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ジャクリーン・ローズ 著/鈴木 晶 訳

ピーター・パンの場合
──児童文学などありえない?


四六判316頁

定価:本体3300円+税

発売日 09.10.28

ISBN 978-4-7885-1182-8

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◆永遠の少年ピーター・パンのベールを剥ぐ!

『ピーター・パン』はこれまで数十カ国語に翻訳され、日本でも百種類以上の翻訳が出ている世界的超ベストセラーです。「大人にならない」「永遠の少年」ピーター・パンのイメージが私たちを惹きつけるのはうなずけるにしても、なぜこれほどまでに? 精神分析学者である著者は、その純粋無垢のイメージの背後に隠されているもの、無意識のうちに私たちが隠蔽しているものを、「性としての子ども」「商品としての子ども」など従来タブーとされてきた側面から大胆に暴いていきます。「児童文学の不可能性」を喝破して児童文学関係者の間に論議を巻き起こした話題作の待望の翻訳。

ピーター・パンの場合 目次

◆書評

2010年3月5日、週刊読書人、安達まみ氏評

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◆ピーター・パンの場合――目次
目  次
ピーター・パンの場合*目次

 謝 辞
帰ってきたピーター・パン(再版への序文)
はじめに(初版への序文)
T ピーター・パンとフロイト 誰が誰に語っているのか
U ルソーとアラン・ガーナー 子どもの無垢、ことばの無垢
V ピーター・パンと児童文学 ことばの混乱
W ピーター・パンと子どもの商品化 子どもはよく売れる
X ピーター・パン、言語、国家 フック船長、イートン校に通う
結 び
 訳者あとがき
 註 271
 参考文献
 索 引

   装幀=加藤光太郎


 帰ってきたピーター・パン(再版への序文)
   「何ごとも〔たとえ例外だとしても〕いったん認められてしまえば、それが先例になるわけでして……」
 一九八八年三月十日、著作権・デザイン・特許法案が英国下院を通過した。それを受けた上院ではキャラハン卿が、修正案として『ピーター・パン』の著作権に関する〔その著作権を例外的に延長する〕案を提出した。右の引用は、それに反論したボイド=カーペンター卿のことば。(「英国議会議事録」一九八七 ― 八八年)

 「これは、あなたがたが広めてきた物語とはまったく違うものでしょう」
レズビアン版『ピーター・パン』(ロンドン、ドリル・ホール劇場、一九九一年クリスマス)で、最初は母親が、最後にはウェンディ、ジョン、マイケルまでがそう語る。

 ジェイムズ・バリが『ピーター・パン』の著作権を譲渡したロンドンのグレート・オーモンド・ストリート小児病院は、一九八七年、この作品に関する認可拒否権を失った。元労働党首相で、新しく貴族に叙せられたジェイムズ・キャラハンが上院に提出した特別修正案により、印税収入は保全されたが、『ピーター・パン』の解釈、すなわち法律用語でいう「活用(exploitation)」を管理する権利は戻らなかったのだ。それに呼応するかのように、ピーター・パンはその後、空飛ぶ〔野心ある〕ビジネスマン(映画『フック』、スティーヴン・スピルバーグ監督、コロンビア・トライスター、一九九二年)や、男装のレズビアン(一九九一年のクリスマスに、ロンドンのドリル・ホール劇場で女性劇団ドラマトリックスによって上演された作品)として登場した。この二つの解釈、すなわち成人男性とレズビアンのどちらが、子どもの無垢性により大きな侮辱を与えたかについては議論の余地があるだろうが、いずれにせよ、この二つのヴァージョンが、大人のみを対象としているわけではないとはいえ、成人向けであることは確かだ。

 一九八四年に本書の初版が出て以来このかた、子どもの無垢性はさまざまな重圧をかけられてきた。圧力をかけてきたのはまず右に挙げたような、『ピーター・パン』という古いテーマの新しい解釈だ。『ピーター・パン』のテーマは当然ながらそうした新解釈に抵抗してきた。なぜならピーター・パンの唯一の意義は、それ(または彼)が永遠に同じ姿で戻ってくるということだからである。だが圧力をかけてきたのは、それだけではない。より広範囲な文化に目を転じてみれば、子どもとの関係とは一体どのようなものかについての人びとの認識が危機に晒されている。ジェイムズ・キャラハンがかの小児病院の収入を守るための修正案を提出したというのも、皮肉といえば皮肉である。なぜならこの小児病院がかくも財政困難に陥った唯一の原因は、キャラハン内閣が一九七九年に保守党によって倒されたのと同時に始まった、国民健康保険制度への組織的な攻撃である。ある労働党の貴族は抗議した―病院に資金援助するのは劇団ではなく国家の仕事ではないか。「こんなことをしていたら、将来どんなことになるだろうか?」と。ピーター・パンは、その永遠の反復と、「唯一の例外」というその地位との間の緊張関係のせいで、先例のない問題をつねに引き起こしているようだ。そのせいで、論争では繰り返し同じことが主張される。「ユニークな状況」、「ユニークな問題に対するユニークな解答」、「けっして成長しないのはピーター・パンだけであり、私たちが無期限に続くと考えている著作権は『ピーター・パン』の場合のみである」。

 『ピーター・パン』がその完全に政治的な側面を露呈したのは、これが初めてではない。『ピーター・パン』は社会的な病の治療を期待されていたわけだが、その『ピーター・パン』が上院に登場するという奇妙な事態そのものがまさにその病の徴候だったのだ。英国における論争についていえば、先例を作ることに対する恐怖が、すでに漠然と認識されていたあることを覆い隠していた。それは何かというと、『ピーター・パン』は例外的な事例などではなくまさに典型的な事例であり、国家補助に対抗するものとしての慈善が、例外どころか規範になりつつあるということだ(「現在、私たちの社会は、より大きな隣人愛をもち、より耐え忍び、恵まれない人びとをより援助することを求められている。変化の激しいテクノロジーの時代ゆえ、三百年でも三十年でもなくおそらく三年以内に、たぶん今回と同じようなことを承認するよう求められるだろう」)。英国の保守主義は、善良な妖精―「世界中で、願いを聞き届け、善行をなす小妖精たち〔一般庶民〕」―の原理を法律にまで昇格させるいっぽう、子どものための補助金は出し渋る(子どものひとつのヴァージョン―「小妖精」―が、他の子どものために奉仕する)。このように『ピーター・パン』のおかげで、保守党の中心的で最もシニカルな政治的・イデオロギー的姿勢のひとつが露呈したといえる。

 英国上院におけるこの論争は、ひじょうに奇妙に見えるが、じつは重要な意味をもっている。というのもこの論争は、感傷的であること(「上院議員のみなさま、私は自分の大親友の一人がティンカーベルであったことを告白せねばなりません」)が、いかに罪の片棒を担いでいるかを示した。私たちは子どもに対して何をしているのか、あるいは子どものために何をしていないのか。この問いかけは、『ピーター・パン』問題をめぐる当惑という形であらわれたが、文化の他の側面では、この論争へとつながる展開と併行しつつも、それよりはるかに不穏な形をあらわしてきた。それは何か。子どもに対する性的虐待の問題である。性的虐待が広くおこなわれているとしたら、揺らぎ始めたのは子どもの無垢性などではなく、むしろ大人と子どもの境界、つまり認識できる確固とした存在としての子どもの地位である。児童虐待が私たちに突きつけるのは、限界を愚弄し、侵犯する暴力だ。閉じられているはずの身体が開かれ、境界を定める空間、すなわち肉体的にも概念的にも子どもと大人を隔てているはずの空間が侵略されはじめたのである。

 一九八〇年代の代表的トラウマのひとつともいえるこの児童虐待の発見に呼応して、今度はその無垢性が、文字通り容赦のない攻撃に晒された価値のみがもつ、新たな権威をしっかりと身につけて戻ってくる。子どもの性的虐待が現実におこなわれている(今日なお、それは真っ向から否定されることもある)という事実を強く主張するためには、頭を切り替える必要がある。ある代表的な表象の組合わせにおいては、象徴的な変化が起きた。それは部分的には古いイメージを再び変形させることだ。子どもの犠牲者はやむなく非―性化(desexualize)される。なぜなら、子どもの性欲について語ると同時に子どもの性的虐待を主張できるような、そんな便利な言語はありそうにないからだ。そこで言語そのものは無垢だとされる。子どもに虐待について語らせることはひじょうに難しいので、彼らが語るときにはそれを信じることが不可欠である(本当に性的虐待があったかどうかが疑わしい場合、言語には遊びや空想や曖昧さがあるかもしれないという発想は、ほとんど決まって子どもを疑うために用いられる)。また、とても信じられないという大人の疑念を取り除くには、子どもの声が明白で疑う余地のないことも不可欠である。さらに重要なことに、子どもは単独の虐待者たちから被害を受けたのだということになると、文化全体は、子どもに対するその責任、試練、危険を、免罪されてしまうことになる。かくして子どもはフロイト以前の性的に無垢な状態に戻り、家族が、つまり虐待者のいない家族が、ふたたび理想となる。無垢性は(第一印象に反して)概念としては奇妙に変わりやすく、その意味を担うものを広げていく。

 もし『ピーター・パン』がそうした状況に深く関連しているとすれば、すなわち、そうした出来事の枠組みに置いてみたときに新たな意味を得るとすれば、それは、『ピーター・パン』それ自体の無垢性の神話が、子どもに関するこれらすべての問題(性、言語、社会政策)の上に乗っかってきたからである。私は本書において、『ピーター・パン』が別の話を語るかぎりにおいて無垢であったこと、すなわち、ピーターが最初から担うことを期待されていた抑圧という荷の重さに応じて、彼の無垢性が主張されたのだということを論じていく。私にいわせれば、『ピーター・パン』をかくも重要なものにしているのは、『ピーター・パン』が、文化的神話として流通しながら、自らを解体している、あるいは自らを解体するためのツールを提供しているからである。ロラン・バルトは言う。「どのような神話も、その意味のまわりを仮想現実の光環が取り巻いており、その光環の中ではさまざまな他の可能な意味が浮遊している」(Barthes, 1972, p.132)。「浮遊している」「仮想現実(virtuality)」といった用語は、『ピーター・パン』の特徴である目立たぬ開放性や可能性の、人を惑わすオーラを完璧に表現している。しかしながら『ピーター・パン』の場合、仮想現実や開放性をかくもしつこく提供しているがゆえに、裏に隠されているというよりむしろ縫い目に沿って走っている難問や曖昧さに、私たちの注意が惹きつけられるのではあるまいか。

 『ピーター・パン』は、大人と子どもの関係をめぐる最も不穏で不確かなものの隠れ蓑であり、それは隠すためというより媒介するための覆いである。それは無垢というものを、子どもの特性としてではなく大人の願望の一部として提示する。そう考えれば、『ピーター・パン』に関連して、あるいはより一般的に子どもに関連して、一九八〇年代に突発的に起きた出来事は、「抑制されていたものの回帰」〔〕と見なすことができる。無垢の神話を持ち上げるのに、生まれ変わった保守主義者(アメリカの道徳的多数派)の右に出るものはない。彼らは、人間は原初無垢だったという神話、人種的純血性、ヴィクトリア朝的価値観にしがみつく。復古主義はいつも純粋性に目標を定めるものだ。実際、人種主義は『ピーター・パン』のテクストの底にあるサブテクストのひとつとしてつねに存在してきた。『ピーター・パン』は、衰退する帝国の偉大な神話のひとつとして読むこともできる。事実、「英国らしさ」と「子どもの無垢」という表現は、たがいに強化し合う語として、驚くほど頻繁に用いられる。たとえば上院の論争―「もしそのような先例に従ったら、私たちの国は、インドかどこかの奇妙な国になってしまうでありましょう」。児童虐待をめぐる論争に関するコメントのひとつ―「これが私の知っているはずの国とは似ても似つかぬ別の国だというなら話は別だが、私は(これらの)数字で示された膨大な数の児童虐待を信じることはできない」(Toner, 1987, p.21)。保守主義の復活と子どもの性的虐待というコンテクストでは、無垢性は、同時にそして交互に、不安定なものにされたり再確認されたりしてきた。おそらくそれは、かつてないほど、その本質的な絶望のいくぶんかを露呈したのだ。しかし無垢性が文化的な場面に再登場してきたときにはつねに『ピーター・パン』に学べ、と私は言いたい。

 『ピーター・パン』は、ある基本的な社会的・精神的構造を暴露する。その構造とは、無垢という家の中には倒錯が住んでいるということである。『ピーター・パン』が警告を発するのは、倒錯が無垢と無縁だからではなく、無垢のなかにはすでに倒錯がひそんでいるからだ。たとえばレズビアン版『ピーター・パン』を観たとき、私は、すごく変わっていると感じたと同時に、なぜか妙に自然だとも感じた。そもそもピーター・パンの役は伝統的に女性が演じてきたのだから、ウェンディの求愛に対するピーターの抵抗を、彼女が自分の真の欲望に気づいていない徴候と解釈して何が悪いだろう。ティンカーベルが死にかけ、観客が参加するあの有名な場面―「フェアリー〔〕を信じるなら手を叩いてください」―を額面通りに受け取って何が悪いだろう(いったんこのように演じられたものを観てしまうと、もはや以前と同じ眼で見ることはできない)。英国では、学校における「擬似家族関係」としての同性愛の奨励は違法行為とされてきた。このように同性愛嫌悪が国家の認可を受けている以上、このレズビアン版『ピーター・パン』を政治的抗議として利用することもできるだろう。ウェンディ、ジョン、マイケルはレズビアンの両親から逃げ、島で幸せな家族ごっこをして遊ぶ(ウェンディ「あちらのおぞましいママたちのことは黙っているのよ。まともな家族にはパパとママが一人ずついるものなの」)。観客は「普通」と「異常」のどちらが虚偽なのか、と自問することを余儀なくされる。正常もまた他と同じ―まったく同じではないにせよ―幻想にすぎないのではないか、と。

 そうした問いかけ、つまり性的アイデンティティの動揺は、もちろん『ピーター・パン』の初期の上演時から存在していた。ピーターの尊大ぶった女性っぽさのなかに、そしてフックの芸術の域に達した高度なわざとらしさのなかに。マージョリー・ガーバーは、その『既得権』のなかで、『ピーター・パン』においてつねに観客を魅了してきたのは、異性装〔服装倒錯〕の分割的提示だと述べている。「ピーター・パンとフック、異性装の夢と悪夢……罪も痛みも処罰も葛藤も犠牲もない逸脱。これがピーター・パンと『ピーター・パン』が示していることのすべてである」(Garber, 1992, p.184)。このように、ちょっと見方を変えただけで、『ピーター・パン』は、新しい認可証の紋章、つまりずっと昔から存在していたにもかかわらず今ようやくオープンに語れるようになった、文化的に抑圧された意味の担い手になりうるのである。

 侵犯はうっとりするような歓喜であり、純粋な喜びだ、というわけだ。しかしこれは議論を、そして『ピーター・パン』を飛躍させすぎているかもしれない。抑圧という精神分析概念によれば、無意識が、その最も恐れていることや最も大切なことを、秘密としてそれ自体のなかに隠し込んでおく、あるいは隠し込んでおこうとするのには、それなりの理由がある。努力もせずに簡単に取り除くことができるとしたら、抑圧にはなんの意味もない。認可証は、たとえそれが挑戦という形であろうと、かならず法と結びついている。もし今日、『ピーター・パン』が純粋な侵犯として解釈されるとしたら、危険なのは、それがよりよく知られた神話の反対側に単純に移され、それがかつて標榜していた、もしくは標榜しているように思われていた無垢性のイメージのたんなる裏返しと見なされることである。そうではなく、精神分析における症候と同じように、『ピーター・パン』が示しているように思われるのは、ある種の(甘さと辛さの間の)永遠の揺らぎであり、意味の柔軟性というよりむしろ弾力性である。私たちは『ピーター・パン』の「終焉の始まり」を目撃しているのかもしれない。だが『ピーター・パン』はこれまで、ブレヒトがワイマール共和国の演劇に関して述べた、「自己を再生産するためにいちばん必要なものを吸収して取り込む飛び抜けた能力」を示してきた。

 こうした『ピーター・パン』の解釈の変化は、他との関連において考えることが必要だと思われる。とくに、『ピーター・パン』がほぼ同時に生み出してきた他のまったく異なる意味と合わせて考える必要があるだろう。というのも『ピーター・パン』は、過激な再解釈がなされる一方で、文化的な病のいわば自己診断的症候になってきた。そしてその病は、新解釈よりもずっと制限された形の矯正を必要としているようだ。この方面では、『ピーター・パン』は、欠如、つまり失われた内的な目標としてあらわれる。一九八三年にアメリカで初版が発行された通俗的心理学のベストセラー、ダン・カイリーの『ピーター・パン・シンドローム』では、ピーター・パンは、現代社会の感情的現実に対処できない男性の疎外を表象している(著者は「究極的に女性に責任があるのだから、女性が一肌脱いで、男性を矯正しなくてはならない」としきりに訴える)。またスピルバーグの映画『フック』では、家族が現代の物質的猛攻を生き抜くためには、父親が人間性を回復しなければならないとされ、ピーター・パンはその人間性の一部をあらわしている(企業資本主義の最後の望みの綱としての、子ども時代への郷愁)。

 実際、このスピルバーグの映画は、ロラン・バルトが「ブルジョワ神話」と呼んだものの完璧な実例である。それは社会的・文化的格差を隠蔽し、われこそがすべての病弊の解決策であると主張することで、一般化された人間性に訴える。これはまさに、感傷的な、あるいは脆弱なリベラリズムの定義であり限界である。このリベラリズムは資本主義文化について、より根本的な挑戦や批評を必要とするとは見なさず、人間性によって修繕あるいは回復できると考える。だがスピルバーグ版『ピーター・パン』の究極の目的は資本主義、少なくとも金だと言ってもいいだろう。ハリウッド全体が不安におののきながら『フック』を見守った。財政的に破綻したハリウッドは、『フック』に物質的未来を託したのだ。

 今夜ハリウッドで催された、ジェイムズ・バリ作『ピーター・パン』の映画化である『フック』のプレミア試写は、映画産業にとってこれ以上ないほど重要な出来事だった。……ハリウッドそのものも、『フック』から教訓を引き出すことができる。バニング〔〕のように、ハリウッドはあまりに欲深く、利己的になりすぎ、やたらにコストのかかる映画ばかり作ってきた。(「『フック』に望みをかけるハリウッド」 Brooks, p.22)。

   しかしながら、『ピーター・パン』にまつわるひとつのタブーが、この十年の間に決定的に破られ、もはや後戻りはできないように思われる。それは、『ピーター・パン』の最も脆い末端というか突破点における「祝賀としての侵犯」である。劇の始まりの有名な会話で、ピーターはウェンディに言う。「ぼくは今まで誰にも触れられたことがないんだ」。けっして触れることができないから、ピーター・パンは永遠に具体性をもたないのであり(その逆ではない)、誰も寄せつけぬオーラをまとっているからこそ、神話的な地位を保ち続け、永遠の子どもであり続けるのだ。子どもはもちろんたがいに触れ合うが、それは多かれ少なかれ無邪気なものである。その意味で、幼児性欲というフロイトの概念にはつねに限界があった。なぜなら幼児性欲は、まさしく性器性欲ではなく、多形的で、焦点が定まらず、拡散しているからだ。一方では、ピーター・パンが(『フック』とドリル・ホールの両方で)不可触性の壁を越えた。他方では、子どもの性的虐待が、その同じ壁がじつは透過可能であることを暴露し、ここ十年間における最も受け入れがたい文化的ショックのひとつを生じさせた。この二つが同じ時期に起きたことはたんなる偶然ではないかもしれない。そういう視点に立って考えてみると、『ピーター・パン』は、神話というよりむしろ「崇高な対象(sublime object)」(これはリュブリャナ出身の精神分析的文化批評家スラヴォイ・ジジェクの造語)、すなわち、すべての社会的アイデンティティに属している幻想の要素を自らに惹きつけるような文化から発生した対象に見えてくる。それは隠された現実を覆い隠すのではなく、主体の欲望にまつわる最も難しく潜在的に統御不能なものを捕らえ、社会に流通させ続ける役目を果たしている。しかし、まさにアイデンティティの最も傷つきやすい点に触れているがゆえに、それはつねに潜在的な脅威を含んでいる。

 児童虐待の問題に戻るならば、この問題が、無垢が冒され、再確認されるという物語よりも多くの、そしてより難しいことを教えくれるということがわかる。児童虐待は、発見と正当な怒りという物語を提供しながら、それとは別の―物語の概念そのものや論理とは両立できなさそうな―物語をも提供する。そこでは身体・言語・性をめぐるありとあらゆる確信が消え去る。すなわち一方には〔児童虐待に対する〕確信がある。児童虐待の発見はその確信を強めると同時に、その確信を強調し、それに依存しなければならない。だがその一方で、児童虐待の発見が関係するすべての分野における―個人的および職業的―確信は組織的に否定されてきた。

 親密さから子どもに触れるのか、遊びなのか、虐待なのか。私たち大人も、子どもたちも、その違いがわからないことが多い。一九八七年、子どもの性的虐待をめぐって英国最大の論争が起きた。その中心にいたのは、英国北部クリーヴランドの小児科医マリエッタ・ヒッグスだ。その春から初夏にかけて、ヒッグスは、同僚の小児科医ジェフリー・ワイアットとともに、ミドルズブラ総合病院で合計一六五人の子どもに虐待の診断を下した(長期にわたる法廷闘争の結果、一二家族の二六人の子どもが誤診とされたが、ほとんどの疑惑が法廷で晴らされたというメディアが与えた印象とは裏腹に、彼らのほとんどが国家の援助や介入の対象となった)。ヒッグスは、虐待された疑いのある子どもを即座にその家族から引き離すその明快さと決断力で有名だったが、そのことが法的に問題にされ、公けに笑い者にされた。それでも彼女自身は講演で、虐待がつねに虐待として経験されるわけではないことや、無理強いと親密さの境界は曖昧であることを訴えている。

 子どもの身体をどのように解釈すべきか。触れると開く肛門〔〕は何を語っているのか(暴行?それとも反応?)。事件は沈黙のもとで起き、子どもの話は、暴露するのと同じくらい歪めたり保護したりする。その場合、語られたことばを信じることは何を意味するのか。語られないものを知ることはできるのか。伝えたり分かち合ったりできない知識という形においてのみ知られるものはあるのだろうか。どうしたら精神科医とソーシャルワーカー(理解することと行動すること)を両立させることができるのか。すべての反応が別の危機や論争を引き起こすとしたら、どうすべきか。ベアトリクス・キャンベルは、クリーヴランドの事件に関する素晴らしい研究である『非公式の秘密』のなかで、次のように述べている。「それは、動機も殺人者も手がかりも白状もない殺人事件と同じくらい、私たちを動揺させるものだった……何かを引き起こす危機の典型的な事例だった」(Campbell, 1988, p.5)(これは、原因という概念を危機に晒す危機、と言い換えることができる)。

 政府からクリーヴランド事件調査委員会の長に任命された控訴院裁判官エリザベス・バトラー=スロスは、「現在知られていることと、まだ知られていないことがあるという可能性との境界」を考慮するべきだった、と述べている(Butler-Sloss, 1988, p.144)。彼女の報告書は回避と解釈できるし、実際そう解釈されてきた。つまり調査委員会は、子どもが虐待されたのか否かという、誰もが知りたがっていたことについて、判決を下していない。だがその躊躇によって、条件づきではない知識や欠陥のない知識という幻想に歯止めをかけようとしていると解釈することもできよう。子どもの性的虐待は、それに取り組む人すべての、自信や信念を危機に陥れるように思われた。ソーシャルワーカーは委員会に対し、自分たちの方法に対する確信が「揺らぎ、疑問を抱くようになった」と述べ、医者は、診断という概念を全面的に定義し直さなくてはならないと述べた(「以前は病気といえば、はっきりとした症候群と、病理学的に明確な特徴と、発見可能な物理的原因をともなっていた」)。ある精神科医は、「遊びの起源と意味に関し、確信をもって解釈できるような、信頼できる規範はない」と述べている。「永遠にわからない」という可能性もあるのだ。驚くべきことに、クリーヴランド事件のような、誰もがそれについて一家言もっていた危機において(「どこへ行っても、誰と会っても、誰もがそれについて何かを言った。誰もが意見をもっていた」)、身体と言語については決定的確証は皆無だった。

 私たちは今日、そうした混乱を踏まえたうえで『ピーター・パン』にアプローチする必要があるだろう。本書の初版が出た一九八〇年代初期と現在との違いは、保守主義者たちが公然と「無垢へ帰れ」と主張していることと、価値観の混乱がまだ生々しいことだろう。まるで無垢(知識が審理される前の状態)と無知(確信が純粋な信頼を失ってしまった状態)がどちらもその極限まで引き伸ばされ、そこに新たにできたスペースに、今日『ピーター・パン』の周りに群がっているように見える過激な、あるいは再管理された意味が発生したかのようだ。だが結局のところ問題は、『ピーター・パン』の神話的な地位が(しだいにうまくいかなくなってきたとはいえ)食い止めてきた、もっと自由な性とかもっと過激な社会批判だけではないかもしれない。本書が明らかにしていくように、たしかに『ピーター・パン』は、隠された歴史の担い手であると同時に、その隠された歴史を覆うヴェールとして、神話の伝統的な機能を果たしてきた。だがいま問われているのは内容(正常な性か逸脱した性か、無垢か腐敗か)ではなく、それを通して人が子どもに近づく形式あるいは枠組みである。

 一九八〇年代における子どもの性的虐待という危機は、子どもや子どもと私たちの関係について述べる際に、私たちが一体何を話しているのか知ることをますます困難にした。別の言い方をすれば、児童虐待が私たちに教えたのは、私たちのもつ自分自身についての確かな知識を保証してくれるような答えを、子どもは提供してくれないということである。なぜなら子どもだけではなく成人もまた、すべての神話の終焉となりうるからだ。メラニー・クラインが有名な『児童分析の記録』で述べているように、成長することは絶対的な確信を得ることではなく、たんにそれを望むこと、「成長したいと望むこと」である―大人の神経症患者にとっての選択肢は幼い状態か老いた状態かであり、「その両極端の間には何もないように思われる」(Klein, 1961, p.180)。

 子どもとは何かを知らなければ、彼らの可愛さを自明のものとし、それに入れ上げることはできない。また、私たちがこの世界における精神的・性的・社会的存在としての自分に関して抱いている不安を否定するために、子どもの透明な明瞭性を用いることもできない。過去十年の間に、非常に多くの右翼イデオロギーが、自己認識の確かさ、安心感、そして確固たるアイデンティティの促進の上にのって栄えてきたが、じつは、子どもが私たちに提示してきたものによって、自己認識はどんどん掘りくずされてきたと言ってもいいだろう。それは、子どもが現代における神話の重要な担い手になってきたことの、皮肉な裏返しである。今日、変化しながらも無限に生き続ける『ピーター・パン』神話は、これまでよりもさらに根底的な不確実性に直面している。

 一九九二年九月

                              ジャクリーン・ローズ