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T.ギロビッチ 著/守 一雄・守 秀子 訳

人間この信じやすきもの

―――迷信・誤信はどうして生まれるか


四六判368頁

定価:本体2900円+税

発売日 93.6.7

ISBN 4-7885-0448-0

新曜社認知科学選書

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◆「新しい男」「新しい女」はいかに誕生したか

人間は誤りやすく信じやすい。前後関係と因果関係を取り違えたり,ランダムデータに規則性を読み取ってしまったり,願望から事実を歪めて解釈したり。誤信迷信のよって来たる由縁を日常生活の数々の実例をもとに明快に整理,人間心理への理解を深める。

人間子の信じやすきもの 目次

人間子の信じやすきもの まえがき

◆新聞記事 T.ギロビッチ氏・出演CMなど
ダイワインターネットTV 行動経済学って何

◆書評
1993年7月4日、朝日新聞、米沢富美子氏評

1993年8月下旬、出版ニュース

1993年8月23日、週刊読書人、海保博之氏評

1997年11月号、鳩よ!、山本弘氏評

1998年6月10日、SAPIO

2003年5月1日、日経サイエンス、菊池聡氏評

2011年11月6日付、朝日新聞

2012年5月5日付、朝日新聞、野口絵里氏評

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人間この信じやすき―目次

1 はじめに
第I部 誤信の認知的要因
2 何もないところに何かを見る ――ランダムデータの誤解釈
3 わずかなことからすべてを決める ――不完全で偏りのあるデータの誤解釈
4 思いこみでものごとを見る ――あいまいで一貫性のないデータのゆがんだ解釈

第II部 誤信の動機的要因と社会的要因
5 欲しいものが見えてしまう ――動機によってゆがめられる信念
6 噂を信じる ――人づての情報のもつゆがみ
7 みんなも賛成してくれている? ――過大視されやすい社会的承認

第III部 いろいろな誤信の実例
8 種々の「非医学的」健康法への誤信
9 人づきあいの方法への誤信
10 超能力への誤信

第IV部 誤信をもたないための処方箋
11 誤信への挑戦 ――社会科学の役割


人間この信じやすき―はじめに

「問題なのは、われわれが無知であることではなく、間違った知識をもっているということなのである」
アーテマス・ウォード(米国独立戦争時の将軍)

 欧米では、子どもができないため養子をもらった夫婦は、妊娠しやすい、とい広く信じられている。通常、養子をもらって子どもがいないことからくる精神的ストレスがなくなるため、こうした皮肉な現象が起こるのだと考えられている。子どもを持てない悩みから解放された安らかな気分が、妊娠の成功率を高めるのだというわけである。

 しかしながら、臨床的な調査によれば、養子縁組が妊娠率を高めるという事実はない。とすると、私たちにとって本当に興味深いのは、なぜ養子縁組が妊娠率を高めるかはなく、このような間違った考えをなぜそれほどに多くの人々が信じているのかということである。

 有名大学や大学院など、特別な教育課程の入学試験担当者は、受験生一人ひとりにたとえ短時間でも面接できれば、もっと効率的な入学者決定ができると考えていることが多い。しかし、こうした考えも間違っている。試験などの客観的な基準だけにもとづく入学者決定が、面接によって得られる主観的な印象にもとづく入学者決定と少なくとも同程度に有効であることが、研究によって明らかにされているからである。では、なぜ、人々は面接のほうが有効であると信じてしまうのだろうか。

 本書では、こうした疑問に答えていこう。まず、誤った信念や信仰がどのように生み出されつのかを考える。そして、それがなぜ信じられ続けるのかについて検討する。右に述べた例から、こうした誤解が強く信じられ、また、なかなか修正されないのだということがわかったが、それがなぜなのかも説明してみたい。アメリカでは現代でも、進化論より、超能力の方を信じる人の方が多い。そして、天文学者の20倍以上もの占星術師がいる。星による運命の支配や「チャネリング」現象、そして水晶玉のもつ神霊的・心霊的な力の存在が広く人々の間に信じられていることは、日常の会話からうかがい知れるだけでなく、公式な世論調査によっても裏づけられている。本書では、こうした信仰についてもさらに理解を深めたい。そして、そのような理解を通して、そもそも人間はどのように判断したり、推論したりするのかという、もっと一般的なテーマにも光を投げかけたいと考えている。

 まず出発点として、いくつかのことがらが明らかにされている。第一に、人々が誤った考えを持ってしまうのは、正しい事実に出会っていないからというわけではない。誤った信念は一般の人々だけではなく、経験を積んだ専門家たちにも同様に広まっている。たとえば、入学試験官や産院の看護婦たちは専門家であるから、それぞれの専門領域についてよく知っているはずである。また、彼らは関連する多くのデータに日常的に接している。にもかかわらず、前述のような間違った考えを持ってしまうのである。

 第二に、だまされやすい人や頭の悪い人が誤った考えをもってしまうわけでもない。むしろ反対である。人間は進化の過程で莫大な量の情報をすばやく正確に処理することができる装置(=脳)を作り上げてきた。しかし、通常は物事を知るのに有効で効果的な方略でも、それに頼りすぎたり、その適用方法を間違えたりするなら、誤った考えを持つことになってしまう。これはちょうど、きわめて優れた知覚能力を持っているにもかかわらず(というより、きわめて優れた知覚能力を持っているがために)、私たちがいろいろな知覚的錯覚を起こしがちであることと同様である。私たちの認知的な欠点(誤った考えを信じてしまいがちであること)も、私たちの偉大なる認知能力のせいなのである。そして、知覚的錯覚の研究が知覚の一般的原理を知るうえで役に立つのと同様に、また、精神病理学の研究が人格についての知識を高めてくれるように、誤った信念についての研究は、人間の判断や推理についての私たちの理解を深めてくれるに違いないと私は考えている。そこで、本書は意図的に、人々がいかに誤った考えをしがちかに焦点を合わせるけれども、同時に、こういうとき以外のいかに多くの場合に正しい考えをしているかということも、忘れてはならない。

 以上から明らかなように、多くの誤った考えはもっぱら認知的な原因によって生じてくる。つまり、情報を処理したり結論を引き出したりする能力の不完全さによると考えられる。言い替えれば、「そう思いたい」というような心理的欲求を満足させるために誤った考えを持つのではなく、得られた事実に最もあてはまる結論として導き出されたものが、結果的に誤った考えとなってしまうのである。ロバート・マートンの言葉を借りれば、人々がそうした信念を持つのは、「自分自身の体験からこう結論せざるをえない」と考えるからである。誤った信念は決して非合理性から生じるのではなく、合理性の欠陥から生じるのである。

 子どものできない夫婦が養子をもらうとその後妊娠することが多いと感じられるのは、そうした誤った信念を持っているからである。養子をもらった後で妊娠した夫婦には私たちの注意がどうしても引きつけられやすいのに対し、養子をもらっても妊娠しなかった夫婦や養子をもらったわけでもないのに妊娠した夫婦には注意が向かない。そこで、多くの人々にとって、養子をもらった夫婦にすぐに子どもができるということが日常体験からの「事実」と感じられるようになる。人は感情的な理由から誤った信念を持つようになるわけではない。彼らが接している情報にもっともよくあてはまると思われる結論を考えた結果が、そうした(誤った)信念になってしまうのである。

 私たち人間の認知的推論装置が持つこうした欠陥の多くは、(情報量の豊富な)理想的な状況では決して表面に現れてくることがない。(それはちょうど、多くの知覚的錯覚が限られた特別な状況でしか起こらないのと同様である。)しかしながら、世の中は常に理想的であるというわけではない。私たちが接する情報は、正しい知識が得られるような明確なものばかりではなく、不規則であったり、不完全であったり、歪んでいたり、曖昧だったり、一貫性がなかったり、人づてのものであったりする。私たちの推論能力に欠陥があることが明るみに出てきたり、その結果誤った信念を生み出すことになったりするのは、こうした(情報の不完全性や曖昧性などの)困難への対処に失敗してしまうからなのである。

 子どもができない夫婦の例をもう一度考えてみると、世の中の情報がいかに歪めらているかが良く分かる。養子をもらったとたんに妊娠した夫婦というのは、注目をあびやすい。こうした夫婦の「幸運」はニュースに取り上げられるかも知れないし、友達や隣人の話のタネにされやすいだろう。その結果、養子をもらっても妊娠しなかった夫婦や養子をもらわないが妊娠した夫婦の話よりも人々の注意を引くことになる。つまり、認知的な限界や推論能力の限界を論じる以前に、そもそも私たちが推論の基礎とするデータそのものに、ゆがみが内在しているのである。私たちが正しい判断や妥当な信念を手に入れるためには、データのこうした歪みに気づいて、それに惑わされないことが必要なのである。

 最近数年間、多くの社会心理心理学者や認知心理学者たちが、人間の情報処理における合理性の制約についての理解を深める研究を行ってきた、私は、真偽の確かでない誤った考えがなぜ信じられてしまうのかという本書の問題を考えるにあたって、こうした研究を追ってみたいと考えている。本書の第I部「誤信の認知的要因」のなかの三つの章では、私たちの認知方略が、現実世界の混乱したデータを処理するのにいかに不完全かを論じてみたい。まず、第2章では、単なる偶然が支配すランダムな現象の中に、私たちは規則性や秩序があるように感じる傾向があることを論じる。第3章では、不完全で歪んだデータの歪みに気づく能力や、それに惑わされないようにする能力において、私たちには欠けたところがあることを論じる。第4章では、私たちは、曖昧で一貫性のないデータを、お気に入りの理論や先入観からの期待で解釈しがちなことを論じる。

 誤った考えがなぜ信じられてしまうのかという問題を解明するのに、このような認知的な歪みを検討するのはきわめて有効である。しかし、誤った考えは多種多様であり、それを説明するためには他の要因についても考慮する必要がある。そこで、第II部では、「誤信の動機的要因と社会的要因」について、さらに三つの章を設けて論じよう。第5章では、誤った考えの生じる根底に、希望的観測や自己満足のために現実が歪められることがあることを論じる。この章では、私たちの欲求が認知的なプロセスと共謀して誤った自己満足的な考えを生み出すのだ、という動機的な要因の効果についての、新しい解釈を示してみたい。第6章では、人づての情報のもつ落とし穴について論じる。ここでは、マスメディアなどの情報提供者が聴視者や読者の興味を引くため、あるいは時間枠・紙面の都合から、伝達内容を歪めがちであることも述べる。第7章では、「私たちは多くの人々が信じていると思うことを正しいと信じがちである」という心理学的公理を取り上げる。そして、その逆も成り立つことを論じる。つまり、私たちは自分自身が信じていることを他の多くの人々も信じていると考えがちである。この章では、自分の誤った思い込みをさらに補強するために、自分の信念が他人と共有されている、と過大視する原因を認知的・動機的・社会的プロセス全体の中から探る。

 第III部では、広く信じられてはいるが実は間違っている信念の事例を具体的に取り上げて、それらがどのように生じ、なぜ修正されることがないかを、第I部と第II部で検討したメカニズムから解明してみる。ここでは実証されていない、あるいは効果のない健康法(第8章)、うまくいくはずがないにもかかわらず信じられている人づき合いの方法(第9章)、そいて超能力の存在(第10章)を取り上げる。ただし、これらの章にはやや慎重を期する必要がある部分もある。というのも、これらの章で取り上げる信念には、必ずしも間違いであるとは言い切れない場合もあるからである。それでも、これらの章で取り上げる信念は、どれも事実との間に著しい隔たりがあり、なぜこうした隔たりが生じたのかを説明する必要はあるだろう。

 最終章の第IV部では、誤信を持たないために、日常生活で経験する事実を正しく評価するにはどうしたらよいかについて考察してみたい。

なぜ誤信が問題なのか

・・・・・・
 誤信が少しばかりあってもいいじゃないかという疑問に対しては、もちろんもっと直接的な回答も存在する。誤信をもつ人々自身にとっても、その損失は大きいという回答である。その最も顕著な例としては、インチキ療法を信じたがために、有効性が確立している医学的処置を無視して、死んでしまうような場合がしばしば聞かれる。たとえば、7歳のリーア・サリンズちゃんの例を見てみよう。リーアちゃんの父親はアメリカの自然健康法協会の元会長で、薬や通常の医療処置の代わりに断食や菜食によって「自然に」病気を治すべきであると主張していた。リーアちゃんが病気になると、この父親はリーアちゃんに18日間も水だけの断食を行わせ、さらに17日間もジュースだけの食事をさせ続けた。リーアちゃんはこの断食療法の結果、栄養失調で死んでしまった。おそらく、読者もこれに類似した例をいくつか、どこかで聞いたり読んだりしたりしたことがあるだろう。誤信のせいで命を落としてしまうことほど、哀れなことはない。リーア・サリンズちゃんや他の同様の悲劇からも明らかなように、世の中を正しく知覚・理解することにはまぎれもない利点があり、一方、誤信を許容しているととんでもない損害を被ることになりかねないのである。

 誤信や迷信を許容していると、間接的にではあるが、別の被害を受けることにもなる。誤った考えを許容し続けることは、初めは安全に見えてもいつのまにかブレーキが効かなくなる「危険な坂道」なのである。誤った推論や間違った迷信をわずかとはいえ許容し続けているかぎり、一般的な思考習慣にまでその影響が及ばないという保障が得られるだろうか?

 世の中のものごとについて正しく考えることができることは貴重で困難なことであり、注意深く育てていかなければならないものなのである。私たちの鋭い知性を、いたずらに正しく働かせたり働かせなかったりしていると、知性そのものを失くしてしまう恐れがあり、世の中を正しく見る能力を失くしてしまう危険がある。さらには、ものごとを批判的にみる能力をしっかり育てておかないと、善意にもとづくとは限らない多くの議論や警告にまったく無抵抗の状態になってしまう。S・J・グールドは、「人々が判断の道具を持つことを学ばずに、希望を追うことだけを学んだとき、政治的な操作の種が撒かれたことになる」と述べている。個人個人が、そして社会全体が、迷信や誤信を排除するよう努めるべきである。そして、世の中をより正しく見つめる「心の習慣」を育てるべく努力すべきであると私は考える。



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