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三浦耕吉郎 著


環境と差別のクリティーク
――屠場・「不法占拠」・部落差別


A5判232頁

定価:本体2200円+税

発売日 09.4.30

ISBN 978-4-7885-1149-1


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◆見えない対象を書く技法◆

屠場つまり食肉センター(牛や豚を屠畜・解体して食肉を生産する工場) は環境を悪化させる迷惑施設であるという周辺住民の建設反対運動から、 著者の被差別部落の調査は始まりました。「そんなこと聞いてどうする ん」という調査拒否と沈黙に真摯に向き合い、対話困難な相手から深い 語りを導いた調査の過程が、手紙やエッセイのスタイルでいきいきと描 き出されます。著者は〈批判的ソシオグラフィ〉を編み出して聞き取り を重ね、被差別の生活文化を掘り起こしてきました。〈構造的差別〉を 支える規範の正体に迫るとともに、環境と差別の見えない絡み合いを解 きほぐそうと試みています。

環境と差別のクリティーク 目次

環境と差別のクリティーク あとがき より

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◆環境と差別のクリティーク 目次
 序章 〈見えないもの〉を書く技法――批判的分析としてのソシオグラフ
1 出来事の深みへ
2〈見えないもの〉へのアプローチ
3 理論のモデル化/脱モデル化の運動のなかへ
4 表象研究からヘゲモニー分析へ

第1章 〈対話〉としての環境調査
 1 「住民参加」の諸相
 2 アセスメントと「ヒルのいない川」
 3 ホタルはいなくなったのか?
 4 治水の二つの知

第2章 屠場建設問題と環境表象の生成-- 環境の定義と規範化の力
 1 規範が生成する場所へ
 2 生活環境主義の飛躍
 3 規範化作用について
 4 「遊水地」という表象
 5 表象しえぬものの表象
 6 現代的課題としてのエコ・ファシズム

第3章構造的差別と環境の言説のあいだ
 1 二つの情景から
 2 屠場をめぐる構造的差別
 3 中小屠場と環境問題
 4 用地選定をめぐって
 5 教育環境としての屠場
 6 屠(ほふ)るということ

第4章屠場にて――私のフィールドノートから

第5章牛を丸ごと活かす文化とBSE

 1 肉骨粉の謎を追って
 2 牛を丸ごと活かす文化
 3 〈牛を丸ごと溶かす文化〉の到来
 4 BSE問題と私たち

第6章 環境のヘゲモニーと構造的差別――大阪国際空港「不法占拠」問題の歴史にふれて
 1 環境利用と構造的差別
 2 大阪国際空港「不法占拠」問題と集団移転施策
 3 「環境をめぐる支配」のヘゲモニー分析

第7章 被差別部落で聞く
 1 調査を断られるとき
 2 聞き取り調査がうみだすもの
 3 差別と向きあう方法としての聞き取り調査

第8章 「よそ者」としての解放運動――湖北における朝野温知の運動の軌跡
 1 むらのなかの「オンチさん」
 2 むらの気風と同和対策事業
 3 蜜月
 4 むらの生活文化
 5 距離
 6 信楽会館
 7 運動と自治

第9章 被差別部落への手紙
 「手紙」に託すメッセージ
 第一の手紙 生活の深みへ
 第二の手紙 穢(けが)れとつきあう
 第三の手紙 処世の知恵

あとがき
参考文献


◆「あとがき」より
 本書に採録した九編の論文は、一九九五年から二〇〇五年までの十年の間に書かれたものである。それを、このたび一冊の本に編んで出版することを思い立つまでには、二〇〇八年中における偶然な書物や論文の刊行の重なり合いがあった。

 第一は、私自身も関与した『屠場 みる・きく・たべる・かく 食肉センターで働く人びと』(晃洋書房)の刊行である。第二は、私の論文「『部落を認知すること』における〈根本的受動性〉をめぐって 慣習的差別、もしくは〈カテゴライズする力〉の彼方」『解放社会学研究』第二〇号の刊行。そして第三は、長年の共同研究者である金菱清氏による『生きられた法の社会学 伊丹空港「不法占拠」はなぜ補償されたのか』(新曜社)の刊行である。おそらく、これらのどれかひとつが欠けても、こうした形での本書の出版はありえなかったと思う。その理由を、以下に簡単に記しておきたい。

 本書が前半の三つの章で検討しているのは、屠場の建設に反対する住民運動である。ただ、住民運動の動きをいくら緻密に分析したところで、屠場についての情報が圧倒的に不足している現状では、住民運動にたいして評価を下すのは読者にとってたいへん困難なことに違いない。それだけでなく、これらの章の内容を公表することが、最悪の場合、従来の屠場にかんするマイナスイメージをいたずらに増幅するだけに終わってしまうのではないかという危惧が、つねに私のなかにあった。

 そうした点で、「部落生活文化史調査」の共同研究により刊行した『屠場文化 語られなかった世界』(桜井厚・岸衛編、創土社、二〇〇一年)に続いて、「関西学院大学21世紀COEプログラム」の一環として先の『屠場』を刊行できたこと、そしてこうした書物が、読書界において比較的好意的に受け入れられたことが、これらの論文を採録するうえで、強力な後押しになっていた。  また、後半の三つの章は、部落差別問題をテーマとしている。そこに用いられているデータやその分析自体には、いまだに新鮮さが失われていないと信ずるが、如何せん、これらの論文が執筆されたのは、いわゆる特措法の失効(二〇〇二年三月末)以前のことであった。したがって、今日、特措法時代の出来事について論ずる場合、現在の時点から、あらためて〈同対法体制〉をどのように捉えるのかという問題を避けて通ることはできない。

 この点について、私は、論文「『部落を認知すること』における〈根本的受動性〉をめぐって」において、〈同対法体制〉とは、本来、関係的カテゴリーである「部落」や「部落民」を施策や事業の必要上から法的にも社会的にも実体的カテゴリーとしてとらえようとする体制であったと規定した。そうして、私たちの依拠する関係論的観点からすると、部落差別の本質は、〈同対法体制〉が前提としていた「実態的差別」や「心理的差別」というよりは、「『部落』『部落民』にかんする慣習的区分ないし慣習的カテゴリー化にもとづく慣習的差別」と捉えるべきであると主張している。こうした観点が、本書で提起した〈慣習のヘゲモニー〉という考え方につながることは、もはや多言を要さないだろう。

 それから、本書第6章の論文を収録することを決意するにあたって、金菱氏の『生きられた法の社会学』が先行して刊行されていたことが大きかった。彼の十年にわたるフィールドワークにもとづいた重厚な作品があったからこそ、私なりの見解を提起することができたといっても過言ではない。その意味で、私の論文に関心をもたれた方々には、ぜひとも、伊丹空港「不法占拠」問題の全貌の解明に正面から取り組んだ金菱氏の著作の方も参照していただきたいと思う。
 
 さて、こうした諸々の事情のもとに編まれた本書であるが、私が本書において主張している事柄は、いたってシンプルである。
 第一には、環境的価値の実現をめざす実践や、環境保全のルールを定め・維持する規範的実践においては、そうした実践を根拠づける論理そのもののなかに差別現象を生む芽が胚胎している、という点である。これについて、従来の環境研究では、差別現象が生ずるのは、環境的価値の実現が未だになされていないか、環境保全のルールが十分に定められていないからである、というふうに説明される傾向があった。その点で私は、本書が環境社会学研究において新たな論争の書として受け止められることを願っている。

 第二には、差別現象を生む芽が胚胎しているからといって、私が、そうした実践を否定しているわけではないことは、屠場建設反対運動にたいするスタンスを見ていただければ理解していただけるはずだ。むしろ私は、〈構造的差別〉というモデルを提出することによって、たとえ差別の生産・再生産につながりかねないとしても、あえて行わなくてはならない環境的実践はある、という立場をとっている。その点では、本書は、従来の差別研究にたいする新たな論争の提起ということも意図している。

 第三には、こうした「環境問題と差別問題の複雑な絡まり合い」を解きほぐしていくために、〈慣習のヘゲモニー〉という観点を提起した。「慣習」とは、それ自体の由来が説明不能であるにもかかわらず、慣習であるということによって、その存在が正当化されてしまっている、きわめて不可思議で、〈訳のわからない〉存在である。そして重要なのは、慣習は、一方で、社会の存続(たとえば、環境問題の解決や生活の組織化)に貢献しうるとともに、他方では、一定の成員を排除する社会的圧力を生みだす、きわめて両義的な存在だという点である。したがって、私は、慣習を手放しで礼賛する立場はとらないし、だからといって、慣習を全否定しがちな従来の差別論にも与するつもりはない。  結局、私たちが行うべきは、個々の慣習が生成・存続・変容している現場によりそいつつ、さまざまな立場の人たち(とくに、マイノリティの人たち)が、そうした慣習をどのように表象しているかを知ることをつうじて、それぞれの〈慣習のヘゲモニー〉の内実を明らかにしていくことだろう。そのために、私たちが採用したのが〈対話〉という方法だった。第2章がとくに読みにくかったとすれば、それは、地域社会において新たに生成したさまざまな規範がぶつかり合ったり、新しい慣習へ昇華しようとせめぎあっている様を、できるだけ細かく描き出そうとしたからだろう。

 〈慣習のヘゲモニー〉という観点が、記述的分析の方法としてのソシオグラフィと結びつけられることによって部落差別の分析に有効性を発揮することは、本書の執筆において一応の手応えを得ることができた。しかし、私自身は〈慣習のヘゲモニー〉という考え方は、意外に広汎な射程をもっているのではないかと思いはじめている。たとえば、本書に収録した論文の執筆は、たまたま日本においてバブル経済が終わった時期にはじまり、米国でサブプライムローン問題が発覚し世界的な金融恐慌に突入する直前の時期に終えられているのだが、そうしたバブル経済のただなかで人びとが危険な投資をあえて続けていた背景には、市場における「リスキーな投資行為の慣習化」といった現象があったように思うのは、はたして私だけだろうか。    (以下略)