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D・ヴィンセント 著 北本正章 監訳

マス・リテラシーの時代
――近代ヨーロッパにおける読み書きの普及と教育


四六判368頁

定価:本体3800円+税

発売日 11.09.05

ISBN978-4-7885-1238-2

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◆大規模なコミュニケーション革命◆

19世紀末にヨーロッパ全域で郵便制度が整備され、マス・リテラシーの時 代が幕開けしました。安価な均一料金によって郵便量は飛躍的に伸び、各 国の識字率がどんどん上がりました。誰もが自分で手紙を書き、新聞や本 を読む時代が到来したのです。日本もこれを追いかけたことは言うまでも ありません。この時代に、ヨーロッパの民衆は読み書きにどのように取り 組み、コミュニケーションを変容させ、学校や国家はどう介入したのでし ょうか? 今日のコンピュータ・リテラシーの影響を正しく見極める上で 欠かせない歴史書の待望の完訳です。

マス・リテラシーの時代 目次

目次 まえがき

ためし読み

◆書評

2012年2月26日、毎日新聞、富山太佳夫氏評

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マス・リテラシーの時代―目次

謝 辞
日本語版へのメッセージ

第1章 マス・リテラシーの勃興
第1節 ヨーロッパ単一計画 
第2節 数量把握
第3節 変化の枠組み
第4節 変化の意味

第2章 リテラシーの学習
第1節 国家
第2節 教会 
第3節 教育方法
第4節 親たち
第5節 学校教育とリテラシー

第3章 経済発展
第1節 職業と経済的繁栄
第2節 不平等
第3節 経済成長

第4章 読むこと、書くこと
第1節 声と書かれた文字
第2節 共同と私事
第3節 標準化
第4節 統制化
第5節 専門分化

第5章 リテラシーの境界域
第1節 権威
第2節 抵抗
第3節 言語
第4節 境界域の再設定

原 注
訳 注
監訳者あとがき
事項索引・人名索引


装幀 谷崎文子


マス・リテラシーの時代 日本語版へのメッセージ

このたび、ヨーロッパにおけるマス・リテラシーの勃興に関するわたしの研究を、日本の読者の皆様にお届けする運びとなりましたことを光栄に存じます。マス・コミュニケーションがわたしたちの生活と文化のあらゆる側面を変容させつつある今日にあって、一九世紀から二〇世紀初頭にかけて民衆コミュニケーションに生じた最初の大規模な革命の歴史を理解しておくことは重要です。近代化を遂げつつあった当時の社会では、リテラシーが広まる速さは、現在わたしたちが直面している情報技術の波よりゆるやかでしたが、それを引き起こした要因は今日と同じくらい複雑で、それがもたらした結果も同じように深淵でした。〔文書を読み書きする〕テクスト・リテラシーが発達した原因と、それがもたらした結果を検討することは、今日のコンピュータ・リテラシーの影響がいかなる文脈にあるのかを示してくれるだけでなく、わたしたちの時代に現在生じている変化は著しく速い、としばしば誇張される主張を正しく見極める上で必要なバランス感覚をもたらしてくれるに違いありません。

日本語版の読者の皆様は、本書で提示しております歴史において、貴国との類似点をたくさん見いだされることでしょう。その理由のひとつは、本書が考察対象にしている時期は、かつてマーシャル・マクルーハンが地球村と表現した時代の幕開けだったからです。大衆教育のイデオロギーと、大衆教育をどのような方法で達成するかについて、一八世紀以降さまざまな理念が、社会的・経済的・政治的な改革課題に取り組んでいたヨーロッパと周辺諸国に流布しはじめておりました。貴国日本において、一八七二年〔明治五年〕に義務制の基礎教育が発足したのが、近代化が先に進行したヨーロッパ諸国の包括的な公教育制度の制定期と奇しくも同じ時期であったのは、単なる偶然の一致ではないでしょう。一八七五年に創設された万国郵便連合〔UPU〕は、距離の大きさや文化の違いには関係なく、均一の郵便料金で手紙類を流通させることができる単一の通信制度で、地球上のすべての国々をひとつに結びつけようとするものでした。一九〇〇年当時、日本の国民一人あたりの郵便流通量は、イギリスの八八・九通、スペインの一二・九通と比較して、一六・七通でした。

日本語版の読者の皆様は、本書で展開している主要な分析主題になじみ深いものがあることにも気づかれるでしょう。第一に、教育への国家介入は決定的に重要でしたが、同時にそれは偶発的な出来事でもありました。今日、ヨーロッパの歴史家たちは、政府による教育介入を擁護した人びとの主張を再検討する必要性に気づきはじめています。有資格の教師と公立学校がマス・リテラシーを生みだした唯一の理由であるという主張は、今日ではもはや受け入れがたいものになっています。各地域の共同体は、近代国家が教育に介入するはるか以前から、豊かな伝統をもつ教育を担ってきましたし、実際、多くの社会では、非正規の教育制度が非常に広範囲に及ぶ教育基盤を形成しておりましたから、政府ができることはせいぜい大衆教育という野心を抱くだけでした。逆の言い方をしますと、最近、リチャード・ルビンジャー氏が、その著書『近世日本における民衆リテラシー』〔Richard Rubinger, Popular Literacy in Early Modern Japan, University of Hawai’i Press, Honolulu, 2007=R・ルビンジャー 川村肇訳『日本人のリテラシー・一六〇〇〜一九〇〇年』柏書房、二〇〇八年〕で主張されておりますように、義務教育制度の達成は、地勢と文化的伝統によって条件づけられるものなのです。日本と、近代化が先に進行したヨーロッパ各国ではともに、国家による教育支配という主張が現実のものになるまで、ほぼ一世紀あるいはそれ以上を要しました。

こうした洞察は、リテラシーの需要に研究関心が高まってきたことを反映しています。歴史研究は、家族が、非正規の教育を受けるために家族がさまざまな機会をどのように利用したのかという需要面を考察対象にする必要がありますし、そのために彼らが克服しなければならなかった文化的・物質的な不平等構造がどのようなものであったのか、その解明に焦点をあてる必要があります。わたしたちは、目先のわずかな利益のために隣人たちが、また宗教そのほかの共同体の諸集団が、しばしば運営したり組織することもあった地方の読み書き学校の存在に注意を払わなくてはなりません。今日、親たちが自分の子どもに基礎的なコミュニケーション・スキルを身につけさせようと躍起になっている社会ではどこでも、教育を与えることは複雑な戦略であると考えられるようになっておりますが、かつて寺子屋を支援していた日本の村の長たちが果たしていた役割もまた、こうした需要面のひとつであったと見ることができます。

本書のそのほかの主題は、おそらくこの日本語版をお読みになる皆様よりも、ヨーロッパの文脈において多くの論争を引き起こすことでしょう。なぜなら、日本語の文字体系が複雑であること、とりわけ一九世紀に文学・宗教・政治などの専門分野のエリートたちが使っていた漢文と、町や農村の多数の住民たちが使っていた、ひらがなあるいはカタカナという表音文字とのあいだの隔たりが拡大したことは、リテラシーを単一の尺度で測定することに直ちに警鐘を鳴らすものです。これに対して西ヨーロッパでは、識字水準を一国内で、あるいは数ヵ国のあいだで序列化することに疑問が投げかけられたのは、比較的最近でした。ヨーロッパ諸国の大半に〔日本語のひらがなと漢文のように〕分割されない言語体系が普及していたおかげで、本書は、読み方と書き方、とりわけ署名というリテラシーの指標を、おそらく日本の場合よりもはるかに多く利用しています。しかし、それにもかかわらず本書では、識字と非識字という基本的なカテゴリーに組み込まれている言語能力と言語利用に生じた決定的に重要な変化に、注意を払っております。それは、ヨーロッパ社会のすべてにおいて、言語を所有することよりも、むしろそれを活用することが重大問題であり続けていたからです。

したがって今日では、口承伝統と読み書きの伝統、あるいは大衆文化とエリート文化という既存の分類を用いることには十分慎重でなくてはなりません。読み書きができるようになった人たちが新しいスキルを使って何をしたのか、それは彼らが読むテクストによって決まったわけではなく、また、彼らがテクストを消費する際の物質的条件によって決まったわけでもありませんでした。読み書き能力は、一定の状況では権力の位階秩序を覆すこともあれば、新たな統制機関を構築することもあり得たのです。かつてヨーロッパでは、マス・リテラシーの勃興と言い表せるような出来事がありました。これは、一九世紀後半から二〇世紀初めにかけて日本でも見られた通りです。そこでは、読み方と書き方のスキルに関して量的かつ質的な変化が生じましたが、こうした変化がもたらす影響を理解する上でつねに鍵となるのは、世界のどの国においても、言語能力が実際にどのように活用され、言語がどのような文脈で利用されたかということです。

二〇〇九年一月
デイヴィド・ヴィンセント