戻る

遠田 勝 著

『転生する物語』
――小泉八雲「怪談」の世界


四六判272頁

定価:本体2600円+税

発売日 11.6.30

ISBN 978-4-7885-1242-9

◆amazon.co.jpへ
cover

◆紀伊國屋書店Books Web へ

◆7ネットショッピングへ



◆怪談「雪女」はどこから生まれたか?◆

ハーン・小泉八雲の「雪女」、この怖くて美しいお話はみなさんご存知で しょう。ハーンが「武蔵国の百姓から聞いた話」と断わっていることもあ って、日本の民話のなかにその起源はあると当然思われるでしょう。とこ ろが、意外や意外。著者は、このお話の類話を丹念に調べ上げ、その影響 関係をたどっていって、とんでもない結論に達してしまいます。まさに、 物語は転生するのです。読まれた方は、ミステリーにも負けない研究の面 白さを味わわれるでしょう。他にも、ハーン研究者の間では評価の高い論 文を収録して、初めてまとまった一冊の本として読めるようになりました。 物語を読むことの楽しみを満喫させてくれる力作です。


転生する物語 目次

転生する物語 まえがき

ためし読み
Loading

転生する物語―目次

はじめに

第一部 旅するモチーフ
小泉八雲と日本の民話―「雪女」を中心に
一 白馬岳の雪女伝説
二 ハーンと「民話」の世界
三 怪談作家ハーンの誕生
四 ハーンの「雪女」を読む
五 遠野への道

第二部 転生する女たち―漱石とハーン
漱石「第一夜」を読む
転生する女たち―鴻斎・ハーン・漱石再論

第三部 仲裁者ハーン
小泉八雲と武士の娘たち―「おしどり」を読む
鎮魂と慰霊の語り手、小泉八雲―夢幻能との比較を手がかりに
傷ましい仲裁の物語―「破られた約束」「お貞の話」「和解」を読む

あとがき
索引
装幀―虎尾 隆


まえがき
本書には今回、この本のために書き下ろした第一部に加えて、ハーンの『怪談』その他、物語についての五編の論文を収めるが、その内容のあらましと執筆の意図を解説して序文にかえたい。

第一部「旅するモチーフ」においた「小泉八雲と日本の民話―?雪女?を中心に」は、ひとことでいえば、ハーンの代表作である「雪女」の出典と伝播についての考証である。

ハーンが残した『怪談』のなかで、日本人にもっとも愛され、親しまれたのは、「耳なし芳一」と「雪女」であろう。しかし、「耳なし芳一」についてはハーンの依拠した原話が存在し、それがどのように加工されて、あの名作が誕生したのか、おおよその事情がわかるのに対して、もうひとつの傑作「雪女」のほうは、確たる原拠が知られていない。したがって、ハーンがどのような素材をもとに、あの美しく悲しい物語を編みあげたのか、その具体的な手順や、個々の設定・描写の狙いなどが想像できない。あの物語のどこからどこまでをハーンの創造力が作りあげているのか、それがわからないのである。いや、そもそも「雪女」という話は、日本古来の物語なのだろうか? そんな基本的な質問にさえ、ハーン研究者の答えは分裂している。

いや、実は出典についての確実な証言はある。つまり、ハーン自身が『怪談』の序文で、この物語の出典について長々と語っているのである。

「雪女」という不思議な話は、武蔵の国西多摩郡調布の百姓が、自分の郷里につたわる伝説として、わたしに聞かせてくれた話である。この話がこれまで日本語で書き留められたことがあるのかどうか、わたしは知らない。しかし、この話に記録されている異様な信仰は、確かに、日本各地に、さまざまな珍しい形で、実在したものである。



この『怪談』の序文の三分の一をしめる説明で、ハーンは一体なにを言おうとしているのだろう? 「雪女」の出典が口碑であるなら、調布の百姓に聞いた話であるという、はじめの一行だけでよく、文字に書き留められてはいないかもしれないなどと、気をまわす必要はないし、ましてや、その話のなかにある信仰は確かに実在したものであると念押しをする必要もないのではなかろうか。

ハーンが案じていたとおり、「雪女」という物語は、ハーン以前には日本語で文字に書き留められていない。ハーンの「雪女」に似た物語は、日本の伝統的説話文学には存在しないものなのである。それではそうした文字の文芸ではなく、口碑の記録のほうはどうかいうと、実はこちらには、ありすぎて困るほど多数の「雪女」物語が、全国各地に散在している。おそらく読者のうちの多くの方が、いつかどこかで、ハーンの「雪女」に似た物語を特定地方に伝わる民話として耳にしたことがあり、暗黙のうちに、ハーンの「雪女」は、そうした民話のうちのひとつを芸術的に書き改めたものだろうと考えているのではないか。

そうした民話のうちでも、信濃と越中の国境にある白馬岳の伝説が、ハーンの「雪女」にもっともよく似ていて、ハーン研究者の一部は、調布の百姓がハーンに聞かせた話とは、この伝説にちがいないと推定してきた。

ところが、ここに困った問題がひとつ出てくる。

日本における口承の伝説や昔話、いわゆる民話の記録と研究のはじまりをどこに置くかについては諸説があるが、それを柳田国男の『遠野物語』とすれば、一九一〇年、また、東京朝日新聞社が全国の読者によびかけて集めた二五〇余編を整理刊行した、高木敏雄の『日本伝説集』だとすれば、一九一三年になり、いずれにしても、「雪女」を収める『怪談』が刊行された、一九〇四年のかなり後になってしまうのである。

つまり、いかに古い伝説や昔話の面影を残していても、それが採集記録された民話であるかぎりは、ハーンの『怪談』以前には遡れない。そうして見出され記録された民話を、ハーンの「雪女」の出典と考えるか否かは、結局は、その民話の古さを信じるか信じないかという信仰の問題になってしまうのである。

この論文のいちばんの目的は、こうして膠着してしまった「雪女」の出典問題を、従来、「口承」とされてきた民話を批判的に検討しなおすことで、解決しようというものだが、その過程で、いくつか別の問題にも目を向けている。

そのひとつは、「雪女」というモチーフがなぜ、ハーンから松谷みよ子、そして遠野の最後の語り部といわれる鈴木サツにいたるまで、これほど多くの作家や語り手によって、日本の民話として、語られなければならなかったのかという問題、さらには、そうして語り直され、語り継がれるなかで、この物語になにが付け加えられ、なにが取り除かれていったのかという物語の変容の問題である。その問題を考えるためには、まず「雪女」というモチーフの内部を探り直し、それと同時に、モチーフの外部をとりまく、社会と文化の状況を分析する必要がある。こうした作業を積み重ねることで、ハーンの『怪談』のなかで、なぜ「雪女」だけが、かくも見事に日本の土壌に根づいてしまったのかという、「雪女」をめぐる最大の謎に、ひとつの解答を与えることができたと思う。そしてまた、あの『怪談』の序文にある、ハーンの謎めいた言葉の意味にも、ひとつの解釈の可能性を示唆できたのではないかと思う。

第二部の「転生する女たち―漱石とハーン」には「漱石?第一夜?を読む」と「転生する女たち ―鴻斎・ハーン・漱石再論」の二編を収めたが、ここでは、考察の対象となるモチーフに、「お貞の話」という転生譚を選んだ。

ここで論じた、石川鴻斎「怨魂借体」、ハーン「お貞の話」、漱石「第一夜」という三つの作品は、それぞれの作家の生年でいえば、ほぼ一世代を隔ててはいるが、いずれも明治という異文化接触の時代の刻印を明確におびていて、それぞれが、漢文、英語、日本語という異なる言語で語られているばかりか、その背後にある文化と思想も、儒教、ロマン派的オリエンタリズム、そして近代日本の先鋭的な個人主義と大きく異なっている。これら三人のそれぞれに個性的な作品を「転生」という同一モチーフでくくることで明らかになるのは、第一に、鴻斎の漢文小説という古めかしい形式にこめられた意外な近代性であり、第二に、ここで漱石の「第一夜」に対し試みた、わたし自身の読みは、この物語を転生譚という伝統的な形式に戻そうというものであったが、そうした方向づけをもってしても、抑えきれない、漱石という作家のもつ、すさまじい現代性であった。その点だけに注目すれば、転生という怪談の典型的なモチーフと、家、家族という制度が、安定的に機能している鴻斎・ハーンと、それが崩壊してしまっている漱石の間には、はっきりとした境界線が存在するのであるが、転生を夢見る作家の内面に存在する、絶対的な愛の希求とマゾヒズムいう欲望に注目すれば、むしろ、作品間に影響関係を実証できない、ハーンと漱石のほうに、本質的な同一性が発見できるのである。

第三部の「仲裁者ハーン」には、「小泉八雲と武士の娘たち―?おしどり?を読む」と「鎮魂と慰霊の語り手、小泉八雲―夢幻能との比較を手がかりに」、そして「傷ましい仲裁の物語―?破られた約束??お貞の話??和解?を読む」の三編をおさめた。

「小泉八雲と武士の娘たち―おしどりを読む」では、ハーンの再話によって、仏教説話という伝統的なジャンルから逸脱してしまい、また、近代的な西洋リアリズムの短編小説にもなりきれていない「おしどり」を、どう評価すべきかという問題を取り上げた。わたしは、この作品に、物語をハーンに語り伝えた妻セツの、没落士族の娘としての意地と覚悟が色濃く投影されていることを指摘し、同様に、近年、ノンフィクションとしてのジャンルからの逸脱を史実の歪曲として厳しく批判されている「勇子」と並べることで、「君子」、「赤い婚礼」とともに、説話や伝記という形式を借りながら、没落士族の娘たちの壮絶な死を描いた、明治時代の貴重な肖像の文学として、読むことができるのではないかと提案した。

最後の二編、「鎮魂と慰霊の語り手、小泉八雲―夢幻能との比較を手がかりに」と「傷ましい仲裁の物語―破られた約束 お貞の話 和解 を読む」で取り上げたのは、モチーフではなくて、作中に作者自身が「私」として登場し、物語を中断させたり、最後に意見や感想を述べて、物語の解釈や世界観の逆転倒置をはかる、いわゆるロマンティック・アイロニーという語りの技法である。

これは、日本の伝統的な物語文学にはほとんど用いられない技巧なので、西洋文学に親しんでいるはずの研究者でさえも、ハーンの日本時代の、とくに再話物語に用いられると強い違和感を覚えるらしく、従来、あまり肯定的には評価されてこなかったのだが、ハーンは、この技法の、ロマン派文学を遙かに超える、柔軟でかつ多様な用い方の開拓者であるとわたしは信じている。

「鎮魂と慰霊の語り手、小泉八雲―夢幻能との比較を手がかりに」では、ハーンの「人形の墓」「橋の上」「漂流」という、三つのノンフィクション、ルポルタージュ風の作品に注目し、この技法が、効果の上では、「夢幻能」によく似た、死者と霊への、あるいは死滅しつつある風俗習慣への直接的な鎮魂と慰霊の語りを差し挾むための工夫であると指摘し、そうした直接的な慰霊の語り口の存在が、これらの事実としては単純で陰惨な体験・事実談を、深みと慰めのある悲劇に昇華し、ハーンの日本における例外的な人気を支えているのではないかと示唆した。

そして最後の「傷ましい仲裁の物語―破られた約束??お貞の話??和解?を読む」においては、その語りの技法が、フィクションの、いわゆる「怪談」の再話に用いられた場合をとりあげ、物語の再話に、異文化のフォークロアの採録現場という雰囲気を重ね合わせることで、作品のなかに、異文化・生死・ジェンダーと何層にも重なる、境界線を作り出し、それを擬似的にまたがせることで、読者に濃密な越境感覚を体験させ、対立する世界の「和解」をはかろうとする、仲裁者ハーンの、独創的文学世界が成立していると論じた。

以上のように、この本は、文化と生死の境界線上で、その対立を不毛なものとしないために、さまざまなモチーフと文学技法を駆使して、仲裁と和解と越境の物語を語りつづけた作家の、いくつかの主要な作品についての、新しい読解と評価を試みた論文集である。