第1節 ランチョ・セコ原子力発電所の夢と現実
(1)原子力発電と経営危機 (2)期待と現実 (3)泥沼の電力公社
第2節 ランチョ・セコ原子力発電所の閉鎖
(1)初期の反対運動 (2)スリーマイルとチェルノブイリ事故の衝撃 (3)住民投票請求
(4)決戦 (5)問題は永久に終わらない (6)「六〇年世代」の勝利
  
第3章 よみがえるサクラメント電力公社
第1節 新総裁フリーマンの経営戦略
(1)大逆転 (2)原発閉鎖のバランスシート (3)カウボーイハットの新総裁
第2節 「省電力発電」―本格化したディマンド・サイド・マネジメント
(1)省電力は発電である (2)電気自動車と緑のエアコン
第3節 電源の多様化と太陽光発電で拓く未来
(1)統合資源計画 (2)ボランティアで太陽光発電 (3)規制緩和時代のSMUD

第2部 カリフォルニア、ヨーロッパそして日本

第4章 新エネルギー革命の時代
第1節 「非原子力化」に向かうアメリカ合州国
(1)原子力ブームの幻影 (2)一九七五年の転機 (3)NRCと原子力安全委員会
第2節 カリフォルニアの実験
(1)公益事業規制委員会(PUC) (2)環境派が主導権を握るとき (3)電力規制緩和問題
(4)カリフォルニアから全米へ
第3節 チェルノブイリ後のヨーロッパ
(1)チェルノブイリ事故と一九八九年以後の大転換 (2)ドイツの政策転換 (3)イギリスの電力民営化政策 (4)デンマークとスウェーデン (5)原子力―フランスの栄光 (6)「非原子力化」の背景
第4節 環境とエネルギーの調和をもとめて
(1)スケールメリット喪失の時代 (2)環境NPOとコラボレイション
  
第5章 日本の選択すべき道
第1節 岐路にたつ日本の原子力政策  246
(1)世界最大の原発大国への道 (2)原発推進の論理とその隘路 (3)原子力政策転換の契機
(4)原子力推進体制の自己維持性
第2節 二一世紀日本の選択―もう一つの道
(1)真夏の大停電 (2)電力政策四つの基本原則 (3)太陽光発電の可能性
(4)国家の電力 対 市民の電力
  
エピローグ 原子力時代の暗い影
註    文献 
  
増補 フクシマ以後の「選択」のために
(1)一五年という時間 (2)「原子力ルネサンス」の虚像と実像
(3)日本の原子力―フクシマへの道 (4)サクラメント電力公社の現在
(5)ふたたび日本の選択
増補註増補文献 
  
あとがき 増補あとがき
図表一覧・索引
装幀 日眞澄(アトリエ・ルリエ)


増補まえがき
――「もう一つのチェルノブイリ」を待たねばならなかったのか

三月一一日一四時四六分

 大地震が起きた二〇一一年三月一一日一四時四六分、あなたはどこで何をしていただろうか。

    国道四五号線を石巻市中心部から少し西に行ったところにある宮城県石巻市立女子商高の時計は、おそらく津波が押し寄せた時刻なのだろう、一五時四五分で止まったままだ。

 四月中旬、大学院生らと福島県北の新地町から宮城県の南三陸町まで、直線距離にして約一五〇キロあまり被災地域を走ってみたが、沿岸部はほぼどこも壊滅状態だ。メディアでは報じられない県北のリアス式海岸の小さな入り江も、入り江ごとに壊滅状態といっていい。石巻市中心部のように、北上川を逆流した津波の氾濫によるダメージも大きい。あらためて津波のエネルギーの大きさ、すさまじさを痛感した。千葉県北部から青森県三沢市付近まで、海岸線約二千キロにわたってこの惨状が連続するのだ。

 実際の戦場を見たことはないが、沿岸部の被災の状況は「戦場」のイメージにもっとも近い。基礎だけ残して多くの木造家屋はぶっちぎられたように流され、鉄筋の建物は、鉄筋だけが残されている。自動車が横転し、あるいはぺしゃんこにつぶされている。関西方面への出張の際によく利用していた仙台空港周辺も、空港の建物だけを残して、景色が一変していた。隣接する集落が丸ごと消えて、建物の名残とがれきだけが残っている。戦場と異なるのは、陶器のかけらだとか、布団だとか、アルバムだとか、生活の断片ががれきの中から見え隠れしていることだ。

 三月一一日一四時四六分の地震とその後の津波の襲来までは続いていた日常が、突然寸断され、暗転したことを思う。平凡な喜怒哀楽、家族の会話、仕事場での談笑。永遠に続くように思われて、そのことを疑いもしなかった昨日までの幸せが押し流され、失われたことを思って立ち尽くす。

 三月一一日のこの時間の以前と以後で、日本はすっかり変わってしまった。「第二の敗戦」である。

    私自身は、この日早めに大学から戻って、仙台市の西北の丘陵部にある自宅二階の書斎でパソコンに向かっていた。妻は出かけており、小学五年生の息子は学校だった。

 最初に少し横揺れがあり、たちまちどんどん揺れが大きくなっていった。窓の外では電線が大きく何度もたわみ、鳥の群れもあわてふためいて旋回している。本が書棚からどんどん落ちてきた。家が壊れる、と思う。大きな揺れが収まらない。今まで経験したことのないすごい地震だ。愕然とする。書棚の本やファイル類はあらかた落ちて、たちまち腰ぐらいの高さになった。私は、一月中旬に右脚を怪我し、杖をつかないと歩けない状態だった。杖を頼りに、本の上を踏みながら、書斎を脱出した。たくさんの本が積み重なったせいで、足場は意外に安定していた。両側に本棚のある廊下も本の山だった。余震が続くなか、何とか一階に降りた。一階でも書棚の本が多数落ちていた。

 余震の大きな揺れがなかなか収まらない。しばらく茫然とした。映画でも見ているみたいだ。震源地はどこか。停電しているので、車庫の車のラジオでニュースを聞いた。津波への注意を繰り返している。三陸沖が震源地とわかった。息子の同級生のおかあさんが来て、自分の子と一緒に連れ帰ってあげると申し出てくれた。やがて息子が学校から無事戻ってきた。ランドセルも外靴も学校に置いたまま、非常時用の紅白帽を被って内履きのズックで帰ってきた。クラスの女の子は泣き叫んでいたという。

 妻はなかなか戻らず、携帯電話もつながらない。一七時すぎ頃、ようやく戻ってきた。仙台駅東口の事務所で地震に遭い、教えられた迂回路をとおり、停電のため信号機のない道をおそるおそる運転してきたという。ともかく家族三人無事で良かった。

 暗くなってきたので、ろうそくを付け、たまたま前日に買ってあったカステラを夕飯代わりに食べた。宮城県沖地震がいつかは来ると覚悟はしていたが、とうとう、こういうかたちで来たのか、と思った。その夜は、断続する余震におびえながら、手回しの充電式ラジオで断片的にニュースを聞いた。どうやら、途方もないことが起こったようだ。

 二階の寝室の窓から、仙台港あたりで火災が起きているのが見えた。

 被害の大きさと深刻さに愕然としたのは、翌朝七時頃に地元紙の河北新報の朝刊が届いて以降である。こんななかでも朝刊が届いたことに感動した。「宮城震度7大津波」という大見出しで、M8・8国内最大とあった。一面の写真では、名取市南部が津波で水没し、仙台市内のビール工場の貯蔵タンクが倒れていた。福島第一原発の一、二号機で「原子力緊急事態を宣言」とあったことが気になった。

 一号機の「水素爆発」を知ったのは、一二日の一六時過ぎ頃か、前述の息子の同級生の、今度はおとうさんが教えに来てくれたからである。とんでもないことになったと思った。一号機の建屋が吹き飛んだ衝撃的な映像をテレビで目にしたのは、翌一三日朝、電気が復旧し、ライフラインがそろっている山形市の実家に身を寄せてからである。 

「もう一つのチェルノブイリ」を待たねばならなかったのか
 一九九九年に発表した「原子力発電をめぐる日本の政治・経済・社会」という論文の中で、(原子力に批判的な運動が高揚するためには)「『もう一つのチェルノブイリ』を待たねばならないのだろうか」と私は記した。原子力発電に関する講演でも、何度か、日本の原子力政策の転換のためには、もう一つのチェルノブイリ事故が必要なのだろうか、と訴えてきた。一九九六年に本書『脱原子力社会の選択』を刊行して以来のささやかな警告は、福島第一原発の事故によって不幸にも現実のものとなった。

 本書の二六三頁にも、「阪神淡路大震災、もんじゅ事故を警鐘として、女川三号機以下、今後着工予定のすべての原発建設計画を一時的に凍結し、あらためて二一世紀の日本にふさわしいエネルギー供給のあり方を根底から問い直すべきではないか」と記した。

 「原発にとって大地震が恐ろしいのは、強烈な地震動による個別的な損傷もさることながら、平常時の事故と違って、無数の故障の可能性のいくつもが同時多発することだろう。とくに、ある事故とそのバックアップ機能の事故の同時発生、たとえば外部電源が止まり、ディーゼル発電機が動かず、バッテリーも機能しないというような事態がおこりかねない」。地震学者石橋克彦氏が一九九七年に提起した「原発震災」の論文の一節だが、福島原発事故はまさにこのような事態の連鎖となった。  石橋氏は、〇八年の論文ではさらに明確に次のように「原発震災」を規定していた。
 「地震によって原発の大事故(核暴走や炉心溶融)と大量の放射能放出が生じて、通常の震災(地震災害)と放射能災害が複合・増幅し合う人類未体験の破局的災害のことである。そこでは、震災地の救援・ 復旧が強い放射能のために不可能になるとともに、原発の事故処理や住民の放射能からの避難も地震被害のために困難をきわめて、無数の命が見殺しにされ震災地が放棄される」。これもまた福島第一原発事故で現実化したことである。福島原発事故は決して想定外ではなく、このようなかたちで警告されていたのである。

 なお石橋氏は、福島第一原発事故について、田中三彦氏の指摘をふまえて、津波の影響よりも、むしろ一号機では激しい地震動によって配管の破断ないし破損が起こり、二号機では圧力抑制室の破損が生じた可能性を重視すべきだとして、地震動の過小評価によって耐震安全性が確保されていなかった疑いが濃厚だとしている。

 石橋氏らもたびたび警告してきた過酷な「原発震災」が起こってはじめて政策転換の是非が本格的に論議されるようになるということは、わが国は、歴代のわが政府は、何と、知的でないのだろうか。過去の経験や諸外国の経験から謙虚に学び、起こりうる可能性を「予見」して、対策を立てることにこそ、知性があろう。

   ふるさとを追われて
 震災後五〇日以上経った五月二日現在、全国一六万六六七一人の避難者のうち、半数の八万三四一〇人は福島県の避難者、つまり原発事故による避難者である(消防庁のまとめ)。県人口二〇二万人の約四・二%が避難を余儀なくされていることになる。このほかに、飯舘村などのように、二〇キロ圏外で、新たに「計画的避難区域」に指定され、五月末までに避難を求められている人びとが一万五〇 〇人とされる。一〇万人に近い人びとがいつ戻れるかわからない避難生活を強いられている。しかも、津波の被災地と異なって、近隣への集団的な避難や移転が難しい。生活再編への不安も大きい。

 岩手県からの県外避難者は四六四人、宮城県からは二五八三人だが、福島県からは計四四道府県に三万三八五三人が避難している。多いのは、新潟・埼玉・東京など、比較的近い九都県七四五ヶ所に、二万三六八八万人が避難している。一ヶ所平均三二人だ。一〇世帯程度か。さらに三五道府県一六六二ヶ所に、一万一六五人が避難している。親戚や知人を頼ってだろう、一ヶ所平均六人、二世帯程度の割合である(五月三日現在、福島県災害対策本部発表)。このようにバラバラの避難を余儀なくされている。

   過小評価が招いた苦難の人体実験
 五月二日、福島市内に勤務する知人が四月一ヶ月の線量計の値を示してくれた。外回りの多い仕事のためか、簡易な線量計だったが、累積で0・329ミリシーベルトもあった。このままだと、四ヶ月間の外部被曝量だけで、一般公衆の年間被曝線量限度の1ミリシーベルトを超える値である。

 放射線は五感で知覚できない。100ミリシーベルト未満の低線量の曝露では、将来のがん発症率が高まるかどうか、明らかな証拠がない。食生活や喫煙など、他の要因もかかわるために、放射線の影響かどうかを特定できないからだ。人工放射線の被曝に、これ未満なら健康への影響がないという「しきい値」があるかどうか、低線量でも直線的にがん発症率が増え、しきい値はないとみるのか、専門家の間でも見解は分かれる。放射能への感受性の高い胎児や幼児の場合には、危険性はさらに高まる。直接の被曝以外に、放射線被害をめぐる子ども自身や親などの心理的ストレスの問題もある。

 「風評被害」を嘆くのはやさしいが、しかし「風評被害」と合理的な警戒との線引きはきわめて難しい。専門家の間でもリスク評価をめぐって見解が分かれているからだ。

 福島第一原発事故は、事故から五〇日以上が経っても、収束までの期間がなお見えない、予断を許さない非常事態が続いている。国際原子力機関(IAEA)や国際放射線防御委員会(ICRP)がこれまで想定してきたのは、大事故でも一週間から一〇日程度で放射能の放出が収まるような事態である。

 放射能に高濃度に汚染された水の漏洩と放出による海洋汚染とともに、いつ収束するかわからない世界初の人体実験的な状況のまっただなかに私たちはある(図1)。

 いつ収束するのか、希望的観測として、東京電力が工程表として示した九ヶ月という努力目標的な期間があるだけだ。五月はじめの現時点でも、正確にはいつ収束するのか、避難を命じられた住民がいつ帰れるか誰もわからない。 

 そもそも原子力安全委員会の防災指針は八-一〇キロまでの避難範囲しか想定してこなかった。JCO事故などをふまえて、二〇 〇七年五月に改訂したが、その折もIAEAが、五?三〇キロの緊急防護措置計画範囲を提案しているにもかかわらず、日本では「十分な裕度を有している」として形だけの見直しにとどめてしまった。

 今回の事故で、避難指示が後手後手に回り、対象区域が泥縄的にどんどん拡大していったのは、そもそも一〇キロまでの避難範囲しか想定してこなかった過小評価が招いたつけでもある。

 政府は、一一三億円をかけて開発・運用し、放射性物質の拡散を予測する「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム」(SPEEDI)の予測結果の公表(図1参照)をためらうなど失態を繰り返した。早期に図1を公表し、的確な指示を出していたら、飯舘村のような二〇キロ圏外のホットスポットに住む住民の無用な被曝は避けえた可能性が高い。

敗戦責任 誰の敗北か
 今回の震災はしばしば「敗戦」にたとえられる。問題は誰の敗北か、である。 

 それぞれの主体が、それぞれの関係者が、この震災と原発事故に関して、自らの責任を明らかにすべきだろう。決して「総懺悔しよう」というのではない。「総懺悔」によって、各自の責任を希釈しようというのではない。

 戦争責任のように、今回の震災と原発事故に関して、それぞれに「敗戦責任」があるのではないか。自らが、どのようにかかわってきたのか、どのように無力であり、どのように「不作為」であったのか、どのように責任を引き受けるのか、ということがまず問われるべきなのではないか。

 自民党の政治家からは、核燃料サイクルに反対してきた河野太郎氏をのぞいて、これまでの原子力政策に関して何ら反省の言葉が聞こえてこないが、一九五〇年代から原子力政策を推進してきた最大の責任は、五〇年以上にわたって政権党であり続けてきた自民党にある。

 周到な準備も実力もないままに「政権交代」「生活第一」「政治主導」という幻想を掲げ、それに自らが酔い、政策転換を果たせなかった、政権与党・民主党の敗北でもある。

 二〇 〇九年九月の政権交代に国民がもっとも期待したのは、何よりも政策転換だったはずである。先進国の中では例外的にきわめて硬直的なエネルギー政策が四〇年以上にわたって続いてきたがゆえに、とりわけエネルギー政策の転換への国民的な期待は大きかったのではないか。しかしながら、衆院選マニフェストにはわずか一行「安全を第一として、国民の理解と信頼を得ながら、原子力利用について着実に取り組む」と述べていただけである。原子力利用についての理解と信頼がひろがっていないにもかかわらず、民主党政権は、原発技術の輸出をはじめ原子力推進姿勢を強めてきた。原子力推進政策についても、国民を欺いたのである。原子力偏重のエネルギー政策からの転換も、国民の期待が肩すかしをくった代表例といえるのではないか。

 原子力工学や放射線医学の研究者の大半が「原子力ムラ」の一員であることを、今回の震災をめぐるメディア報道は、はしなくも明らかにしたが、彼ら以外の大学、大学関係者の責任も小さくはない。

 社会科学においても、原子力発電について批判的な著作を発表してきた研究者は非常に少ない。口では批判的で懐疑的なことを言うが、論文として、学術的な著作として発表してきた研究者はきわめて限られている。とくに政治学者、法学者、経済学者の場合はである。電力会社への遠慮、国策への遠慮等々。一種の自己規制が働いてきたのだろう。長いものには巻かれろ、という事大主義があったのではないか。

 メディア、とくにマスメディアの責任も大きい。たとえば、今回何重にも露呈した原子力安全・保安院と原子力安全委員会の機能不全、あまたの過小評価やご都合主義、またその構造的背景たる「原子力ムラ」のなれ合いやもたれ合いを、福島原発事故以前にどれだけ論じてきただろうか。

 震災発生以来今日まで、福島第一原発事故に至った構造的な背景をふまえて、これまでの原子力政策についての紙面のあり方、報道のあり方を批判的に自己検証した新聞や放送局があるだろうか。巨大な広告主である電力会社に対する遠慮や迎合はなかったのか。全国紙、地方紙、それぞれに自己検証が必要なのではないか。マスメディアも、「原子力ムラ」から独立していたのだろうか。「原子力ムラ」を黙認し、あるいは支えてきたのではないか。

 むろん、一九九六年の巻原発住民投票における新潟日報、核燃料サイクル施設をめぐる東奥日報、JCO事故を被爆地広島の視点から受け止めた中国新聞の報道に代表されるように、地方紙の長年にわたる地道な報道が光っている例もある。全国紙の地方版の連載から生まれた原発ルポルタージュも、優に一〇冊を超えるのではないか。

 しかし全国紙それぞれの全国版の紙面は、全体としてどうだったのだろうか。とくに経済面や科学面はどうだっただろうか。

   日本を変えよう

 日本の原子力推進政策は、一九六〇年代以来、この五〇年間基本的に変化していない。この五〇年間の社会の激変、国際社会の変化にもかかわらず、きわめて硬直的な政策が続いてきた。

 今回の福島第一原発事故がどのような政策転換に結びつくのかも、決して予断を許さない。

 一九四五年八月一五日がそうであったように、二〇一一年三月一一日を境に、日本は生まれ変わらなければならない。ただ「がんばろう」ではない。必要なのは、「日本を変えよう」、「エネルギー政策を変えよう」だ。

 この「原発震災」から社会全体が何を学ぶのか、知性と創造力と決断力が今こそ問われている。

   どん底から未来の選択へ

 どん底からの再生。本書の第3章までは、地域住民に半ば見放され、解散寸前とも目されたアメリカ合州国・カリフォルニア州のサクラメント電力公社の再生の物語である。

 本書をとおして再度訴えたいのは、カリフォルニア州サクラメントの人びとが二二年前の一九八九(平成元)年に住民投票というかたちで、トラブル続きだった原子力発電所の閉鎖を選択し、その後、エネルギーの効率利用と自然エネルギーの活用を柱に経営再建に成功したように、「脱原子力」は、社会がみずから選択し、選びとるものだということである。

 どういうエネルギーを選びとるのかは、単純にエネルギー資源の多寡に依存するのではなく、社会の側の選択の問題である。民主主義、議会、政治家のリーダーシップ、裁判所、企業、メディア、研究者、社会運動、環境運動等々をはじめとする社会のあり方、市民社会の動向と深くかかわっている。エネルギー自給率の低さが、自動的に原子力発電への依存率を規定するのではない。しかも本書で繰り返し述べたように、原子力発電の社会的コストは、社会的監視機構がどのように機能しているのかに依存する。カリフォルニアやドイツが育ててきたような市民電力公社という可能性もある。自然エネルギーは社会が育てるものでもある。

 三月一一日の大震災を生き延び、「原発震災」をまのあたりにした私たちは、どういう未来を選択すべきだろうか。本書であらためて提起したい。