戻る

マイケル・ビリッグ 著 鈴木聡志 訳

『笑いと嘲り』
――ユーモアのダークサイド


四六判496頁

定価:本体4300円+税

発売日 11.7.5

ISBN 978-4-7885-1240-5

◆amazon.co.jpへ
cover

◆紀伊國屋書店Books Web へ

◆7ネットショッピングへ



◆笑いに潜む人間の陰◆

笑い・ユーモアといえば、無条件によいものというのが常識です。しかし 著者によれば、笑いには陰の側面があります。嘲り、からかいです。人は、 仲間と一緒のとき、よそ者や変わり者を嘲笑ったりからかったりします。 これこそ、笑いがあらゆる文化にあることの核心です。嘲笑される可能性 があるから、社会のメンバーはいつも社会環境の習慣やしきたりに従いま す。真面目な社会生活は、笑いの可能性なしには維持できないのです。あ る人には無害なちょっとしたからかいが、別の人には過酷なものになりま す。笑いのもつ、笑ってすますことの出来ない社会的・心理的意味を、本 書は理論的、歴史的に明らかにしました。批判心理学の旗手ビリッグなら ではの、読み応えある本です。

LAUGHTER AND RIDICULE Sage Publications of London,Thousand Oaks and New Delhi and Shingapore,2005


笑いと嘲り 目次

笑いと嘲り まえがき

ためし読み

小社関連書笑いを科学する

Loading

笑いと嘲り―目次

まえがき

日本語版への序
謝  辞

1章 はじめに
     本書のガイド

2章 ポジティブ・ユーモア批判
     楽しいユーモアのセンス
     真面目にユーモラス
     いいところを見る
     よくないところを見ない
     ポジティブ心理学

第1部 歴史的見地から


3章 優越理論  ホッブズと他のミソジラスト
     不信用と面目つぶし
     ルーツはプラトンに
     アリストテレスとさらなる優越性
     嘲りと社会のヒエラルキー
     ミソジラストさまざま
     トーマス・ホッブズと笑いへの疑惑
     疑惑に満ちた生涯と時代

4章 ズレ理論と紳士的な笑い
     コーヒーとココアとウィット
     ロックとズレ
     ズレとロックの後継者たち
     アディソンとコーヒーハウスのウィット
     反論されたものの回帰
     嘲りと理性
     嘲りの対象と意図
     客観的な嘲りから相対的な嘲りへ
     理性と非理性

5章 ヴィクトリア朝時代の放出理論
     ベインとスペンサーの経歴
     生物学と機能
     スペンサーと進化論
     ベインと放出
     スペンサーと放出
     スペンサーと笑いの進化
     多元的正統性へ向かって
     帽子のコメディ

6章 ベルクソンとユーモアの機能
     ベルクソンの経歴
     経験と時間
     ベルクソンが書かなかったこと
     三つの観察
     社会的機能
     必要機能と剰余機能
     滑稽なものとその機能
     身体と笑いの精神
     新奇なものを笑う、こわばりを笑う
     快楽と無意識的意図
     言葉なしに

7章 フロイトとジョークの隠れた秘密
     精神分析理論の背景
     『機知』の背景
     反逆的な無意識
     抑圧の理論
     ジョークとウィット
     ジョークの作業
     無害なジョークと傾向的ジョーク
     フロイトの三つの観察
     どうぞ性なしで
     人種の省略
     懲罰的な笑いの忘却
     ある結末

第2部 理論的見地から



8章 笑いと笑ワズ
     あまり愉快でない逸話
     笑いと生物学 
     ユーモアの発達
     普遍性と特殊性
     レトリックとしての笑い
     笑ワズのレトリック
     嘲ることを学ぶ 

9章 当惑、ユーモアと社会秩序
     議論の概要
     懲罰的ユーモア
     反逆的ユーモア
     反逆的ユーモアの規律機能
     社会秩序の力
     ゴフマンと当惑
     当惑を笑う
     当惑する出来事と共感的反応
     ハンス少年の当惑
     後で笑える
     規律と反逆のパラドックス

10章 おわりに二、三言

訳者解説 
邦訳文献
参考文献
事項索引
人名索引


装幀=虎尾 隆


日本語版への序
 

 ユーモアに関する私の著作が日本語版を得たことを嬉しく思う。著作家なら誰でも、自分の作品が新しい読者層へ向けて別の言語で世に出るなら喜ぶものだ。私も例外ではないのだが、同時に、少し心配している。ひどくではなく、少しということを強調しないといけないが。ユーモアに関する本ならジョークや面白おかしい言葉の例を入れないといけないが、学術的な著作もそうだ。ユーモアのヨーロッパ流の理論に焦点を当てた私の著作は、必然的にヨーロッパの例を、特にイギリスの例を入れていて、そうした例を使って理論的な核心部分を説明している。私が心配しているのは、そのようなジョークのいくつかはうまく日本まで届かないかもしれないことだ。

 北爪佐知子・近畿大学教授は最近の論文で、日本人はユーモアのセンスを欠いているという、長きにわたって定評のある、しかしかなり間違っているヨーロッパ人の考えについてふれている(Kitazume, 2010)。私が心配しているのはそのことではない。実際、私の著作はユーモアは普遍的であると主張している。ユーモアの実践がない文化はないのである。日本がこの法則の例外かもしれないと考える理由はまったくない。ユーモアは普遍的かもしれないにもかかわらず、普遍的におかしいものはない。文化の異なる人びとの間では笑うものが異なることがよくあるし、笑うのに適切と考える場面も違う。そのような違いが、別の文化に属するメンバーはユーモアのセンスを欠くとの固定観念を生むのに貢献する。「私たち」が面白いと思うものを「彼ら」は笑わないようだということが、「私たち」の目に留まることがあり、そうして「彼ら」はユーモアのセンスを欠いていると「私たち」は結論する。百年前、多くのアメリカ人たちは、イングランド人にはユーモアがないという固定観念をもち、そう信じていた(Davies, 1990)。そして今日の多くのイギリス人は必ず、アメリカ人は優れたユーモアのセンスをもっていない、とりわけ皮肉のセンスをまったく欠いていると断言するものだ。彼らが言いたいのは、イギリス人が普通にしているような皮肉を多くのアメリカ人は高く評価しないし、分かりさえしないということだ。

 もちろん、文化的な違いのあるなしにかかわらず、あらゆる皮肉には危険が伴う。同じ文化を共有するメンバーも、話者が皮肉を意図していることが分からないかもしれない。皮肉を使うとき、話者は一つのことを言いながらまったく逆のことを言おうと意図し、そして話者はそれを聞いた者が自分の皮肉な様子を分かり、言葉の文字通りの意味を逆転させることを期待する。皮肉はイギリス人の話者たちによってたくさん使われ、見知らぬ者同士の通りすがりの儀礼的な会話においてさえそうである。イギリスの島々でよくあるような、寒い、ひどい雨の日に、話者はよく「素敵な天気だね」と言う。このような状況で見知らぬ人に皮肉を言うことを勧めない文化から来た外国人は、戸惑うかもしれないし、ひょっとしたら、「というか、かなりひどい天気だと思いますけど」と応じるかもしれない。そしてイギリスの話者はこのことから、外国人は本当にユーモアのセンスがないという偏見を強める例を一つ集めることになるかもしれない。

 私が本書で皮肉を使った際、そのことが分からない外国の読者がいるおそれがある。このことは本書の最初と最後で私自身をユーモアの敵と述べる際に、特に起こりそうだ。そのような表現を、事実を文字通り述べたものと読者が受け取る可能性が大いにある。けれども外国語への翻訳を心配するとき、イギリス人と外国人が皮肉に直面した際に起こり得る違いを強調しすぎてはならないだろう。そうするなら、北爪教授が当然のように警告する間違いを犯すことになる。それに加えて私には皮肉の問題を持ち出す秘めた動機がある。皮肉が分からないのは、国や文化の違いからではない場合がある。本書のオリジナル版を読んだイギリスの評論家の何人かは私の言ったことを真に受けて、私のことをユーモアの敵を自認する人物であると批判した。彼らは皮肉を解しなかったし、私が言ったことを面白いと思わなかったのである。

 「アンチユーモア」的なことを言ったとき私は、ユーモアをそれ自体にポジティブな目的のあるものと無批判に評価し、ユーモアを素晴らしい何かであると感情的に信じる人たちに対して反論していた。オリジナルの英語版で私は、そのようにユーモアをポジティブに評価するイデオロギーを表現する用語を一つつくった。その用語は哲学においてかつてあった運動の一つ、論理実証主義にかけただじゃれを含んでいた。その運動の賛同者たちは、彼らが意味ありと認める命題についてとても厳格だったから、論理実証主義者は皮肉に対して寛大ではなかった。いずれにせよ、本書の日本語版訳者が私に知らせたことには、そのだじゃれはうまく日本語に訳すことができないそうだ。これは多くのだじゃれに伴う問題である。だじゃれは二つの意味をもつ特別な言葉がないとできない。しかし英語と日本語のような関連の乏しい言語の間では、対応する語が同じ意味の集まりを有することはなさそうで、そのためだじゃれが翻訳されるとあまり面白くない。

 これが私が心配する理由である。たぶん私が本書で使った例は英語の偶然の特徴に基づいているし、おそらく日本の読者はそれらが訳されるとすぐには分からないかもしれない。7章で私はフロイトのジョーク理論を考察している。私の考えではフロイトの理論は、いまだにユーモアのあらゆる心理学理論の中でもっとも秀でている。彼は自分の理論を、彼自身が楽しんだ言葉遊びを使って説明した。フロイトはドイツ語と英語の例を使った。彼が分析したジョークのいくつかを私は本書で紹介した。それらは個々の言葉が二つの意味をもつか、似た響きをもつ二つの別の語を一緒にして新しい第三の語をつくるかすることで、ジョークが成り立っていた。後者の一例をフロイトは、年寄りは「アネクドーティジ」に陥っていると述べた、イングランドの作家ド・クインシーから引用した。この語は正しい言葉ではなく、二つの英単語「アネクドート」(逸話)と「ドーティジ」(もうろく)を一緒にしている。この言葉遊びの巧みさは、同じ音節を共有する二つの英単語が思いがけず一緒になったことから来ているので、日本語に翻訳できるとはとうてい思えない。

 その一方で、フロイト理論を説明する同様の例が日本語にもある可能性を私は疑っていない。実際に北爪教授は日本語の文法上の複雑さのために、日本語のだじゃれが英語のだじゃれよりも(またフロイトがしばしば使ったドイツ語のだじゃれよりも)複雑になりがちなことを述べている。残念なことに私は日本語をまったく知らないため、フロイトが言いたいことをうまく説明するのに役立つ適当な日本語の言葉遊びを探す仕事に取りかかることができない。私にできるのは、日本の読者がこの欠陥に耐えてくれて、もしかしたらご自分で日本語の例を見つけて、この欠陥を埋め合わせてくれるのを祈ることだけである。私自身が理解し、本書に引用するだじゃれが非常に限定された言語からのものであることを申し訳なく思う。

 いわゆる「ジョーク」に日本の読者がときどき戸惑うことがあるかもしれないが、それほど気になさらなくてもよい。私は歴史上の例を用いることを非常に重視した。このことは、心理学理論の分析はある程度は歴史的でないといけないという私の信念から来ている。つまり心理学的概念はそれがどこに由来するのかを知らない限り、正しく理解することができないのである。実はこのことが、『笑いと嘲り』の後に書いた著作の主要なテーマである(Billig, 2008)。ユーモア理論を説明する場合、昔の時代にユーモアの性質について書いた著作家からユーモアの例を提示することが伴う。その際、現代の読者はそうした例に戸惑うことがあり、ジョークとして受け取れない。フロイトの「傘ジョーク」はその好例である。どこが面白いのか説明されない限り、現代の読者がこのジョークを理解するのは、いかなる母語の読者でも疑わしい。そして理解したとしても、現代の読者が一カ所でもこれに面白いところを見つけるのはさらに疑わしい。この点で日本の読者が、今日のイギリスやアメリカやウィーンの読者と異なっているとは考えていない。ユーモアについて言うなら、過去はときどき異国のように思えることがある。

 これには理由がある。『笑いと嘲り』で論じるように、私たちが笑う対象は、しばしば私たちが生きる社会の規範に基づいている。時代とともに規範が変われば、笑う対象も変わる。日常生活を送るためにかつては非常に重要だった規範が、後の時代では理解しにくくなる。社会規範をばかにしたり出し抜いたり、またそれに固執したりすることからおかしさが生まれる類のジョークも同じである。これが、ジョークがすぐに時代遅れになる理由の一つである。

 私が本書を通して論じたことは、笑いは基本的に社会慣習を弱めたりそれに反逆したりするということではなく、深いところで笑いはこうした規範を強め、また規範違反を取り締まっているということだ。一般に世の人びとは日常的な慣習を破ると恥ずかしい思いをするので、それに従っている。この当惑を確固たるものとし、当惑に社会生活における強制力を授けるのが、笑いである、というか、笑われることの恐怖である。誰かの当惑はそれを見ている人を大喜びさせるかもしれないが、嘲笑の対象であるのは実に嫌なことだ。この意味で笑いは社交上の懲罰のための力になり得るのであり、このことはこの力が守ろうとしている文化がいかなるものであろうと関係ない。笑いをそれ自体でポジティブに評価する人たちは、いつもこの側面を見逃している。ユーモアの別の面、残酷なダークサイドを。

 文化的・言語的な違いがあるにもかかわらず、ユーモアの普遍的機能についての私の主張が日本の状況にも適用できると思っているが、この版の読者は私の期待以上に理解してくれることだろう。さらに、日本の読者が私の文章を楽しみ、そしてユーモアの不思議さについて書いた過去の偉大な著作家に興味を抱いてくれることを私は望んでいる。特に私の念頭に浮かんでいるのは、ベルクソンとフロイト、それに一八世紀のイングランドの著作家シャフツベリー伯爵である。残念なことにシャフツベリーには本書で、彼が受けるべき賞賛を与えたとは思えない。その償いをするために次作 The Hidden Roots of Critical Psychology では、彼のオリジナリティをより正当に讃えたつもりである。いずれにせよ過去のこの著作家トリオ、ベルクソン、フロイト、シャフツベリーは、特にユーモアのトピックについては本当に読むに値する。人間の笑いの不思議さについての彼らの洞察は時代、場所、文化を越えたものである。特殊なユーモアの例ではなく、ユーモア自体がなぜ普遍的かもしれないのかを、彼らは理解させてくれる。

    
マイケル・ビリッグ 
二〇一〇年十一月