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エドワード・リード 著/菅野盾樹 訳

経験のための戦い
――――情報の生態学から情報の社会哲学へ


四六判272頁

定価:本体2800円+税

発売日 10.03.31

ISBN 978-4-7885-1191-0




◆われわれはいま何を経験しつつあるのか?◆

心理学に新風を吹き込んだ『アフォーダンスの心理学』(新曜社)で知られるリードは、将来を嘱望されながら42歳の若さで亡くなりました。本書は、ギブソンの生態学的心理学とデューイなどのプラグマティズムを社会哲学に応用した遺作ともいえる書です。インターネットなどのメディアの発達で、人間の「経験」はますます「間接的」なものになってきていますが、リードは独自の生態学的情報理論をもとに「直接経験」の必要性を説きます。関係性とプロセスの働きの結果としての「主体」概念から始めて、教育、労働、遊びなど多面的分野で人間的経験の復権を訴えます。新しい経験の時代に入った今、われわれは何を経験しているのか、振り返ってみるのに最適の書といえるでしょう。

経験のための戦い 目次

経験のための戦い 序

◆書評

2009年10月5日、無明舎新聞

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経験のための戦い 目次
序章 経験のための抗弁
第1章 あなたはこれまで経験を経験したことがあるか
――哲学は実在世界に直面する
現実世界から遊離した哲学者たち/経験を救うためのプラグマティックな試み
第2章 経験の哲学を探究する
デューイの自由の哲学/人間性とその鏡/進歩への展望
第3章 不確実性の恐怖と経験からの逃走
邪悪な霊/心の機械加工/現実の脅威
第4章 現代の職場における経験の衰退
お神籤入りクッキー工場にて/引き裂かれた生活、断片化された労働/ 労働の機械化
第5章 経験を共有する
世界に触れつづけること/世界に門戸を開くこと/ポスト・モダニストはなぜ寝そべってテレビ視聴に耽るのか
第6章 経験と生活への愛
行いはどうして行われるのか/エロティックな経験/経験を育むこと/すべての経験は同等につくられるのか?
第7章 経験と希望の誕生
取引という経験/<ほんもの>を超えて/経験の成長/経験を評価すること、民主主義を評価すること/希望
終章  経験のための戦い
解説をかねた訳者あとがき
文献案内
索引
装幀 桂川 潤
THE NECESSITY OF EXPERIENCE Yale University Press,1996



経験のための戦い 序章 

序章 経験のための抗弁〔plea 被告に立たされた「経験」を擁護する弁論を張るということ〕

 

いわゆる情報化時代がはらんだ種々のアイロニーには、当惑をおぼえざるを得ない。情報を処理し伝達するためのテクノロジーは、ここ数十年で急速に進んだが、テクノロジーのこの進歩にもかかわらず、人々のあいだの、意味にみちたコミュニケーションは、はなはだしく退化しつつある。その徴候は、ナショナリズム、セクト主義、そして人格への暴力の著しい高まりに認められる。また、この徴候は、われわれの「進んだ」社会に無知や無学が増加していること、そして社会の多くの場所で、頭を使わない労働が増加していること、そのつらさを解消するのは頭を使わない娯楽だけであるという事実、にも認められる。悲しいことに、われわれの多くは、この情報化時代における労働時間の大部分を、ボタンを押すことやアイコンをドラッグすること、そして他人によってつくられた記号、われわれにとって何も意味を持たない記号に、機械じみた反応をすることに費やすよう運命づけられている。こんなにも多数の人々が余暇をチャンネル・サーフィングつまりテレビのチャンネルを漫然とあちこち切り替えることに費やしているのを、誰も不思議とは思わない。

 

本書を執筆しているさなかも、ただ一種類の情報をのぞき、ありとあらゆる種類の情報が流れるようにするために、アメリカ大陸全体をおおう情報スーパーハイウェイの整備に何百万ドルもの予算が費やされつつある〔一〇九頁の注を参照〕。こうした開発から取りのこされているのが、残念ながらもっとも大切な情報なのである。これこそが、すべての人間が、見ること、聞くこと、触ること、嗅ぐこと、味わうことで環境から獲得する情報この種の情報を「生態学的」と名づけようであり、われわれが事物を独力で経験することを可能にする情報である。

 

世界に関するたいていの経験は、われわれ自身の要求と理想を基礎にして、自らの目標に役立つこの種の情報を使用することから生まれる。日常的環境にはわれわれの感覚に訴えるたくさんの情報が見いだされる。周囲の状態や日常生活の意味を理解するのに使用されるのは、こうした情報である。生態学的情報は他の人々についてのわれわれの経験にとって特に重要である。対面的な相互行為はすべての社会関係の源泉であり、こうした相互行為がどうして可能なのかといえば、生後一年のうちに、すべての健康な子供が生態学的情報を使用するのに要する、繊細な、さまざまな技能を獲得するからである。人間は、お互いについて並はずれて鋭い観察者である。顔の表情のこのうえなく繊細な変化を察知でき、声にこめられた疑いや痛みのごくささいな抑揚も聞き分けられるし、姿勢や身振りがわずかに変化したのに気づくこともできる。テレコミュニケーションが出現するまで、社会的相互行為と社会的規制のあらゆる形式を直接に基礎づけていたのは、一次的経験についてのこれらの技能であった。

 

処理情報〔処理された所産としての情報〕についていえば、本来、それにまずい点は何もない。情報を選別し処理すること、イメージ、記号、シンボルをつくることは、古くて重要な人間の活動である。われわれは自らの経験を利用して他人のために新しい形式の情報をつくりだすのが好きである。絵や歌や冗談そして物語は、炉辺で語られたお話のかたちをとるにせよ、パラボナ・アンテナからテレビに送られてくるものであるにせよ、人間の幸福にとって本質的である。しかし、経験を人と共有できるためには、前もって自分がそれを経験していなくてはならない。お互いを直接には観察できない人々が、にもかかわらず、前もってかなりの直接的・対面的な相互行為の経験をしているからこそ、テレコミュニケーションは作動する。このように、生態学的情報は、世界におけるわれわれの場所の理解にとって一次的なものであり、処理情報は二次的なものにすぎない。現代生活によって混乱をきたし劣悪になったのは、一次的経験と処理された経験の間のまさにこの関係である。この関係の比重は、本来、一次的経験により多くかかるべきものである。

 

情報が処理されるとき情報が選別され、修正され、一括され、人に差し出されるとき処理情報は、せいぜい人手を介した知識、すなわち間接的知識、を供給しうるにすぎない。いまあなたの顔を見る代わりにあなたの写真を見ているとすると、わたしがあなたに関して習得できることには本質的な制限がある。わたしがどれほど綿密に写真を調べてみても、あなたについて学ぶことはある時点で終わる。そしてこの終点から写真(画像の粒子、色、明暗)について学ぶことが始まる。しかし、わたしがあなたと対面するとき、探索や発見の可能性に制限はない。わたしには、残りの生涯のあいだ、もっとたくさん経験し、学びたい人々や顔がある。本書の読者にとってもそうであることを望みたい。自分で得た経験事物、場所、出来事、人との直接的なかかわりこそが、われわれのあらゆる知識や感情が最終的に依拠するものなのである。人手を介した経験の意味は、一次的経験に由来しそれに依存している。処理情報はなるほど価値と意味とを持っている。しかし、それらの価値と意味は、それ自身に内在する意味のおかげで現われるのではなくて、処理情報とその源泉との関係のおかげで出現するのだ。「彼は君を愛しているよ」と彼女に告げたときの彼女の笑顔について、わたしは彼に語ることができる。あるいは、あなたが自らの愛を彼女に告白して自分でその笑顔を観察することができる。これら両方のコミュニケーションの事例が意味を持っている。しかし、自分で観察することと対照して、間接経験、ものごとに関する報告を聞くことにはさまざまな違いがある。いや、後者には乗り越えられない限界がある。

 

繰り返していうと、処理情報に本来まずい点はなにもない。むしろまずいのは社会だ。つまり、だれもがどこででも利用できるような類の、ほんのちっぽけな量の処理情報をつくるために、ひどく多額の金を費やしまた、測れないほどの時間をかけて人間の努力を費やしておきながら、われわれが独力で世界を探索する手助けを、いまだにほとんど、あるいは全くしていない社会はどうかしている。処理された経験が支配的になると、特に民主主義を熱望する社会では、ひどく具合の悪いことになる。個人が人手を介した経験を自分で精査する力は結局のところ限界に到達する。限界を越えれば、われわれはだれか他人が社会に持ちこんだ方針や考えに従わなければならない(彼女は厳密にいってどのように笑ったのか。その笑顔に微妙なメッセージがあったのか)。直接経験を享受しなくなればなるほど、周囲の環境から利益を得る方法をますます学ばなくなってゆくだろうし、独力で考え、感じ、自分自身の見解に従って行動することもなくなるだろう。

 

ところがわれわれは、一次的経験を衰弱させることによって世界を組織してきた。われわれが大半の時間をささげてきた仕事、学校、余暇といった活動においては特に、いまわれわれはものごとについての(間接経験を使用する)学習を強調し、一次的経験のための機会を制限している。まるで日常生活から一次的経験を根絶することに取りかかっていると言っても過言ではない。過去百年以上の間、われわれの教育的実際行動や職業的実際行動は、実地経験に基づく徒弟制度的アプローチから「ユーザー用マニュアルQ&A併載」を用いるやり方へと移ってきた。処理情報に基づいてものごとを習得するのは言い換えれば、そのものごとに関して他人が教えてくれた内容に基づいてものごとを習得するのは、一次的経験により独力でものごとを理解することの適切な代替品だ、とわれわれは説得されてしまった。こうした事態は、藝術と工学技術あるいはビジネスと哲学などのかけ離れた分野でひとしく認められることだ。学校や職場における日常生活は、ますます間接経験が支配するようになった。この種の公共機関における規則の多くが、環境を自主的に探索すること、他人と自主的に相互行為をいとなむこと(あるいはその両方)、これらのことを制限するという明らかな目的で策定されている。

 

性生活でさえ処理された経験になっている。なるほどポルノグラフィや売春は文明と同じくらい古い。しかし、間接的であらかじめ処理された肉欲に基づく大衆的産業が盛行をきわめているのは、ただポスト・モダンの世界雑誌に始まり、いまやビデオ、コンピュータ、電話通信網にまで拡張された世界においてのみである。数百万人の性的快感が、あらゆる種類の対面的な親密さや相互依存それらが、愛なのか欲望なのか、便宜的なものか損得のためのものかは問わずから切り離されたやり方で、日々製造されていると言っても誇張でもなんでもない。確かに、少数の人々は遠隔地のあいだの電話に基づく親密な関係から利益を得ている。しかし同じくらい確かなのは、この種の性的活動の大半から、すべての有意味な社会的関係づけが奪い去られてしまったことである。我が国の人口のますます多くの割合を占めつつある人々が、親密な関係は困難であり、相互行為のともなわないセックスが当たり前だと感じている。その意味では、われわれはほぼ一世代で人間の相互行為のもっとも重要な面のひとつをまんまと覆してしまったのだ。

 

本書においてわたしは、今日われわれの多くを悩ませている心理的かつ社会的な病気歴史家のエリック・ホブズボーム〔一九一七年生まれのイギリスのマルクス主義的歴史家〕が「日常生活の募りゆく野蛮さ」と呼んだものが、主として一次的経験のための機会が衰えている点に起因する、という議論をおこなう。こうした衰えがすべての先進国と発展途上国の社会において猛威をふるっている。間接経験を重要視するために仕事、学校、余暇を組織化した結果、一次的経験のために利用できる時間が劇的に減少している。そのような組織化は、しばしば、一次的経験を手に入れようとする個人が支払うべきコストの増加をまねくことになる。一次的経験のための機会があらゆるものからマニュアルや社会的技能については言うまでもなく、自然、社会、あるいは仕事について学ぶ際にも縮小するにつれ、われわれはますます現実の世界で機能できなくなる。人々は他人がつくった偽りの現実つまり仮想現実に避難して、自分で世界に道筋をつけてゆくことがますます稀になってゆく。

 

このことは、とりわけ社会的交際に関して真実である。(仲間と一緒に遊ぶことや家族と相互行為をする経験とは異なり)社会的相互行為といえばテレビ視聴に由来する経験が支配的であるような子供は、見えない視聴者と遊んでいるつもりになり、周囲の人々と信頼しうる関係を築くことができない奇妙な生き物になる。いくつか賞賛すべき重要な例外はあるものの、現代の学校は教室のモデルとして産業向けの環境を採用している。このやり方は、子供たちの相互行為を制約し、したがって子供たちが社会的・共感的技能を発達させる機会を奪っている。それゆえ、大半の子供たちが、目覚めている時間のなかば以上を「他人が処理した情報の箱」〔テレビのこと〕に接続されて過ごすのは驚くにはあたらないだろう。相互行為の複雑なやり取りをあまり経験しないで育つ子供たちが、行為をやり取りする経験に熟達する見込みはない。まして彼らが、自らの社会的技能を改善するための時間や動機づけを見いだすはずもない。

 

クリストファー・ラッシュ〔現代アメリカ社会とその文化についての辛辣な批評で知られるアメリカの歴史学者。一九三二―九四〕が彼の遺著『エリートの反逆』〔邦訳『エリートの反逆現代民主主義の病い』森下伸也訳、新曜社、一九九七年〕で言わんとしたのは、エリート集団が、とりわけ過去半世紀において、大部分の一般大衆から自分たちを切り離したことが最近のさまざまな問題をもたらした心理学的源泉だということである。これら二つの集団の異なった関心、異なった生活パターン、そして社会的資源への異なったアクセスに、この分断が明白に見て取れる。この分断と呼応してラッシュが正しく診断しているように毎日の日常経験に対する尊敬の欠如が、きわめて現代的な社会理論や社会的実際行動における中心的教義となっている。社会理論家たちや政策立案者たちは、人々が経験や行動を自分たちで形づくるために許されている手段の数が減るにまかせ、一般大衆の態度や活動を統制することにますます関わるようになった。

 

われわれは好んで、第二次世界大戦後の時代を民主主義と機会の時代と見なしているが、社会制度や社会組織における近年の主要な革新によって、人々の経験や責任はそれほど共有化されることがなかった。社会的・経済的資源を個人が利用するうえでさまざまな改善がなされたが、これらの改善はますます大規模な文脈で生じるようになり、社会組織の階層化を招いている。非民主主義的な制度巨大企業、マンモス校、複合娯楽企業体、刑務所が人々の使用できる社会的空間を充たしつくそうとしている。これらの制度は個人の日々の生活を支配し、自律的なあるいは民衆に根ざした活動や経験のための機会をしめだしている。ラッシュのように、すばらしい経験と健全な民主主義が行なわれていた過去の黄金時代に戻るべきだと論じるつもりはない。悲しいことに、歴史は、明らかに過去においても現在と同じくらい多くの問題同じ問題ではないにせよを抱えていたからだ。わたしが論じたいのはラッシュの見解と一致するのだがわれわれは過去の過ちや成功から学べるということ、より意味があり心理学的に魅力ある未来異なった種類の人々の間に経験や尊敬が共有される本物の民主主義が許される未来を形成するべく努力できるということである。

 

これらの問題に注意を促すことはそして本書における問題の分析でさえ決して新しい企てではないし、完全に独創的だというわけでもない。本書でわたしが取り上げた問題は、さまざまに形を変えて、藝術家であり社会改革者であるウィリアム・モリス〔イギリスの詩人、デザイナー、社会思想家。アーツ・アンド・クラフツ運動の主宰者。一八三四―九六〕のよく知られた演説からハンナ・アレント〔ドイツ生まれのアメリカの政治思想家・政治理論家。一九〇六―七五〕の警告的な著作にいたるまで、ルイス・マンフォード〔アメリカの建築評論家・文明批評家・ジャーナリスト。一八九五―一九九〇〕のようなかつての地域開発プランナーの思想からハリー・ブレイヴァマン〔アメリカの社会学者・政治批評家。技術革新による労働の疎外を論じた。一九二〇―七六〕やクリストファー・ラッシュのような最近の社会批評家の理論にいたるまで、一世紀以上にわたって論じられてきた。しかし、これらの批判は知的議論にとって皮相的であるとみなされてきた。ひとつには、これらの批判の多くが建築や職人技から社会理論にいたる特定の争点に制限され集中していたからである。これらの理論家たちには自分たちの批判の一般的な含意がわかっていた。だが一般には、それらの含意の広さと力は認識されてこなかった。

 

本書の目的は、これらの批判がただひとつの根源に由来することを示すことによって、種々の批判の核心を明らかにすることである。おのおのの批判は、一次的経験を擁護する企てなのである。こうした分析が功を奏するためには、一次的経験と間接経験との種々の相違を理解しなければならない。これらの相違は一九六〇年代と一九七〇年代を通じて初めて明らかにされた。当時は知覚心理学者ジェームズ・ギブソン〔アメリカの心理学者。伝統的な要素主義的心理学に対抗するものとして、アフォーダンスの概念を機軸とした生態学的心理学を提唱。一九〇四―七九〕が新しい種類の心理学を世の中に送り出した時代だった。彼は自分の心理学を「生態学的心理学」と呼び、最初、人々や動物が環境とどのように出会うかを説明する課題に挑戦した。この種の問題についてもっとも賢明でもっとも頼りになると期待されていい人々哲学者、心理学者、教育者、社会理論家は、残念なことに時代遅れの心理学理論の影響で、われわれを一次的経験から遠ざける〔社会や文化に生じた〕多くの変化を概して支持していた。現代の経験に対する一面的な初期の批判を統合すること、そして、経験の土台を壊す力から経験を守る仕事に着手するための平凡で地道な提案をすることこれらのために、この本でわたしはギブソンの生態学的心理学が提供する洞察を用いたいと思う。

 

本書を西洋の反経験的哲学の起源、動機、そして含意を再考することから始めたい。十七世紀の科学革命は、経験にかんする抽象的でデカルト主義的な見方に完全に合致していた。この見解にかかると、事実上、一次的経験は存在しないとされてしまう。デカルト〔フランス生まれの哲学・自然科学・数学者。近代哲学の祖とされる。心身二元論を提唱した。一五九六―一六五〇〕以後、西洋の哲学者や科学者は、経験や知恵や技術的知識にかんする常識的概念を、ばらばらで主観的な感覚状態からつくられた経験という、一段と専門化した記述とすりかえる傾向にあった。最終的にデカルトが、経験を孤立した個々の心的状態と判断の行為どちらも内的かつ主観的で世界から切り離されたものと見なされたとに分割した。ジョン・デューイ〔アメリカの哲学・教育学者。人間の知性を行為と結び付けて捉え、問題解決の方法としてのプラグマティズム(道具主義的プラグマティズム)を提唱した。一八五九―一九五二〕やウィリアム・ジェームズ〔アメリカの心理学・哲学者。パースが提唱したプラグマティズムを再解釈し幅広い範囲に適用した。一八四二―一九一〇〕のようなプラグマティストたちが日常経験の価値を理解するために明らかな努力を払うようになってから、まだ一世紀しかたっていないのである。

 

しかし、われわれが経験から分離されているという事態は、決して純粋に知的な種類の問題ではない。それは、われわれの文化における日々の生活の一部である。デカルトが経験を(両方とも間接経験の変種である)二つの心的側面に分割したことは、純然たる知的な理論化の問題と見なしうるかもしれない。しかし、テクノロジーがますます広範に使用された結果、われわれの日々の生活の多くの側面において職場、学校、そして家庭においてさえ経験のこの不健全な分割が複製されたのである。いまわれわれは、デカルト派哲学者のように、ほとんど間接的情報ばかりを扱っている。

 

一次的経験をむしばみ、これを制限された劣悪な間接経験と取り換える現代のこの傾向と戦う必要がある。そのためには、間接経験を改善する可能性を見失ってはならないが、それと同時に一次的経験の重要性を適切な仕方で強調することを学ばねばならない。分析をギブソンの生態学的心理学の枠組みのなかに位置づけることによって、われわれは二種類の経験の価値を正しく評価できるようになるし、またわれわれが一次的経験の基礎を壊したときに社会が直面する格別なリスクを検討できるようになる。各人における未来への希望は、一次的経験と二次的経験とを適切に混ぜることからのみ現われる。また第七章で論じるように、二つの経験を豊かに混ぜ合わせることが、希望を社会のすみずみに行きわたらせるために必要なのだ。民主的教育と経験が成長するための潜在性の間には内的なつながりがある。このことをデューイは洞察していたが、この洞察のおかげで、日常生活における単純な変化教室や仕事場あるいは家庭におけるローテク・レベルの変化がどのようにして経験を保護するための基盤を提供するきっかけになりうるか、その経緯を理解することができる。

 

経験の破壊に抗して戦うためには、現代世界に見られる、日常経験を攻撃しようとする傾向の源泉を理解する必要がある。西洋の哲学的伝統自体に、あらゆる日常的経験を退化した経験と見なす傾きがあると言いたい。さて次章では反経験的哲学の起源に向かうことになる。