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金子明雄・高橋修・吉田司雄 編


ディスクールの帝国

――明治三〇年代の文化研究


A5判400頁

定価:本体3500円+税

発売日 00.4.20

ISBN 4-7885-0716-1

「日本人」の認識地図を探る

明治三〇年代、日清・日露の戦争を足がかりに日本は近代国家としての体裁 を整えました。しかし、その時期すでにシステムはほころびを見せはじめて いました。本書は、この興味深い時代のさまざまな言説を、ただ一つの「物語」に収束させて「理解」することなく、境界、内部/外部、殖民、冒険、 消費、欲望、誘惑などをキーワードに、複数の「物語」が渦巻く場、「帝国的」としか呼びようのないあり方として浮かび上がらせます。従来の文学研 究からは考えられない、カルチュラル・スタディーズとも関心を共有するス リリングな研究です。『メディア・表象・イデオロギー』(小沢書店)の続編でもあります。
◆書評
毎日新聞 2000.5.7 富山太佳夫氏評
「語文」(日本大学国文学会) 2000.12.25 山岸郁子氏評

◆本文紹介◆
産業資本主義が地球を覆い尽くし、「強国」の軍事的、経済的、文化的な世界支配の野望がおおむね実現する時代。この「帝国の時代」(ボブズホーム)に少し遅れて日本が参入した時期を本書では「明治三〇年代」と呼んでいる。しかしながら、誤解を怖れずにいえば、本書は「明治三〇年代」において形成された日本「帝国」の言説編成をトータルに記述しようとするものではない。少なくとも、本書は単一のマスターナラティブに還元可能な個別的な言説領域を記述することによって、その集合体として「帝国」の言説編成の全体像を明らかにするというプランを前提とするものではない。むしろ個々の論文の関心は「帝国」日本を支える大きな物語を構成=再構成しようとする思考によって意図的に背景に押しやられるものに向けられているいってもよいだろう。それは、安定した物語を構築し、それを永続させていく予定調和的なベクトルに抗う、ナラティブの間の偶発的で一回的な結びつきであったり、ナラティブに刻印された裂け目であったり、ナラティブの内部で忘れられようとしている矛盾の痕跡であったりする。そこに現れているのは、事後的にのみ語ることのできるナラティブのまさに事後的に語れるようになるそのこと自体に、そこに働いた力の痕跡を見出そうとする姿勢である。

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目次

はじめに

T〈境界〉のゆらぎ‐溶解と切断
裸体画・裸体・日本人(中山昭彦)
病う身体(内藤千珠子)
与謝野鉄幹と〈日本〉のフロンティア(五味渕典嗣)
小栗風葉『青春』と明治三〇年代の小説受容の〈場〉(金子明雄)

U〈私〉の行方‐欲望と誘惑
もっと自分らしくおなりなさい(小平麻衣子)
〈食〉を〈道楽〉にする方法(村瀬士朗)
少年よ、「猿」から学べ(吉田司雄)

V 内包される〈外部〉−越境と漂流
表象される〈日本〉(五井信)
「テキサス」をめぐる言説図(高榮蘭)
〈立志小説〉の行方(和田敦彦)
「冒険」をめぐる想像力(高橋修)

〔展望〕文学研究/文化研究と教育のメソドロジー(紅野謙介)

おわりに


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