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やまだようこ著

ことばの前のことば
――やまだようこ著作集 第1巻


A5判496頁

定価:本体4800円+税

発売日 10.12.01

ISBN 978-4-7885-1206-1

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◆やまだようこ著作集 第1巻◆

「ことば」というものが生まれる原点に戻ってみたい──。「ことばをもたないもの」である乳児の心理とその発達を通して、人間の根源の世界をとらえようと紡がれたのが、ロングセラーである著者の処女作『ことばの前のことば』ですが、本著作集第1巻では、その前後に書かれた論文8本もおさめ、著者の最初期の研究を、発展的に1冊で見通せる形にまとめました。多くの若い研究者たちに、心理学でこのような研究ができるのだという新鮮な衝撃を与え、関連諸分野にも多大な影響を与えてきた先駆的な研究の集大成、待望の刊行です!

やまだようこ著作集

ことばの前のことば 目次

ことばの前のことば あとがき

ことばの前のことばためし読み

◆書評

2011年3月12日、図書新聞、浜田寿美男氏評

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◆ことばの前のことば――目次
はじめに

I ことばの前のことば ことばが生まれるすじみち1

第1部 この本の立場  現実を理解するための生きた心理学を
1章 日常生活を見すえて
1 「私たち」という関係に立って見る
2 ひとりの子どもの行動を観る 
3 実際のやりかた 

2章 現場フィールドから理論へ
1 現場 フィールドの網目にからまれないように 
2 半具象のモデルを 
3 変化をとめて変化をみる 

第2部 三項関係の形成

3章 初期の人との通じあい
1 人への関心の原点 
2 人との関係づけ  「みる うたう」の間柄 あいだがら 
3 コミュニケーションにおける三項関係の形成 

4章 「人の世界」と「ものの世界」のむすびつき  指さしを中心に
1 指さしのはじまり 
2 指さしの初期の発達 
3 人とものをむすぶ指さし 
4 並ぶ関係 

5章 「行く」と「来る」のむすびつき  やりとりゲームを中心に
1 ボールのやりとり 
2 ものの出し入れ 
3 いないないバァー 
4 いやいやゲーム 

6章 三つの項のむすびつき  「泣き」を中心に
1 「泣き」の初期の発達 
2 要求をかなえる道具としての「泣き」 
3 手段―目的関係の形成 

第3部 静観的認識のはじまり

7章 外の世界へ取りに行くこと
1 ものとの関係づけ  「みる とる」の関係 
2 「あれは何?」  外の世界への関心 
3 外界の探索 

8章 行かないで〔ここ〕にとどまって見ること  静観的認識
1 〔ここ〕にとどまって見ること 
2 〔ここ〕にないものを見ること  静観的認識から表象へ 

9章 「はなれる」ということ  発達における離脱化と距離化の概念
1 文脈から「はなれる」 
2 〔ここ〕から「はなれる」 
おわりに 



II うたうコミュニケーション 関連する理論と方法論

10章 うたうコミュニケーションとことば 
1 コミュニケーションの原点(0歳初期~)  「うた」としてのことば 
2 遊びとやりとり(0歳後半~)  ゲームとしてのことば 
3 意味化のはじまり(1歳ころ~)  記号としてのことば 

11章 共鳴してうたうこと・自身の声が生まれること
1 共鳴して「うたう」こと  惹きこみと共振ダンス 
2 指さし  まなざしの共同化と止とどまる身体 
3 他者の声の響きから自分の声へ 
4 延滞模倣と待つ時間 

12章 擬態語「スイスイ」の意味ネットワーク 
1 スイスイの意味ネットワーク  擬音語・擬態語、かけ声 
2 s音とi音のもつ音感と語音表象 
3 音声と意味のシステム化  共感的コミュニケーション 
4 まとめ 

13章 ふれるということ  日本語の意味の心理学的分析
1 みる、ふれる、とる 
2 ふれる、さわる 
3 ふれる、ふれあう、あう 
4 ふれる、なじむ、なる 

14章 ピアジェ、ワロン、ウェルナー理論との関連
1 ものの永続性をめぐって  ピアジェの概念 
2 静観的認識と表象機能の形成をめぐって
      ピアジェ、ワロン、ウェルナーの概念 

15章 観察と記述のしかた
1 みる・記録・分析の試み 
2 子どもを観察する「目」 

あとがき 

引用文献
初出一覧
索  引

カバー写真=林 恵子/装幀=虎尾 隆 


ことばの前のことば――あとがき

 あとがき  ことばは、「龍となれ、雲おのづからきたる」というごとく、ある種の条件、ある種の基礎を整えることでおのずからなるもの、生まれるものだと考えたい。それは、主体が客体と対立的に立つのではなく、自分が見たものを他者にも見せたいと願い、共鳴し、共感し、響存する、「並ぶ関係」のなかから、生まれるのではないだろうか。(本書128頁)

 役立つか役立たないかわからない、何のためとはいえないあいまいな状態になると、そのなかの一部分だけが何かにしばられていない自由さゆえに創造的な新しいむすびつきを生むことがある。しかしそれははじめからわかっているわけではないし、大部分は、役立つという視点からみるならば、むしろマイナスになるような発達がありうるということである。  常にプラスの方向に向かう発達、「再びむすびつける」ための強力な意志を養成してきた西欧の思想は、無、あるいはマイナスへ向かう発達、あるいは実用からみればマイナスだが、見方を変えればプラスにもみえるといった、「両行(りょうこう)」する柔軟な発達観は育てなかったのではないだろうか。(本書265-266頁)

 「処女作にはその人のすべてがある」とよく言われる。まさかと思っていたが、今になって振り返ってみると、本当にそうかもしれない。

 本巻Ⅰには、私が30代で初めて出版した本『ことばの前のことば』をおさめた。さらにⅡ「うたうコミュニケーション」には、おなじころに関連して書いた著作や発展的な論考を選んで増補した。

 本巻には、その後30年以上にわたってもずっと一貫してものを考える核にしてきた「生きものとしてのことば」「ゲームとしてのことば」「並ぶ関係」「心理的場所トポス」「両行(りょうこう)」「マイナスに向かう発達」などの概念がすでに現れている。また、日本文化に根ざした発想、とりわけ「やまとことば」を大切にしたいと自覚して、自分の名前をひらがなに変えたのも初出版のときであった。それからも「うたう」「むすぶ」「はなれる」「うつす」などのキーワードを種々の文脈で発展させながら使ってきた。本巻のアプローチのしかたである質的心理学の方法論「モデル構成的現場心フィールド理学」もこのときから併行してつくってきた。  著作集を出すことにしたのは、今まで紆余曲折しながら先も見えないまま無鉄砲につきすすんできた研究があまりに多様になって、自分でもよくわからなくなったからかもしれない。20代から数えると私の心理学の研究対象は、動物、自閉症児、乳児、中年、老人、ことば、ナラティヴ、文化、描画、映画とさまざまである。研究方法も、実験、観察、フィールドワーク、インタビュー、イメージ画などさまざまで、試行錯誤の連続といってよい。

 この道ひとすじの専門家とはほど遠い。それなのに自分では、ある「こころざし」を抱きしめ、その核心をめぐりながら、ひたすら何かをひとすじに求めてきたように想うのである。だが、それが何なのか人には伝わらず、自分でもうまく説明できなかった。それが、ようやく還暦をすぎたあたりから、ああそうか……というように、核心をめぐってだんだんにむすびついてきたような気がした。  深い海にもぐって海面を見あげると光の濃淡が重なって美しいグラディエーションの「網目」が生成され変化しつづける。自分が動くと身のまわりには水の「渦巻」が生まれて遠くまで波及し、息が「泡の群れ」になっていっせいに立ちのぼっていく。そんなふうに生身の動きが意味のまとまりをもって相互にむすびつきながら動いているのがおぼろげながら見えてきたような気がした。まれには、海面から深海の底までつらぬく光の「すじみち」が青い海の中空を透き通っていくのが見えた。そこで今まで紡いできた論考を幾重にも寄せる波のように重ねて、グラディエーションをもつ織物を編んでいけば、もっとはっきりくっきり見えてくるのではないかと想った。

 しかし、求めるものが簡単にことばでつかまえられないことは、もう今ではよくわかっている。なぜなら、それは生態系や時代の波のなかで生きて変化しつづけているから、海から取り出してことばにしたとたんに、いのちを失った貝殻のようになってしまうからである。しかしせめて、過去の遺物を標本箱に入れ、カテゴリーに分け、名札をつけて博物館に陳列するのはさけたいと想った。

 貝殻ひとつひとつをそっとひそかに耳にあてると、生まれ育った海のひびき、波のひびき、風のひびきが聞こえてくるかもしれない。色や柄や形のちがう貝殻たちの群れからは、それらが自然に交響しあって、泣き声のリズム、揺れる身振り、太古のうた、イメージの文様、語りつがれる物語、さまざまなことばのざわめきやときめきが共鳴的に呼びおこされるかもしれない。

 ことばの響きが新しい響きの波紋をつぎつぎに生み出していくように、長年にわたって書いたさまざまなものを、ズレを含みながら多重に重ねあわせることで、そこからまた何か新しいいのちが生まれてくるような著作集はできないだろうか。

 しかし、またしても先の見えない無謀な試みに突進してしまったような気がする。過去の自分が書いたものに向き合うのは、歪んだ鏡を見るような複雑な気持ちである。本巻Ⅰの『ことばの前のことば』が出されたのは、「現場心フィールド理学」「質的方法」「参与観察」「当事者」「文脈」「関係性」「ナラティヴ」「三項関係」「共同注意」など、今では一般化された用語が、まだ何もなかった時代であった。この本は先駆的な役割をもった。しかし時代も変わりそのころの空気も変わった。今では伝えようと想っても伝わらないものが多々ある。歴史的使命を終えたものは、それでいいだろう。学問とは気の遠くなるような連鎖からなる。次に引き継がれる何かの踏み台になれればそれでいいからである。

 その後の乳児研究は、飛躍的に進歩しつづけている。新しい先端的研究からみると、現代の知識に合わないところや足りないところが多々ある。はじめは、少し書き直したり文献を補足したり解説しようかと想った。しかし、それが容易ではないことに気づいた。文章は、緊密に紡がれた意味の織物である。その一部を切ったりはったり、時代を経て色あせたセピア色の糸をほどいて、新しい金色の糸を別の文脈から継ぎ足しても、どこかちぐはぐになってしまうのである。

 そこで、後から付け加えることはしないで、かつて出版したときのままで、直すのは字句の統一程度にとどめることにした。この著作集から、時代を超えて意味あるものを汲みとることができるかどうかは、ひとえに読者にゆだねたいと想う。  最後に観察法や記録法に関してのみ、少し補足しておきたい。本著の観察法や記録法の記述には、やはりその時代の技術的制約があることを念頭に読んでいただきたい。

 『ことばの前のことば』が出版されたのは1987年、「みる・記録・分析の試み」が書かれたのは1982年である。今では想像もできないが、コンピュータは大型のものがようやく計算機室に備わったばかり、ビデオカメラやビデオレコーダーも巨大で高価であった。カメラは大人が手で支えられないほど重く、ビデオレコーダーはオープンリールの装置で車に乗せてようやく持ち運びできる大きさ、30分のビデオテープも高価で数本手に入れるのがやっとであった。

 これらの機器は、観察室や実験室に備わったものを使う以外には、日常的に使える条件が整っておらず、制約のほうがはるかに大きかった。

 2010年現在では、録画・録音機器の性能は飛躍的に変化し、小さくコンパクトで日常場面でも簡便に使えるようになった。記録できる情報量や正確さを比較すると、素朴な日誌記録ではあまりに不十分なことは明らかである。特に相手の行動を記述するだけではなく、研究者自身も相互行為の当事者とみなし、研究者自身の行動や言動を相手との関係性や対話のなかで省察的に記述するには、日誌研究では限界が大きい。

 私は、現在では観察やインタビューにおいて、記憶に頼る日誌的記録だけではなく、機器との併用が不可欠と考えている。特に初心者には、各種機器の使用によって複数の媒体でデータをとって比較することを積極的に勧めている。

 ただし、本著がめざしてきた基本的な姿勢は、どんなに時代が変わっても変わらないと考えている。機器や技術の進歩にだけ頼るのではなく、人々が生きている生活の文脈を大切にし、そこで起こった出来事や出会いを、長期の時間軸をもちながら、人間的な視線で丹念にていねいに記録し、ことばになりにくいものをことばにしていく作業は、いつの時代でも基本になるだろう。現場で感じた生(なま)の直感を大切にして、そこから根元的に考えていくこと、そのような研究姿勢を大切にしていきたいと想う。

 本著作集を刊行するにあたって、新曜社の塩浦暲さんと小林みのりさんには、大変お世話になった。塩浦さんは、最初の本の刊行以来、一緒に新しい険しい道をきりひらいてきた協働制作者であり、長くて曲がりくねって時間も労力もかかる狭い道を共に歩んできた同行者である。そのような歩みができるかけがえのない友人に出会えたことは、本当に仕合わせなことで感謝してもしつくせない。小林さんはまだこれからの若い編集者であり、次の世代に何かをバトンタッチしていくことができれば、それ以上のよろこびはない。

     

2010年10月   京都、高野川のほとりにてやまだ ようこ