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馬場公彦 著

戦後日本人の中国像

──日本敗戦から文化大革命・日中復交まで


A5判724頁

定価:本体6800円+税

発売日 10.09.17

ISBN 978-4-7885-1204-7

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◆日本人は中国にどのような夢を見たか?

日中戦争に負けた後、日本人は中国をどのように見てきたのでしょうか。1945年の敗戦から72年の国交回復までの間に中国では、中華人民共和国という社会主義国家の成立、文化大革命、米中接近と日中国交回復などの大変動がありました。しかしその間、正式の国交がなかったため情報も限られていました。その限られた情報源から日本人はいかなる「中国イメージ」を作り上げてきたかを、戦後、多くの読者を得てきた(今では考えられないが)論壇誌・総合雑誌とそこに執筆した論者の丹念な分析によって探ります。そこからはまた、他者を通した日本人の自画像も浮かび上がってきます。斬新な手法で描かれた、俊英による、スケールの大きな日中関係論・日本人論といえましょう。

戦後日本人の中国像 目次

戦後日本人の中国像 あとがき

ためし読み

◆書評

2010年10月3日、読売新聞、井上寿一氏評

2010年11月19日、週刊読書人、関智英氏評

2010年12月5日、朝日新聞、姜尚中氏評

2010年12月12日、毎日新聞、張競氏評

2011年1月6日、毎日新聞、新保祐司氏評

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◆戦後日本人の中国像――目次
本書を読まれる方へ
言説分析編

序 章 戦後日本の論壇における中国認識経路
その手がかりと分析方法
一 研究の課題と目的
二 総合雑誌と論壇
 1 中国論の形成要因 
 2 マス・メディアによる公論形成 
 3 総合雑誌と論壇の機能 
 4 総合雑誌と論壇の盛衰 
三 中国認識経路 
 1 学術圏における中国認識の価値体系 
 2 市民層における中国認識の価値体系 
 3 知識層における中国認識経路 
 4 日中間における認識経路 
四 認識経路の分析方法 
 1 先行関連研究 
 2 分析対象 
 3 分析方法 
五 本書の構成 

第一章 戦後日本論壇の見た新中国像 一九四五―五〇
日本敗戦・中国内戦・米ソ冷戦のはざまで
一 日本敗戦と中国内戦占領下の雑誌メディアから 
二 中国論者の交替中国学者から親日共系現代中国論者へ 
 1 新たな中国情報源①欧米ジャーナリストのルポ  
 2 新たな中国情報源②日本人の復員報告 
 3 論壇から退場する現地調査派 
 4 マルキストに批判されるシノロジスト  
三 敗戦敗戦責任・加害責任・敗戦処理をめぐって 
 1 中国「惨勝」・日本「惨敗」の要因 
 2 中国に対する恩義と贖罪 
四 内戦日本論壇に映った統一権力の相貌 
 1 中共主導の中国革命イメージ土地改革と毛沢東 
 2 中華人民共和国の国家像 
 3 国家像の多元化・相対化上海・台湾・香港・マカオ 
五 冷戦米ソ対立のなかの日中関係 
 1 アメリカの対中国政策の曲折と講和問題『中国白書』の衝撃 
 2 中国の対日本政策と日本観への注視 
 付記 検閲の実態プランゲ文庫の関連記事から 
六 党派性の濃厚な左派言説 

第二章 中ソの「平和攻勢」に動揺する日本論壇 一九五一―五五
アジアを席捲するナショナリズムとコミュニズムのなかで
一 竹のカーテンから覗いた新中国 
二 日中交流ルートの模索多様化する中国論の担い手 
 1 中国残留日本人の体験記 
 2 政財界要人の中国見聞 
 3 学術文化界識者の中国見聞 
三 アジアを拠点に国際的発言力を強める中国 
 1 アジアのナショナリズム 
 2 「民族と平和」脚光浴びる周恩来 
四 社会主義中国との平和共存は可能か 
 1 社会主義の旗幟を鮮明にする中国 
 2 思想改造運動を展開する中国 
 3 仮想敵日本との「平和共存」から日本への「平和攻勢」へ 
 4 対「平和攻勢」抵抗の拠点焦点化する台湾 
五 二分化される中国論 

第三章 日中復交論に走る亀裂 一九五六―六四
スターリン批判・中ソ対立・台湾海峡危機・中印紛争・核実験の試練
一 論壇誌の倍増と中国論の混迷 
二 いっそう幅を広げた中国論の担い手 
 1 日中復交論を牽引した諸政党 
 2 大量の戦犯の釈放と戦争責任論 
 3 欧米ジャーナリストの名著 
 4 各界の日中交流記録 
 5 土着的コミューン谷川雁の思想と行動 
三 スターリン批判から中ソ論争へ 
 1 フルシチョフ演説の衝撃 
 2 中ソ論争に翻弄される革新勢力 
四 台湾海峡危機・中印紛争・大躍進政策の失敗 
 1 台湾海峡危機と日米安保改定論議 
 2 チベット反乱から中印紛争へ 
 3 隙間から覗く無惨な大躍進政策 
五 安保改定反対闘争から核実験成功へ 
 1 中国の日本軍国主義批判キャンペーンと日本の日中国交回復国民運動 
 2 日本論壇の視界に入ってきた台湾・台湾人 
 3 中国研究の安保闘争AF財団問題 
 4 中共支持者を困惑させた中国核実験 
六 中国論に走る五本の亀裂 

第四章 文化大革命の衝撃 一九六五―六八
日本に上陸した中国革命
一 論壇を席捲した文革論議 
二 封じ込められ孤立する中国 
 1 米中対決をいかに回避するか 
 2 中国の孤立化をめぐる左右各派の論評 
三 学術文藝界の整風運動 
 1 郭沫若の自己批判 
 2 党の権力層に及ぶ整風 
四 街頭に繰り出した紅衛兵 
 1 紅衛兵の衝撃 
 2 破壊か建設か 
五 「?大宅考察組?中共を行く」 
 1 日本人の文革イメージをつくった大宅リポート 
 2 紅衛兵の本質を見抜く 
六 文化大革命の日本上陸 
 1 決裂した日本共産党と中国共産党 
 2 神格化する毛沢東 
七 文革論のバリエーション 
 1 文革批判論 
 2 文革支持論 
 3 賛否対論 
 4 シノロジストからの発言 
小 括 

第五章 文化大革命の波紋 一九六九―七二
中国革命からアジア革命へ
一 文革論議は学術圏から運動圏へ 
二 文革と同調する学生運動  
 1 紅衛兵運動は終息へ 
 2 紅衛兵運動は日本の新左翼学生運動へ飛び火 
 3 新島淳良のコミューン国家論におけるユートピアとディスユートピア 
 4 津村喬の農本主義・エコロジー論 
 5 中国研究の文化大革命CCAS 
三 文革からアジア革命へ日本経済侵略批判と入管闘争 
 1 七〇年安保改定阻止とアジア革命 
 2 華僑青年闘争委員会と新左翼運動 
 3 対アジア再侵略批判キャンペーン 
 4 『情況』の中国革命論 
四 内なる中国革命 
 1 『諸君』の本多勝一批判 
 2 中国革命の問い直し 
 3 中国革命と現在『現代の眼』特集 
五 日本における文革の顛末
 1 真相伝わらない林彪事件 
 2 連合赤軍あさま山荘事件の戦慄 
 3 日本共産党の中共批判 
 4 坂口弘の自己批判 
六 文革期中国論の特質と推移 

第六章 日中復交と歴史問題 一九七一―七二
戦争責任論を中心として
一 歴史問題の萌芽としての日中復交論 
二 日中の戦争責任区別論 
 1 中国政府の対日政策の原則 
 2 日本側の対中戦争責任論と復交論 
 3 米中接近から日中復交へ一九七一―七二年の論壇 
三 実利主義・現実主義的日中復交論  
 1 『日本及日本人』復交消極論 
 2 『文藝春秋』と『諸君』復交積極論者への批判 
 3 『自由』復交慎重論 
 4 『中央公論』復交積極論 
四 道義主義的日中復交論 
 1 『世界』復交推進論 
 2 『潮』復交キャンペーン 
 3 「掘井人」たちの功労に注目 
五 加害責任と自虐史観批判 
 1 『潮』国民の加害責任 
 2 『朝日ジャーナル』近代日本の中国認識と日本軍の加害責任 
 3 『諸君』加害責任否定論 
六 歴史問題の起源としての戦争責任論 
 1 本多勝一のルポ「中国の旅」 
 2 責任・謝罪・賠償 
 3 積み残された戦争責任問題 
七 日中復交論から歴史認識問題へ 

終 章 戦後日本の中国論における担い手と論題
総合雑誌関連記事の歴年推移を通して見た認識経路
一 研究の方法とねらい 
二 中国論の担い手たちとその推移 
三 中国論の論題と中国認識経路の変遷 
四 戦後日本が論じた同時代中国の布置 
注 

証言編
総解説 新中国に投企した人びとの肖像  
 石川 滋 学究派ジャーナリストからマクロ経済学者へ 
 竹内 実 一身で二つの生を生きる 
 山極 晃 同時代発言を行なう歴史学者 
 野村浩一 論壇と学術圏の中心からの発言 
 武藤一羊 国際連帯の可能性を求めて 
 岡部達味 価値中立的スタンスに立ち複合的分析 
 本多勝一 ファクト求め日中戦争の現場へ 
 松尾文夫 米中接近のシグナルを察知 
 北沢洋子 北京の中枢に国際連帯運動の拠点を定めて 
 中島 宏 悪条件のなかの文革期取材 
 小島麗逸 自立経済論を自己批判 
 中嶋嶺雄 論壇を席捲した中国批判の論理 
 西園寺一晃 日中友好と文革の核心にいて 
 加々美光行 「アジアのドラマ」に魅せられて 
 津村 喬 侵略戦争の記憶と紅衛兵の熱気を受けて 
あとがき 
参考文献一覧 
関連年表 
雑誌寄稿者索引 
事項索引 
人名索引 

装幀難波園子


◆戦後日本人の中国像――あとがき

 大学受験を控えた一九七六年の九月九日、高校から帰宅して、受験勉強にかかろうかとラジオのスイッチをいれたときに飛び込んできたニュースは、体中に戦慄を走らせ、一八年の懶惰の夢を破った。

 「本日午前零時一〇分、毛沢東中国共産党主席が死去しました。」
 翌日の『朝日新聞』には「主柱の死」「巨星なき中国」「巨星消えた 中国はどこへ」などの活字が躍っていた。「巨星墜つ、か……」そんな言葉が脳裏を駆けめぐった。

 中央アルプスと南アルプスに挾まれた盆地に広がる長野県伊那市の河岸段丘に建つ高校に通い、毎日のように三畳ほどの社研(社会科学研究クラブ)の部室に入り浸っていた。社研などもう流行らなくなって久しく、そこは四、五名しかいない部員とおしゃべりをしたり、早弁を掻きこんだり、受験勉強とは関係のない本を読んだりする気ままな空間だった。世間ではわれわれのことを「シラケ世代」などと呼んでいた頃のことだ。部室の窓ガラスは割れて、板で補修され、残ったガラス板に「造」「反」「有」「理」の四枚の紙が?がれそうになっていた。部室の壁には『スクリーン』という雑誌から女優のジャクリーン・ビゼットの等身大ピンナップが切り取られて塞がれていた。伊那市では金髪碧眼の女性などに御目にかかったことはなく、美人とはこういう人のことをいうのだと見惚れていた。書棚の上には、三年分くらいの雑誌『世界』のバックナンバーが置かれていた。

 「造反有理」が毛沢東の言葉であることは、そのころ岩波文庫で「実践論」「矛盾論」を読んでいたから、知識としては知っていた。「むほんを起こすには道理がある」と自分なりに訳してみると、高校生の無頼な気分に心地よい響きを伴った。だが何に造反すればよいのか、がらんどうで殺風景な部室のなかで妄想をめぐらせても、敵の顔は見えてはこなかった。

 学生運動の喧騒はとうに消え失せていた。その頃の私にとっての学生運動は、機動隊の放水を浴びながら安田講堂の屋上で身を挺して投石する学生たちの勇姿よりは、連合赤軍の立てこもった冬のあさま山荘が巨大なクレーンで吊り下げられた鉄球で解体されていく映像や、白昼の丸の内のオフィス街で、窓ガラスの破片が散乱する路上で大勢の会社員が血だらけで横たわる東アジア反日武装戦線による三菱重工爆破事件の映像の方が強烈に焼き付いていた。それはヒロイズムではなく、何か無残で自暴自棄なイメージだった。日本アルプスを越えて日本海を越えて、その頃の北京の街からも紅衛兵はとうに消えて地方の寒村に下放されていたはずだ。

 高校の文化祭で、東京の大学に通って学生運動をしていたらしいと噂に聞いた社研クラブの先輩が顔を出してくれたのをいいことに、先輩相手に私は熱っぽい政治論議を吹っかけた。その決めぜりふに、当時よく読んでいた大江健三郎の小説の題名を引き合いに出して「「見るまえに跳べ」ですよ」と言ったのを、その先輩は、「君は「遅れてきた青年」だな」と寂しそうに軽くいなしたのだった。

 市街の中心部にある伊那公園には、満蒙開拓青少年義勇軍の銅像「少年の塔」があり、通学からの帰途によく立ち寄った。上半身裸になって、犂を杖にして望郷の念に耽る細身の少年の像だ。郷里には国策に従って満洲移民として渡満した県民の悲惨な歴史が深く刻まれている。高校生の頃の私にとって中国は、徒党を組んで街路を闊歩する紅衛兵と、日本軍に蹂躙される貧しい農民とが同居する、実像の伴わないはるかかなたの異郷だった。

 急峻な山々に遮られて視界が狭まった盆地の空気が息苦しく、北方のロマンに憧れて北海道の大学に入り、中国哲学を専攻した。そこで学んだ古典中国のブッキッシュな世界は、「造反有理」のマオイズムの夢を掻きたてるものではなく、江戸の儒学者が想念していた漢学の世界に近かった。

 大学院に入って引き続き東洋哲学を専攻した年の一九八二年、初めての中国旅行に四〇日間ほど参加し、北京・南京・蘇州・上海をめぐった。北京の街路にはいたる処に「五講四美運動を展開しよう」という標語がかかっていた。現地の人に「五講」「四美」の意味を聞いても、まともに答えられる人が少ないのが意外だった。カメラを提げて街を歩くと、幾重にも人垣ができてじろじろ見られた。親しくなった中国人の学生に帰国後、中国語の辞書を引きながら拙い中国語で手紙を書き、国語辞典を贈ったが、返事はこなかった。手紙と辞典は本人に届いていたのだろうか。

 大学を出て、小さな中国専門書店に入社し、なれない東京暮らしが始まった。その会社は、外国図書の輸入業に携わる書店の中国部門が、一九六六年に分離独立して創立したものだった。日本共産党と中国共産党の決裂(同年三月)が背景にあり、日本共産党との関係を示す「代々木・反代々木」という用語が使われるのを、会社に入って初めて知った。

 入社早々、社長からは「馬場君、中国に関する本ならどんな本でも作っていい。ただし、政治モノだけはやるなよ」ときつく諭された。昼休み、職場の書庫を開けてみると、六〇年代にそこから刊行されていた、毛沢東思想を喧伝する本や、プロレタリア文化大革命の資料集が束ねられて折り重なって山のように積まれて、背表紙は半ば黄色く退色しかけているのが視界に飛び込んできて、こういう会社に入ったのかと愕然とした。

 社長は日中友好のために生涯を捧げ、国交のないころの両国間の書籍流通を通した文化交流を手がけた、中国にとっての「老朋友」であり「友好人士」であった。しかし、入社した私には、思うに任せぬ中国との事業を前に、「これが社会主義の優越性ってやつかよ」とひとりごちたり、「相手の中国人から「友好」という言葉が出たら、値引き価格で頼むということなんだよ」などと打ち明けたことがあった。文化大革命から改革開放のその間に、社長と会社にいったい何があったのか。正面から話題にするのは憚られるような、政治やイデオロギーにうんざりした空気が漂っていた。結局、私が勤務した五年弱の間に作った本は、中国語学習書や、書画・篆刻など「文房四宝」や、「唐詩選」を注釈した本ばかりだった。同時代中国から政治を除けば、そのようなものしか残ってはいなかった。

 だが、歴史の真実は時の裂け目にひょいと顔を覗かせることがある。あれは一九八八年の北京での国際図書展示会の時のことではなかったかと思うが、社長のカバン持ち兼通訳で北京に出張したさい、初日のレセプションで、社長は中国側の何かの担当者の姿を認め、駆け寄って抱きついて、「○○さんが、○○さんが、ああ……」と滂沱の涙を流しながら久闊を叙する風情であった。後から聞くと、どうも文革中に批判されて、どこかに送られたか軟禁されていたか、行方が知れなくなっていた人と思いがけず再会したらしい。中国での生活経験のない私には、中国語の語学能力もおぼつかなかった上に、日中両国の文化の翻訳能力が決定的に欠如していた。適当な訳語も思い浮かばず、立ちすくむしかなかった。

 私にとって経験のなかの中国像は、とぎれとぎれで、乱反射してぼんやりとしたままだった。本多勝一『中国の旅』に描かれた日本の皇軍に蹂躙される農民像と、西園寺一晃『青春の北京』に描かれた造反有理を叫んで北京の街頭を闊歩する紅衛兵像とをつなぐものは何もなかった。書物に書かれた内容と実際の光景に大きな乖離があった。いったい中国の何に日本の人々は熱狂し、社会変革を目指そうとしたのだろうか。マオイズムという思想が同時代の人々を立ち上がらせた魅力とは何だったのだろうか。その疑問に回答を与えてくれる文献は周りにはなかった。怒濤のような歴史の荒波が人々の人生や社会を翻弄したあと、嵐はすでに過ぎ去って、歴史の当事者だった人々はどこかくたびれていた。あの伊那の高校の部室にひらひらと?がれそうになっていた、「造反有理」の四文字のようだった。

 二〇〇八年一〇月、三十数年ぶりに母校の高校を訪れる機会のあった私は、当時の名残りを求めて、部室のあったあたりを歩いた。部室は跡かたもなくなっていた。幾つものクラブが二階建ての新しい建物に収まっていたが、「社研」のプレートが挾まった部室は、そこにはもはやなかった。

  

 その後私は別の出版社に転職し、雑誌や書籍の編集に携わり、今も現役で編集実務を続けている。本書のモチーフの核には、職務上、問い続けてきたテーマと、編集活動を通して身につけた経験知があり、二〇〇〇年に入った頃から、雑誌記事を通して同時代中国をめぐる論壇の言論活動の軌跡を辿ってみたいと思うようになった。大学院修士課程を出てからその間、四半世紀近く編集者稼業の月日が流れ、二〇〇七年四月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程に入学して学籍を得て、研究者としての学究環境に半身の状態で身を置くことになった。

 本書のもととなる博士学位請求論文「戦後日本論壇における中国論の変遷 一九四五―一九七二総合雑誌関連記事の歴年推移をたどって」を提出したのは、二〇〇九年の誕生日の翌日のことだった。入学してから二年五カ月が経過していた。二年五カ月の間、公務は通常通り継続し、昨今の激甚な出版不況に見舞われ、仕事量は増えこそすれ軽減されることはなく、容赦なく襲ってくる幾重もの難題を凌いだあとに残るのは、疲労とストレスの束だった。そのようななか、まさに寸暇を惜しんで、公務が八時に終われば、三〇分後に早大中央図書館に駆けつけて、閉館の音楽が鳴り始める九時五〇分まで粘り、周囲には「週末研究家」と称して土曜日半日を資料集めに費やしたりした。仕事・家事・学業の三重生活で、余白の時間の少ない、濃密な九〇〇日間の時間の流れだった。

 図書館での調査と自宅での執筆は、編集者というチームプレー要員とはうって変わって、たった独りの思考空間に身を置いた、孤独な長距離走者のようである。それでも、記事を担当した編集者の意図や、著者とのやりとり、原稿整理、ゲラの校正など、公刊されるまでの過程を想像しながら、職能を同じくする者同士の連帯感のようなものを感じながら、充実したひとときを堪能した。同時に、当時の中国と中国を取り巻く状況の厳しさを考えるにつけ、生原稿をインクに固定させ読書圏に流布させていくという営為にともなって、著者と出版社双方にのしかかる責任の重さに思いを馳せ、同業者として身の引き締まる思いをさせられた。本書が記事を世に送った著者と編集者の真意をどこまで正確に把握できているかどうか、文責という名の負荷に、何度もたじろぎそうになった。

 あの頃の日本人を熱狂に掻き立て、社会変革の夢を膨らませ、人生を翻弄してやまなかった同時代中国の魅力とは何だったのか。その真実に迫るには、同時代の言説空間に先入見を持たずに我が身を晒し、視界に映った実景を忠実にトレースすること、そのことこそが、私にとっての活きた思想史の方法だった。ただひたすらに四股を踏んで地盤を踏み固め、土嚢を積み上げる地道な作業の蓄積こそが、真相解明への近道であるということを愚直に信じて、拙い研究の工程をこなしてきた。

 学位請求論文は、二〇〇九年一二月二五日の計五名の主査・副査による口頭試問を経て、翌年一月二五日、アジア太平洋研究科運営委員会(教授会)にて合格と承認された。学位論文を提出するにあたっては、請求論文提出以降に気づいた誤記や付加すべき記述などを訂正・加筆し、論文をお渡しした一五名のインタビュアーから受けたいくつかの指摘を修正に反映し、さらに口頭試問での審査委員の先生方からの質問・批判・意見を踏まえた改訂を加えた。

 学術書として本書を出版するに当って、序章の一部を刈り込み、書名や各章の見出しを一部変更し、担当編集者の指摘・助言に従って行文を修正した。全体の構成には巻末に年表と索引を付加した他は大きな改変は加えなかった。

 この間、早稲田大学中央図書館、とりわけ戦後雑誌の宝庫であるバックナンバー書庫、地下二階の大学院生専用の三畳ほどの個室部屋、そして国立国会図書館には資料の調査・貸与でお世話になった。

 既発表の論文の初出を注記しておく。
 本書の第四章と第五章は下記に発表した原稿がもととなり、その後、加筆修正を加えた。
「文化大革命在日本その衝撃と波紋(上・下)」『アジア太平洋討究』第一〇・一二号、二〇〇八年三月・〇九年三月
 この邦文論文を縮約したものを中国語に翻訳していただき発表したのが次の論文である。
「「文化大革命」在日本(一九六六―一九七二)中国革命対日本的衝撃和影響」『開放時代』広州、二〇〇九年第七期
 中国で本書についての概要を寄稿することを求められたことを奇貨として、博士論文全体を要約した文章を中国語に翻訳して頂いたものが次の論文で、終章はこれをもとに増補改訂したものである。
「日本総合雑志上反映的中国形象(一九四五―一九七二)」『南開日本研究』創刊号、南開大学日本学研究院・天津(近刊)

  

 私の修士課程時代は中国哲学専攻で、中国の古典を対象にした文献解釈学であり、本書のような同時代批評・メディア学・知識社会学的研究とはほとんど接点のないものであった。学籍を置いたアジア太平洋研究科の国際関係学専攻については、研究キャリアが乏しい上に、それがいかなる学問であるのか、いまだによくわかってはいない。そのような浅学菲才の身でありながら、総合雑誌に掲載された中国関連記事の論題や論調を歴年推移でたどるという先行研究が皆無の悪路を、何とかゴール地点まで走破できたのは、要路に立つさまざまな学問の先達たちの有形無形のサポートなしには、とうてい達成しえないことだった。

 まず、大学院の指導教授であり、学位請求論文の主査に当たってくださった後藤乾一先生には、深い学恩を蒙り、数知れないほどのご指導とご助言を賜った。先生は一九九八年四月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科が創設されたとき、その構想と設置事業を主導し、初代研究科委員長を務められた。その時から、「アジタイ」は私にとって憧れの学科であり、設立後九年目に入学が認められた。

 論文の定稿を仕上げた翌日の二〇〇九年八月一〇日、故若泉敬ゆかりの地を先生と共に訪ね、福井県越前市にある故人の墓に詣で、「志」と刻まれた地球儀の形をした墓石に共に手を合わせた。それは私にとって「志」の半ばをやり遂げたことの報告の儀でもあった。

 以下、副査にあたってくださった堀真清先生(早稲田大学政経学術院教授)は、対面してご指導いただいた長文のメモだけでも六回分はあり、中国研究の専門領域に逃げ込みがちな私の研究を、広く戦後知識人の思想的営為として位置づけよ、さかしらな解釈ではなく記録に徹せよと強調され、そのために抑えておくべき基礎的文献や方法論の手ほどきを、噛み砕いてご教授くださった。もしよかったらお使いくださいと、両手に大きな手提げを提げ、膨大な書籍の恵贈に与った。紐解いてみると、文革期を中心に、当時出された関連書籍の山だった。先生はご自身のご専門以外の膨大な本を系統的に集められてこられたのを、惜しみなく手放されたのだった。

 山本武利先生(早稲田大学政経学術院教授)は、メディア研究のお立場から、論壇ジャーナリズム研究の方法について懇切にご教授いただき、さらに戦時中の延安の日本人の活動について、その独創的な研究成果をご提供いただいた。本書の序章と、日本軍の戦争責任の「区別論」を考察する上で、有用な知見として活用させていただいた。

 園田茂人先生(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授、現在は東京大学東洋文化研究所教授)は、中国をフィールドとする社会学のお立場から、中国論の言説分析を定量的かつ定性的にどう分析するのが効果的な方法か、データ処理の技術も含めて教えていただき、面接調査の手ほどきもしていただいた。

 村嶋英治先生(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授)にも、その篤実な研究姿勢からいろいろと教わることが多かった。

 副査ではないが、平素より直接のご指導を仰いでいる西村成雄先生(放送大学教授)は、一章が仕上がるごとに、不躾にもまだ生煮えのままの研究成果を送りつけ、逐条的に斧正を加えてお返しくださるという、「煉瓦を投げて玉を引き寄せる」さながらのご好意に甘え続けてきた。戦時下日本の中国認識について、先生ご自身の先行的な研究もあり、また戦後中国研究の系譜についてもインフォーマントとして耳寄り情報を授けてくださった。

 そのほか、順不同でお名前だけを記させていただくと、小島晋治先生(神奈川大学名誉教授)、石井明先生(東京大学名誉教授)、田村紀雄先生(東京経済大学名誉教授)、山田辰雄先生(慶応大学名誉教授)、国分良成先生(慶應義塾大学教授)、加藤哲郎先生(一橋大学教授)、内海愛子先生(早稲田大学客員教授)、廖赤陽先生(武蔵大学教授)、和田春樹先生(東京大学名誉教授)、酒井哲哉先生(東京大学教授)、朱建栄先生(東洋学園大学教授)、末岡実さん(フェリス女子学院大学教授)、佐藤優さん(元外交官、作家・評論家)、吉田則昭さん(立教大学講師)などの方々からも、有用な情報をご提供いただいたり、研究の個人指導をいただいた。

 インタビューをさせていただいた方々には、私の研究論文のために貴重なお時間を割いてくださったばかりか、証言編に採録するさいに、懇切なお手入れをいただいたことに、改めて深甚の謝意を表したい。

 とりわけ、野村浩一先生(立教大学名誉教授)、加々美光行先生(愛知大学教授)には、採録した質疑応答以外に、研究上のご助言を惜しみなくいただき、私の話に真剣に耳を傾けてくださるその姿勢に鼓舞され、ゴールがなかなか見えない長距離走の持久力を授けていただいた。

 お名前は記さないが、北京・天津・広州などにおいて、現地の多くの中国人学者から日本研究の概況や中国人の日本観について、貴重な情報や証言をいただいた。

 私と同じように、子育ての手のかかる時期を過ぎて、やおら社会人研究者としてキャリアを積み始めた福岡愛子さん(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍)は、私と同じように言説分析のアプローチで中国の文革論の研究をなさる先輩である。昨年度の大平正芳記念賞を受賞された『文化大革命の記憶と忘却』(新曜社、二〇〇八年)の偉業に敬服し、同学としてのご助言を受けながら、そのお背中を見ながら走ってきた。福岡さんは博論では日本の文革論の言説分析をなさるという。果たして私の拙い研究が彼女にとって参照価値のあるものになりえているだろうか。

 後藤ゼミの修士課程・博士課程の学友たちは、ゼミでまだまとまらない状態の研究発表を聞かされるいわば第一読者であった。そこでの厳しくも温かい質問や意見は、自分の関心系に閉じこもりがちな研究を開放系のものに切り替えていく上で、貴重な修練の場になった。そこには韓国・中国・台湾・インドネシアなど、いろいろな言語圏・文化圏を背負った多くの留学生もおり、彼らからの反応を聞くのも、よい刺激になった。例えば「論壇」「総合雑誌」という日本では周知の概念を、彼らは日本人のような皮膚感覚で捕えられないことに気づかされ、別の角度から丁寧な説明を加える必要に迫られた。また、例えば加害と被害という二分法は、必ずしも東アジア共通の戦後処理の原則ではないことを彼らの反応から思い知らされ、日本人にしか通用しない発想法の虚を衝かれることも多かった。東アジアでの歴史和解という今日的テーマに自分の研究を活かす上で、貴重な経験ともなった。

 単行本化にあたっては、編集担当の新曜社・渦岡謙一氏にお世話になった。皇居の周りをジョギングしながら、本書の「編集会議」をしたことも、市民ランナー同士ならではの、得がたい経験である。読みにくい原稿に丁寧な疑問や修正を加えてくださったこととともに、心からの感謝を申し上げたい。

 仕事・家事・学業の三重生活などと体裁の良いことを書いたが、実のところ家事は手を抜いていた。幸い二人の娘とも中学校に入学し、手をかけようにも疎んじられる年頃になっていた。それをいいことに運動会や文化祭の義理まで欠くようになっては、父親として面目ない。せめて公刊された本書でも見せて、勉学に励むようになればいいのだが、過剰な期待はしないでおこう。学業の比重を増やした分だけ妻の負担が増した。いつかこの借りの返済を迫られるときがくるだろう。そのときは、きっと利子が膨らんでいることだろう。

  

 いま稿を閉じるにあたって、インタビューをした二人のお言葉が脳裏で反発しつつ共鳴している。山田辰雄先生の「中国は壮大な実験国家である。一三億の民を統治する上で、西欧近代のやり方をそのまま当てはめてもうまくいかないし、中国独自の特殊なやり方も失敗を重ねてきた」というお言葉と、粕谷一希先生(元『中央公論』編集長、作家・評論家)の「中国に対して悪意を抱いているわけではないが、北京オリンピックで二一世紀中国が見えてきたような気がする。中国に対する反発が起きて、中国を仲間だと思わなくなっても、中国は断固として自分の意思を通すだろう」というお言葉である。

 中国はその悠久の歴史と、版図の広さ、人口の豊かさから、常に外からその存在や動向が注視される存在であった。近代以降の一五〇年間は、西洋列強や日本軍国主義の勢力圏に呑みこまれそうになる屈辱を受けながら、富強中国を目指して、試行錯誤を重ね、紆余曲折の歩みを経てきた。そのことで日本の論壇も翻弄されて、同時代的中国論の言説もまた、中国の動向に揺さぶられ続けたため、投企的で変転極まりなきものとなった。

 二一世紀に入った今、もはや中国はいくら「世界最大の発展途上国」という自意識を外に向けて言い募っても、説得力を持たなくなるだろう。一五〇年を経て、富強中国の夢が実現しつつあることは覆い隠せなくなっている。二〇一〇年の今、GDPを比較しても、今年中には中国が日本を追い越すであろうとされている。中国は国際的な責任ある大国として、国際的なシステムへの参入を模索することを迫られている。と同時に国内的にも、少数民族問題や人権活動家への弾圧、自由な言論活動への介入といった局面において、人びとの自由に対する欲求と、それを抑える党・政府という構図は、いまだに大きな課題として中国社会にのしかかっている。壮大な実験国家が大国としての存在感を増しつつあるときに、日本がどのような中国論を発し、中国に直言し、どのような中国像を投影して隣国と付き合っていくのか。いまは近代史上未曾有の事態に直面している。研究者として、編集者として、鼎の軽重が問われている。さらなる精進を続けていきたい。

     
二〇一〇年七月 西葛西の寓居にて
馬場 公彦